Tiny garden

社長、優しくしてください

 西条智巳。私が勤める呉服屋の、今年度就任したての若社長。
 スーツも着物も似合う長身で、顔立ちも整っていて、くっきりした二重瞼と長い睫毛、少し厚めの唇が今人気の俳優さんにちょっと似ている。そのアンニュイな雰囲気は確かに素敵で、秘書の私から見ても魅力的な男性だと思う。
 おまけに三十五歳独身、彼女なし、仕事もできる敏腕社長。普通なら、社内の女子社員から熱い視線を向けられていてもおかしくないはずだ。
 だけどうちの社長に限っては、全くもってそんなことない。

 割と毎日のように聞かれる。
「春野さんって、社長と働くの辛くない?」
 今朝は総務の槇さんが、出勤してきた私を見るなり言った。
 私が言葉に詰まると、
「辛いだろ。今の社長、物言いきついもんなあ」
 今度は営業の真田さんが頷く。
 二人とも私より数年先輩で、先代の社長のこともよく知っている。今の社長が先代と比べて、手厳しい人であることも。
「こないだもホテルの手配で怒られてたじゃない」
「あ、あれは私のミスですから……」
 出張で社長の部屋を取る際に、気を利かせてダブルにした。その方がゆっくりお休みになれると思ったからだ。
 ところが社長はとても怒った。
『経費の無駄だ。一人で泊まるんだからシングルでいい』
 確かに、仰ることはもっともなんだけど。
「あと、弔事用のネクタイ間違えた時もさ。あんなに怒らなくてもいいのにな」
 それだって私のミスだ。無地でなければいけないのに、慌てていたせいでうっすらと柄に入ったネクタイを手渡してしまった。
 社長はそれを結ぶ前に気づいてくれて、葬儀の場で恥をかくことはなかった。それでも当然ながら叱られた。
『こういうミスが会社の評判に響く。二度とやるな』
 本当に、社長の言う通りなんだけど――。
「春野さんが若い子だから厳しく言うんだよ、きっと」
「な、見ててかわいそうだよ。先代に言いつけちゃえ」
 槇さんも真田さんも、そう言ってはくれる。心配してくれているのもわかっている。若い子、と言われるほど若くはないけど――奇しくも今日で二十八だ。
 さておき私は秘書として、やっぱり社長を悪くは言えない。
「社長も就任したてでピリピリしてるんですよ。私のミスなのは事実ですから、叱られないよう気をつけます」
 そう答えた途端、二人にはぶんぶん首を振られた。
「いや絶対わざと叱ってるよ。ほぼ毎日でしょ?」
「社長の目、『いつか殺ってやる』って目だよな」
「愛想笑いすらしないよね。いるだけで室温下がるわあ」
「あれでも得意先からは評判いいのが理解不能だよ」
 次々と投げかけられる言葉を、私はやんわり否定しようとして、
「でも、まだ三ヶ月目ですし――」
 と言いかけたところで、背後から声がした。
「――おはようございます」
 それはそれは低くて冷たい声だった。

 たちまち場が静まり返り、槇さんと真田さんの顔が凍りつく。
 私も恐ろしい予感に身震いしながら、ゆっくりゆっくり振り返る。
 そこにいたのはやはり社長だ。二重の瞳を冷ややかに眇め、私を見るなり眉間に皺を寄せてみせた。『相手を蔑む表情で』と演技指導を受けたような表情と、ネイビーのストライプスーツ姿は完璧なのに、私はその場で竦み上がった。
「おはようございます」
 声も出せずにいると、社長は言い聞かせるように再度繰り返す。
「お、おはようございます、社長」
 私がたどたどしく挨拶を返せば、槇さん、真田さんも後に続いた。
 社長はそれに軽く頷いて、そのまま社長室へと歩き出す。
「行こう、春野さん。今日も忙しくなる」
「はい……」
 促されて社長を追い駆ける私に、槇さんたちは申し訳なさそうに手を合わせてきた。これから怒られるであろう私を憐れんでいるんだろう。憐れむくらいなら、もっと会話に気をつけてくれてもいいのに。
 社長は一切振り向かない。
 さっきのやり取り、多分聞こえてたんだろうな……。

