善くんは悪いことができない(1)
小此木善くんは私の幼なじみだ。高校での成績は優秀で、テストではいつも上位をキープしている。授業態度も真面目で、先生からの人望も厚い優等生だ。だけど堅物ってわけじゃなくて、くだらない冗談に付き合って笑ってくれるところもある。もちろん顔だって悪くなくて、あの切れ長の瞳に見つめられたら誰だってどきどきするはずだし、薄い唇の形もすごくきれいだ。
完全無欠って言葉は、きっと善くんの為にある。
だけど一番いいと思うのは、優しいところ。
例えば、学校へ行く日は毎朝迎えに来てくれる。
「おはよう、汐音」
私に向かって微笑む善くんはいつだって完璧だ。
髪には寝癖一つない。シャツもブレザーもボタンが全部留まっているし、ネクタイだって曲がってない。もし曲がってたら直してあげるのに残念だ。
「おはよう、善くん」
私はその完璧な姿を眺めた後、いつものように彼を誉める。
「今日もすっごく格好いいね」
「汐音は毎日それだな。あんまり言うなよ、慣れるから」
「言われ慣れちゃうくらい男前ってことだよ」
「はいはい。誉め上手だな、汐音は」
あしらうような態度を取りつつ、善くんは照れていた。
私が誉めると口ではあれこれ言うけど、こんなふうにはにかんでくれる。その顔がまた格好いい。大好き。
善くんと私は、毎日一緒に登下校する。
並んで歩く時、善くんはいつだって車道側を歩いてくれる。歩道のない狭い道では、車が入ってくる度に身体で私を庇ってくれる。紳士だなあって思う。
だから私も善くんの為に、精一杯楽しい話をする。
「クラスの子に聞いたんだけど、駅前に美味しいワッフルのお店があるんだって。今度行きたいな」
私の言葉に、善くんは切れ長の瞳を瞬かせた。
「駅前? まさか一人で行く気じゃないだろうな」
「ううん、善くんと一緒。次の土曜とかどう?」
「ワッフルは魅力的だな。土曜日か……」
それで善くんは少しの間、考え込むように視線を足元に落とした。
伏し目がちなその横顔には何とも言えない大人っぽさがあって、小さな頃とは全然違うなって、当たり前のことを思う。
「午後からなら、多分空いてる」
思案の末、善くんはそう答えた。
何せ彼は優等生、休日だっていろいろ忙しい。今年度は生徒会役員も務めているし、町内会にも顔を出して資源回収とか手伝ってるし、家のお手伝いまでやっている。うちのお父さんもお母さんも『善くんを見習いなさい』ってよく言ってくるほどだ。
でも今週末は運よく空いてたみたいだ。私は嬉しくなって善くんの顔を覗き込む。
「じゃあ約束。忘れないでね、寂しいから」
「汐音との約束なら忘れるわけない」
善くんも私を見下ろし、それから小指を差し出してきた。
「ほら、指切りしよう」
それで私も照れながら、善くんの小指と自分の小指をそっと絡ませてみる。
善くんの手もいつの間にかがっしりしていて、すっかり大人の手になっていた。
約束を済ませた私たちは、小さな頃から暮らす街並みを肩を並べて歩き続ける。
ささやかなことだけど、すごく幸せだと思う。
今日も秋晴れのいいお天気で、目映い朝日が見慣れた住宅街をきらきら照らしていた。いい気分だなと思った時、通学路途中の民家から知り合いのおじさんが顔を覗かせた。
「おお、善くんと汐音ちゃん。おはよう」
町内会の会長さんだ。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
折り目正しくお辞儀をする善くんの隣で、私も頭を下げておく。
すると町内会長さんはにっこり笑った。
「そうだ、先週はありがとう。敬老の日のお手伝い、とても助かったよ」
先週末は町内会館で敬老の日のお祝い会があって、私と善くんは会場の設営や受付などに駆り出されていた。声をかけられたのはいつも手伝ってる善くんだけなんだけど、私もおまけでついてった。そうじゃないと善くんが大変だし、それとやっぱり、一緒にいたかったのもあって。
善くんはこういうお手伝いの頼みを断らない。
断れない、ではないみたいだ。優しいから、誰かの助けになることが本当に嬉しいのかもしれない。
「それでね、今週末は水路の掃除があって――」
だから会長さんがそう言い出した時、私は内心どきっとした。
