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四年目(6)

 滞在時間はものの一分ほど、だったと思う。
 だけどそれだけの時間でも、彼女はしっかり俺のポイントを稼いでいった。もちろん清水自身にはそんな意図なんて微塵もないだろう。
 あったら、無骨な栄養ドリンクなんぞをプレゼントにするはずがない。
「なかなか強烈なの飲んでんのね、あの子」
 いつの間にか傍まで来ていた藤田さんが、ビニール包装されたままの三本パックを手に取った。
 無遠慮なふるまいを怒る気にもなれなかった。顔がにやけてくるのを堪えるのに必死で、藤田さんのことまで構っていられない。
「でも播上くん、これって脈なくない?」
「……ですよね」
 その言葉には、頷かざるを得なかったものの。

 脈があろうとなかろうと清水は俺のことを心配してくれた、それは確かだ。俺は彼女のそういうところに惹かれているんだと思う。一友人に対しても優しく、気を配ってくれて、辛い時にはいつもさりげなく励ましてくれる。普段は明るく、さっぱりとしていて、だからこそ時折見せる女らしい気配りにはごっそりポイントを稼がれてしまう。
 でも、惚れ直したなんて本人にはまだ言えそうにない。
 いつか言えたらいいな、とも思う。

「浸ってるとこ悪いけど」
 無粋な藤田さんの声がして、あえなく俺の意識は現実に引き戻されてしまう。
「こんなの貰って喜んでるうちは、手玉に取られてるだけだと思うよ」
 藤田さんは栄養ドリンクを俺の机へ戻した。清水からの誕生日プレゼント、及び陣中見舞い。透明なビニールだけの包装は、気心の知れた友人相手だからこそ贈りつけられるもののはずだ。そう思いたい。
「いいんです。俺は誕生日を覚えててくれただけでも十分です」
 そう言い返した後で、しっかり付け加えておくことにする。
「それに、清水はそんなこと考えるような奴じゃないですから」
「かもしれないね」
 意外にも、さばさばした口調で藤田さんが認めた。
 一瞬遅れてぎょっとする。藤田さんは俺の背後で、腕組みをして壁にもたれている。椅子に座ったままの俺を見下ろして、不機嫌そうに呟いた。
「私だったら、たとえ本命相手じゃなくてもこんなプレゼントしないし。これは相当眼中にないんじゃないの?」
 胸に突き刺さるような言葉だった。
「でも清水から誕生日プレゼントを貰ったのは、今年が初めてなんです」
「そうなの?」
「ええ。俺はそれだけでも嬉しいくらいです」
 誕生日を覚えていてくれるだろうことは、ほんの少し、いやかなり期待していた。話題を出したのも先週のことだし、いくら清水が多忙でもそのくらいは覚えていてくれるだろうと思っていた。過剰な期待をしていなかったのは、いわゆる予防線というやつだ。
 だが、それに加えてプレゼントまでもらえるとは予想もつかなかった。
 去年、一昨年とくれなかったプレゼントを、今年の清水がくれたのはどうしてなんだろう。期待してもいいんだろうか。いや、したい。ものすごく期待したい。
 俺の誕生日が今年はたまたま平日だったからとか、案外そういう理由かもしれないが、心は早くもお礼をどうするかという悩みに辿り着いていた。このお礼を口実に、何かへ誘い出せないものか。
「いいよね、播上くんはわかりやすくて」
 またしても藤田さんの声が、俺の思考を引き戻す。
 振り向いた姿勢から見上げた顔は、気のせいか物憂い色をしていた。
「清水さんもきっと楽だと思うよ。播上くんみたいなのをキープしとくのは」
「ですから、清水はそういう――」
「ああもうわかってるって。播上くんは好きなように思っとけばいいでしょ」
 苛立った様子で俺の言葉を遮った後、藤田さんは溜息をつく。
「ただ、思うんだよね。今の清水さんと播上くんが一番楽しい時期なんだろうなって」
