Tiny garden

我侭姫と泣虫王子

 泣き虫王子。
 第三王子ジェルヴェが誰からともなく贈られたあだ名だ。

 ジェルヴェに言わせれば、泣きたくて泣いているのではないという。
 寒い日は身体が冷えるし、暑い日は頭がくらくらする。朝は早く起きられず、夜はなかなか眠れない。そしてちょっとしたことですぐに涙が出てしまうから、人前には出たくない。
「その辛さゆえ、自然と涙が込み上げてくるだけです」
 父である国王に、母である王妃に、二人の兄王子にそう訴えたこともある。
 だが毎日のように顔を歪めては泣く姿は、国王たちの癇に障ったようだ。顔を合わせればみっともないと叱咤され、王族の自覚を持て、身体を鍛えよと口々に言われた。ジェルヴェがその言葉に従わず寝台にしがみつけば、その軟弱さを蔑まれ、疎まれた。それどころか身分の低い城勤めの者たちも憚りなく陰口を叩き、いつしか『泣き虫王子』という汚名が、ジェルヴェ自身の耳に容赦なく入ってくるようになった。
 成人したジェルヴェは、訪ねる者もない城の尖塔に引きこもって暮らしていた。公務に携わることは一切なく、人生の楽しみも見いだせぬまま涙を流す日々を送っていた。起きるのが辛いと、日がな一日寝台の上にいることさえあった。

 その泣き虫王子に縁談が舞い込んできたのは、ジェルヴェが二十二歳になったばかりの頃だ。
 相手は社交界でも『わがまま姫』と悪名高き貴族令嬢、エリザベートだった。

 エリザベートが訪ねてくる日の朝、ジェルヴェは乳母が来るよりも早く目覚めた。
 いつもなら声を掛けられるまで目覚めることもなく、手を借りてようやく身を起こすのがこの王子だ。ジェルヴェが寝台の上で半身を起こしているのを見るや、乳母のアガットは目を丸くしてみせた。
「まあ、ジェルヴェ様。今朝はお一人でお起きになられましたのね」
「おかしいか、アガット」
 ジェルヴェはそう応じ、齢よりも幼い照れ笑いを浮かべる。
 細面で頼りなげな印象ばかりが先立つ顔立ちは、長らく日に当たっていないせいで青白く、幽霊のようだった。年相応の精悍さはかけらもない。
「おかしくはありませんわ。でも、随分と張り切っていらっしゃるようですから」
 言いながらアガットはジェルヴェの顔を拭き、髪を梳き始めた。
 この中年の乳母はジェルヴェが生まれた頃から世話をしている。それゆえにジェルヴェにとっては最も信用の置ける存在だった。アガットの方もジェルヴェを理解してくれているらしく、厳しいことも無闇な励ましも口にしない。何においてもジェルヴェの望むようにと取り計らってくれる。
「張り切っているように見えるか。確かに、その通りだ」
 答えた後で、ジェルヴェは面映さに目を伏せた。
 気分が高揚しているのを自覚する。今日顔を合わせるのは、妃になってくれるかもしれない婦人だ。そう思うと期待で胸が膨らむ。
「では朝食も、たくさん召し上がってくださいね」
 乳母に促され、寝台から下りずに食事をする。
 しかし興奮しているせいか、上手く喉を通らない。身体を動かさぬジェルヴェは元より食が細かった。アガットがどれだけ美味しい食事を拵えても、いつも食べきれずに残してしまう。
「どうぞ落ち着いてくださいませ」
 見かねてたしなめるアガットに、ジェルヴェは頬を赤らめて弁解する。
「女と約束をしている男の気持ちなど、お前にはわからないだろうな、アガット。私にとっては久方ぶりに口を利く、お前以外の女だ」
 異性に縁のなかったジェルヴェは浮かれていた。たとえこの縁談が上手くいかなくとも、せめて友人になってもらえたらと思っていた。泣き虫で脆い引きこもりの自分を、受け入れてくれる相手が欲しかったのだ。
 その代わり、相手のことも何もかも受け入れるつもりでいる。たとえ『わがまま姫』と呼ばれる娘であろうと、その悪名が真実であろうとも構わない。
「しかしジェルヴェ様、わたくしはどうも不安に思うのです」
 皺が目立ち出したアガットの顔がにわかに曇る。
「エリザベート様は社交界では『わがまま姫』と呼ばれているとのこと。ジェルヴェ様の御前でも無礼に振る舞うやもしれませぬ」
「聞いている。しかし、私のような男の元へ来てくれるだけでもありがたいというものだ」

