包容
いきなり背中から抱き締められた。大きな身体と長い腕で包むように、ぎゅっと。
「泣くなよ、弥生」
隼人は私の耳元で宥めるようにそう言った。
だけど無理だ。泣かないでいるのなんて無理だった。途端に鼻の奥がつんとしてきて、私は寄り掛かっていたベッドに顔を伏せた。
スプリングの軋む微かな音が部屋に響く。
私の身体を包んだ隼人が、そのまま頬を寄せてくる。慰めの仕種が、今は苦痛にしか感じられなかった。
大体、勝手に部屋に入ってきて、いきなり何なの。女の子に抱き着くなんて。
そりゃあ、隼人はこの部屋の常連だ。うちの両親が許してるのをいいことに、いつもまるで自分の部屋みたいに踏み込んできては、私のコンポを動かしたり、本棚の少女漫画を読み出したり、私のベッドに寝転がったりする。小学校の頃からの付き合いだから、そういう図々しさもいつもなら許せた。
でも今は無理。
私は一人になりたかった。一人になったらわんわん声を上げて泣き出せただろうし、辛い思いのぶつけようもあったかもしれない。隼人とは、この気持ちは共有出来なかった。隼人には私の心が絶対わからないはずだ。
隼人は、なのに私を一人にしてくれなかった。教室にいる時も、放課後の帰り道も、家に帰ってからもずっと傍にいる。部屋に閉じこもろうとした私について来て、おまけに抱き着かれた。同い年の癖に腕の力がとても強くて、こうなると私には振り解けない。
ベッドに寄り掛かった私の身体に、隼人の身体が寄り掛かる。苦しい。潰されそうだ。
「泣くなってば」
隼人の大きな手が、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
だから無理だってば。言い返すにも声が出せなくて、私は唇を噛んでいる。
「まだ終わりじゃないだろ。公立、残ってるし」
ためらいがちに口にされた言葉が、余計に堪えた。
そうだね。確かに残ってる。公立高の入学試験は来月だ。それに向かって私はこれから猛勉強を開始しなきゃいけない。なのに、そんな気力はなくなってしまった。
「やだ」
辛うじて私は声を出した。
突っ伏しているのに瞼が熱く、染みてきた。
「公立なんて行きたくない」
「何で」
「向陽に行きたかったの」
学校の名前を出したらもっと泣きたくなってきた。
向陽。憧れだったあの高校。私はそこに行きたかった。
「……東だって、悪くないよ」
隼人が、ぽつりと言った。
耳元で聞く分にはその声は優しかった。だけどむちゃくちゃ癪に障った。
体重を掛けてくる隼人の身体を撥ね退けてやりたかったけど、やっぱりぎゅっと包まれていた。私がどんなに力を込めても無理だった。だから私は結局、ベッドに顔を突っ伏したままだ。
そのまま、くぐもった声で言ってやる。
「東なんかよくないよ。最低じゃん。校舎ぼろいし制服ダサいし」
「でも、大学行くなら東がいいよ」
隼人の言うとおりだ。公立で進学校を選ぶなら、東くらいしかない。
県立東高等学校。県下でも有数の、公立の進学校。
一応受けるんだし、向陽を見てきたついでに見学してきたことがあった。隼人と二人で覗いてきた。だけど遠目に見ても東高校の校舎は古びていて、これっぽっちも魅力を感じなかった。白亜の校舎を敷地に広げた向陽の方が、絶対いいと思ってた。
制服はのっぺりした紺一色のセーラー。向陽のブレザーに憧れてた身としては、東のセーラーに袖を通す日なんて想像もしてなかった。
それに何より、東はバイト禁止なんだって先輩がたから聞かされてる。そんなのやだ。高校生になったら素敵なカフェでバイトするって決めてたのに。
なのに――今日、そんな小さな夢さえ叶わなくなった。
「弥生、もういいだろ」
隼人は、宥めるように言った。
「ケーキ買って来ようか。弥生の好きなシフォンケーキ」
「要らない」
「じゃあ、どっか遊びに行こうか」
「いい」
「弥生」
笑うような息が零れて、私の濡れた頬に当たった。熱いと思ったのは一瞬で、すぐに涙の冷たさに負けた。
「泣いてたってしょうがない。次に向かって頑張らなくちゃいけないんだ」
「……そんなの」
込み上げてきたから、私は鼻をすすった。
そんなの、隼人だから言える台詞だ。隼人には余裕がある。勝者の余裕ってやつ。