 うちの会社は江戸時代に創業した小さな呉服屋だ。
 細々とやってきた会社を大きくしたのが先代の社長で、若者向けのブランドラインやネットショッピングなどに対応して更なる販路拡大に尽くした。
 私はそんな先代の頃から社長秘書を務めている。正直、入社四年目で異動の話が来た時は何かの間違いではと思った。先代の社長も、私のような若い秘書を持ったことを得意先の人たちから随分からかわれたようだ。それでも丁寧に仕事を教えてくれて、私も二年間でどうにか秘書の業務を覚えてきたつもりだった。
 だけどそれは、先代が計画していた引退への準備だった。
 足腰が悪く、デスクワークさえ堪えるようになった先代は、五十代のうちに経営から身を引くことを決めた。そして後継者に指名されたのが、先代の甥に当たる今の社長だ。先代にはお子さんがいなかったし、西条さんはその当時専務だったけど、やはりとても優秀な人だったからだ。
 そして私は今の社長の秘書として、そのまま働くことになった。先代の仕事を傍で見てきた私なら、よりきめ細かい補佐ができるだろう、という判断からだ。
 だけど先代の気遣いも空しく、私と社長の関係は険悪だった。

 社長室に入ると、社長は何事もなかったように口を開いた。
「早速だが、来月の展示会の招待状は?」
 始業前だというのにもう仕事の話だ。私は急いで手帳を開く。
「昨日全て発送いたしました」
「パンフレットの作成状況はどうなってる?」
「レイアウトは昨夜完成させました」
「あとでサンプルを見せてくれ。それと早いうちに備品の確認を頼む」
「かしこまりました」
 矢継ぎ早の質問攻めはいつものことだ。社長はとても仕事熱心な人だった。
 まして呉服屋にとって展示会は、売り上げを左右し顧客の心を掴む大切なイベントだ。熱が入るのも当然だし、私も社長のペースについていこうと必死だった。
 だけど、
「新作のデザインは見てくれたか? ファイルで送っていたはずだけど」
 社長がそう続けた時、悪寒が背筋を走り抜けた。
「あ……す、すみません、まだ確認していなくて……」
 仕方なく正直に答えれば、社長の顔にみるみる失望の色が広がる。
「まだ? 昨日の夕方送ったのにか?」
「すみません、朝のうちに確認しておきます」
「展示会に出す大事な作品だ。自信作だから、君にも見てもらいたかったんだけどな」

 そう、新作反物のうち一つは社長直々のデザインだった。
 だけど昨日は展示会の準備と通常業務とでとても忙しくて――いや、そんなの言い訳にもならない。
 昨日のうちにどうにか見ておくんだった。

「すみません……」
 私は平謝りしかない。
 社長が代わってからというもの、仕事における私のミスは増大した。冷たい目で見られる、叱られるという重圧が私を縛っているのかもしれない。社長からすればそれだって言い訳なんだろうけど。
「もういい」
 あくまでも冷ややかに、社長は言った。
「でも――」
「もういい、と言った」
 更なる謝罪を遮ったかと思うと、深く溜息をつく。
「人の悪口を言う暇はあるのに、ファイル一つ確認する暇もないのか。面白いな」
 その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
 やっぱりさっきの、聞こえていたみたいだ。
 社長は刺々しい目つきで私を見下ろしている。『いつか殺ってやる』ってこういう目だろうか。私は縮み上がったけど、これには言い訳したかった。
「わ、私は、悪口なんて言ってません!」
 言い訳だけど、でも事実だ。
 言ってないどころか、私は社長を庇う気でいたのに。
「……確かに、言ったところは聞いてないな」
 社長が心のこもらない声を発する。
 ということは、槇さんたちの会話は聞こえていたんだろうか――それならさっきの言い方はまずかった。保身を図ったと思われたのかもしれない。
「違うんです! 私も社長を悪くは言ってませんけど、槇さんたちだって……」
 私は慌てて訴える。
 あの二人があんなことを言い出したのも、代わったばかりの体制に気持ちがついていってないせいだと思う。
「皆、不安なんです。社長が厳し過ぎやしないかって」
「俺のせいだって言いたいのか?」
「せい、ではないですけど、もっと優しくてもいいと思います」
 十分に言葉を選んだつもりだった。
 でも社長は、この上なく不愉快そうに眉を顰めた。
「仕事でやってるんだぞ。甘えたことを言うな」
 そして一蹴された私も、思わず反論してしまう。
「そうじゃないです! 社長は確かに正しいことを仰ってますけど、でもあまりにも言い方が冷たすぎます!」
 皆の心が揺れている今こそ、温かい気配りが必要だ。そう思うからこそさっきは社長を庇ったのに。
 私だって、もう少し優しくしてもらえたらと思ってるのに――。
 だから、つい口をついて出た。
「今日は私の誕生日なんです。一日くらい、優しくしてください!」