 かく言うジェルヴェも、令嬢エリザベートのことはそのあだ名と出自くらいしか知らない。
 わがまま姫と呼ばれるからにはわがままな婦人なのだろうが、エリザベートは有力貴族の令嬢。父たる国王から反対される理由はないはずだった。
 ただ、アガットの不安もわからなくはない。
 なぜよりにもよって自分なのか、ジェルヴェにもいささかの疑問があった。
 この度の縁談はエリザベートの方から持ちかけてきたもので、是非ジェルヴェ様とお会いしてご縁を結べたらと、直筆と思しき手紙で申し込まれた。貴族令嬢にしては何とも積極的なものだが、それも『わがまま姫』たる所以なのだろう。
 ただ、引きこもりの『泣き虫王子』についても、社交界では間違いなく噂されているはずだった。

「『泣き虫王子』と名を馳せる私の妃になりたいとは、全く奇特な婦人だ」
 ジェルヴェは自嘲したつもりもなく呟く。
 すると傍らのアガットは苦渋に満ちた表情を見せた。
「いいえ、ジェルヴェ様は心根のお優しい、立派な方でございます。どうぞ妥協などなさらず、慎重に事を運んでいただきたく存じます」
「わかっている。かの令嬢の方から断ってくる場合もあるだろうからな」
「そんなことは。無礼な小娘には二度と顔を見せるなと言ってやりましょう」
 まだ見ぬ令嬢に、アガットは既に腹を立てているらしい。ジェルヴェは苦笑した。
「アガット。お前はエリザベート嬢のことをどの程度存じている?」
「お名前と、そのあだ名の他は存じません。十分でございましょう」
「ならば会ってみるまで怒りは収めておけ。わがままにも様々な形があるはずだ。どんなわがままを申すのか、立腹するのはそれを見極めてからでもよい」
 ジェルヴェの言葉にアガットは口を噤み、幾分かは表情を和らげた。
 それを横目で見遣ってから、ジェルヴェも食事を再開する。しかし皿の中身は目に見えて減らなかった。

 昼下がりの時分になり、不意に窓の下がざわめき始めた。
 ちょうどエリザベートの訪問が予定されていた頃だ。尖塔の足元から聞こえてくる怒声のような叫びに、ジェルヴェもさすがに眉を顰めた。
「何事だ? 随分と騒がしいな」
 ジェルヴェはまだ寝台の上にいたが、身支度は整えていた。枕に背を預けたまま、廊下へ通じる扉を見遣る。
 すかさずアガットが聞き耳を立てた。
「本当に、何事でございましょうね」
 その時だった。
 力強く扉が叩かれた。ちょうど近衛兵がノックをする時の音と同じだった。
 アガットは身を竦ませ、ジェルヴェはアガットに告げた。
「開けてくれるか、アガット」
「は、はい、ただいま」
 乳母は不安げにしながらも扉へ歩み寄り、意を決したように勢いよく引き開けた。
 直後、悲鳴を上げた。
「きゃあっ! な、何ですあなたは!」
「わたくし、エリザベートと申します。ジェルヴェ様に拝謁したく、こうして参上いたしました」
 初めて聞く女の声だった。
 寝台から耳を澄ませていたジェルヴェは、意外さに瞬きをする。わがまま姫と呼ばれる割に、言葉遣いは丁寧だ。令嬢にしてはいささか無骨な印象もあったが、十七、八の娘ならやむを得ないことだろう。
 それよりも――先の名乗りの直後、がしゃんと重い金属の音がしたことの方が気になった。警護に当たる兵たちの鎧のような重厚な音だ。
「ジェルヴェ様はおいでですか」
 扉の外のエリザベートははきはきした口調で尋ねた。
「いらっしゃいますけれど……あなたの、そのような格好をする方は通せません!」
 アガットが悲鳴のような声を上げる。
「ご寛恕ください。これがわたくしの普段着でございます」
 怒りの言葉を向けられても、エリザベートはあっけらかんと答えた。
「ジェルヴェ様にはありのままのわたくしを見ていただきたくて、あえて普段通りの格好をして参りました。もちろん、危なっかしい品は持ち込んでおりません。ちゃんと近衛の皆様に預けて参りました」
 小気味よいほどの物言いだ。果たしてどんないでたちで現れたのだろうか。
 興味を覚えたジェルヴェは思わず口を挟んだ。
「アガット、エリザベート嬢を通せ」
「な、ジェルヴェ様!」
「失礼いたします」
 驚くアガットをよそに、エリザベートが立ち入ってきたようだ。重い足音と金属の音が室内に響き、次第に近づいてくる。
「エリザベート嬢、こちらだ」
 ジェルヴェは寝台の上から呼びかける。
 それで令嬢がこちらを向いた。視線が重なる。
 エリザベートは寝台の上のジェルヴェに気づくと、一瞬だけ目を瞠った。しかし以降は動じることもなく、確かな足取りで歩み寄ってきた。
「できれば、近くへ」
 そうジェルヴェが促すと、エリザベートは諾々と従った。
 寝台の傍らにひざまずき、彼女は言う。
「お初にお目に掛かります。お会いできて光栄に存じます、ジェルヴェ様」
 その仕種も貴族令嬢というよりは、さながら騎士であるかのようだ。ジェルヴェは興味と歓迎の意をもってエリザベートに応じた。
「私も、あなたの来訪を嬉しく思う。どうか顔を上げて欲しい」
「はい」
 さっと、エリザベートが顔を上げる。

