Tiny garden

シェパーズパイが食べたくて(1)

 私には、かれこれ三年憧れ続けている人がいる。
 ザッカリー・ブラウニングさん。英国人の、私の上司だ。

 きっかけはもう覚えていない。
 金髪碧眼の王子様みたいな姿を一目見た時から、だったような気もするし、流暢な日本語で明るく挨拶をされた時から、かもしれない。
 あるいは仕事に対する熱意と勤勉さに惹かれたのかもしれない。
 いずれにせよ私は憧れを抱きつつも、見ているだけで十分だと言い聞かせてきた。
 社内恋愛なんていいことじゃない。あの人の前では私も、真面目な部下でありたかった。

 そんな憧れの人の前で、たった今、お腹が鳴った。
 終業後、エレベーターに乗り込んだ後のことだった。

 慌ててスーツの上から押さえても時既に遅し。
 きゅるるると鳥の鳴き声に似た音が、下降するエレベーターに響いた。
 二人きりという状況もよくなかった。緊張感が空腹に拍車をかけ、鳴らしてはいけないと思った瞬間に鳴ってしまった。

「き、聞こえましたか……?」
 私は絶望的な気分で尋ねる。
 それに対し、ザッカリーさんは涼しい面持ちで答えた。
「泉さん、何のこと?」
 聞こえないふりをしてくれた心遣いは嬉しい。
 だけど、あれだけの音が聞こえていないはずがない。
 居た堪れなさに汗をかく私を見返し、やがてザッカリーさんは首を竦める。
「ああ、笑い飛ばした方がよかった? 悪いな、気が利かなくて」
「いいえ、私の責任ですので……」
「次からは遠慮なく笑い飛ばすよ」
「次なんてありません! 絶対に!」
 思わず声を上げれば、今度こそ明るく笑い飛ばされた。
 恥ずかしくはあったけど、その笑顔は確かに素敵だ。仕事の後の疲労感が全部吹っ飛んでしまった。

 ザッカリーさんは私より五つ年上の三十一歳。
 眩しいくらいの金髪と、暖房が入るとすぐ赤くなる白い頬、つんと尖った鼻、それに優しそうな青い瞳が印象深い人だった。

 外資系にはよくあることとは言え、上司が外国の人だと知らされた当初は戸惑った。
 だけどザッカリーさんは少年時代を日本で過ごしたそうで、日本語はもちろん日本の文化にも精通していたし、話だけ聞けば日本人と違いがわからないほどだ。
 仕事中はひたすら真面目だけど、残業は嫌いで遅くとも八時には帰る。フリーアドレスのオフィスで、誰の隣にも気さくに座ってくれる。唯一苦手なのは『正座』だけで、飲み会の時は必ず掘りごたつの店を指定する。
 そんな上司だったから、私を含む部下一同との間に壁はなかった。
 でも、憧れの対象とするのに適当とは言えない。自分でもわかっている。

「泉さん、今日の夕食はとびきり美味しいだろうな」
 社屋を出て、駅までの道を歩きながらザッカリーさんは切り出した。
「"Hunger is the best sauce."って言うだろ。きっと素晴らしい夕食になる」
 彼の話す英語はうっとりするほど上品で、美しい。
 隣を歩く私はその声に聞き惚れ、思わず溜息をついた。
「空腹は最高の調味料。いい言葉ですね」
「日本語でもそのまま言うのか、わかりやすくていいな」
「はい。是非、素晴らしい夕食にしたいです」
 そう告げたら白い吐息が、冬の夜空へ立ちのぼる。

 時刻は午後七時過ぎ、十二月初めの空は既に真っ暗だ。
 こういう時、ザッカリーさんは部下の女子社員を一人で歩かせるような人ではない。背が高いのに歩幅を合わせて、必ず駅まで一緒に歩いてくれる。
 その恩恵にあずかる私は、密かな幸福感と罪悪感を噛み締めていた。
 今はそれに恥ずかしさも加わっている。