 その瞬間、社長は目を剥いた。
 どう見ても好意的な表情ではなかった。
 私も言った後で悔やんだ。私が誕生日であることはこの件に全く関係がないし、それこそ『仕事でやってるんだぞ』と突っぱねられそうな言い分だ。これで社長の機嫌をもっと損ねたら、今日は地獄の誕生日になることだろう……。
 でもそう言いたくなるくらいには、私にとっても社長の冷たさは辛かった。

 社長室は水を打ったように静まり返り、私と社長はしばらくの間、睨み合っていた。
 いや、私の方は上手く睨めていたかどうかも怪しい。勢いで言ってしまったことを後悔しているくらいだ。社長が何と答えるか、とても怖かった。
 そして社長は、肩をゆっくり落としながら息をついた。
「……わかった、そうしよう」
「え」
 私は固まるしかない。
 そうしようって、何が。
「今日一日、俺は君に優しくする」
 社長は信じがたい言葉を私に告げ、それからにっこり微笑んだ。
 この三ヶ月、客先や展示会の場でしか見たことがなかった、非の打ちどころのない笑顔だった。
 とは言えその笑顔と、そして先の発言は私をうろたえさせるに十分だった。優しくするって――どういうこと?
「実を言えば、君の働きぶりには助かっているんだ。いつもありがとう、春野さん」
 社長は笑顔のまま、更に信じがたいことを言う。
 その後は少し困ったような顔で続けた。
「さっきは済まなかった。どうしても君に見てもらいたくてつい、かっとなってしまった」
「い……いえ、こちらこそ……」
 展開が呑み込めない。
 社長の口から聞いたことのない言葉がどしどし出てくるのが、何だか信じがたくて。
「君が俺の悪口を言ってないこともわかってる」
「えっ、そ、そうなんですか?」
「ああ。君はそういう人じゃないからな」
「そんな……」
 社長、そんなに私のこと信じてくれてましたっけ。
 ――なんてツッコミを入れる余裕すらない。自分で頼んでおいて何だけど、この人本当にうちの社長?
「さ、仕事を始めようか。今日は忙しくなりそうけど、よろしく頼むよ」
 さもいつもそうしているというように、社長は朗らかにそう言った。
 戸惑う私がぎくしゃく頷き、改めて手帳を開いたところで、
「春野さん」
 優しく微笑む社長が、私に言う。
「言い忘れてた。――お誕生日おめでとう」
「あ……ありがとう、ございます……」
 不意を打った祝福の言葉に、相手が社長だとわかっていても、不覚にもときめく私がいた。

 今日は地獄の誕生日かもしれないと思っていたけど、違ったようだ。
 これは天変地異の前触れで、今日は地球最後の日かもしれない!

 震え上がる私をよそに、社長の『優しさ』は始業後も続く。

「どうぞ、春野さん。乗ってくれ」
 得意先へ向かおうと車に乗り込む際、私の為にドアを開けてくれた。
 もちろんそれは秘書に対してすることじゃない。私は堪らず遠慮した。
「社長、そこまでしていただかなくても……」
「優しくして欲しいんだろ、このくらいするよ」
 助手席のドアを開けたまま、社長は優しく口元をほころばせた。
 この微笑がまた末恐ろしかった。もちろん素敵だけど、それが自分に向けられていることを、まだ現実として受け入れられない。
「ほら、乗って。出発が遅くなる」
 急かすにしてもあくまで柔らかい物言いをする社長に、私はまごつきながらも従う。
 助手席に腰を下ろすと、社長はやはり静かにドアを閉めた。

