四年目(7)
その日の残業が全て終わったのは十時過ぎのことだった。帰り際、俺は清水から貰った栄養ドリンクを一本空けた。仕事が終わり、あとは帰るだけの金曜日。明日は土曜で仕事もないというのに、舌のちりちりするようなドリンク剤を飲み干していた。
これから彼女に電話を掛けよう、そう思っていたからだ。
誕生日だからか。今日のプレゼントが嬉しかったからか。それとも、ずっと忘れていた気持ちを思い出せそうだからか。
今は、清水の声が聞きたくて堪らなかった。
家に帰る時間すら惜しかった。
もうすぐ誕生日が終わってしまう。アパートまで戻っていたら、誕生日のうちに清水の声を聞くという目標が潰えてしまう。
それに、外の方がいいと思った。一日中締め切った部屋の中よりも、夏の夜の空気の方が。そう考えて、駅の裏手にある児童公園に寄り道してみた。
公園内には水銀灯の明かりに照らされた、初めて立ち入るのにどこか懐かしい光景が広がっていた。塗料の剥げかけた滑り台があり、むしむしする空気の中でぴくりとも動かないブランコがあり、湿り気を帯びているような砂場があり、三原色に塗り分けられた古いジャングルジムがある。
一番心を惹かれたのはブランコだったが、今の俺じゃ座れそうになかった。諦めて、ジャングルジムをよじ登った。栄養ドリンクの効果か、残業の後でも身体はすいすいと動いた。高いところに腰掛けた。通勤鞄を横に置き、携帯電話を取り出し、深呼吸をする。
午後十一時、少し前。人気のない公園内。草むらに潜む虫の声と、水銀灯に群がる虫の羽音と、遠くを走る車の音だけが聞こえる。夏の夜の空気は淀んでいて、そのくせ不思議といい匂いがした。
小さな頃を思い出すような、いい匂いに満ちていた。
いい場所だと思う。例えば思い出話をするなら。例えば、小さな頃の話をするなら。
そして、普段は言えないような――しかつめらしい大人の態度じゃ到底告げられないような言葉を告げるには、この上なくいい場所だと思う。
公園を見下ろせる位置から、番号をダイヤルする。
虫の声に交じって、コール音が三回、聞こえた。
『――もしもし?』
清水の声がした。
聞きたいと思っていた声だからか、耳にした途端、心が弾んだ。
「清水、俺だけど。今、まだ話せるか?」
『大丈夫だよ。播上は今帰ったとこ?』
彼女が聞き返してきた。俺はちょっと笑って、応じる。
「いいや、まだ帰ってない。でもこの電話が終わったら帰る」
『え? 会社から掛けてるの?』
「違うよ。家の近くにある公園」
『公園?』
ふふっと、笑う声がするのが心地良い。
『何だか面白いところにいるんだね』
「そうだろ? しかもジャングルジムの上に座ってる」
『わあ、いいなあ。ジャングルジムなんてもう何年も登ってないよ』
「いい眺めだよ」
見下ろす眺めは思っていたほど高くもない。それでも公園中が見渡せた。遊具の数の割に小さな児童公園は大人の足なら三分で一回り出来そうだった。
『播上も可愛いとこあるね。公園とか好きだったんだ?』
「好きってほどでもないけど、たまにはいいかと思ってな」
『そっか。もしかして、誕生日だから?』
「そう、だな。誕生日だから」
お互いの笑い声が重なる。
それが止んでから俺は続けた。
「誕生日って、少し感傷的な気分になるよな。二十六にはなったけど、もう二十五には戻れない。それ以前にも戻れない。だから、今までの生い立ちを振り返ってみたくなって、公園まで来た」
生い立ちと言うとまるで大げさな気もする。俺がしたいのは思い出話だ。ずっと昔の。清水と出会うより前の。
遠い昔に失くしてしまったと思い込んでいた気持ちを、取り戻せそうだった。
「話したいことがあるんだ、清水」
妙に改まった切り出し方になった。
にもかかわらず、虫の声のようなノイズの後で、彼女はごくいつも通りに応じてくれた。
『――うん。いいよ、聞いてあげる』
彼女の柔らかい快諾の声を、目をつむって噛み締めてから、
「プレゼント、ありがとう」
まず、そう切り出した。
「あれ、結構きつい奴だろ。藤田さんも言ってた。いつもああいうの飲んでるのか」
『うん、結構効くからいつもあれ飲んでる。播上の口には合った?』
「確かに効きそうだった」
『そっか、よかった。夏場は体力勝負だから、養生してね』