「でも夕食のことを考えたら、またお腹が鳴りそうです」
「鳴ってもいい。笑い飛ばす準備はできてる」
「もう……待ち構えられてると緊張しますよ!」
 冗談とも、本気ともつかぬ彼の言葉に私は苦笑した。
 そして家で食べる夕食に想いを馳せる。
 今夜は冷えるから、何か温かいものがいいかもしれない。帰ってから作るとなると時間も遅いし、どうしても簡単なものになってしまうけど。
「実は俺もお腹が空いてるんだ」
 ザッカリーさんはそう言って、フロックコートの上からお腹をさすった。
「夕食は何にしようか、こっそり考えていたところだ」
「温かいものがいいですよ、今夜も冷えますから」
 日本の冬は寒い。私が勧めると、ザッカリーさんは深く頷く。
「全くその通り。泉さんは何を食べるつもり?」
「ポトフにでもしようかと思います」
「フレンチか。手の込んだものを作るんだな」
 恥ずかしながらポトフがフランス料理だということをたった今、初めて知った。
 もっとも手の込んだものというのは誤解だ。
「あれほど簡単な料理もないですよ。野菜を切って煮込むだけです」
 私が正直に明かすと、途端に驚いた顔をされた。
「そうなのか……知らなかった」
「ザッカリーさん、お料理はされないんですか?」
「ちょっとだけするよ。日本では外食の方が多いな」
 そう語るザッカリーさんのご実家は、現在は英国にあるそうだ。
 年末年始になると帰国して、ご両親と共に過ごすのだと聞いていた。そして仕事始めまでに戻ってきて、いつも素敵なお土産をくれる。去年はクマの足跡がついた丸くて可愛いクッキーだった。

 英国は私にとってニュースでしか知らない未知の国だ。
 ザッカリーさんと出会ってからは自分で調べてみたりもしたけど、まだまだわからないことだらけだった。
 だから私が英国について尋ねる時、その質問は初歩中の初歩みたいな無知なものなんだろうけど、それでもザッカリーさんは優しく答えてくれる。

「英国では、寒い時は何を召し上がるんですか?」
 今夜も私が尋ねてみたら、ザッカリーさんは微笑んだ。
「美味しいものはたくさんあるよ。寒い時というと……」
 そして少し考えてから、思い出したように答える。
「今は、シェパーズパイが食べたい気分だ」
「シェパーズパイ?」
 聞いたことのない料理だった。
「それって、どんなお料理ですか?」
 パイというからにはパイ皮の中に何かの具材が入っていて、ぱりっと焼き上げたものだろう。
 想像しつつ質問を重ねると、彼はそこで金色の眉を寄せた。
「説明が難しいんだけど、ミートパイの皮がマッシュドポテトなんだ」
「えっ?」
 一瞬、本当にわからなかった。
 戸惑う私に、ザッカリーさんももどかしそうに説明を続ける。
「ラムのひき肉を炒めて、マッシュドポテトをのせて、更にチーズをかけて焼く。これがシェパーズパイだ」

 その説明はイメージしていたものとかなり違っていた。
 パイ皮がパイ皮じゃなくて、マッシュポテト。
 想像がつかない。ポテトグラタンみたいなものだろうか。

「どんな味がするんですか?」
 次の質問は、ザッカリーさんを少し困らせたみたいだ。
「んー……ジャガイモとトマト味のひき肉。焼き立てを食べると、熱々で美味しい、かな」
 考え考え、白い息を吐きながらそう教えてくれた。
「そうなんですか」
 味の想像が何となくつくような、でもまだわからないような。
「食べ慣れてるものを、いざ説明するとなると難しいな」
 普段は流暢に日本語を使いこなす彼も、シェパーズパイの説明には難儀しているようだ。
「困らせてすみません」
 私が詫びると、ザッカリーさんはどこか悔しそうに苦笑する。
「泉さんは悪くない。この美味しさを日本語で説明できない俺が悪い」
「美味しいというお気持ちはしっかり伝わりました」
「味は胸を張って保証するよ」
 誇らしげに言われて、私も俄然シェパーズパイに興味が湧いた。
「一度食べてみたいです」

 とは言ってみたものの、外食先でシェパーズパイなるメニューにお目にかかったことはない。
 ザッカリーさんは和洋中と何でも食べる人だから、職場の飲み会や食事会でも英国料理店を探す機会は一度もなかった。
 もし食べたいなら、やっぱり英国料理のお店を探さなくては駄目だろうか。
 さすがに本場まで行く機会はないだろうけど――ザッカリーさんの生まれた国、一度は見てみたいけど。