今週末。さっき約束したばかりだ。
「若い人が本当に少なくてね。男手があると助かるんだが」
私がこっそり見守る中、善くんはその頼みに一瞬だけ迷いを見せた。
だけどすぐに笑んで答える。
「日曜日でしたらお手伝いできます」
私が胸を撫で下ろしたのと、会長さんがほっとしてみせたのとはほぼ同時だった。
「そうか! よろしく頼むよ、善くん」
福々しい顔の会長さんはそう言うと、善くんの肩をぽんと叩く。
「すっかり頼もしくなったな。お兄さんもきっと、君のこと誇らしく思ってるはずだよ」
――あ。
私がさっきの数倍どきっとしたのを、善くんを見つめる会長さんは気づかなかっただろう。
だけど善くんは笑顔のまま首を傾げた。
「ありがとうございます。俺も兄みたいになりたいです」
その声はよそ行きみたいに明るくて、私は場違いな切なさを覚える。
善くんにはお兄さんがいた。
忠士さん。私たちより六つ年上の、とても頼りになるお兄さんだった。
でも忠士さんは三年前に交通事故でこの世を去った。
そしてその日から善くんは変わった。まるで忠士さんの遺志を継いだみたいに真面目で勉強熱心な優等生になった。それまでは学ランのボタンを全部外し、上履きのかかとを潰して履くようなやんちゃ坊主だったのに。
唯一、優しいところだけは昔のままだけど。
「……日曜日、私も手伝いに行こうか」
町内会長さんと別れた後、私はこっそり善くんに尋ねた。
「いいよ、気を遣うなよ」
善くんは首を横に振る。
「男手が必要って言ってたし、それに用水路だからな。汐音が風邪引くと困るだろ」
それは善くんだって同じだ。
私はそう思うけど、駄々を捏ねたらもっと困らせることになる。だから引き下がっておく。
「もし女手が必要になったら呼んでね」
「そうだな。汐音の手も借りたくなったら呼ぶよ」
善くんは猫みたいな言い方をした。
そうこうしているうちに私たちは学校へ辿り着き、生徒玄関で靴を履き替えたら教室前で一旦お別れ。残念ながら善くんとはクラスが違うからだ。
悲しいことに、学校にいる間は善くんとあまり話せない。もちろん昼休みとかに会いに行ってもいいんだけど、優等生の善くんは先生に頼まれ事をされたり、クラスメイトに授業のことを聞かれたり、生徒会の仕事に呼ばれたりと引っ張りだこだ。
放課後になれば一緒に帰れるから、いつも我慢するようにしている。
「汐音、今日は俺、生徒会があるから」
教室前の別れ際、善くんが言った。
「だから終わるまで待っててくれ。そんなに遅くならないはずだ」
「おっけー。生徒会室まで行くね」
善くんはどんなに遅くなる日でも『一人で帰れ』なんて言わない。
私はそれが嬉しくて、善くんが忙しくても、遅くなる日でも、必ず彼を待つようにしていた。
「じゃあ、放課後に」
切れ長の目を細めて、善くんが笑う。
その顔も好きだなって思う。毎日のように。
一日の授業をどうにかやり過ごして、放課後を迎えた。
私は教室で友達とおしゃべりして、時間を十分に潰してから生徒会室へと向かった。
三階にある生徒会室には、善くんを迎えに行く以外の用事で足を運んだことはない。だからちょっと緊張しながら階段を上がり、廊下に差しかかった時だった。
「――悪いけど、ごめん」
善くんの思い詰めたような声が、静かに響いた。
廊下はがらんとしていて、私以外の生徒の姿はなかった。思わず足を止めれば生徒会室の中の会話が漏れ聞こえてくる。
「どうしても駄目?」
これは聞き慣れない女子の声。
「本当にごめん。どうしても、付き合えない」
善くんがそう応じる。
「そんな……」
女子生徒の声は引きつれるようにかすれて、私もその会話がどういう意味合いのものかを察した。
聞きたくなくて慌てて踵を返したけど、
「小此木はやっぱり、佐島さんと付き合ってるの?」
涙声の女子の、次の言葉はしっかり聞こえてしまった。
私の名前、だったから。
身体が強張るのがわかって、ほとんど転げ込むように廊下に置かれた避難ばしごの陰に隠れた。続きを聞くのが怖かったけど、私がいるのを知らない善くんは言う。
「違う。汐音はそういうのじゃない」
ためらいもなく、きっぱりと。
「そういう理由じゃないんだ。俺は、誰とも付き合わない」
そして善くんが言い終えた直後、生徒会室のドアが乱暴に開いて、誰かが飛び出してきた。
