四年目(2)
「播上みたいにとは言わないまでも、もうちょっとましな出来にしておきたいな」唐揚げを一つ食べ終えてから、彼女はぼやくようにそう言った。
それから俺の方を見て、おずおずと尋ねてくる。
「ねえ、また今度作ってくるから、味を見てもらってもいいかな?」
「もちろん。いつでも歓迎だ」
頼られるのは嬉しい。俺が清水に頼られることなんてそれこそ料理以外にはなかった。俺は今年度まで散々彼女の世話になっているのに、負けず嫌いの彼女は滅多なことで弱音を吐かないし、吐いたとしても軽口にしてしまえるくらいに打たれ強い。
だから、こういう機会ではいくらでも力を貸したいと思う。
「明日は水曜日でしょ。水曜は部長会議があるから、お昼休憩はずれ込むんだ、いつも」
眉間にと皺を寄せ、清水は続けた。
「だから明後日。木曜にしようと思うんだけど、播上はどう?」
「いいよ、それで」
俺は頷き、内心ほんの少しだけ疑問に思った。ここ最近、清水はやけに鶏の唐揚げにこだわっている。以前から弁当に入れてきていたから、彼女の好きな献立であるのは間違いない。でも上手に作りたいんだと言い出したのはつい先週のことだった。
何かあるんだろうか。彼女がそうまでして、唐揚げを上手く作りたくなるような理由が。
例えば、作ってあげたい相手が出来た、とか。
まさか。そうは思いたくない。でも思いたくないと言うだけで排除するには危険過ぎる憶測でもある。もし事実そうだったら、立ち直れないかもしれない。だからと言って憶測だけで尋ねるのも失礼な気がする。いや、もう長い付き合いだし、そのくらい聞いたっていいんじゃないだろうか。聞いて、もし憶測が当たっていたら、午後の仕事も頑張れるだろうか。無理だ。じゃあどうする。
「そういえば播上、最近仕事どう?」
不意を打つように清水が、そんなことを聞いてきた。
考え事をしていた折も折、唐突な質問に俺が目を見開けば、彼女は優しい口調で言い添えてくる。
「ほら、渋澤くんがいないから寂しくないかなって思って」
「寂しくはあるけど、業務に限ってはそんなことも言えない状況だからな」
渋澤の抜けた穴を埋めるのは当然ながら大変なことで、春先はずっと仕事に追われていた。夏を迎えてようやく一息つけたところだが、来月はお盆休みがあるので気も抜けない。俺の能率が上がった理由の一つは、単純に場数を踏んだからでもあるのかもしれない。
一番の理由は、やはり清水のお蔭だと思っている。
「清水はどうなんだ。秘書の仕事、慣れたか?」
「全然慣れた気がしないよ。毎日忙しいし残業は多いし、早く異動にならないかななんて」
そこまで言ってから、ちらっとおどけた表情を浮かべる。
「部長は優しい人なんだけど、ちょっと働き過ぎって言うくらい働くから、こっちもついてくのがやっとって感じ。そろそろ受付とか事務担当に回りたいよ」
「大変そうだな」
俺も、清水の力になれることがあればいいのにな。そう思っても、その為の手段がまるで思い浮かばないのが歯痒い。俺には料理以外のとりえもないから、教えられるのもせいぜいが料理の作り方だけだ。彼女から持ちかけられるのも、料理と仕事の話題ばかりだった。彼女はきっと俺のことをメシ友としか見ていなくて、だからメシ友としてと、同期としての話題以外、滅多に口にはしないんだろう。
今の関係でも、幸せじゃないことはない。
だが気持ちはもう既に、一歩先へ踏み込むことを望んでいた。
友人同士として歩んできた三年間を悔やんではいない。あの三年間で俺は清水のいいところをたくさん見つけてきた。彼女がいてくれるありがたみ、彼女の大切さもたびたび痛感してきた。だから決して無駄な時間ではなかったと思っている。むしろ友人同士でいた時間がなければ、彼女を好きにはならなかったはずだ。
だが同時に、三年間で俺と清水の関係は、友人として確立されてしまったようにも思う。
清水からメールがあったのは水曜の夜のことだった。
ご丁寧に画像つきだった。ちょっと期待してしまったのに、画像の中身はいい色をした鶏の唐揚げだけで、清水の姿はどこにもなかった。
俺の気も知らない彼女は、無機質な文面から弾む声が聞こえてきそうなくらい、意気揚々と告げてきた。
『教えてもらった通りに揚げてみたら美味しそうに出来たよ。明日のお弁当にも持っていくから、また味見してね。本当にありがと!』
何だかんだ言ったって、たったそれだけの言葉でも無性に嬉しくなる。部屋にいるのをいいことに、一人で密かににやついてしまう。