 続いて運転席に乗り込んだ社長は、シートベルトを締めながらおかしそうに笑った。
「言われた通りにしてるのに、あまり嬉しそうじゃないな」
 微笑みかけられるのもないことだけど、こうやって声を立てて笑う社長も実にレアだ。どこか楽しげな横顔が年齢上に若く見えて、どきっとする。
 ――そうじゃなくて。
「す、すみません。嬉しくないわけではないんです」
 本音を言えばもはや嬉しいという次元じゃなくて、どうしていいのかわからないくらいだった。叱られなくて済むのは確かにありがたいけど、ここまでしてもらわなくても。
「今更ですが、無理を言ってすみませんでした」
 走り出した車内で私が詫びると、ハンドルを握る社長がまた笑った。
「無理はしてない。むしろ意外と楽しめてる」
「楽しい……ですか?」
「最近、こんな気分で仕事に臨むことはなかったからな」
 そう言う社長は今、どんな気分でいるんだろう。横顔は少なくとも笑んでいるけど、見慣れないその表情の裏側までは見通せない。
 言葉通りだと思っていいんだろうか。
 内心、はらわたが煮えくり返ってたりしないかな。
「……そうだ。今のうちに例のファイルを確認してくれないか」
 戦々恐々とする私をよそに、社長が穏やかに切り出してきた。
 そういえば『どうしても見てもらいたかった』と言っていた。きっとそれほどに思い入れのあるデザインなんだろう。
「では、拝見いたします」
 私はタブレットで受け取っていたファイルを開き、社長がデザインした図案を見た。

 柔らかく優しい鴇色の生地に、腰高文様で女郎花が広がる柄行きだった。
 女郎花は金彩加工にするとのことで、図案でも金色で描かれている。実物はとても小さく素朴な花の集まりだけど、こうして金で描かれるとブーケのように華やかだ。地の鴇色も女郎花と一緒だと若々しい色味に見えて、全体的に可愛らしいデザインだと思う。
 社長がデザインされたものだと思うと、その可愛さが何だか意外だった。

「素敵な柄行きですね」
 タブレットから面を上げて告げると、社長が満足そうな顔をする。
「今回は若い婦人向けを意識した。気に入ってもらえたら嬉しいな」
「とても可愛いです。女郎花がこんなに華やかだなんて……」
 女郎花は秋の花として桔梗や萩と一緒に描かれることが多い。でも他の花を添えなくても、女郎花だけでも美しいこの図案は素敵だと思う。
「実を言えば、春野さんをイメージして描いたんだ」
 社長の口から、またしても思いがけない言葉が告げられた。
「え……ほ、本当、ですか?」
 私は思わず聞き返す。
 これも誕生日のリップサービスだろうか。そう考えたくなるくらいには、心が揺れ動く発言だった。
 運転席の社長が頷く。
「俺にとって一番身近な若い婦人と言えば、君だからな」
 あ、そういう意味でしたか……。
 迂闊にも舞い上がりかけた心を引き戻し、私は頬に手を当てた。自分でわかるくらい熱くなっていて、それを覆い隠す必要もあった。

 その上で改めて先の発言を振り返る。
 見た目だけなら非の打ちどころがない社長が、身近な若い女性といって真っ先に思い浮かべるのが秘書、というのはちょっとおかしい。社長ならそういうご縁にも事欠かないはずだ――普段はともかく、今の社長なら。

 それで私はつい笑ってしまい、社長が怪訝そうにする。
「どうして笑う? 変なことでも言ったか?」
「いえ、すみません。ちょっとだけ」
 慌てて口元を引き締めつつ、だけど社長がとても気にしている様子だったので、正直に答えた。
「社長は素敵な方ですのに、身近な若い女性で挙がるのが私なんて、もったいないですよ」
 すると社長は困惑したようだ。眉根を寄せるのが横顔でもわかった。
「そうかな。身近なのは事実だろ」
「そうですけど、私をイメージしてこれを描いてくださるなんて……」
 鴇色の地に咲く女郎花は可愛すぎて、社長が私のイメージで描いたのだとしたらやっぱりおかしい。普段はあんなにすげなく接してくるのに、一体どんな印象を持たれているんだろう。
「もしかしたら、家で描いたからかもしれないな」
 釈然としない様子ながらも、社長が言った。
「会社にいる時は余裕がないから、家に帰ってからあれこれ考える。そういう時に思い浮かぶのが――」
 そこでなぜか、気まずげに口を噤む。
 そして横目で私を窺うと、今度はその顔に苦笑が浮かんだ。
「……にしても、仕事以外で君の笑顔を見たのは久し振りだな」
 奇しくもその呟きは、私が朝に思ったのと同じだった。
 余裕がないとも言っていた。やっぱりそうなんだ、当たり前か。まだ就任三ヶ月なんだから。
「よし、今日はもっと君に優しくしよう」
 社長は決意を固めたようだ。
 自分で言い出したことながら私は戸惑い、こう答えるのがやっとだった。
「あの、お気持ちだけで十分ですから……」

