Tiny garden

幽谷町であった怖い話:上渡編

「会長さん、お願いしていい?」
 迷った末、私は上渡さんにお願いすることにした。
 すると、当の上渡さんより先に大地が言った。
「何でだよ」
「だって、最初に声かけてくれたの会長さんだし」
 私が答えたら答えたで、大地はむっとしたように口を閉ざす。
 やっぱり機嫌損ねちゃったな。私のことは笑っておいてこうなんだから、気難しいなあ。
 そんな大地に、
「すぐに戻ってくる。待っていてくれ」
 上渡さんは優しく告げた後、私の方へ向き直った。
「そういうわけだから片野さん、急いで取って来よう」
「うん」
 私も頷く。教室までだから、すぐに行って戻ってこれるはず。
「じゃあ、行ってくるね」
 そう言って、生徒玄関から取って返す私の背後で、
「ねー黒川先輩、雨大丈夫だと思う?」
「雨で済めばいいけどな。嵐来るぞこれ」
 栄永さんと黒川さんの、どこか不穏な会話が聞こえてきた。

 その言葉通り、階段を上がってすぐの廊下はすっかり陰っていた。
 窓の外には雲が張り出す暗い空が広がっていて、差し込んでいた目映い西日も消えている。急な天候の変化のせいで、廊下には明かりも点いていない。何だかすごく不気味な雰囲気だった。
 今日は傘を持ってきてない。雨にならないといいけど。
「空が暗いな……」
 上渡さんも外を気にしている。歩きながら私を見て、申し訳なさそうに続けた。
「僕は余計なことを言ったのかもしれない。済まなかったな」
「そんなことないよ」
 私は慌ててかぶりを振る。
「会長さんが声かけてくれて嬉しかった。一人だと怖かったから」
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいよ」
 ふっと、上渡さんの表情が和む。
 高校生にしては精悍で、強面とも言える上渡さんだけど、同好会の皆に見せる表情は落ち着いていて柔らかい。
 私も、見ていてほっとする。大人と歩いてるみたいな気がするから、かもしれない。
「でも少しだけ、緊張するな」
 上渡さんが、不意に私から視線を外した。
「そう? 会長さんでもやっぱり怖い?」
「それはない、その点は頼ってくれていい。ただ……」
 力強い言葉の後で、声が少しだけ上擦る。
「君と二人で話すのが、久し振りだと思って」
「そうだった?」
 久し振りと言われて驚いた。
 上渡さんとは同好会でよく会うし、学校も同じだし、緊張するほど話してなかったとは思えない。
「僕にとっては、かな。君と二人でいることは滅多にないから」
 ちょうど教室に差しかかって、戸口近くにある照明のスイッチを上渡さんが全て点けてくれた。
 たちまち白っぽい光で教室内が照らされる。
 窓から見える空は、今にも降り出しそうな曇天模様だ。急がないと。
「そういえば、一学期に二人で帰って以来かもね」
 自分の席から補助バッグを回収しつつ、私は懐かしい記憶を手繰り寄せる。
 上渡さんと二人で話をしたことって、そういえばあまりなかったな。
「それか、一緒に大地を迎えに行った時以来?」
「電話でなら話したな。夏休みに入ってすぐ」
 私が教室の中にいる間、上渡さんは戸口に立って、待っていてくれた。
 そしてバッグを提げた私が戻ってくると、
「もういいかな。明かり、消すよ」
「うん」
 上渡さんは教室の照明を消し、私達は薄暗い廊下を引き返す。