 少年のようだ、とジェルヴェは印象を抱いた。耳に掛かるか掛からないかくらいの短い金髪。顔立ちには気品こそあるものの、柔和さよりも凛々しさの方が目立った。真っ直ぐな眉と通った鼻筋、それにきりりと結ばれた唇――どこを取っても貴族令嬢らしくはなかった。
 しかし一番異質なのは、やはり彼女のいでたちだろう。甲冑をまとっている。
 面頬つきの兜を脇に抱え、鉄製の鎧を着込んでいる。細かな傷の目立つ鎧は真昼の光を受けて鈍い輝きを放っている。さすがに剣は下げていない。
 女が武装する姿を見たのは、初めてだった。

 ジェルヴェは思わず尋ねた。
「それがあなたの普段着か」
「はい。わたくしにとってはこの姿こそが本質。ジェルヴェ様にお会いする時も、決して自らを偽るまいと考えておりました」
「なるほど。あなたは正直な方のようだ」
 ジェルヴェが率直に誉めると、エリザベートは初めて、ちらと笑った。やはり少年のような笑みだった。
「お褒めに与り光栄です。ですが、わたくしのあだ名はジェルヴェ様も聞き及んでおいででしょう」
「ああ」
 これも率直に頷いた。エリザベートが笑顔のままで首を竦める。
「わがままだというのは事実なのです。わたくしは、わたくし自身のわがままを叶える為に、ジェルヴェ様のお妃になりたいと思っております」
「是非、聞かせて欲しい。あなたの叶えたいわがままとは何だ」
 促されたエリザベートは穏やかに後を継いだ。
「わたくしはこのように、鎧を身にまとい、馬を乗り回し、剣を振るうのが好きなのでございます」
 鎧の下の体躯は、恐らく鍛えられたものなのだろう。少なくとも背丈はジェルヴェと同じか、ジェルヴェ以上にあるようだ。
「しかし父は、わたくしの趣味によい顔をしません。まるで男のようだから止めろと言って聞きません。止めて、少しでも貴婦人らしいふるまいを身につけて、どこぞへ嫁いでゆけと申すのです」
 エリザベートは濁さずに語り、そういう正直さをジェルヴェは好ましいと感じていた。陰でひそひそと悪口を言い合う連中より、よほど好ましい。
「剣術や乗馬の稽古を続けていたら、貰い手がなくなる、とも申しました」
 ふふっと、令嬢は笑声を立てた。
「わたくしは、その時に思ったのです。ならばわたくしでも娶ってくださるようなお方のところへ嫁ごうと。ジェルヴェ様ならば、わたくしのような女でも娶ってくださるかもしれない。剣術や乗馬の稽古を続けていても構わないと言ってくださるかもしれない。そう思い、ぶしつけながら文を認めた次第です」
 腑に落ちた、とジェルヴェは思う。
 ジェルヴェとて腐っても王族、婚姻に際しては利点も多いことだろう。エリザベートの父親も不平を唱えにくいはずだ。
 そして、泣き虫王子と呼ばれるジェルヴェには、他の当てがあるはずもない。王族で妃のいないのは自分だけ、そこに舞い込んできた縁談の相手が有力貴族の令嬢ともなれば、断る理由も見つからない。
 正直でありながら決して愚かではないようだ。エリザベートの明るい笑顔を見下ろし、ジェルヴェは次の言葉を探す。
 と、そこに、
「無礼者!」
 ようやく我に返ったらしい、アガットの叫び声が響いた。
 ジェルヴェとエリザベートは同時に視線を動かし、寝室の戸口で眉を吊り上げるアガットを目に留める。中年の乳母はエリザベートに歩み寄ると、すかさず早口でまくし立てた。
「あなたは私利の為、ジェルヴェ様を利用すると言うのですか! ジェルヴェ様のご身分を知っての上で……厚かましい!」
「――止せ、アガット」
 疲労感を覚えながらジェルヴェは乳母を制した。
 アガットの言い分に誤りはない。エリザベートはジェルヴェを利用しようとしている。しかし彼女の叶えたいと言うわがままに、ジェルヴェはいささかの嫌悪も抱かなかった。むしろ、潔さに羨望さえ抱いた。
 恐らくそれは、自らでは叶えようもないことだ。エリザベートの姿がジェルヴェには眩しかった。
「アガット、私も寝台を下りる」
 顔を真っ赤にしているアガットに、ジェルヴェは告げた。はっとしたアガットが寝台まで飛んできたので、あえて笑みを向けた。
「いや、いい。私一人で下りよう」
「お、お言葉ですが、それは……!」
「エリザベート嬢は偽りのない姿を私に見せてくれた。ならば私も、偽りのないありのままの姿を見せるべきだろう」
 後で騙されたと悲嘆に暮れられては困る。全てを受け止めてくれる人でなければ、ジェルヴェの妃は務まらない。ジェルヴェ自身がそう思っている。