 私が考え込んでいると、隣を歩くザッカリーさんが不意に足を止めた。
 ゆっくりとこちらに向き直り、こう尋ねてきた。
「じゃあ、今から食べに行く?」
 合わせて立ち止まった私は、急な問いかけに思わず固まる。
「シェパーズパイを、ですか?」
「ああ。実は駅の近くにパブがあるんだ」
 パブとは英国式の酒場である、という程度の知識は私にもあった。
「個人経営の小さな店で、名物はもちろんシェパーズパイだ」
 ザッカリーさんは勤務中のような、真面目な顔つきで語る。
「泉さんさえ都合がよければ、一緒にどうかな。お腹も空いてるならちょうどいいだろ?」
 青い瞳に真っ直ぐ見つめられ、私は息ができなくなる。

 憧れの人に、食事に誘われてしまった。

 もちろんわかっている。これは他意なんてない普通の誘いだ。
 私がシェパーズパイを食べてみたいと言ったから声をかけてくれたまでのことだ。
 でも、こんなことは初めてだった。ザッカリーさんの下で働いてきて三年、皆で飲みに行ったことも食事に出かけたこともあるけど、私個人を誘ってもらったことは一度もなかった。私から声をかけるなんてもっての外だった。
 そんな状況でこの機会、動揺しないはずがない。

「わ、わわ、私でよければ……」
 発した声は引っくり返った上に震えていた。
「泉さん、大丈夫? すごく驚いてるようだけど」
「あ、そ、そうですね。お気になさらず!」
 ここで取り乱してはならない。
 部下らしく。礼儀正しく答えなければ
「あの是非っ、是非ともご一緒させてください!」
 肝心な返答は、はっきりと、聞き間違われないように答えた。
 その時、どうしてか今度はザッカリーさんが驚いたようだ。私があまりにも勢いづいて答えたせいだろうか。青い瞳を一度見開き、それから気を取り直したように頷いた。
「よかった。店まで案内するよ」
「はい、ありがとうございます」
 再び歩き出したザッカリーさんに、私は慌ててついていく。
 アスファルトの道が急にふわふわし始めて、足元が覚束なかった。
 それでも絶対転ばない。だってまたとない機会だ。ザッカリーさんと二人でお食事――見つめているだけでもいいと思った、その気持ちは今も変わっていない。
 ただ二人で話をして、ザッカリーさんのことを今まで以上に知れたらいいと思う。
「泉さんにも気に入ってもらえる味だといいな」
 歩きながら呟いたザッカリーさんは、今はどことなく楽しそうだった。

 件のパブは聞いていた通り、駅近くのビルの地階に入っていた。
 居酒屋や飲食店が立ち並ぶ賑やかな界隈にあって、そのお店もまたドアを開ける前から賑やかだった。入り口前の壁に据えられた看板には丸くなって眠るライオンの姿が描かれていた。
 お店の名前もそのまま"Sleeping lion"というらしい。
「スリーピングライオン……」
「酔っ払っていい気分で寝てるんだよ」
 店名を読み上げた私に、ザッカリーさんは笑って語る。
 それから扉を大きく開いて、入るようにと優雅に促してきた。
 同時に店内からは陽気なざわめきと笑い声、美味しそうな食べ物の匂い、暖かい空気がどっと溢れ出してくる。踏み込んでみたお店の中はヴィクトリアン調の素敵な内装で、アンティークランプを模した照明が絨毯敷きの床を照らしている。カウンター席とテーブル席があるのは日本のバーと変わりないけど、椅子はどれもソファ席だ。
 そして入り口傍のカウンター内で、金髪の男性がこちらを向く。
 ザッカリーさんよりも年上に見えるその人は、彼に気づくなりおやっという顔をして、それからにやりと笑った。
「珍しいじゃないか、ザック」
 日本語で投げかけられた言葉に首を竦めた後、ザッカリーさんは私に言った。
「彼はウェズリー。この店のオーナーだ」
「はじめまして、ウェズリーさん」
 私が日本式の挨拶をすると、ウェズリーさんもお辞儀をくれた。
「はじめまして。ザックが女の子を連れてくるとはね」
「彼女は泉さん。職場の部下だ」
 ザッカリーさんは釘を刺すように語気を強めたけど、ウェズリーさんは訳知り顔で笑うばかりだ。
 それで諦めがついたのか、ザッカリーさんは私に店の奥を指し示す。
「テーブル席でいいかな。カウンターだとウェズがうるさい」
「私はどこでも構いません」
 頷いて答えた私は、彼の案内で店の奥のテーブル席に着いた。
 パブの雰囲気にそわそわしつつ、向かい側でコートを脱ぐザッカリーさんを盗み見る。

