真夜中に眠る吸血鬼(2)
かつてこの古城は、辺り一帯を統べる領主のものだった。そしてその頃、レオンティウスはまだ人間だった。好色だった領主が侍女の一人に産ませた子供であり、城を追い出された母と城下町で暮らしていた。暮らし向きは決して楽ではなかったが、恵まれた才知と容貌から友人も多く、ささやかながらも幸いな日々を過ごしていた。
だがレオンティウスが二十五歳になったばかりのある日、全てが狂った。領主の正妻が流行病で急逝し、領主自身も三日三晩高い熱に魘された。病に伏した領主は老いと死に怯えるようになり、その恐怖につけ込むように誰かがそっと囁いた。
――この世には人の理を外れ、老いることも死に行くこともない身体を持つ者もいるのです。
領主は自らの血を引く子供達を金で釣り、城へ呼び寄せた。そして彼らを拘束すると、囁く声の導きのままに不老不死を授ける儀式を施した。集められた子供達の役目はあくまで実験台であり、真の目的は領主自身が不老不死の身体を手に入れることだった。だが腹違いの兄弟達を次々と犠牲にした儀式はいつしか強大な魔力を孕み、それが偶然にも何番目かに犠牲になったレオンティウスの身体に、血塗られた呪いとして宿った。
儀式を終えた直後、レオンティウスの心臓と呼吸は確かに止まった。
だが彼は目を覚まし、起き上がり、血の渇きにより動き出した。
初めは復讐の為だった。吸血鬼として蘇らされたことへの怒りと恨みから、領主と儀式に関わった者達を城に閉じ込め、彼らの血を搾り取った。だが煮えたぎる復讐心はやがて耐えがたい渇きに乗っ取られ、レオンティウスは欲望のままに血を啜る吸血鬼へと成り下がった。
程なくして城内から『食料』は尽き、レオンティウスは身を焦がすような血への渇望に悶え苦しむこととなった。
城を出て、城下町へ行けば渇きを潤すことはできる。だが城下町には母がいる。友人達もいる。彼らを手にかけることは理性が拒んだ。そして今の血に飢えた自分を、かつての自分を知る人々の前に晒すこともしたくなかった。
そこでレオンティウスは強大な魔術の力で城を、そして周囲の森を霧の中へ閉じ込めた。
人々が不用意に近づいてこないように。自分を探しに来る人々に見つけられることがないように。
以来レオンティウスはこの古城で、たった一人で暮らしてきた。
城を覆う霧の魔力は強く、迂闊な者達が迷い込んできても城まで辿り着くことはなかった。時折、財宝目当てと思しき山賊が霧を破って城門まで辿り着いたが、そういう者達はあえて招き入れて糧とした。しかしそれも頻繁にあるものではなく、レオンティウスは常に渇きと戦っていた。
それから二十年ほどが経つと、領主不在の城下町を戦乱が襲った。霧で閉ざされた城は何の被害もなかったが、壁のない町は呆気なく滅びた。その頃レオンティウスは城外の異変を察知し、久方ぶりに外へ出て町の様子を見に行った。だが町には母や友人の姿はおろか人の気配一つなく、自宅のあった場所すらわからなくなっていた。かろうじて生き残っていた鶏を連れ帰り、飼い始めたのもその頃で、それから数十年間レオンティウスは人の血にありつくことなく過ごした。
全ては遠い日のことだ。
今のレオンティウスには怒りも、悲しみも、後悔の念さえない。時の流れが人間らしい心を奪い、彼は心身ともに吸血鬼へと成り果てていた。
リアが城へ迷い込んできたのは、城壁も苔生すほど時が流れたある夕刻のことだった。
旅装の彼女は、常人ならば歩くこともままならぬ霧の中を潜り抜けてきた。身体に刻まれた紋様の祝福が、一時だけ霧を払い、彼女を城門まで導いたようだった。城門を叩く時、リアは酷く怯えていた。あとで語らせたところによれば一夜の宿を求めていたそうだ。もし城に住人がいなければ、そのまま隠れ住む気でいたとも言っていた。
追い払う気になればいくらでも手はあった。だが霧の結界を単身抜けてきた彼女には興味があった。若く柔らかな身体と、その中に流れる新鮮な血も魅力的だった。レオンティウスはリアの為に城の門扉を開き、彼女は身体を震わせながら中へ入ってきた。
レオンティウスは自ら庭まで出向き、リアを迎えた。霧で閉ざされた夕刻の庭は薄暗く、その中で見るリアの顔は吸血鬼に負けず劣らず蒼白だった。