 それをどう受け取られたか、社長の優しさは留まるところを知らなかった。
 車の乗り降りでは必ずドアを開けてくれたし、一緒に歩く時は車道側に立ち、私にペースを合わせてくれた。常に笑顔で優しい言葉をかけてくれたし、ランチには私の好きなパンケーキのお店に連れていってくれた。
 何より一番衝撃だったのは、そういうサービスの数々を次第に嬉しく思い始めた私自身だ。
 社長と一緒にランチなんて、いつもなら気苦労以外の何物でもないのに――社長が笑っていたからだろうか。私も正直、楽しかった。

 得意先回りを終え、帰社した私が給湯室に入ると、後を追うように槇さんが駆け込んできた。
 そして血相を変えて尋ねる。
「社長どうしたの、頭打ったの!?」
 槇さんは私の為に車のドアを開ける社長を見かけ、それはそれは動転したそうだ。
 私も正直には答えづらく、おおよそのところだけを告げる。
「勤務態度について、ちょっとお話をさせていただいたんです」
「それだけであんなになる? 人が変わったみたいじゃない」
 槇さんも私と同様、社長の変化が信じられない様子だった。
 だけど私は、少なくとも今朝ほどは信じがたい気分じゃない。
「社長もずっと、余裕がなかったみたいなんです」
 やっぱり庇ってしまうのは、私が秘書だからだろうか。
「まだ三ヶ月目ですから、今が一番大変な時期なんじゃないかって……」
 先代が立派な方だったからこそ、社長にかかる重圧は並大抵のものではなかったはずだ。思えば私たちだって、社長を先代と比べてばかりだったような気がする。そういう空気を社長自身も察していたのかもしれない。
「かもしれないけど……」
 槇さんは納得いかない様子で肩を竦める。
 でもその後で、思い出したように続けた。
「思えば、専務時代の社長ってそこまで冷たい印象なかったよね」
 その通りだった。

 一緒にお仕事をする機会はそう多くはなかったけど、専務だった頃の社長はもう少し柔らかい人だった。先代にとっては自慢の甥だったみたいで、その優秀さを私に向かって誇らしげに語る先代の横で、少し居心地悪そうにしていたのを覚えている。
『叔父さんは買い被りすぎです。まだまだ何一つ及びませんよ』
 そんなふうに言っていたことも。
 誰よりも先代を意識して、かくありたいと思っているのは社長自身だ。きっと。

「……私、もうしばらく社長を見守りたいって思うんです」
 だからそう告げてみたら、槇さんは目を丸くしていた。
「そりゃ、今日みたいな感じでいてくれるなら構わないけど……」
 私としては今日ほど至れり尽くせりじゃなくてもいい。
 ただお互いに、大変な時期こそ気遣える間柄でありたいと思った。
「あとで改めてお話ししてみます。今日ほどじゃなくても、優しくしてもらえたらって」
 私の言葉に、槇さんは訳がわからない様子で目を瞬かせる。
「春野さんの『お話』って一体どんなの?」
「いえ、別に普通のお話ですよ」
「実は催眠術で社長を操ったりとかしてない?」
 そんなこと、できるわけがないです。
 操ったわけじゃなくて、社長自身の意思でああなったからこそ意味がある。