 その時、彼は少し拗ねたような顔つきをしていた。
 職場では見たことのない、普段よりくだけた表情だ。
 彼はこの店の常連なんだろう。ウェズリーさんとも親しいようだし、普段はここでシェパーズパイを食べているのかもしれない。
 初めての食べ物、初めてのパブ、憧れの人の初めて見る表情――何だかすごく楽しくなってきた!

 パブの客層はほとんどが日本人のようだった。
 一般的なバーよりも少々騒がしく、音楽が流れているかどうかわからないほどだ。ほとんどのお客さんはお酒や料理と一緒にお喋りも楽しんでいるようで、あちらこちらの席でいい笑顔が覗いていた。

 ところでザッカリーさんが言うには、パブの注文はキャッシュオンデリバリー、つまり先払い方式らしい。
 カウンターで注文をしてお会計を済ませたら、ドリンクはその場で手渡し。フードは後から席まで運んできてもらえる、とのことだった。お替わりが欲しくなったらその都度カウンターまで出向くというのが面白い。
「まずは俺が注文してくるよ」
 説明を終えたザッカリーさんがいち早く席を立つ。
「あ、私も行きます」
 私も慌てて腰を浮かせたけど、彼はそれを手振りで制した。
「初めてなんだろ? まずは任せてくれ。シェパーズパイと、飲み物は何がいい?」
 スマートに、しかし有無を言わさぬ調子で畳みかけられ、私は恐縮する。
 とは言えここで遠慮し続けるのはそれこそスマートじゃない。後でごちそうし返せばいいと思い直し、ひとまず答えた。
「飲み物はお任せします。初めてで、何が合うのかわからなくて」
「わかった。エールは大丈夫?」
「はい」
「じゃあ飲みやすいのを頼んでくるよ」
 そう言うが早いか、ザッカリーさんはカウンターへと歩いていく。
 混み合う店内は立ち歩く人もちらほらいたけど、慣れた様子ですり抜けて、ウェズリーさんが待つカウンターで注文を始めたようだ。

 出迎えたウェズリーさんは冷やかすような笑みを浮かべていて、それにザッカリーさんがしかめっつらで応じる。二人はいくつか言葉を交わし合った後、ウェズリーさんは肩を揺らして笑い出し、ザッカリーさんは渋々と言った様子で財布を開けていた。
 どうやらお二人はとても親しい間柄のようだ。
 会話は聞こえなかったし、そもそも英語か日本語かすら読み取れなかったけど、簡単に察しがついた。

 やがてザッカリーさんが、エールを注いだグラスを二つ運んできた。
 その後に続くようにウェズリーさんが、トレイを抱えてやってくる。トレイの上には白いグラタン皿が二つ載せられていて、これが噂のシェパーズパイだろうか。
「注文したばかりだぞ、早いな」
 ザッカリーさんの言葉に、ウェズリーさんは勝ち誇った顔で応じる。
「ザックなら絶対にシェパーズパイを頼むからな、顔を見てすぐ焼いておいた」
「頼まなかったらどうする気だったんだ……」
「その時は『サービスです』って出すつもりだった」
 用意周到なオーナーはそう言い切ってから、恭しくお辞儀をした。
「それではお二人とも、楽しい時間をお過ごしください」
 そしてウェズリーさんが立ち去った後、ザッカリーさんが大げさに溜息をつく。
「日本語でもお喋りな奴だろ?」
「ザッカリーさんと同じくらい流暢ですね」
 もしかすると、ウェズリーさんも日本に来て長いんだろうか。
 私の疑問にザッカリーさんは笑って答える。
「あいつもずっと昔から、こっちに住んでるからな」
「やっぱり。長いお付き合いなんですか?」
 どうもザッカリーさんは常連客のようだし、顔を見たらすぐに焼いておいてもらうくらいシェパーズパイがお好きだと知られてもいるようだ。
「俺と? ああ、そうだな」
 ザッカリーさんはそこで、何かを思い出すような間を置いた。
 それからふと気づき、テーブルを見下ろす。
「せっかくの焼きたてだ。まずは食べようか、泉さん」

