四年目(3)
迎えた木曜日の昼休み、午前中の仕事は気合で片づけた。そして休憩に入った直後、社員食堂へと向かう廊下で、厄介にも藤田さんに呼び止められた。
「播上くん、これから休憩?」
表情は思いのほか穏やかだった。もっともこの人の場合、刺々しい本音を真綿で包み込んでいるようにも見える。
「そうです。藤田さんもですか?」
俺は少し早口気味に応じた。ロッカールームから弁当を取ってきて、あとは食堂へと向かうのみ。清水はもう来ているかもしれない。急ぎたかった。
「まあね」
藤田さんは財布を軽く掲げた後で、
「ね、播上くん。話があるからお昼ご飯、付き合ってくれない?」
妙なことを言い出した。
「えっ?」
思わず聞き返してしまう。
この先輩に誘われたのは入社直後、まだ俺が新人だった頃以来だ。当時から既に反りの合わなかった俺と藤田さんは、あれから一定してぎすぎすした関係を続けてきている。社員食堂で行き会い、やむを得ず同じテーブルに座ることもあったものの、好んで食事を共にしたい相手ではなかった。藤田さんだって同じように思っているはずだ。
そんな相手からのランチの誘いだ、当たり前のように警戒した。
「話って、何です?」
「ここじゃ話せないこと。播上くんにも関係のある、仕事の上での大事な話なの」
「大事な話、ですか」
さすがに、仕事の話と言われると迷う。そうでなければ丁重にお断りするところなのに。こっちには先約だってある。
だから一応、確かめた。
「今日、今じゃなければいけませんか」
「何? 清水さんと約束でもしてるの?」
すると藤田さんの顔が険しくなる。
「仕事の話をするって言ってるのに、播上くんは恋愛にうつつを抜かしたいってわけ?」
「そういうことじゃないですよ。ただ、急に何の話かと」
廊下で言及されるのも気分のいい話ではなく、俺は声を落として反論した。
「そもそも仕事の話って言うなら、勤務中に伺うのは駄目なんですか」
「駄目だから声を掛けたんでしょ。馬鹿じゃないの?」
結局罵ってくるのか。
苛立ちを堪えようとした瞬間、藤田さんの方が動いた。俺の横をすり抜けるが早いか、無言で廊下を歩き出す。すれ違いざまに香水の匂いを置き去りにして、どんどん俺から遠ざかっていく。
「藤田さん!」
呼びかけても振り向くことなく、やがて社員食堂の方向へ消えていった。
何だったんだろう。
あの人の気まぐれで感情的で、俺に対する馬鹿にしたような態度も全て今に始まったことではない。仕事の話と言うのも、もしかすれば俺の勤務態度やあれこれに難癖をつける気でいたのかもしれない。それこそ一昨日の、備品倉庫での会話のように。
そこまで考えて、扱き下ろしている俺も大差ない人間ではないかと思ってしまう。少なくとも、これから清水に会おうっていう時に考えたい内容じゃない。休憩時間にうつつを抜かすのはおかしいことではないはずだ。勤務中に抜かしていたら大問題だろうが、今は別に問題ない。
自分でも驚くほどの迅速さで気分が切り替わった。
改めて食堂へと歩き出す。清水の元へ急ぐ。
清水とは、無事に食堂で落ち合えた。
テーブルの一辺で隣り合って席に着く。
「今日の唐揚げは自信作だよ」
彼女は上機嫌の笑顔を惜しげもなく向けてくる。
控えている前哨戦への緊張感も合わせてか、動悸が激しい。
「自信作って言っても、播上から教わったことをそのままやっただけなんだけど」
謙遜と共に差し出された弁当箱の蓋の上、いい色の唐揚げが乗っかっている。昨日貰ったメールの添付画像と変わりなく、素晴らしい出来映えに見えた。
俺はその唐揚げを受け取り、早速一つ、齧りつく。
うん、美味い。衣は硬過ぎずさっくりとしているし、肉は程好く柔らかく、ジューシーに仕上がっている。下味は前回と同様にきちんとついていて、醤油としょうがと長ネギの風味が後を引く。