優しい言葉を掛けられると、本当に、脈があるとかないとかそういうことはどうでもよくなってしまう。客観的に見たら色気のないプレゼントでしかなくても、それを彼女が、俺の為に買ってくれたということが重要だ。
一友人として彼女に気遣ってもらえる立場にいる。幸せだと思う。
「清水から誕生日にプレゼントを貰ったの、初めてだったからさ」
夏の夜は空気が温く、ただ座っているだけでも汗ばんでくる。手のひらが滑り、携帯電話を落とさないように握り直した。今の俺はこんな小さな機械一つで、遠くにいる今の清水と繋がっている。
「びっくりしたけど、嬉しかったよ」
『喜んでもらえて私も嬉しいな』
彼女はほっとした様子で応じてきた。
『プレゼントにしては大した金額じゃないけどね。播上も大変そうだったから、そのくらいは陣中見舞いの範囲内でアリかなって思って』
「いや、十分だよ。本当に嬉しかった」
そこまで言って俺は、清水の誕生日さえまだ知らない事実に気づく。慌てて言い添えた。
「あ、でも、俺はプレゼントをあげたことがなかったよな。よかったら今年は――」
『今年かあ』
一方の清水は笑っていた。ごく軽く。
『気持ちは嬉しいけど、私の誕生日、もう終わっちゃったんだよね』
「終わった?」
『うん。私、五月生まれなんだ』
「そうだったのか」
ちょっとがっかりした。誕生日プレゼントのお返しなんて、いかにも口実になりそうだったのに。
もちろんそれは何ヶ月先になろうと、来年の話だろうと構わない口実でもあるはずだ。
「じゃあ来年の五月は、必ずお返しするから」
『本当?』
俺が宣言すると、清水はまた笑った。今度は短かった。
『播上、来年もいてくれるんだね』
「来年もって……どういう意味だ」
『だって皆いなくなっちゃうじゃない。渋澤くんもそうだし、藤田さんもそうでしょ?』
ふと寂しげに続ける。
『同期の子でも、転職したり、別の支社に異動になったりって子は他にもいたし。だから播上も、そのうちに異動でどこかへ行っちゃうんじゃないかと思って。そうなったらやっぱり寂しいから』
その言葉には、なぜだかうろたえたくなった。
心のうちを見抜かれているような気がする。気のせいに違いないのに、清水は俺の心のごくわずかな変化すら全て知っているような気がする。今だってすぐに、どこにも行かないよと言えたらよかった。
だが言えなかった。
「たとえ異動になっても、誕生日プレゼントくらいは届けるよ」
『そこまでしてくれるの? 悪いよ』
「するよ。今年のお礼はしたいから」
『お礼されるほどのものでもないけど……そんなに言うなら、期待しちゃおうかな』
いつものトーンを取り戻した彼女の声は、それでもぽつりと釘を刺してきた。
『でも、異動はない方がいいな。播上とはずっと一緒にいられる方がいいもん』
汗ばむ手のひらから耳を通って、心底に深く突き刺さった。
同じだ。清水とは、ずっと一緒にいられる方がいい。
俺はずっと前からそう思っていた。
少し前は、清水が一生独身でいてくれたらいいと思った。それがある時から、俺の隣にいてくれたらいいと思うようになった。そして今は、もう少し違うように思っている。
『そういえば』
俺が黙ったからか、彼女が語を継いできた。
『今日、藤田さんも一緒に残業してたよね? 私が行ったことで何か言われなかった?』
「え?」
『他に誰かがいる可能性は考えてたけど、あの人がいると思わなかったから。一応さりげなく置いてきたつもりだったんだけどね。あとで、からかわれたりしなかった?』
からかいなんて度合いではなかった。いろいろ言われた。今になって思えば、藤田さんのそういうふるまいにも腑に落ちるところはあるものの――。
でも、あの人のお蔭で気づけたこともある。それも事実だ。
「あの人、今は幸せいっぱいだからな。他人のことまで勘繰ってる暇もない」
『そっか、そうだよね。結婚するんだもんね』
何だかくすぐったそうに清水が笑うから、俺もつられてしまう。
あの人は幸せになる。自分で言っていたんだから、間違いないはずだ。
俺も、その後に続けたらいい。
「今日、その藤田さんに、唐揚げを食べさせる機会があった」
『唐揚げを?』
清水は意外そうに聞き返してくる。俺も、少し前なら想像もつかなかったやり取りをしたと思う。
「弁当を食べてたら、美味しそうって言ってもらったから、一口あげた。そしたら、美味しいって言ってもらえた」
