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一日千秋の彼女 後編

 結婚のきっかけってものがはっきりしていたら格好良かったのかもしれない。
 よく映画にあるような、九死に一生を得た後で結婚を決意するとかそんな理由があれば――なんて、そもそも普通に生活していたら、九死に一生を得る機会すらそうはないはずだった。
 俺はごく平穏な日々しか送っていないから、決意のタイミングもごく平穏に訪れてしまったのだろう。仕事に追われる日々を過ごすうち、何となく、じわじわと彼女のいる生活を求めただけ。もっと言えば彼女について欲が出てきただけだ。最初は受付で見かけて、笑いかけてもらえたら幸せな気持ちになれた。それが帰り道で偶然出会って、運良く五分間だけ一緒に帰れるようになった。そのうちにだんだん長い時間一緒にいたくなってきて、休日を二人で過ごすだけでも足りなくなってきて、やがて辿り着いた答えが結婚だった。
 その答えもすぐに出せた訳ではなく、先輩がたに急き立てられ、呆れられつつものんびりしてきて、今日に至る。おまけにプロポーズに最適だったであろう記念日の存在を頭からすっ飛ばしていて、何の縁もゆかりもない日に切り出して、彼女をびっくりさせてしまった。決まってないことこの上ない。
「長谷さんは、ご都合は平気ですか」
 食事をしながら聞いてみると、彼女には怪訝な顔をされてしまった。言葉足らずだったかなと慌てて付け足す。
「結婚についてです。時期は長谷さんの希望に合わせます」
「私はいつでもいいですよ」
 小さく笑った彼女が、グラスに口をつける。水を飲んだ後に唇をつけた場所を拭うのが、色っぽくていいなと思う。俺がそんな不埒なことを考えている間に、彼女は微かに息をついた。
「私の方こそ、霧島さんの都合に合わせますから。お仕事が落ち着いてからでもいいですし、忙しい時期だからこそ私を頼ってくれるってことなら、それでもいいです」
 今度は多分、俺の方が怪訝そうにしていたと思う。
 頼る?
 彼女を?
「い……いえいえそんな、今でも十分頼ってますから、これ以上は」
 合点がいってからは大急ぎで否定した。彼女がいいお嫁さんになるであろうことは先輩がたに言われるまでもなくわかっていたことだけど、だからと言って彼女に家事全般を押し付けるつもりもなかった。長谷さんが作るご飯は美味しいし、繁忙期に疎かになりがちな洗濯や掃除を手伝ってもらえたらそれは大層ありがたい。だけどそれだけの為に結婚したい訳じゃない。むしろいつも受付で浮かべているような笑顔で、俺が帰る部屋にいて、出迎えてくれるだけでいい。土日と言わず年中傍にいてくれたらいい。
「俺は、結婚を機に生活態度を改めようと思っているんです」
「今まで、改めなくちゃいけないような生活態度だったんですか?」
 俺が述べた決意を、長谷さんはくすくす笑いで受け止める。その辺りはもう十分伝わっているところだとばかり考えていたので、詳しく説明するのも気が引けた。
「まあ、その……繁忙期なんかは、決して誉められるような暮らしぶりではないはずです」
 忙しい時期に彼女と会わないのは、つまりそういう理由だ。普通に考えれば合鍵を渡していて、彼女の私物もたくさんある部屋に、彼女を立ち入らせない期間があるのはおかしい。鍵を渡した以上はいつでもお越しくださいと言うべきだろう。俺はその理由を仕事のせいにしてきたけど、ただの口実であるのは言わずもがな。
「ですがこれからは、もっとしっかりしますから。長谷さんにご面倒を掛けたりはしません」
「掛けてもいいですよ」
 即座に、彼女にそう言われた。強く念を押してくる。
「私のこと、これからはもっと頼ってください」
「もう十分頼ってますってば」
「私だって霧島さんのこと、すごく頼りにしてるんですから」
「――え?」
 そうだったっけ、と思ってしまう自分が情けない。
 でも事実、俺は彼女を頼りにしているけど、彼女に頼りにされるような要因はなかった。俺はこの通り、忙しい時期には迷わず仕事を優先させるような男だし、プロポーズだって上手く決められていないし、車は持っていないし目は悪いし――彼女の為に出来たことなんて、この二年間でもそう多くはない。一方で俺自身は彼女の笑顔に、存在に、数え切れないほど救われてきたくせに。
「頼りにしてます」
 でも、長谷さんは伏し目がちにしながら言ってきた。二人で囲むテーブルは、周囲と切り離されたみたいにしんとしている。お互いの言葉しか聞こえない。
「私の世界を変えてくれるのは、いつだって霧島さんなんです」
 耳に届くのは、俺より余程情緒に溢れた言葉だった。
「……一番初めからして、そうでした。それから今も。私はすっかり甘えているんです、霧島さんについていけば間違いはないから、ずっとついていけばいいんだって」
 その上、信頼にも溢れていた。こんなに信じられていていいんだろうかと思うくらいに。
「プロポーズだって、霧島さんが一番いい時期を選んでくれるから、ずっと待っていればいいって。だから私は、いつでもいいんです」
 一番最初の日の俺は、絶対に格好悪かったと思う。今までずっとそうだったと思う。俺が信じてきたのは営業課の皆が同じように信じていたジンクスだったけど、そんな俺を、格好悪く登場して彼女の世界を変えてきただけの俺を、彼女の方が信じてくれるようになっていた。いつの間にか。