 彼の言葉通り、シェパーズパイはテーブルの上で湯気を立てていた。
 見た目はやはり、パイというよりグラタンだ。おろしたチーズがたっぷりとかけられていて、こんがりといい色の焼き目がついている。
 乾杯を済ませた後、私は手元に置かれたフォークを手に取る。そして金色に輝く焼き目を割って、シェパーズパイを掬い上げてみた。
 説明を受けていた通り、パイの中身はマッシュポテトとひき肉の二層になっていた。マッシュポテトは真っ白くなめらかで、ひき肉は玉ねぎと一緒に炒めて味をつけてあるようだ。

「いただきます」
 ザッカリーさんが見守る中、私はシェパーズパイの最初のひと掬いを口に運ぶ。
 ふうふうと息を吹きかけてからまず一口。
 見た目の通り、マッシュポテトは驚くほどなめらかだった。雪みたいに口の中でほろっと溶けていく。ラムのひき肉は独特の風味があったけど、トマトソースのシンプルな味付けともあいまってマッシュポテトにとてもよく合う。ふんだんにかけられたチェダーチーズも風味がよく、一口目で実感した。
「美味しい!」
「……だろ?」
 途端にザッカリーさんが得意げな顔をする。
「そうだよ、美味しいんだ。シェパーズパイは自慢の逸品だ」
「とても素晴らしいです。これがザッカリーさんの故郷の味なんですね」
 食べごたえもあるし、濃いめの味付けがエールビールともよく合う。焼きたてを頬張ると外の寒さも忘れそうなほど幸せな気分になれた。
「そう、この味」
 ザッカリーさんもひと匙口に運んで、満足そうに呟く。
「懐かしいな。子供の頃はよく食べてたよ」
 それから匙を進めつつ、ぽつぽつと語ってくれた。
「家族が作ってくれるんだけどな、オーブンの電源コードを入れ忘れるんだ。"will be ready soon."って言うから音が鳴るまで待ってたら、オーブンを開けた時に出てきたのは溶けてないチーズの焼けてないシェパーズパイだったってことがよくあった」
「お腹を空かせて待ってたのにですか?」
「ああ。そこから更に待たされて、飢え死にしそうだった」
 おどけた顔で肩を竦めるザッカリーさんに、私は声を上げて笑ってしまう。
 そのエピソードが面白かったのもあったけど、彼の子供時代を想像したらさぞかし可愛かっただろうと思ったからだ。今の王子様然とした姿からは、焼けてないシェパーズパイで落胆する姿はちっとも想像がつかなかった。

 熱々のシェパーズパイを味わううち、先にグラスが空になった。
 そこで私は飲み物を買いに行くことにした。
「ザッカリーさんはお替わり要りますか?」
 彼のグラスも残りわずかだ。それを見て尋ねると、ザッカリーさんは頷いた。
「頼むよ。何でもいいからって、ウェズに言って作らせてくれ」
「わかりました」
 それで私は財布を手に、ウェズリーさんがいるカウンターまで向かう。
 店内は相変わらずの盛況ぶりで、注文までには列に並んで待つ必要があった。ようやく私の番が来ると、ウェズリーさんは青い目をにっこりと細めた。
「ようこそ、イズミさん。ご注文は?」
「飲み物をお願いします。ザッカリーさんは何でもいいから、って言ってました」
 私はまずザッカリーさんの注文を伝え、次に自分の飲み物を頼もうとメニューを見る。
 だけどエールの種類だけでもたくさんで、おまけに各種カクテルなども揃っているとなると、一つに絞るのが難しかった。
「私も、何かお薦めがあればそれを……」
 そう告げるとウェズリーさんは慣れた様子で応じてくれた。
「シェパーズパイに合うお酒? だったらいいのがある。イズミさん、紅茶は好き?」
「はい、よく飲みます」
「なら持っていくから、席で待ってて」
 そう言って片目をつむる悪戯っぽい顔が、どことなくザッカリーさんに似ている気がした。
 髪の色も目の色も同じだからだろうか。