「命短き娘よ、ここを吸血鬼の居城と知って訪ねてきたのか」
出会うなり正体を明かせば、リアはレオンティウスの赤い双眸を見て顔を引きつらせた。だがレオンティウスの目的が自らの身体にあるとわかると、かすれる声でこう言った。
「わたくしは、死ぬのは怖くありません……!」
その言葉は事実ではないようだったが、同時に嘘でもなく聞こえた。
「わたくしの命を奪うと仰るなら、どうぞお好きになさってください」
リアはそう言うと逃げも隠れもせず、ゆっくりと近づいていくレオンティウスを恐怖に凍りつく顔で待っていた。彼女は抱き寄せても抗わず、着衣を剥ぎ取られることも、その首筋に牙を突き立てられることも拒まなかった。むしろ望んで身体を差し出したかのようだった。
そしてレオンティウスがリアをすぐには殺さず、しばらく手元に置く気だと知ると、不思議と喜んでみせたのだった。
「ずっとお傍に置いていただけるのなら、わたくしも是非そうしたいです」
「お前の意思など聞いてはおらぬ。私が決めたことに従うのがさだめだ」
レオンティウスは城に置かれることを喜ぶリアを奇妙に思ったが、彼女が自分に何を求めているかは尋ねなくてもわかっていた。
彼女には死ぬか、吸血鬼の傍で生きるかという二つの選択肢しかなかったのだろう。
リアが城へやってきてからというもの、図らずもレオンティウスの生活は大きく変容した。
暁と共に起き上がり、まずは厨房に立つ。そして火を熾し、畑で採れた野菜を刻み、リアの為の朝食を用意する。
城の厨房もかつては領主達に豪勢な食事を提供するための場所だった。だが今では一人分の食事しか作られることはない。広い厨房に立って鍋でスープを煮込んでいれば、そのうち匂いに釣られてリアが寝室から起き出してくる。彼女が戸口から覗く気配は、振り返らなくてもわかる。
「目覚めたか、命短き小娘よ。そのか弱き身体の調子はどうだ」
「は、はい……おはようございます。少しふらふらいたしますが、平気です」
昨夜着ていたローブを羽織ったリアが、もじもじしながらそう答えた。
レオンティウスはリアを厨房の中へ手招くと、できたてのスープを匙で掬い、二、三度息を吹きかけてから差し出す。
「さて、お前の仕事だ。味を見ろ」
リアは素直に口を開け、匙を咥える。そしてスープをよく味わってから頬をほころばせた。
「美味しゅうございます。レオ様のお料理はいつも素晴らしいです」
「本の記述の通りに作っているからだろう。美味くできなければそれは本がおかしい」
料理をするようになったのもリアが来てからのことだ。それまでは食事をする為に火を熾す必要もなかった。レオンティウスは城の図書室に残されていた料理に関する書物をひもとき、リアが喜ぶ料理を日々拵えている。ただ作ったものを一緒に味わうことはない。
二十人が並んで座れる食卓に、リア一人だけが席に着く。レオンティウスは給仕をする。野菜のスープとパン、それに茹で卵という食事を、リアは心から味わって食べる。
「いつも美味しい食事をありがとうございます」
リアが傍らのレオンティウスを見上げて微笑む。
数十年間を一人きりで暮らし、人の美醜を気にする機会もなかったレオンティウスだが、リアが愛らしい娘であることくらいはわかっていた。とても人から恨みを買ったり、罪を犯して追われるような身には見えない。
「そうだ、私への感謝を怠るな。不味い食事を与えてもいいところを、あえてお前が喜ぶ食事にしてやっているのだからな」
レオンティウスはにこりともせずに応じた。
「全く、お前は毎日三度も食事を取らねばならぬから厄介だな。鶏より手がかかる」
「レオ様はお優しい方です。そんなに手のかかるわたくしに食事を用意してくださって」
「そう思うならもっと私に敬意を払うことだ。近頃のお前は私への畏怖を忘れている」
釘を刺すつもりで言った言葉をどう受け取ったか、リアはふっと目を細め、柔らかい眼差しをレオンティウスへ向けてきた。その視線には敬意も畏怖も含まれておらず、レオンティウスは思いきり顔を顰めるしかなかった。
異変が起きたのはリアが朝食を終えた後のことだ。
「レオ様、お洗濯をしてきてもよろしいでしょうか」
リアの問いかけに、レオンティウスは片手を上げて押しとどめた。