『さすが播上!』
電話の向こうで彼女が快哉を叫んだ。
『藤田さんにそう言ってもらえたら誰にでも通用しそうな気がしない? あの人、ちょっとやそっとじゃ誉めないだろうなって感じするし』
その印象は実に正しい。俺も手放しで誉めてもらったわけではない。
「俺もそう思った」
ジャングルジムの鉄枠の端、ぶら下がった足を揺らしてみる。革靴が鈍く光っている。
「それに、その一言だけで十分だと思った。あの人とはいざこざもあったし、正直、好きになれない部分もたくさんあったけど」
手のひらが滑るから、携帯電話を持ち替えた。汗の滲む手をポケットに突っ込み、ハンカチを片手で広げる。そのまま、ぐしゃぐしゃとおざなりに手のひらを拭く。
それから電話を持ち直し、続ける。
「美味しいって言ってもらった、その一言だけで、何もかも帳消しにしていいと思った。他は何を言われてもいいから、俺の作った料理を美味しいと言ってもらえたらそれでいいって、思った」
きっと藤田さんは、俺にとっては一番、作った料理を食べさせてみたい相手だった。俺のことが好きではない人や、俺のことをよく知らない人、どうとも思っていない人にも、俺の作ったものだけは美味しいと言ってもらいたかった。
「小さな頃、夢だったんだ」
誕生日らしい話を続けていく。
「美味しい料理は人を幸せにする。だから俺も、誰かを幸せに出来るような料理を作りたかった。家族とか、友達とか、ごく身近な人達だけじゃない。もっと大勢の人と、料理で繋がっていたいと思った」
小さな頃の夢は、歳を取るにつれてより小さく、狭くまとまっていった。ほんの半日前の俺は、清水の為だけに料理が出来たらいいと思っていた。清水だけを幸せに出来たらそれでいい、と。
そうじゃないことに気がつけたのは、夢を思い出せたのは、藤田さんのお蔭だ。
『――播上らしいね』
柔らかい口調で清水が言う。
彼女は、俺の『らしさ』を知ってくれている。
『料理は人を幸せにするって、本当にそうだと思うな。自分の為じゃなくて、誰かに食べさせる為に料理をするのは、勉強にもなるし……私はまだ、知らない人の為に作れるほどではないけど』
そして料理の楽しさ、幸せも知っている。その幸せを得るのが、容易いことではないのだとも。ほんの少し前、唐揚げ作りに熱中していた頃を思い出すと、改めて思う。
俺は、負けず嫌いで一生懸命な清水が好きだ。
「実力不足と言うなら、俺だってそうだ」
それは今でも思っていた。
まだまだ実力が足りない。俺もこれからは一生懸命でありたい。
『播上がそうなら、私なんて全然だよ』
彼女は一旦笑って、その後で声のトーンを落とす。
『ね、聞いてもいいかな』
「どうした?」
『やっぱり播上って、お父さんのお店を継ぎたいって思ってたの?』
おずおずと問われた内容に、こっそり苦笑したくなる。
「思ってたよ。小さな頃の夢だった」
正直に答える。
「単純だったからな。ちょっと料理が出来たら、すぐになれると思ってた」
俺にも素直だった頃があって、その頃は思っていた。大きくなったら父さんの跡を継ぐ。当たり前のように考えていた。
「大人になるにしたがって、簡単なことじゃないんだとわかってきた」
あの店は父さんと母さんが二人の力で続けてきたものだ。当たり前、というだけでは到底続かなかった。知恵がつけばつくほど、その事実を思い知らされた。
「俺の作ったものを他人に出すのが怖くなった。料理が出来るだけじゃ駄目なんだってこともわかった。何より、生半可な覚悟で俺が、父さんの夢だったものを壊すのは嫌だった」
『お店を開いたの、お父さんなんだ?』
「ああ」
頷いた。
「十年以上も修行して、ようやく自分の店を持てたと聞いてる。そこまでの苦労を、俺が一人で踏み躙ってしまいそうで怖かったんだ」
夢を諦めるのは容易かった。俺には出来ないと口にしてしまえば、両親も表立って咎めはしなかった。だが二人が、今でも俺に期待を寄せていることも知っている。
それに何より、俺自身が小さな頃の夢を捨て切れていないこともわかった。
「今の仕事をしてること、後悔はしてないけどな」
そうも告げる。後悔はしていないし、総務の仕事も慣れてしまえばなかなか楽しい。広義に解釈すれば総務課もまたサービス業。性には合うようだ。
ただ、この先のことを考えるなら。
そろそろ決断すべきなのかもしれない、と思う。