「自信に違わぬ出来だと思うよ」
そう告げると、清水は胸を撫で下ろしてみせる。
「よかった。播上にそう言ってもらえると嬉しいな」
「これでお兄さんにも自信を持って出せるな」
「うん。あんまり出来が悪いと文句を言われるだろうし、どうせなら美味しく作れるようになっておきたかったんだ」
彼女が、妹の表情で笑う。あどけない負けず嫌いの顔が可愛い。
「一番下のお兄ちゃんは、私が料理するって言うといつも馬鹿にするんだよね。どうせお母さんには敵わないんだろ、みたいに言って。でもこの唐揚げなら、お兄ちゃんの度肝を抜いてやれるんじゃないかって思うんだ。本番でもこのくらい、作れたらだけど」
清水とすぐ上のお兄さんとは、どうやら仲がいいらしい。ほんのちょっと話を聞いただけでも、端々から仲睦まじさが窺えた。
それと、清水がそう言われるからには、清水のお母さんはきっとすごく料理が上手いんじゃないだろうか。どんな人なのか見てみたい。うちの母さんよりは落ち着いた人だろうなと思いかけて、いや、比較対象がまずかったな。俺の母親よりも落ち着きと年甲斐のない母親は、日本全国を探してもまず見つかりはしないだろう。
閑話休題。
俺は空いた弁当箱の蓋を返しつつ、次の話題に移るタイミングを計っていた。今日の清水の弁当箱はパンダ柄だ。愛嬌のあるイラストを、逸る思いを抑えて眺める。彼女のきれいな手がそれを受け取り、ふと目が合って、言おう、と思った。
その時、
「そういえば、播上の誕生日って来週だよね?」
彼女の方から話題を振ってきた。今まさに切り出そうとしていた本題について。
ごくりと喉が鳴ってしまう。
「あ、ああ。来週の金曜だ」
俺はぎこちなく頷き、清水もそこで柔らかく微笑む。
「だよね。七月の今頃だったなって思って」
「覚えててくれたのか。ありがとう」
「そのくらいはね。ほら、カボチャのプレゼントなんてなかなか印象深かったし」
確かにあれは衝撃だった。いくら美味しいカボチャだからって、誕生日のプレゼントにすることもないのに。うちは父さんも母さんもちょっと変わっている。
「もう少し料理が上手くなってたらなあ。誕生日プレゼントって言って、播上の度肝も抜いてやれたのかもしれないのに」
俺がぼんやりしている間に、清水がそんなことを言った。
「いつか、播上のことを私の料理でびっくりさせたいと思ってるんだ。普通のご飯じゃ無理だろうから、お菓子とか、私の得意分野で。今年こそはそれが出来るかなと思ってたんだけど、やっぱりまだまだかな」
以前にもそんな言葉を聞いていたような気がする。それこそ一昨年、カボチャでパイを作った時に。
あれから二年。清水の料理の腕はめきめきと上達していると感じているものの、お菓子を作ってもらう機会はまだ訪れていない。その時が来たら全力で作ると言っていたが、果たしていつ頃やって来るんだろうか。その時を待っていてもいいんだろうか。
「来年の誕生日に間に合うよう、頑張ろうかな。今年は真心だけってことで。駄目かな?」
調子のいい台詞を口にして、清水が一人で照れている。
言われた方は照れるどころの騒ぎではなかった。駄目なわけががない。むしろ清水の真心が何よりも欲しい。
息をつき、激しい動悸を落ち着ける。今言わなければ、弁当も開かずにタイミングを計っていた意味がなくなってしまう。
一旦引き結んだ唇を、開いた。
「その、誕生日の話なんだけどな」
いきなり声が震えた。
でも噛まずには済んだからまだましだ。はっきりと聞こえるように切り出せた。
言おう。次の言葉を。
「……清水。来週の金曜日、仕事の後、空いてるか?」
上滑りの口調で俺が告げると、彼女は小首を傾げる。
「播上のお誕生日の日?」
思わせぶりな間があって、