 結局、今日は終業まで優しい社長のままだった。
 私の仕事も大いに捗り、ミス一つなく一日を終えた。

 そして迎えた終業後、私は『お話』をしようと社長室に入り、身構えた。
 今日一日優しくしていただいたお礼を言おうか、それとも大変な時期にわがままを言ったことへのお詫びから始めようか。考えている間に、いち早く社長が口を開いた。
「春野さん、これなんだけど」
 席を立った社長が、不意に何かを差し出してきた。
 何だろうと見上げる私に、社長は言いにくそうにしてみせる。
「誕生日プレゼントにするつもりはなかった。でも今日用意ができたから、よかったら受け取って欲しい」
 それは見覚えのある生地で作られた、ころんと丸い巾着だった。
 綸子の生地は柔らかい鴇色で、金彩の女郎花がブーケのように描かれている。今日見せてもらったばかりの、社長がデザインした図案だ。
「もう、できあがっていたんですね」
 驚く私に、社長は微かにはにかんでみせる。
「君に早く見せたくて、反物から作ってみた」
「では、これは社長の手作りですか?」
「ああ。気軽に使ってくれると嬉しい」
 社長はそう言うけど、気軽になんてもったいなくて使えない。
 手触りのいい、絹の柔らかい巾着に、あの美しい文様が描かれている。社長は私をイメージしたと言っていたけど、それこそ買い被りすぎじゃないかって思うほどだ。
 これは今日一日で用意したものではないんだろう。
 もっと前から、私の為に作ってくれたもの、みたいだ。
「ありがとうございます、社長。大切に使わせていただきます」
 私は社長にお礼を告げた後、改めて頭を下げた。
「それと今日一日のお心遣いもありがとうございました。お忙しい時期にわがままを申し上げて、すみません」
「わがままなんて思ってない」
 社長は真面目な顔でかぶりを振る。
 それから困ったように苦笑して、
「むしろ、大切なことに気づかせてもらった。こちらこそありがとう」
 というから、こちらが恐縮してしまった。
「いえ、そんな……お礼を言っていただく必要なんてないです」
「あるよ」
 社長はもう一度、首を横に振った。
 くっきりした二重の瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「優しくすると君が笑ってくれる。そんな簡単な理屈さえ、ずっと忘れていた」
 それだけこの三ヶ月が社長にとって慌ただしく、余裕のない日々だったということだろう。
「必死になったところで、一朝一夕で叔父のようになれるわけじゃないのにな」
 社長は溜息をつき、更に続けた。
「今まで冷たく当たって、済まなかった」

 そんな言葉を、社長の口から聞ける日が来るとは思ってもみなかった。
 私自身も気づいていなかったことだ。思えばずっと、社長の前では笑っていなかった。

「君が笑ってくれた方が、気分もいいし仕事が楽しい」
 そう言って、社長は笑う。
 とびきり優しく、心のこもった素敵な笑顔だった。
「だから明日からも、できる限り君に優しくしたいと思ってる」
 正直に言えば、今日ほどじゃなくてもいい。
 今日の社長は優しすぎるくらいで、慣れない身ではどぎまぎさせられるばかりだ。だから気が向いた時、ほんの少し気遣ってくれるだけでいい。
「私も、これからも社長をお支えしたいと思っています」
 そういうふうに、私は応じた。
「ですから時々……お気持ちが落ち着いている時だけで構いません。余裕があれば、優しくしてください」
 それだって秘書が社長にするには出すぎたお願いかもしれない。
 だけど傍にいるだけでは気づけないことがある。今日一日で私も、社長も、そのことを学んだ。
「なら、余裕を作れるように努めるよ」
 社長は意を決したように言った。
「優しくする。これからも」
 明日以降のことはわからないし、お互いの言葉がどれほど実現可能かも不透明だけど、私たちはきっと変われるだろう。一朝一夕ではなくても、いつかは理想に手が届き、先代のようになれるかもしれない。

 今日は、幸せな誕生日だった。
 私はいただいたばかりの巾着を改めて眺める。鴇色の生地に金の女郎花。これが私のイメージなんて、やっぱりちょっと恥ずかしい。
 でも、嬉しいかな。普段は地味なこの花を、こんなにきれいに描いてくれたんだから。
「社長のお蔭で、素敵な誕生日になりました」
 私の言葉に、社長は少しそわそわしたようだ。一度目を泳がせた後、こちらに向き直って言った。
「春野さん、今日はもう終わり?」
「はい。残業がなければですけど」
「残業はないけど、予定がないならこの後、夕食も一緒にどうかな」
 それから社長は苦笑気味に言い添える。
「上司と食事に行くのが嫌じゃなければ、だけど」
 いつもなら社長と一緒の食事は気苦労しかない。
 でも、今日は違う気がする。これまでとは比べものにならないほど、楽しい時間が過ごせるはずだ。
 だから私は頷いた。
「嫌じゃないです。是非、ご一緒させてください」
 すると社長はほっとしたのか、口元をほころばせてみせる。
「ありがとう。今夜はうんと優しくするよ」

 どきっとしたのは、その素敵な微笑のせいだろうか。
 それとも、意味深に聞こえた今の言葉のせいだろうか。

「……どうかしたのか?」
 私が固まったのを見て、社長が怪訝そうにする。
「い、いえ。ちょっと意味深だなって思っただけで……」
「何が?」
「な、何でもないです! 独り言です、ただの」
「そうか。……そういう意味で言ったからな」
「社長、何か言いました?」
「何でもない。独り言だ」
 社長が笑っている。言った通りに、うんと優しく。
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