「ならぬ。誰かがここへ近づいている」
「え……?」
レオンティウスの強大な魔力は周囲の異変をも見通していた。城と周囲の木々を取り巻く霧を破り、何者かが城門まで辿り着こうとしていた。レオンティウスはいち早くそれを察知し、リアに鶏と雛達を隠すよう命じた。リアは迅速にそれを遂行し、彼らの避難が全て済んだ頃、錆びの浮いた城の門扉を蹴り開けようとする者がいた。
男ばかり六人ほど、誰もが鎧兜で武装している。そのうち五人は屈強な、一目見てもわかるほど手練れの兵で、残る一人はやや若いが鎧の上にサーコートを羽織っている。サーコートに記された紋様は蛇、リアの身体に刻まれているものと同じだ。
「お前の知己か。その身に蛇の紋様をまとった男だ」
事実を告げるとリアの顔から血の気が引いた。
「ま、まさか……レオ様、どうなさるのですか」
リアは小刻みに身体を震わせ、レオンティウスの腕に縋りついてきた。招かれざる客を怖がっているにしてもいささか過剰な怯え方だった。
「レオ様なら彼らを追い払うこともたやすいでしょう。お願いです、どうか遠くへ追いやって!」
彼女は懇願してきたが、レオンティウスとしてはこうもたびたび霧を打ち破られるのも癪に障った。今ここで彼らを追いやったとして、また不意の訪問を受けるのでは落ち着かない。怯えるリアの不安を払拭する為にも、懸念材料は潰しておくことに越したことはない。
「いい機会だ。迎え入れて、二度と来るなと警告してやろう」
そう答えるとレオンティウスは玄関ホールを目指して歩き始めた。
「レオ様っ!」
リアは制止するように主を呼んだが、レオンティウスが振り向かないと見ると慌てて後をついてきた。
城の門扉を蹴り開けた連中は、中に広がる庭の生活感ある風景に揃って眉を顰めた。各々が得物を構えて辺りを用心し始めたが、急に温い風が吹いたかと思うとばたばたとその場に倒れ伏す。屈強な男どもがあっという間に力を失くして地面に崩れ落ち、その場に立っているのはサーコートをまとう若い男だけだった。残った青年は恐怖と警戒心をあらわにしながら連れの生死を確かめた後、意を決した表情で城の玄関の扉に手をかける。何の抵抗もなく扉は開き、そして彼が城内へ立ち入った後、音を立てて閉ざされた。
「我が城に何の用だ、短命の者よ」
玄関ホール奥の階段の上で、レオンティウスは青年と対峙した。
直に見ると思った以上に若い青年だった。髪は黒く瞳は緑、顔立ちもどことなくリアに似ていた。だが恐怖が張りついた表情の中、瞳には憤怒の炎が燃えていた。
「吸血鬼……! 私の兵達に何をした!」
よく通る声が玄関ホールに響くと、レオンティウスの陰に隠れていたリアがはっと身を硬くした。
「騒ぐな、眠らせただけだ。お前こそ私の問いに答えよ」
レオンティウスは鼻を鳴らして応じる。
すると青年は構えた剣の切っ先をレオンティウスへと向け、虚勢を張るように怒鳴る。
「ここに私の妹がいるはずだ! 黙って差し出せば吸血鬼風情は見逃してやる!」
「見逃すだと? 命短き小僧が生意気な口を利くものだ」
レオンティウスがそう言った瞬間、青年の身体は強い風に呷られたように大きく後ろへ吹き飛んだ。そのまま背中から閉じた扉にぶつかり、耳障りな音を立てて床に転がる。吸血鬼の見えざる腕が彼を弾き飛ばしたのだ。
だがそれに、リアが悲鳴を上げた。
「兄上!」
リアはレオンティウスの陰から飛び出し、階段を駆け下りて青年の元へ走った。床に倒れたままの青年を助け起こそうとする姿を、レオンティウスは眉を顰めて見守る。
「うう……っ、リア、お前か……」
妹の手を借りてよろよろと起き上がった兄は、しかし呻いた直後、腕で妹の首を締め上げるように引き寄せた。すぐに剣を拾い、その喉元に突きつけようとする。
「お前さえ死ねば、私は!」
「あ、兄上……」
リアは兄の行動にさほど驚く様子もなかった。ただ悲しみに溢れた表情で、兄と兄が持つ剣の鋭さを見つめている。
「よせ、その小娘は私のものだ」
レオンティウスは青年を睨みつけ、警告した。
「小娘に傷一つでもつけてみろ、お前を生きては帰さぬぞ」
「やれるものならやってみるがいい!」
リアの兄はなぜか強気だった。虚勢だけではない凄味がその返答にはあった。