「まあ空いてると言えば空いてるかな、残業は普通にありそうだけど」
「な、何時くらいまで掛かる?」
俺は勢い込んで問う。清水の眉がきゅっと寄る。
「ええと……多分、八時くらい。九時過ぎるってことはないと思うよ」
ほっとした。そのくらいならどうにかなりそうだ。俺は構わない。次の日は土曜で休日だし、少しくらい帰りが遅くなったっていい。
もし、清水さえよければ。
もしもその日、付き合ってくれるなら。
「でも、どうしてそんなこと聞くの?」
彼女が怪訝そうに問い返してくる。もっともな質問だった。
俺にとっても重要なポイントだ。きちんと伝えておかなくてはならない。そこに誤解があってはいけないし、誤魔化しがあってもいけない。
呼吸を整えた。
なけなしの勇気を振り絞った。
その後でようやく本題を、
「よかったらその日、二人で飲みにでも――」
口にし始めた時、だった。
視界の隅で捉えていた清水の目が、すっと横に流れた。直後、彼女の表情が強張る。
俺もつられるようにして、清水が見ていた方向を見た。
テーブルを挟んだ向こう側、収められた椅子の背から身を乗り出す藤田さんがいた。
目が合うといかにも作ったようににっこりと微笑みかけられた。
「播上くん」
しかも、猫撫で声で名前を呼ばれた。
俺は返事も出来なかった。どうしてこの人がここにいるのかとまず思ったし、いてもおかしくないにせよ、どうしてこのタイミングで現れるのかと思った。それに何しに来たのか。さっき、食堂へ来る前にあらわにした、あの時の怒りはどこへ行ったのか。瞬きほどの間にさまざまな疑問が湧き起こる。
「知らなかったな、播上くんって来週の金曜が誕生日なんだ?」
藤田さんが尋ねてくる。
「そうです、けど」
「そっかあ、残念だったね」
にっと口角を吊り上げて、美人なはずのその人は、世にも恐ろしい笑みを浮かべた。
「来週はすっごーく忙しくって、お祝いどころじゃないと思うよ? 私、退職するから」
その笑みに気を取られてか、告げられた言葉を把握するのに時間が掛かった。
「退職?」
「そ。寿退社」
「えっ!」
「結婚するの。もうそろそろいい歳だしね」
藤田さんは歯切れのいい調子で続ける。
「播上くんには、私の分の仕事も引き継いでもらわなくちゃいけないでしょ。だから当分忙しくなるよ?」
騒がしい社員食堂内でも十分聞き取れる、はっきりとした物言いだった。なのに藤田さんの話の内容が頭に入っていかない。
退社。結婚。藤田さんが? 誰と?
「迷惑掛けちゃうけど、ごめんね、播上くん」
俺が呆然としていれば、藤田さんは俺の反応を喜ぶように目を細めた。
そして俺よりも先に、清水の方が尋ねた。
「藤田さん、ご結婚されるんですか」
清水の声も驚きと衝撃に彩られている。当たり前だ。急に告げられて驚かないはずがない。そういう話を匂わされたことは今までなかったし、それに藤田さんは、渋澤のことが好きだったはずだ。
渋澤が異動してからまだたったの三ヶ月。結婚相手があいつじゃないなら、切り替えの早さにも驚かされる。
「そうなの。まあ、結婚を決めたってだけなんだけどね」
藤田さんはちらと清水を見た。口元から笑みが消える。
「式とか具体的なことは何にも決まってないけど、プロポーズされちゃったし、こんな会社とっとと辞めてやろうと思って。播上くんもその方が喜ぶだろうしね」
本当のことなのか。普段の言動が言動なだけに、慎重に応じたいと思った。
「相手は、どなたなんですか」
俺が尋ねると、途端に呆れたような顔をされた。それを聞くか、と顔に書いてあった。
「播上くんの知らない人。って言うか、うちの社の人じゃないから」
「はあ……」
「何、もしかして信用してない? 本当だってば。プロポーズされて、ここ最近はずっと迷ってたの。いつ辞表を出してやろうかって」