物陰に隠れた私には気づかないまま、廊下を走る足音はあっという間に遠ざかり――やがて聞こえなくなる。
私が呼吸を整えて立ち上がり、平気な顔を作って生徒会室を訪ねていくまで、結構な時間が必要だった。
「……善くん、いる?」
白々しい口調でドアの向こうに呼びかけると、返事は少し遅れて届いた。
「いるよ。俺一人だから入っていい」
それで私は恐る恐るドアを開ける。
生徒会室には確かに善くんが一人きりでいた。窓から差し込む夕日のせいで、室内は壁も床もホワイトボードも一面がオレンジ色に染まっている。だけど善くんの顔だけは影をまとったように暗く、こちらへ向けた表情は強張っていた。
「汐音……」
弱々しく名前を呼ばれ、私は取り繕うように明るい声を上げた。
「善くん、元気ない? 疲れてるみたいだけど」
「そうかもしれない」
「じゃあコンビニ寄って帰る? 疲れた時は甘い物って言うし!」
「――汐音」
そこで善くんが、感づいたように眉を顰める。
「聞いてたのか?」
ばれた。
さすがに白々しすぎたか。私は渋々頷く。
「う、うん。全部じゃないけど……」
「……聞くなよ」
善くんが気まずげに溜息をついた。
私だって盗み聞きをしたかったわけじゃない。でも聞いちゃったのは事実だから、素直に謝った。
「ごめんなさい」
それから弁解のつもりで言い添える。
「で、でも全然気にしてないって言うか――あ、そもそも私が気にする話じゃないよね。善くんは、えっと、ごく当たり前のことを言ったんだと思うよ。うん」
途中で何言ってるのかわからなくなったけど、とにかくまくし立ててみた。
善くんはその間も居心地悪そうに黙っていた。でも弁解し終えた私が俯きかけると、優しい声でこう言った。
「そうだよ、当たり前だ。俺に彼女なんて要らないからな」
それから話を打ち切るように、唐突に切り出してくる。
「汐音のクラスも数学の宿題出てただろ?」
「うん……出てたよ」
「教えてあげるから、帰ったら一緒にやろう」
「本当? すごく助かるなあ、ありがとう!」
私が歓声を上げると善くんは微笑み、それで全部元通りになる。
我ながら白々しいって思うけど、善くんはその方がいいみたいだ。
一旦帰って、着替えして、それから善くんの家に集合。
そういう約束をした後、私たちは家の前で一度別れた。
家に帰って自分の部屋で、制服を脱ぎながら考える。今までは考えないようにしてたけど、善くんってモテるんだろうな。あれだけ完全無欠なら当然か。私だってこれまでに『小此木と付き合ってるの?』とか『好きな人いるか聞いたことある?』なんて質問されたことがあるくらいだ。私が知らなかっただけで、告白されたのも今日が初めてじゃないのかもしれない。
いいな、と思う。
善くんに告白できていいな。私だって本当はそうしたい。
制服を脱いだ後、私は部屋にある大きな鏡と向き合った。
そこに映った私の、右胸からお腹を通って左の腰骨の上にかけて、大きな傷跡がある。縫合した通りに残ったその跡は、できた当初よりは目立たなくなったけど、完全に消すことはできないらしい。
これさえなければ私だって、善くんに『好き』って言うのに。
三年前のあの日、忠士さんの車には私と、善くんが一緒に乗っていた。
皆で遊園地に行く途中だった。忠士さんは運転席で、その後ろには善くんが、彼の隣には私が座っていた。
事故の瞬間、対向車線をはみ出してきたトラックに対し、忠士さんはハンドルを大きく右に切った。それは本当に仕方のないことだって私もわかってる。そして反射的に右へ曲がったせいで、車は正面から電柱に衝突したそうだ。左側からはトラックがぶつかり、私は大怪我を負い、善くんはかろうじて軽傷で済んだけど、忠士さんは――。
今の善くんは忠士さんを追い駆けるように、前向きに、立派に生きている。
私はそんな善くんに、事故のことを思い出して欲しくなかった。
だから傷跡を見せたくない。好きだって、付き合って欲しいって絶対言えない。
大好きなのに。
着替えを済ませてから、私は小此木家を訪ねた。
善くんも制服から普段着に着替えて、私を部屋に上げてくれた。そして二人でローテーブルを囲み、数学の教科書とノートを広げる。