今日、向陽の合格発表があって、授業のあった私たちの代わりに先生が見てきて、教えてくれた。隼人はもちろん合格。向陽の特進コースに受かったのはうちの中学でも隼人だけだって先生が誉めてた。だけど私は――。
落ちてた。
先生が職員室でこっそりと、だけどごく落ち着いた口調でそれを告げた時から、私は一人になりたかった。一刻も早く一人になりたくて、先生の言葉もクラスの友達の慰めも聞こえなくなって、何もかも振り切ってしまいたかったのに、隼人だけがついてきた。向陽に自分だけ受かった隼人が。
「隼人にはわかんないよ」
絶対、私はそう思う。泣きながらも言ってやる。
「向陽に行けないなら東なんて受けたくない。どうせ滑り止めだったんだもん。それなら公立でも、もっと制服の可愛いとこにするもん」
もっとランクを下げればいくらでも候補はある。隼人に負けないように、追い着けるようにって勉強を頑張ってきたから、ランクの低いところならいくらでも選びようがあった。
でもそれなのに、頑張ってきたのに、向陽には落ちた。私すっごく頑張ってた。友達の誘いにも乗らず、カラオケもゲーセンも行かず、本棚の漫画だって読まないようにしたし、大好きなケーキを食べに行くことさえ涙を呑んで諦めた。
なのに、受験日の直前。私は風邪を引いてしまった。
子どもの頃から気管支が弱かった私は、風邪を引くとすぐに喉に来て、熱が上がった。私立校の受験当日も熱があって――いや、そんなの言い訳にしかならない。結局は他の誰のせいでもない、私のせいなんだ。今日の不合格通知だって、受験日の体調を思えば薄々感づくことも出来てた。今更泣くのもおかしいんだ。
でもこの気持ちを誰にもぶつけようがないから、余計に悔しくて、切なくて堪らなかった。
「隼人は行くんでしょ、向陽」
涙が止まらなくなって、私は震える声で尋ねる。
少し間を置いて、隼人の声が耳元でした。
「うん」
「だったら、放っといて。もう学校も違うんだから、私なんて関係ないじゃん」
小学校から中三の今までずっと一緒だったけど、これで隼人とも離れてしまう。
四月になったら隼人は向陽の生徒になる。あのブレザーを着て、きれいな校舎に通うんだ。その時私はどこかよその高校生になってる。あのブレザーは着られない。隼人とも一緒に通えない。
「関係なくないよ」
隼人が、腕に力を込めた。
ぎゅっと圧迫されて息が苦しくなる。ただでさえ、泣いてるのに。隼人の頬にも、袖にも、私の涙がくっついてるはずだ。
「高校が別になったからって離れることなんてないだろ」
「離れちゃうじゃない」
「でも、途中まで一緒に通えばいい。東と向陽ならどっちも電車通学だし、駅まで一緒じゃないか」
「やだ」
嫌だそんなの。同じ駅まで電車に乗って、途中で隼人と別れるなんて。違う制服を着た隼人が向陽に行っちゃうのを、あのダサいセーラー服で見送るなんて絶対にやだ。
「弥生」
私の髪をぐしゃぐしゃかき回す隼人の手。この手があの時私にあれば、きっと熱があったってすらすら答えが書けてたのに。
「俺は離れたくないよ。弥生と、高校が別になったからって離れるのは嫌だよ」
でも現に離れちゃうじゃない。隼人は私と一緒にいたいからって、向陽を諦めたりはしないでしょ。絶対にしない。そういう奴だってわかってたから、私は向陽に行きたかった。行きたかったんだ。
離れるのが嫌だった。隼人と、違っちゃうのが嫌だった。ずっと一緒にいた関係が変わっちゃうのが嫌だった。
もう声が出ない。私はずっとしゃくり上げていた。
「頼むから、もう一回だけ頑張って」
隼人は、私を包んだままで言った。
「もう一回、公立の受験も頑張って、東受けてくれよ。弥生なら大丈夫だよ。それで春から、途中まででも一緒に高校、通おう」
本当に頼み込むような口調だった。
でも私はかぶりを振った。嫌だ。知らない。東なんて行きたくない。隼人と同じとこに行けないなら後はどこに行ったって同じだ。だったら東なんか行かない。
「弥生……」
私の頭を抱えて、隼人が低い声を立てる。
私は目をつぶった。顔も上げなかった。このままベッドに突っ伏していたら、隼人が諦めて、どっかに行ってくれるだろうと思った。
そうしたら本当に一人きりだ。