 やがてウェズリーさんは私たちの席に飲み物を運んできてくれた。
「ザックはいつものロンドンバックだ」
 ザッカリーさんの前に置かれたグラスには、炭酸の泡が弾けるカクテルが注がれている。
 そして私のグラスには、アイスティーそのものの色のお酒に、くし切りのレモンと氷が浮かんでいた。
「イズミさんにはロンドンアイスティー。紅茶のお酒だよ」
 聞いたことのない名前のお酒だ。
 でも、似たような名前のカクテルは知っている。
「ロングアイランドアイスティーなら聞いたことがあります」
 私が言うと、ウェズリーさんも心得た様子で笑んだ。
「あれは紅茶に似せたお酒だね。ちなみにアルコール度数が高いから、ザックが飲ませようとしたら断らなきゃ駄目だよ」
「そんなことしない」
 ぶすっと、ザッカリーさんが口を挟む。
 その拗ねた様子が珍しくて、私はつい吹き出してしまった。
「でもロンドンアイスティーは正真正銘、紅茶のお酒だ。シェパーズパイにはぴったりだし、他の料理にも合うよ」
 説明を終えるとウェズリーさんは、先程と同じようにお辞儀をしてカウンターへ戻っていった。
 途端にザッカリーさんが低く唸る。
「あいつ、俺のことをどういう男だと思ってるんだ」
 不満げに言われるまでもなく、私はザッカリーさんが紳士的な上司であることを知っている。
 ウェズリーさんはきっと、それを見越した上でからかっているんだろう。
「すごく仲がいいんですね」
 私はそう言って、ロンドンアイスティーに口をつけた。
 微かな炭酸と共にしっかりと紅茶の香り、そして味がする。口当たりがさわやかな風味のお酒だった。これは確かにシェパーズパイと相性がよさそうで、それにとても美味しい。
「仲良く見える?」
 ザッカリーさんが聞き返してきて、私は顎を引いた。
「はい。とても大切なお客様って感じです」
「そうか……いや、そうなんだろうな」
 彼は腑に落ちたような顔をした後、すぐにまた顔を顰める。
「でも、女性を連れてきた客にあの言いようはないだろ? 酒場の店主ともあろう男が」
 少しむきになったその口調からは、ウェズリーさんに対する親しみと信頼が窺えた。

 もしかしたら普段から、あんなふうにからかわれているんだろうか。
 それとも今日は女性連れだから?

 何にせよ私はまた笑ってしまって、ザッカリーさんに怪訝な顔をされた。
「泉さんも、どうしてそこで笑うかな」
「すみません。何だかすごく楽しくて……」
 シェパーズパイもロンドンアイスティーも美味しいし、賑やかで陽気なパブの雰囲気も楽しい。
 それに、見たことのない表情を見せるザッカリーさんがいる。
 全部がとても楽しくて、私はすっかり浮かれていた。笑い上戸のつもりはなかったけど、指摘されれば余計におかしくなって声を上げて笑ってしまった。
「別にザッカリーさんがそういう人だって思ってるわけじゃないですよ」
「本当に? そんなに笑ってるのに?」
 恨めしそうに軽く睨まれたけど、笑っているのは気分がいいせいだ。
「ザッカリーさんこそ、随分むきになるんですね」
「なってない。泉さんがあんまり笑うから、調子が狂うだけだ」
「私は楽しいから笑ってるんです」
 シェパーズパイのお皿がもうじき空になってしまうのが惜しい。
 でもお腹はいっぱいで、気分だって幸せで満たされてて、おまけに目の前にいる好きな人は少年みたいな可愛い表情をしていて。
「こんなに楽しい場所なんですね、パブって!」
 私が上機嫌で告げた時、ザッカリーさんは驚いたようだ。
 青い目を大きく見開き、唇も微かに開いて、しばらくの間動きを止めていた。
 だけどその目がやがてゆっくりと細められ、唇も優しく笑んで、柔らかい顔つきになった彼は言う。
「……泉さんって、こんなに笑う人だったんだな」

 多分、酔いのせいでもあったと思う。
 それでも私はその夜、たくさん笑って、お酒も飲んで、いい気分で家に帰った。
 お店では笑顔のウェズリーさんに見送られ、ザッカリーさんは私を駅まで送り届けてくれて、別れ際にはお礼もちゃんと言った。

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