 ちらと流し目を向けられる。
 性格はどうあれきれいな人だ。眼差しにどきっとさせられて、あとで罪悪感を抱く。
「友情と恋愛感情を一緒くたにしておけるんだもの。気が向いたらちょっかいかけて、でもあんまり本気になられても困るから、適当なところで手綱締めたりして。駆け引きまがいの恋愛ごっこをするのにちょうどいい時期だよね、今って」
 やけに実感のこもった語りだった。
 でも藤田さんはともかくとして、清水がそういうことをしているとはやっぱり考えられない。俺が清水のことをどこまで理解しているかはわからないが、それでもだ。
「年取ると、そういう曖昧なことは言ってられなくなるんだよね。いやでも結婚を意識しなくちゃいけなくなるから」
 藤田さんの言い方だと、まるで結婚が人生の障害みたいに聞こえる。
「恋愛の先には必ず結婚が目標として存在してて、それを確約出来ない人間は不真面目ってレッテル貼られて。しょうがないから結婚前提でいい男探すけど、結婚までしたくなる男はどうしても倍率高いし、歳取ればどんどん選択肢はなくなっていくし」
 でも、あながち的外れでもないのかもしれない。結婚を考えない恋愛がいつまでも出来るとは、俺も思わない。ある程度の年齢になればそういうことも考えなくちゃいけなくなるだろう。将来の為に。
 俺だってもう二十六だ。考えていたっておかしくはないのかもしれない。
 出来れば将来も清水と一緒がいい。今のところは全くの願望だが、そう思う。
「最後に残る選択肢は二つなんだよ」
 親指と人差し指を立て、藤田さんが語る。
「妥協するか、しないか。たったのそれだけ」
 そして告げられた二択は、思っていた以上にシビアなものだった。
「格好いいのは妥協しない生き方だよね。自分を貫いて生きるって、いかにも薄っぺらなドラマにありがちでしょ。でも妥協しないで生きられるのなんて、ほんの一握りの恵まれた人間だけ。大多数の平凡な人間は妥協して生きなきゃどうしようもないわけ」
 壁に影が映っている。寄り掛かる藤田さんの輪郭をなぞる濃い影と、椅子に座ったままの俺の薄い影。蛍光灯に照らされた白い壁は眩しく、直視に堪えなかった。
「私もそう。出来れば妥協なんてせずに生きたかったけど、そうなると一人で生きてくしかなさそうだったから。妥協せざるを得なかった」
 不満げな言葉を続ける人も、今は白く、眩しい顔つきに映る。
「だからさ、播上くんも手玉に取られる身分に甘んじてちゃ駄目だよ。妥協しないように頑張んないと、十年待たされて、結局妥協される羽目になるよ」
 そこで、同情的な笑みを向けられた。
 俺にとっては腑に落ちるような、落ちないような話だった。
「今の話の通りだと、藤田さんは妥協したのかもしれませんけど」
「そう言ったでしょ?」
「けど、藤田さんの旦那さん――」
「旦那って言うの止めて」
「すみません。ええと、ご婚約者さんは」
 そう形容したら、まあいいかとでも言いたげな顔をされた。構わず続ける。
「ちっとも妥協をせずに済んだってことになりますよね」
 そう告げれば、今度はしかめっつらをされた。
「してないと思う? だって、十年掛かってんだよ、プロポーズまでに」
「何年掛かろうと本懐は遂げてます。その人はずっと藤田さんが好きだったんでしょう」
「そうみたいだけど、でも、だからって」
「十年掛かったにせよ、結婚してもらえるならその方の粘り勝ちです」
 報われただろうと思う。十年分の想いと、待ち時間とが。
 その間、一途でいられたのかどうかは知らない。顔も見たことのない人だ、どんな想いがどんな形で潜んでいたのか、俺は目にすることも出来ないだろう。張りぼてのような友情で覆い隠されていたものの中身は、藤田さんにしか見えていないはずだ。
 俺だったら、清水にしか見せたくないと思う。