とは言え退勤後の交流も相変わらずだった。メールのやり取りの他に電話で話したりもするものの、内容は依然として料理と仕事の会話に留まっている。俺は彼女と、もっと他の話題についても話してみたいと思っているのに、その糸口さえ掴めない。清水は清水でこちらに気を遣っているらしく、用件が済むとさっさとメールなり通話なりを終えてしまう。そういうさりげない気配りはいかにも彼女らしいふるまいだと思うが、疎まれているわけではないはずだと自分を励ましたくもなる。
『どういたしまして。役に立てて嬉しいよ』
自分でも不器用過ぎると思う返信を送りつけてから、俺はしばらく携帯電話を握り締めていた。
他に用がなければメールは一往復が基本で、つまりこれ以上いくら待っても彼女がメールを返してくれることはないはずだった。それでも未練がましく十五分待った。
やはり、来なかった。
夜、アパートの部屋に一人でいると時々無性に寂しくなる。一人暮らしの寂しさも今更のはずだったが、最近ではテレビや読書で気を紛らわすことが出来なくなった。手が空くとすぐに清水のことを考えてしまう。あれこれ考えて、現状打破の為の策を練り、しかし最後にはいっそ短絡的な結論に行き着く。
――告白、しようかな。
口にするのも憚られるような甘酸っぱいその単語を、たびたび頭に思い浮かべるようになったのも最近のことだ。
多分、俺の誕生日が近いからだと思う。来週の金曜日だった。清水には何の関係もない日だから、それにかこつけてというのもおかしな話ではあるものの。でも去年の誕生日、彼女はちゃんと覚えていてくれて、『おめでとう』を言ってくれた。だから今年も、忘れてないといいなとこっそり思っている。
しかし簡単なことではない。俺のような料理以外のとりえがない奴には勝算なんてなきに等しい。その上、相手は清水だ。友人歴だけは長い彼女との関係を、唐突な告白一つでぶち壊しにしてしまうのが怖かった。せっかく、この出会いをお互いに喜んでいられるところなのに。お互いに出会えただけでも、あの会社に就職してよかったと思っているところなのに。俺が手前勝手な恋心を持ち込んで、彼女の気持ちを踏み躙ってしまうのは嫌だと思う。
じゃあ、このままメシ友としてカテゴライズされていてもいいのか。清水にとっては珍しくもないだろう異性の友人の一人として、その立場に甘んじているだけでいいのか。
絶対に嫌だ。
大体、清水にだって他の出会いもあるだろうに。それでなくとも秘書という肩書きは男にもてるという話だ。俺が日々を安穏と過ごしている間に、彼女を他の男に攫われたらどうする。行動に出るなら、早ければ早い方がいいに決まっている。
それに今回の唐揚げだって、どうして彼女がここまでこだわるのか、気になった。
俺くらいの年代で、唐揚げが嫌いな男はまずいないと思う。女の子もそうかもしれないが、清水は健啖家の割にカロリーだの何だのを気にする性質らしく、その彼女が揚げ物ばかりを作っているのも奇妙な印象がある。気のせいだろうか。誰かの為に作ってやろうと、練習しているんじゃないか。
夜、アパートの部屋に一人でいると、推測と妄想とが幅を利かせ始めるから困る。ぐるぐると彼女のことばかりを考えてしまう。あまり眠れない夜を過ごしているのも、七月の蒸し暑さのせいだけではなかった。
時刻を確かめる。まだ日付が変わるまでには猶予がある。
意を決した。
『ところで、最近唐揚げにこだわってるみたいだけど、何かあるのか?』
そんなメールを送ってみた。
送ってからしばらくの間、恐ろしく後悔した。もっとスマートな聞き方はないのかとか、友人とは言え立ち入った質問じゃないかとか、もし他の男の名前が出てきたらどうするとか、いろいろ考えてしまう。
返事は、少しの間を置いてからあった。
『そうなの。どうしても今週中に、上手く作れるようになりたかったんだ』
求めている答えとは違った。はぐらかされたのか、それとも聞き方が悪かったのか。
後者だと思いたい。
手のひらに汗をかいていた。お蔭でメールを打つ指が滑った。
『誰か、作ってあげたい相手でもいるのか』
恐ろしいメールを送ってしまった。送信直後に思った。およそスマートな聞き方ではないし、立ち入った質問だし、答え方次第では自爆スイッチにもなりうる。
もし、他の男の名前が出てきたらどうする。
胃の痛みを覚える暇もなく、携帯電話が鳴動した。メールが来ていた。今回は早かった。こわごわ画面を覗き込み。清水からのメールを開く。