と言うことは、藤田さんはまだ辞表も出していないのか。総務の課長もきっと大いに慌てるだろう。そんなことを急に言われてもとうろたえる様子が簡単に想像出来る。
いや、俺だって他人事じゃない。藤田さんの業務を引き継がなければならないのだとしたら、これから先は恐ろしく多忙になるだろう。
来週の誕生日のことも、諦めなければならない。さっき、藤田さんもそう言っていた。まさかとは思うが、俺の誕生日に退職のタイミングをぶつけてきたわけでは――ないよな、さすがに。いくらこの人だからって。
でもそう思いたくもなるくらいの、最悪のタイミングだった。
「課長のお許しが出るなら、さくっと今月中にでも辞めちゃおうっかな」
藤田さんはそう語り、勝ち誇ったような笑みを向けてきた。
「だから播上くんも、なるべく迅速に仕事を引き継いでよね? 来月はお盆もあるし、忙しいんでしょうから」
お盆前後は当然の如く繁忙期だし、そこに通常業務以外の仕事を持ち込んでいる余裕はない。だからお盆前までに、欲を言うなら八月前に引継ぎまで片づけておく必要がある。
「じゃあ私、課長のところに行ってくるから。辞表出しにね」
藤田さんは片手をひらひらと振ってきた。
「播上くんも仕事に集中してよね。私の分まで頑張ってもらわなくちゃならないんだから」
そして踵を返し、さっきよりも軽い足取りで食堂を出ていった。
藤田さんの姿が食堂から消えると、周囲にざわめきが戻ってくる。どっと疲れも押し寄せてきた。
「急過ぎる。あの人、何考えてるんだ」
思わず呻けば、隣で清水も眉を顰めている。
「本当に唐突だね。そりゃあ、おめでたい話ではあるんだろうけど……」
彼女の言葉にふと気づいたが、そういえば『おめでとうございます』と言うのを忘れた。
「あの人に、渋澤以外に結婚を考えるような相手がいたなんてな」
率直な今の心境を口にしてみる。どちらかと言えば俺の思いは、『藤田さんには渋澤を好きでいて欲しかった』という願望に過ぎないのだが。
あの人のことは好きではない。でも、渋澤を想う気持ちだけは真剣であって欲しかった。あの人の嗜虐的な性質の中、それだけは人間らしい、素直な感情として存在していて欲しかった。そう思わなければ到底、一緒に仕事なんてしていられなかった。
しかし清水の思いは違ったようだ。首を傾げられてしまった。
「まあ、出会ってすぐに結婚を決めちゃうような人だっているしね。藤田さんが渋澤くんを好きでいたのは本当かもしれないけど、三ヶ月もあればもう次の人に恋くらい出来るよ」
「そんなに迅速な切り替えが、出来るものなのか」
「人によるだろうけど、速い人は本当に速いよ」
清水が浮かべた苦笑は妙に色っぽく映り、場違いにどきっとした。
「ただ結婚はともかく、立つ鳥跡を濁さずって言うじゃない。その点はどうかな」
だがその言葉で現実に引き戻された。跡を濁されまくる予感がしていた。現にそう予告もされている。
来週はきっと忙しくなるだろう。
誕生日なんて構ってもいられなくなるだろう。
「清水、さっきの話だけど」
諦めなければならない。そう思い、俺は彼女に切り出した。
「やっぱり何でもないから、聞かなかったことにしてくれ」
清水は『さっきの話』が何か、すぐには察せなかったようだ。一瞬目を見開いてから、ああ、と腑に落ちた顔になる。それから語を継いできた。
「ええと、来週の金曜日の話だよね? 播上の誕生日の……」
「そう。でも、気にしないでくれ。何でもなかったんだ」
思いのほか強い口調になった。そのせいか、清水は気遣わしげにしながらも、ぎくしゃく頷いただけだった。
「うん……わかった」
浮かれていた気分がいっぺんに醒めた。
冷静になった心で、つまりこれが現実なんだと、強く思った。