だからレオンティウスは見えざる腕を振るい、青年をリアの身体から強烈に叩き落とした。青年だけが今度は横に吹っ飛び、拘束を解かれてよろめくリアを見えざる腕が抱き留めた。彼女はそのまま宙に舞い、飛ぶような速さでレオンティウスの元へ戻ってきた。それを本物の腕で受け止めると、レオンティウスの身体にはリアの温もりが戻ってくる。彼女は震えていた。瞳が涙で潤み、今にも泣き出しそうだった。
「レオ様、兄を、わたくしの兄を殺さないで……!」
「だが彼奴はお前を殺そうとした」
レオンティウスには理解不能だった。自らを手にかけようとした兄を、リアはなぜ庇うのか。
「放っておけばまた、彼奴はお前に刃を向けるぞ」
「存じております。兄は、わたくしに刻まれた祝福の力を奪い取ろうとしているのです」
リアが目を伏せると、涙が溢れ出して彼女の頬を伝った。
「わたくしの身体の紋様は、一族に与えられる祝福の証。あれを持った者が同族の血を浴びると、その祝福が増大すると言われております」
確かにリアが持つ祝福よりも、彼女の兄が持つ力の方がより大きいようだ。恐らく彼女の兄は既に――。
「わたくしどもは元々、小さな国で庇護を受けて暮らしていた祝福の担い手です。しかし我が国に新しい王が現れた時、わたくしどもは更なる祝福を得る為に刃物を握らされ、同族と殺しあうように仕向けられました。兄は父と母を従兄に殺され、代わりに従兄とその兄弟達を殺しました。そうして一族は次々と命を落とし、最後に残ったのが――」
「私とお前だ……リア!」
再び立ち上がった青年が妹の名を、憎しみを込めて呼んだ。
「自らは手を汚さず、王の命に背いて逃げ出した上、まさか吸血鬼の愛人になっていたとはな! 血を啜るおぞましい化け物におもねるお前など、もはや妹ではない!」
その言葉にリアは息を呑み、レオンティウスはせせら笑った。
「それがどうした。大義名分を得て妹殺しを正当化する気か、短命の小僧よ」
「なっ……」
たちまち青年の顔が怒りに歪んだが、その直後に彼はまたしても見えざる腕に薙ぎ払われた。床に叩きつけられた時に鈍い音がしたので、腕の一本でも折れているかもしれない。
「あ、兄上……!」
リアは涙を流し、その場から一歩踏み出そうとした。
だがその行動を、レオンティウスは彼女を抱き締め制止した。両腕で、力を込めて、リアの温かい身体をきつく抱く。
「もう行くな」
呆然とするリアに、レオンティウスは言い聞かせるように囁いた。
「どこへも行かず、私の傍にいろ、リア」
次に行かせてしまえば、本当にリアを失ってしまうかもしれない。そんな恐れがレオンティウスの中にはあった。
リアはしばらくの間、冷たいはずのレオンティウスの腕に黙って抱えられていた。だがやがて小さく頷き、レオンティウスの身体に自らも腕を回し、抱き締め返してきた。
「……レオ様」
その名を呟いた後、リアは三度起き上がろうとする兄を真っ直ぐに見つめた。涙を拭った後の顔に、敢然とした決意の色が滲んでいた。
「兄上! 仰る通り、わたくしはもうレオ様の――この方のものでございます!」
リアが声を張り上げる。
「わたくしはもうこの方の虜、この城からは離れられぬさだめ。どうかわたくしのことは死んだと思い、国へお帰りください!」
そう叫んだ後、リアはレオンティウスを見上げる。緑色の瞳を潤ませ、懇願するように。
レオンティウスは彼女の意図を察し、深く頷いた。
「聞いての通りだ、小僧。お前の妹はとうに私のもの、誰に渡すことも、この城から離れることもできぬ」
そして歯を食い縛りながら上体を起こし、必死に立ち上がろうとする青年へと告げた。
「どうせその身体では私に太刀打ちもできまい。今すぐここを立ち去り、妹のことは忘れるというなら、リアに免じて命だけは助けてやろう」
青年はふうふうと荒い呼吸を繰り返し、剣を杖代わりにしてようやく立ち上がった。額からは血が流れ、顎を伝って雫となりサーコートを汚していた。兜や鎧はところどころひび割れており、もう使い物にはならないだろう。
「な、なぜ……情けをかける。化け物が、吸血鬼風情が……!」
彼の呻き声にリアはまた涙を零し、レオンティウスは静かに答える。