 まず、足を下ろした。
 寝台から二本の足をだらりと下げた。それだけの動作で膝が軋んだ。
 アガットが足元に室内履きを置く。そこへ爪先を下ろし、慎重に立ち上がる。たちまち強烈な眩暈が襲った。ジェルヴェは思わず呻き、ぎゅっと目を閉じた。
 頬を涙が伝うのを、諦念と慣れとで受け止めている。

 泣き虫王子と呼ばれても、泣きたくて泣いているわけではない。
 けれどもジェルヴェの苦痛は、ジェルヴェ自身にしかわからない。乳母として長らく傍にいるアガットにすらわからない。国王や王妃、兄王子たち、城勤めの者たちにわかるはずもない。
 幼い頃に大病を患った。以来ジェルヴェは病気がちで、幾度となく生死の境をさまよった。医者は、十五まで生きられぬだろうと言った。しかし今、二十二まで生きている。ほとんど寝台から離れずに生き続けている。
 国王を始めとする近しい者たちは、ジェルヴェの病弱さを甘えと受け取った。身体を鍛えろと叱り、励まし、それでも寝台から離れられないジェルヴェをやがては突き放した。そうして陰で、泣き虫王子と呼ぶようになった。

 身体が鉛のように重い。頭がくらくらしていた。涙だけではなく汗も滲んだ。ジェルヴェは大きく息をつき、目を開ける。
 寝台から下りたジェルヴェは、立派な着衣こそ身につけていたものの、やつれた細い体躯は隠しようもなかった。頬の涙を拭っても、すぐに笑うこともできなかった。眼前にひざまずいたままのエリザベートは、じっとこちらを見つめている。やはり笑ってはいなかった。
 アガットが椅子を差し出してきたので、ジェルヴェはその背凭れに手を置いた。そして身体を支えながら、甲冑の令嬢に尋ねた。
「私の身体のことは、知っていたのか」
「――はい」
 エリザベートは顎を引く。表情に鋭さが垣間見えた。
「知った上で私の妃になりたいと申すのか」
 立っているだけで苦痛だった。早く横になりたかった。それでもジェルヴェはどうにか言葉を継ぐ。
「私の妃になったところで、私は、夫らしいことは何一つできぬ男だ。あなたを守ることもできないだろう」
 ちらと視界の端にアガットが映る。気遣わしげな表情もぼやけてきた。涙がまた溢れてくる。苦しかった。
「それどころか私は、確実に、あなたより先に死ぬだろう」
 眩暈が続いていた。舌が縺れた。自分の言葉がエリザベートに届いているかどうか、それすらわからなくなってきた。
「何も遺せぬままにこの世を去る。そんな夫でもよいと申すなら、私はあなたのわがままを許そう。あなたのする、全てのことを許そう。だから――」
 視界が斜めに傾いだ。
 アガットが声を上げたが、ジェルヴェは声すら上げられなかった。椅子の倒れる音がして、直に自らも床に衝突するだろうと思った。
 がしゃん、と重い金属の音。
 ぶつかったのは床ではなかった。冷たい金属の表面に、押し当てるようにして抱き留められた。鉄の匂いに混じって、どこか優しい、甘く微かな匂いがした。
「ジェルヴェ様、ありがとうございます」
 エリザベートの声が、頭上で聞こえた。
 目を閉じていたジェルヴェは予想外のことに息をつく。瞼を押し上げるだけの気力はまだない。
 だが、驚いていた。
 疎まれ続けてきた病身の自分を、受け止めてくれる人がいたことに。
「わたくしはあなたをお守りします。妻として、生涯守り抜くと誓いましょう」
 彼女は確かにそう言った。
「わたくしを妻にしてくださるのなら、わたくしのわがままを許してくださるのなら、妻として生涯尽くすことを誓います。この鎧も伊達で身につけているのではございません。いざとなればジェルヴェ様の御為に剣を取り、戦うことを誓いましょう」
 その言葉は、嘘には聞こえなかった。
 ジェルヴェはやっとの思いで顔を上げ、自分を抱き留めてくれているエリザベートに目を遣った。
「私にはあなたが必要だ」
 そっと、ジェルヴェはエリザベートに告げた。
「そして恐らく、あなたにも私が必要だ。違いあるまい」
「ええ、仰る通りです、ジェルヴェ様」
 エリザベートが朗らかな笑みを浮かべる。
 その表情に気分を高揚させたジェルヴェは、面映さを堪えながらもう一言、令嬢に囁いた。
「ありがとう、私を受け止めてくれて」
 吐息混じりのかすれた声も、エリザベートは確かに受け止めてくれた。
 アガットはしばらくの間、抱き合う二人を呆けたように眺めていた。だが自分の職務を思い出し、慌てふためきながら倒れていた椅子を起こした。
「ひ、ひとまずお座りくださいませ」
 それでジェルヴェもはにかみながら、エリザベートの手を借り、椅子に腰を下ろす。
「あなたが私を支えてくれたこと、嬉しく思う」
 そう告げると、エリザベートも今更のように気恥ずかしそうにしていた。
「そのお言葉、わたくしにとっても嬉しゅうございます、ジェルヴェ様」