 男と女の関係は本当にややこしいのかもしれない。性別の違う者同士がわかり合うことなんて、本当は無理なのかもしれない。そうだとしたら、相手を妥協させることこそが恋愛の最終目標なんじゃないだろうか。
「だって、妥協させたって言うのはつまり、落としたってことでしょう?」
 俺が尋ね、次いで独り言みたいに言い添える。
「それなら俺は、いつかどうにかして清水を妥協させたいです」
 すぐに、藤田さんははっきりとわかるくらい表情を変えた。
 見たことのない顔をした。動揺と、怒りと、悔しさと、そのどれでもない感情とが全てない交ぜになって、白かった顔をかっと紅潮させた。
「男って、これだから」
 絞り出された声が言う。
「勝手にそう思い込んでいればいいじゃない。手前勝手な理論で、女が全部男の望むように妥協してきたって思ってれば。そんな単純な話じゃないのに。散々待たされて、挙句妥協せざるを得なかった女の身にもなってみればいいのに」
 それが女の人にしかわからない感情なら、俺には一生わかり得ない。他人だからわからないのだとしたら、その立場に置かれるまでは、やはり理解出来っこないだろう。
「俺の好きなように思っておきます」
 言われた通りのふるまいだとしても、自分でも生意気な発言だと思った。藤田さんが怒りのあまり火でも吐き出したらどうしようかと、内心びくびくしていた。
 真っ赤な顔をしてしばらく俺を睨みつけていたその人は、もちろん火なんて吐かなかった。やがてぷいと横を向いた。
「いいよね、播上くんは幸せそうで!」
「藤田さんほどじゃないです」
 素早く言い返す。俺の幸せは片想いの幸せで、それはどうしても、これから結婚しようっていう人の幸せには敵わない。たとえ他人から幸せそうに見えていたとしても、どんなに羨まれる関係を築いていたとしても、望んでいる幸せまではちっとも足りなかった。
「私は別に幸せじゃないから」
 虚勢を張るような口ぶりで、藤田さんが更に反論してくる。
「戻れるなら、播上くん達と同じ頃に戻りたいくらいなのに」
「じゃあ、幸せになってください。これから」
 この人に対して、言えるかどうか自信のなかった言葉を、今ならようやく告げられそうな気がした。
「ご結婚おめでとうございます、藤田さん」
 十年分の感情全てがない交ぜになった顔は、その瞬間、諦めに変わった。
「――ありがとう」
 拗ねた口調で、そのくせ消え入りそうな声でそう言った。

 しばらくしてから、藤田さんは独り言のようなトーンで語り始めた。
「妬ましかったよ、ずっと」
 聞いて欲しいとは言われなかったし、聞きますよとも言わなかった。だから俺も弁当を食べながら耳を傾ける。
「播上くんと清水さんは、私がもう戻れないところにいるんだもの。傍で見ていても、羨ましくて妬ましくて仕方なかった」
 二人きりでいる総務課の空気と、先輩の声とが、いつになく穏やかに聞こえた。
「もちろん、それだっていつまでも続くわけじゃないけど」
 笑い声すら、今は嘲りの色もない。
「だとしても私には、今更頑張ったって取り戻せる関係じゃなかった。絶対に手に入らないってわかっていたら、尚のこと悔しく思えた。どうしても手に入れられないものがある時って、諦めればいいのにそれが出来なくて、持ってる人のことを妬みたくならない?」
「……わかります」
 十分過ぎるほど、わかる。俺にとってのその対象は渋澤だった。乗り越えるには時間も掛かった。今はようやく穏やかな気持ちでいる。
「馬鹿みたいだよね」
 きっと今の藤田さんもそうなんだろう。小さく首を竦めていた。
「諦めた方が楽なことだってあるのにね。いつまでも一つのことにこだわって、しがみついて……本当、馬鹿みたい」
 一つのことにこだわってしまうのは、それしか自分にはないと思い込んでしまうからかもしれない。それがなくなれば自分の価値もないのだと、一面的なものの見方で思ってしまうからかもしれない。本当は、人間なんて多面的な存在だ。こだわるものも、しがみつけるものも、一つきりである必要はない。