今は小此木家に二人きりだ。家の中は静かで、階下のお仏壇から微かな線香の匂いが漂っていた。
「ほら、汐音。ここも間違ってる」
善くんが私のノートを指差す。
「さっきと同じミスしてる。わかるか?」
「あー……そうだっけ」
「そうだよ。解き方もさっきと同じだ」
学校の成績は善くんの方がいいから、一緒に宿題をすると丁寧に教えてもらえる。
だけど今日ばかりは全然頭に入ってこない。気がつけば善くんばかり見てしまう。
ペンを持つ手はがっしりしていて、すっかり大人の手になっている。肩幅だって広いし、真っ白なTシャツがよく似合ってる。切れ長の瞳は伏せられていても、その睫毛の長さにどきどきする。勉強中はきゅっと結ばれている唇は、少し乾いているように見えて――。
「汐音、手が止まってる」
――あ。
見てるの、ばれた。
「集中しないと終わんないぞ」
善くんは眉を顰めたけど、今日は集中なんて無理だ。
彼女なんて要らないって善くんは言う。でももし、善くん好みの女の子が現れたら? 完全無欠の善くんを好きになった女の子に、いつか善くんも恋をするかもしれない。
そう思ったらたまらなくなって、私はつい尋ねた。
「善くんはさ、どんな女の子が好きなの?」
自分から地雷を踏みに行くようなその質問に、今度は善くんの手が止まる。
短い沈黙の後で、善くんは答えた。
「そんなものない」
当たり前だと言いたげな口調だった。
「じゃあ、好きな子っていたことある?」
次の問いには困ったような顔をされた。
「いない。そういう話はしたくないな」
ばっさりと話を切られ、私の方が困ってしまう。どうやら善くんに恋愛の話題は禁句のようだ。
私もそういう話を振ったのは初めてだった。今までは気になっていても聞けなかった。私は善くんが好きで、でも好きだとは絶対言えないからだ。
ただ、今日はどうしても聞いておきたかった。
「もしもの話、なんだけど――」
切り出した途端、善くんは警戒するように唇を結ぶ。
その形のいい唇を見ながら、私は続ける。
「好きじゃなくてもいいから、一回だけキスしてって言ったら、してくれる?」
そうしたら私、善くんのこと諦める。
できるかどうかは怪しいけど、努力する。
そういうつもりで質問した。
だけど善くんは私の問いが、とてもショックだったみたいだ。
「何言ってんだ、汐音……」
呆然とそう口にした後、溜息をついてみせる。
「そういうのは好きな相手とするもんだろ。冗談はやめてくれ」
だから善くんに言ったんだけどな。
でも、答えはわかった。善くんは好きな子とじゃないとキスしない。告白もできない私に思い出をくれるとか、そういう不真面目さはないみたいだ。善くんらしい。
「……ごめん、変なこと聞いて」
私は謝って、教科書とノートを閉じる。散らばっていたペンをケースに押し込んで、慌てて立ち上がった。
「今日は帰るね。明日、普通に迎えに来てくれたら嬉しいな」
泣きそうなのを誤魔化す為に早口で告げて、私は善くんの部屋を飛び出そうとした。
「汐音っ!」
善くんが大声で私を呼び止める。
そして次の瞬間、私の身体は温かい腕に捕まえられていて――ちゃんと閉まっていなかったペンケースから、ばらばらとペンが床に転がる。
善くんの両腕が背後から私を強く、苦しいくらいに抱き締める。背中に触れる善くんの身体は、高い熱でもあるみたいに熱い。息もできない。
「ごめん、嘘ついた」
震える吐息が、私の耳の上をかすめる。
「好きな子いないなんて嘘だ。本当はいる。ずっと昔から」
それって、まさか――。
捕まえられて動けない私の身体も、ごちゃ混ぜの気持ちで震えた。淡い期待と、でもどうしても善くんにこの身体は見せられないって気持ちで、私はいよいよ泣きそうだった。
「でも、駄目なんだ」
善くんも、私の気持ちに同調するように続けた。
「汐音をこれ以上好きになったら、悪いことをしたくなる。そんなのは絶対に駄目だ」
「……え?」
悪いこと、って?
私が疑問の声を上げると、善くんは抱き締める腕に一層の力を込めた。それは私を捕まえるというより、まるで何かに押し流されるのを堪えるように、必死にしがみついているみたいだった。
そして善くんは言う。
「――兄さんが、見てるから」
その瞬間、善くんの熱い身体が触れているにもかかわらず、私の背筋は寒気で震えた。