 その後、ジェルヴェからのお茶の誘いを、エリザベートは申し訳なさそうに断った。
「せっかくのお誘いながら、さすがにこの格好では、お茶の席に着くこともできません」
 彼女の返答にジェルヴェは落胆したが、令嬢はすかさず言い添えてきた。
「ですが、ジェルヴェ様がお茶を楽しんでいらっしゃるのを眺めていることはできます。わたくしに構わず、どうぞお茶になさってください」
「しかし、それでは」
「それとも明日でもまた、参りましょうか。今度はお茶に相応しい格好をして……」
 エリザベートはちらと視線を動かし、傍らで渋い顔をしているアガットを見遣った。それから、ジェルヴェにだけ聞こえるように囁く。
「ジェルヴェ様さえよろしければ、毎日だって拝謁に参ります」
 思わず、ジェルヴェはエリザベートの顔を注視する。
 屈託のない表情をしている。妃になるかもしれない相手の、額面だけなら甘い言葉をくれた。しかしそこに色気はなく、夫婦らしさもまるでない。
 それでも構わないとジェルヴェは思う。どちらかの生涯が終わるまで、互いに受け入れ合い、必要とし合っていられるのならそれでいい。王子として生まれておきながら何の務めも果たせず、ただ日々を漫然と生かされているだけでは意味がない。誰かの為になりたい、誰かの為に何かをなしてから生涯を終えたい。病床にて、ずっとそう願っていたのだ。
 ただ、今はまだ死にたくない、と思えた。
 エリザベートの為に、夫として出来ることをしてから、死にたい。
 それまではもう少しだけ生きていたいと思った。その瞬間、ジェルヴェは初めて苦痛以外の理由で涙を零した。

 わがまま姫と泣き虫王子の婚儀は、半年を待たずに執り行われた。
 痩せさらばえた王子と体格のよい令嬢とは並んでいても対照的で、笑う者も多かった。それでもジェルヴェは幸せだった。求めるものを得、その相手の欲するものを与えられることが何よりも幸せだった。
 エリザベートもジェルヴェに、幾度となく幸せだと告げた。
「わたくしの幸いは、ジェルヴェ様あってのものでございます」
 晴れて趣味への許しを得たエリザベートは、剣術の稽古も乗馬の稽古も怠らず、更にはジェルヴェの枕元を賑やかす務めもこなしている。
「これからも末永く、お傍に置いてくださいませ」
 エリザベートはいつも素直で明るい言葉をくれる。
 その言葉を聞く度に、ジェルヴェはほんのりと温かい感情を抱いた。

 傍から見れば釣り合いの取れない、戯れ事のような幼い夫婦かもしれない。
 しかし今となっては、互いになくてはならない存在だった。
 エリザベートがわがまま姫として、ジェルヴェが泣き虫王子として、それでも満ち足りた幸せな生涯を送る為に。
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