「リアがそう望むからだ。それ以外の理由は何もない」
極めて単純な答えを聞き、青年は愕然としていた。
まるで悪い術にでもかかっていたように、そうして今ここでその術が解けたかのように、呆けた顔で抱き合う二人を見つめていた。自らが何を失くしたのか、今頃になってようやく気づいたのかもしれない。
レオンティウスが扉を開くと、剣を杖代わりにした青年はふらふらと城の外へ出て行った。振り向くこともなければ、歩みを止めることもなく、どこかを目指してうつろな目つきで歩き始めた。途中でレオンティウスの術にかかり、連れの五人の兵達と共に森の外へ放り出されたことすらわからなかったことだろう。
リアは怪我こそしていなかったが、その晩、少し熱を出した。
「申し訳ございません、レオ様……ご迷惑ばかりおかけして……」
寝台に横たえてやると彼女は涙を流したので、レオンティウスは唇でその涙を掬い、彼女の髪を撫でた。
「泣くな、リア。お前の涙は、お前の血ほどは甘くない」
「レオ様……」
そこでリアは小さく笑い、深く息をつきながら語り始めた。
「兄の憤りももっともなのです。兄の言う通り、わたくしは一度も手を汚さなかった。兄がわたくしを守る為に人を殺めたこともあったというのに……わたくしは手こそ汚しておりませんが、罪深さでは同じことです」
肩口を毛布で包まれたリアが、枕元に寄り添うレオンティウスに手を差し出す。小さく、ほっそりとした、染み一つないきれいな手だった。レオンティウスがその手を握ると、心地よい体温が手のひらに伝わってきた。
「でも、それでもわたくしは……兄を殺すのも、兄に殺されるのも嫌でした。だから……」
リアは逃げた。
逃げた先でこの城に辿り着き、そしてレオンティウスと出会った。
「私の傍らで、私の庇護を求めたというわけか」
レオンティウスが聞き返すと、リアは悲しげに眉尻を下げた。
「申し訳ございません、レオ様」
「なぜ謝る。よもやこの私が、お前に事情のあることを見抜けなかったと思っているのか?」
するとリアは緑色の美しい瞳を見開く。
「ご存じだったと、そう仰るのですか、レオ様」
「お前が追われていることくらいは察しがついた。私の慧眼は短命の者とは質が違うのだからな」
レオンティウスが首を竦めた時だ。
ふとリアが瞬きをして、それから口元を緩めるように笑んだ。
「レオ様。今日はお食事中でもないのに、わたくしを名前で呼んでくださいましたね」
それでレオンティウスははたと気づき、ここまでの自らの言動を事細かに振り返った後、顔を顰めて答えた。
「……『命短き小娘』といちいち呼ぶのも煩わしいからな。ただの気まぐれだ」
「それでも嬉しいことです。また呼んでいただけますか」
「気が向いたらそうしてやる。さあ、そろそろ休め」
レオンティウスはリアを促したが、リアは氷のように冷たいはずの手を離さず、ひたむきに見つめてくる。
やむを得ずレオンティウスはその名を呼んだ。
「リア、また明日」
「はい……」
リアは満足げに目を閉じ、ややしばらく後に安らかな寝息を立て始めた。
彼女が眠りに落ちた後、レオンティウスはその幸せそうな寝顔を眺めていた。
吸血鬼に囚われた娘がこんな寝顔を見せるとはおかしな話だ。そもそもその身に祝福を受けたはずのリアが吸血鬼の城に行き着くこと自体、大きな災いであるはずだった。なのになぜリアはこの城の中でよく笑い、楽しげに振る舞い、時にレオンティウスの言葉一つでたまらなく嬉しそうな顔をするのだろう。
レオンティウスは釈然としない思いで寝台に上がり、リアの身体を抱き締めながら自らも横になる。毛布越しに伝わってくる温かな熱が、懐かしく胸の奥をくすぐるようだった。
怒りも悲しみも後悔の念さえも遠くに過ぎ去ってしまった今、自分の中に残っているのは吸血鬼らしい欲求と渇望だけだと思っていた。だがそんな自分にも、失くしたくないものができたらしい。
「また明日、か」
先程自分で呟いた言葉を繰り返し、レオンティウスも目を閉じる。リアが眠りに落ちた以上は起きていてもつまらない。それに明日も早くに起きて、リアの為に朝食を用意してやらなければいけない。
真夜中に眠り、暁に目覚める吸血鬼。
随分変わった存在に成り果てたものだと、微睡むレオンティウスは思う。