 こんなに無様なのに、こんなに幸せでいいんだろうか。
「これからは私も、霧島さんに頼られるようになりたいです」
 長谷さんは言って、それからものすごく恥ずかしそうに添えてきた。
「自分で言うのも何ですけど、私、いい奥さんになりますよ」
 なる。間違いなくなる。二年も付き合ってきた俺が保証する、長谷さんは誰にも負けないようないいお嫁さんになるだろう。
 となると俺は、誰にも負けないようないい夫にならなくてはいけない。
「会えない時間に何もしないでいるのは、やっぱり寂しいです。そのくらいなら私、霧島さんの支えになりたいです」
 彼女が続けた言葉に、俺は今日が久し振りのデートだったのだと改めて実感する。結婚のきっかけをあえて定義するならまさにそれだ。会えない時間が続いたから。そういう時間をやり過ごすよりももっといい方法があるって、やっと辿り着けたからだ。
 これ以上、彼女を寂しがらせてなるものか。
 幸せにしよう。俺の使命はまさにそれだ。
「じゃあ、今以上に頼りにします」
 改めて、プロポーズらしい台詞を告げてみる。
「ですから長谷さん、俺についてきてください」
 笑顔の素敵な彼女は迷わず、頷いた。
「はい」

 そんな訳で、俺たちは結婚を決めた。
 もちろん話はこれで終わりではなく、他にも決めなければならないことはたくさんある。例えば指輪だ。食事の後、一緒に買いに行ってくださいと頼んだら、二つ返事で了承された。
「長谷さんは、どんな指輪がいいですか」
 俺の問いに彼女は小首を傾げる。
「私は、勤務中につけられるものなら何でもいいです。霧島さんはどんなデザインにするか、もう決めてたんですか?」
「一応、カタログは見ました。でも長谷さんの意見も最大限尊重します」
 尊重どころか全部彼女の好みで決めてくれてもいいとさえ思っている。俺のセンスは当てにならないと評判だった、女性を見る目以外は。
 だけど長谷さんはにっこりして、
「お店に着いたら、まず霧島さんが選んでくれたデザインを見てみたいです」
 と言う。
 二年も一緒にいれば俺のセンスは十分わかっているはずなのに。
「いや、俺の選んだものですからあんまり信用しない方が」
 慌てて注釈を入れると、彼女はすぐにかぶりを振ってきた。
「信用してます。頼りにしてますから」
 もしかすると彼女は、俺が女性を見る目と同様に指輪を選ぶセンスもあると思っているんじゃないだろうか。いいお嫁さんになりそうな彼女を選ぶくらいだから、きっと他のことでも審美眼を持っているんだろう、とか――他のことに関しては当てにされても困る。
「それに、霧島さんだって毎日身につけてくれるんですよね? だったら私の意見よりも、霧島さんの意見を尊重すべきです」
 長谷さんのその言葉に、俺は少し驚く。
「あれ、指輪って……そっちの指輪なんですか?」
「そっちって?」
「二種類あるって話ですよね。結婚式の時に交換する指輪と、それから石のついた――」
 何とかリング。もう名前忘れた。
 彼女はそこで瞬きをしてから、笑う。
「私、霧島さんとお揃いがいいです」
「え、いいんですか?」
「はい。私一人でしててもつまらないですし、霧島さんにだってしていて欲しいですから。買うならお揃いのがいいです」
 いつになく頑なな主張をする長谷さん。もちろんそれが悪い訳でもないけど、意外にも思う。
「お揃いが好きなんですか」
 そう尋ねてみたら、作ったように拗ねた顔で言い返された。
「好きな人とお揃いって、女の子の夢ですから」
 それからくすぐったげに首を竦める。
「私はもう、女の子って歳でもありませんけど」
 でも長谷さんは、出会った頃と同じくずっと瑞々しいままだ。見た目がというよりは、むしろ感性がそうなんだろう。その感性が捉えている世界は俺一人の干渉で呆気なく変わってしまう。責任は重大だ。
 彼女を幸せにしなくてはならない。
 彼女の世界に傘を差すのが俺の使命だ。そういう時でもきっと俺は格好悪くずぶ濡れになっているだろうけど、長谷さんは俺を覚えていてくれるし、好きでいてくれるだろう。だから急ぐべきだ、あの時と同じように今こそ走るべきだ。
「長谷さん、これからしばらく、仕事以外でも忙しい日が続きそうですが――」
 カタログを貰った宝石店までの道を歩き出しつつ、俺は彼女に語りかける。
「これからも、頼りにしてます」
「はい。ついていきます」
 いつだって彼女は頷いてくれる。笑ってもくれるし待っていてもくれるけど、これ以上待たせるのも嫌なら、会えない時間を過ごすのも嫌だった。
 一刻も早く結婚しよう。指輪を買って帰ったらスケジュールとカレンダーを調べて、最も都合のいい、最も縁起のいい日を探し出そう。それからお互いの両親にもとっとと挨拶を済ませる。先輩がたにも報告しなくちゃいけない、一応、大変お世話になったんだし。
 宝石店へ向かう足取りは、俺たちにしては随分と逸っていた。
 一日千秋の思いで迎えたこの日、最早一秒たりとも無駄には出来ない――って言ったら先輩がたには何を今更と突っ込まれるだろうから、そこは彼女のとびきり幸せな笑顔に取り成してもらうこととしよう。
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