 俺も、仕事しかないと思っていた。この仕事が出来なければ、もう存在価値すらないと思っていた。そうじゃないと教えてくれたのは清水と渋澤だった。だから俺は、四年目の今も仕事を続けていられる。
「藤田さんは、きっと幸せになれますよ」
 ピラフを飲み込んでから、俺はそう告げてみた。全面的に本音のつもりでいたのだが、若干からかったような物言いになっていたかもしれない。藤田さんはむっとした様子で頬を赤らめた。
「なるよ、幸せに。今度はあっちにしがみついて、絶対に幸せになってやるんだから」
 なれるだろうと思う。十年越しの想いがあるなら。
「そういう播上くんこそ、もうちょっと頑張った方がいいんじゃないの」
 今度は仕返しとばかりに言われてしまった。
「言っとくけどあの子、相当手強いタイプだと思うよ。日々全力で生きてるって感じだもの、まずちょっとやそっとじゃ妥協しなさそう」
「俺もそう思います」
 妥協させたいとは言ってみたものの、清水がそう簡単に妥協する人間には見えなかった。骨の髄まで負けず嫌いだし、根性はあるし、目標も高く持ちたがる。恋愛する暇がないと言い切るくらい、今は仕事と料理に夢中のようだ。俺のつけ入る隙なんてあるだろうか。
「さてと、仕事しよっかな」
 藤田さんが大きく伸びをして、寄り添う影も同じポーズを取る。
 それからふと俺の手元を、着々と減りつつある弁当箱の中身を見た。
「美味しそうだね、唐揚げ」
 そう言われてしまったら、こちらも黙っているわけにはいかない。
「……一つ食べます?」
「いいの? じゃあ食べる」
 藤田さんは全く遠慮をしなかった。唐揚げを一つ指先でつまんで、ぱくりと食べた。
 しばらくしてから腑に落ちたような顔をされた。
「なるほどね。これじゃあ彼女なんて出来ないはずだ」
「普通に美味しいって言ってください、藤田さん」
「美味しいよ、これだけ作れたらいいよねって悔しくなるくらい」
 それもまたいかにも、この人らしい口ぶりだった。恐らくこの人なりの、好きになれない後輩に対する最高の誉め言葉だろうと思う。
「ありがとうございます。よかったら、作り方教えましょうか」
 俺は切り出して、あとの言葉はからかいにならないよう、慎重に続ける。
「結婚したら是非作ってください。俺くらいの年代の男で、唐揚げが嫌いな奴はそうそういませんから」
 それでも、藤田さんにはまたむっとされた。当然頬も赤かった。
「知ってたけど、播上くんって生意気だよね」
「すみません」
「でも、美味しかったよ。本当に上手なんだね、料理」
 一転、怒りの感情をどこかへ追いやって、にまっとした九年目の先輩。
 この人はきれいな人なんだよなと、俺はこっそり、改めて思う。

 それからふと、しみじみ実感した。
 美味しいって言われるのは嬉しいことだ。
 相手が誰でも。好きな子じゃなくても。長らく好きになれなかった人でも、いろいろきついことを言ってきた人でも、俺の作ったものを食べて美味しいと言ってくれたら、やっぱり嬉しい。たった一言だけで何もかも帳消しにしたっていいくらいだった。
 清水の為だけに料理が出来たらいいと思っていた。
 清水の為だけに作って、食べてもらえて、彼女が美味しいと言ってくれたらそれだけでいいと思っていた。
 でも本当は、そうじゃないのかもしれない。俺の望むことはもっと別にあるのかもしれない。清水だけでいいなんて、それこそ一面的なものの見方でしかない。本当はもっと大きな、途轍もなく大きなことを望んでいて、それをどうしても叶えたいって思っているのかもしれない。
 藤田さんの美味しそうな顔を見た時、そんな気がした。
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