『うん、お兄ちゃんだけどね。今週末から仕事の都合で泊まりに来るから、もてなしてあげようと思って』
そのメールは、三回読んで確かめた。
そして、煩悶のあまり自分の目がおかしくなったわけではないことも確かめた。
書いてあるよな。お兄ちゃんって書いてあるよな。間違いないな。
心底、ほっとした。
ほっとしてからようやく驚いた。清水にはお兄さんがいたのか。知らなかった。そういえば家族の話なんて滅多にしない。お互いに親元を離れての一人暮らしだからだろう。
『清水、お兄さんがいたんだな。知らなかったよ』
今回は少し楽な気分で送信した。
彼女からの返事も、実に穏やかな心境で受け止められた。
『言ってなかったっけ、うち四人兄弟なんだよね。私が一番末っ子で、上にお兄ちゃんが三人。今度来るのはすぐ上のお兄ちゃんなんだ』
でも、その内容にはさすがに驚かされた。
お兄さんが三人。大家族じゃないか。俺は一人っ子だから余計に思う。
『初めて聞いた。兄弟が多いと、楽しそうでいいな』
正直にそう送った。
それから思った。清水が異性の友人に慣れているように見えるのは、むしろお兄さんがいるからなんだろうか。男ばかりの家に育った末っ子の清水は、異性への接し方もお兄さん達から学んだんだろう。
言われてみれば彼女は、いかにも妹っぽい気がする。『お兄ちゃん』と素の呼び方を、友人宛てのメールに書いてしまうところも可愛い。
『楽しいけど、すごくうるさいよ。子供の頃はご飯のおかずも取り合いになってたし、エンゲル係数高めで、お母さんはきっと大変だったと思う』
子供の頃の清水がどんな子だったのか、ちょっと想像してみる。負けず嫌いの性格を存分に発揮して、三人のお兄さんとおかずの取り合いをする姿。末っ子でも一歩も引くこともなく果敢に挑んでいく姿を勝手に想像して、らしいなと思う。
俺も清水のお兄さんになりたい。
一瞬そう思いかけたもののすぐに思い直した。お兄さんになってどうするんだ。と言うか、何を馬鹿げた妄想をしているんだ。俺が欲しいのはそんなポジションじゃない。
『お兄さんの為に唐揚げの練習をするなんて、清水はお兄さん思いなんだな』
そのくせ、無難で不器用なメールを送り返したりしている。本当にどうしようもない。
俺の気持ちなんて知っているはずもない清水は、いつも通りの文面をくれる。
『それを言うなら播上は、すっごく友達思いだよ。美味しい唐揚げの作り方、丁寧に教えてくれたし、お蔭でお兄ちゃんにも喜んでもらえると思うんだ。本当に感謝してます!』
照れ隠しのような、だが彼女らしい素直な言葉を、俺は一人でにやにやと眺めていた。
清水は本当にいい女だ。
こういう時に改めて痛感させられる。メールの一通だけで俺をこんなにも浮かれさせて、にやつかせて、幸せな気分にさせてくれるんだから。
それからは、普通に挨拶だけでやり取りを終えた。
告白どころか、いつもより長めにメールを送り合っただけなのに、やけに満ち足りた気分でいる俺がいた。
携帯電話を握り締めた自分の手を見下ろす。この手のことを彼女は『魔法の手』だと言ってくれた。そこまで大層なものではないと自分では思っている。でも。
俺はもう一生、清水の為だけに料理を作ってもいい。
清水が食べる為だけに腕を振るい、そして彼女に美味しいといってもらえたら、それだけでいい。
両親から教わり、受け継いだ料理の知識も、ただひたすらに彼女の為だけに使いたい。
だから俺は、彼女とメシ友同士のままでいるつもりはなかった。
明日、勝負に出る。
といっても今回はあくまで前哨戦だ。決戦は来週の金曜日。清水には何ら関係のない、俺の二十六歳の誕生日だ。その日に彼女を、デートへ連れ出すつもりでいる。明日のうちに誘い、約束を取り付けておこうと思っていた。
もちろん断られる可能性だって大いにある。この三年と三ヶ月の間、彼女と二人でどこかへ出かけたことは一度としてなかった。それはひとえに一昨年の、藤田さんとの件が尾を引いていたからに他ならない。そして誤解を招くことは止めようと言い出したのは俺の方だ。清水には、何を今更と思われるかもしれない。あるいは彼女のことだから、俺に迷惑が掛かりはしないかと気を遣ってくるかもしれない。その場合は焦らず、じっくり時間を掛けて、俺の考え方が変わったことを伝えたいと思う。
もし何もかもが全て上手くいって、誕生日のデートを快く承諾してもらえて、そして当日、俺の気持ちを告げられるような状況まで踏み込めたらその時は、はっきり言おう。そう思う。