そうしたら、今度は大声を上げて泣いてやろう。で、一人でシフォンケーキ買ってきて食べる。食べたいだけ食べて、漫画も読んで、ずっとごろごろする。ずっとやってなかったことをやって、もう勉強なんかしてやらない。隼人の言うことなんて知らないもん。東なんか、行けなくたっていいんだから。
隼人がなかなか離れようとしないから、私は目をつぶり続けていた。
絶対に開けてやるもんかと思った。
――ふと、目が覚めた。
真っ暗な部屋が視界に広がり、私はぎょっとする。
学校から帰ってきたのは日が落ちる前だったのに、いつの間に時間が経っちゃったんだろう。
ずきずき重い頭を上げると、私を包んでいた腕が不意に解けた。
そのままずるりと横に崩れ落ちた、隼人の身体。
腫れぼったい瞼の隙間から、口を開けた隼人の寝顔が見えた。私のベッドに突っ伏して、ぐうぐう寝ている。平和な寝顔だった。
何やってんだか。私のことなんてお構いなしで寝こけちゃって。私を慰めてくれようとしてたんじゃなかったっけ。そりゃ、私も寝ちゃったんだから人のことはちっとも言えないけど。
起こすのも気が引けた。
私は少し横にずれて、ベッドに凭れかかるように伏した。足を床に伸ばした不安定な姿勢の隼人を眺めた。
明かりを点けていない部屋は、深い藍色をしていた。
ドアを締め切っているからとても静かだった。うちの親はまだ仕事かもしれない。冬場は日が落ちるのが早くて、時計を見なきゃ何時ぐらいかよくわからない。
窓からはごくささやかに月の光が射し込んで、隼人の顔を白く照らしている。
見慣れた顔。小学校の頃からずっと一緒にいた顔だ。あの頃に比べたら大人の顔に変わったのに、見慣れてるっていうのも不思議な感覚だった。
頬に、涙の跡を見つけた。
私のものか、隼人のものかはわからない。でも私の胸はきゅっと痛んだ。不合格の知らせを聞いた時よりもずっと堪えた。
向陽に落ちたのは私だけなのに、結局隼人にまで辛い思いをさせてしまった。隼人はきっと、合格を喜びたかったはずなのに。
思えば、何て馬鹿げたふるまいをしたんだろう。
受験に落ちたくらいで、世界が終わっちゃうみたいに騒ぎ立てて。泣いて。隼人のことを邪険にしようとして。
隼人はずっと私の傍にいてくれたのに。離れずに、私を一人にしようとせずに。絶対、隼人が離れて行ってしまうなんてことないのに。
私も、隼人と離れたくなかった。
一緒の高校に行けなくたって離れるつもりはなかった。隼人の言うように、登校する時は駅まで一緒にいられる。私の部屋に上がり込んでくるのも大歓迎だし、私だって本だらけの隼人の部屋に押し掛けてやるつもりでいる。絶対に離れてやらない。
これからだって、行く道が違っちゃったって、変わってしまうことがあったって、私と隼人は一緒にいられると思う。いる。いるようにする。何がなんでもする。
だから、落ち込むのは止めようと思う。何もかも受け止めて、そこから始めよう。
私はもう一回頑張らなきゃいけない。頑張りたい。やってやる。
月明かりに照らされた、隼人の頬に触れてみた。
途端に瞼がぴくぴく動いて、やがてゆっくり開いていく。とろんと寝惚けた目が私を見た。
「あれ、弥生……ここどこだ?」
隼人が怪訝そうな声を立てた時、私は思わず泣きたくなって、慌てて隼人に抱き着いた。
「ごめん、隼人」
泣いてる場合じゃない。
もう平気だもん。私、ちゃんと頑張るって決めたから。隼人と、これからもずっと一緒にいられるように。
四月が来ると、私たちは揃って高校生になった。
向陽のブレザーは隼人によく似合っていた。カッコよかった。
「このセーラー、やっぱ微妙」
紺一色のセーラー服に袖を通して私は思わずぼやいたけど、
「でも、弥生が着れば可愛いよ」
隼人は女の子殺しの台詞を口にして、私に口笛を吹かせた。
私たちは駅まで一緒に歩いて登校している。
駅に着いてからは別々の道だ。隼人は向陽へ、私は東に通ってる。でもそれまでは一緒で、いつものようにはしゃいだり、騒いだり、時々思い出したように手を繋いだりしている。
きっと、これからも一緒だ。
ちょっとくらい違っちゃったり、変わっちゃったって平気。戸惑うことがあったって、全部ちゃんと受け止められる。私が辛い時は隼人が、隼人が辛い時は私が、それぞれ包んであげるようにするから。
私と隼人はお互いの為なら、何だってすごく頑張れるんだ。