 再び並んで歩き出しながら、話を続けた。
「夏休みって言うと、私の誕生日の時だよね」
「ああ。覚えててくれたのか」
「忘れないよ! あの時はありがとう、祝ってもらえて嬉しかった」
 七月三十日、私の誕生日には同好会の皆からお祝いの言葉を貰った。今までで一番嬉しい誕生日だったな。大地も一緒だったし。
「こちらこそ、忘れないでいてくれてありがとう」
 そんなことにお礼を言うなんて、上渡さんらしいと思う。してもらったのは私の方なのに。
 私が笑ってしまったからだろうか。そこで上渡さんは照れたように目を伏せた。
「あの時、僕は、おかしなことを言わなかっただろうか」
「え? ううん、そんなことなかったと思うけど」
「……なら、いいんだ。よかった」
 それからおずおずと、慎重な口ぶりで言った。
「君と話す時、僕はどうも余計なことばかり言ってしまう。話したいことがたくさんあるせいで、話す前にもっと整理しておくべきかもしれない」
「そ、そんなに気を遣う話かな……」
「気を遣っているわけではなくて、後悔したくないからだよ」
 生真面目な人らしく、真摯な口調で上渡さんは語る。
「君と話した後、言い忘れたことやどうしても言えなかったことを思い出して、悔やむのが嫌なんだ」
 私はその言葉を、なぜだかすごく重大なもののように思った。
 重大、という表現が適切かどうかはわからない。でも上渡さんは、私と話をすることをとても重く――もしかすると貴重なものとして捉えているようだった。
 どうしてなんだろう。上渡さんとは同好会でよく会うし、二人で話そうと思えばその時だってできるはずなのに。相談したいことがあるというわけでもないようだし、話し相手が欲しいのかな。
 前に言っていたみたいに、秘密を抱えていなくてもいい相手が。
「もし話したいことがあるなら、いつでも電話していいよ」
 だから私は、そう言ってみた。
 上渡さんが静かに目を瞠る。
「本当に?」
「もちろんだよ。前にもそう言わなかったっけ」
 私が、二度目に化学室を訪ねた時に。
 そう言えばあの時も二人で話したな。『いつでも連絡してください』、そう告げていたはずだった。
 上渡さんも思い出したんだろうか。私をじっと見ている。
「言ってくれてたな。本当に、迷惑じゃない?」
「うん。いつでも話し相手になるよ」
「片野さん……ありがとう」
 口元が緩んだような、微かな照れ笑いが浮かぶ。
 大人びてはいるけど、上渡さんは、私と同じ十七歳だ。今の笑い方は確かに少年らしかった。
「わがままついでに、その、もう一つ頼みがあるんだが」
 生徒玄関へ続く階段を下りる途中、上渡さんが続けた。
 さっきのことだって、わがままだなんて思っていなかったけど、私は頷く。
「私にできることなら、いいよ」
「ありがとう。もしできたら、君のことを――」
 そう言いかけて、急に足を止めた上渡さんは、深刻そうに唇を結んだ。
 しばらく黙り込んだ後、迷うように口を開いて、
「……いや、やっぱり今度にするよ」
「そう?」
「まだ決めてなかったから、次までに考えておく」
 随分固い決意みたいに、そう言った。
 何を考えておくんだろう。気になったけど、聞けなかった。

 生徒玄関には、大地一人だけが待っていてくれた。
 やっぱり不機嫌そうな顔で靴箱に寄りかかっていて、だけど私達が戻ってくると、少しほっとしたように靴箱から離れた。
「黒川と栄永は?」
 上渡さんが真っ先に尋ねると、大地は形のいい眉を顰める。
「帰った。雨降る前にっつって」
 そう言うだけあって、外は未だにどんよりとした曇り空だ。いつ一雨来てもおかしくない雰囲気だった。
「大地、待っててくれてありがとう」
 私が告げると大地は曖昧に頷く。
「すっげえ待った。犬じゃねえんだからあんま待たせんなよ」
「そんなに時間かかってた? ごめん」
「体感時間はものすごかった」
 一人で待っているのは寂しかったんだろうな。肩を竦める顔が複雑そうだった。
「それは悪いことをした。寄り道をしたつもりはないんだが」
 上渡さんはそう言うと穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、三人で帰ろうか」
「そうだね」
 私達は靴を履き替え、生徒玄関から外へ出る。

 幽谷高校からの帰り道、私達はずっと一緒だ。
 上渡さんのおうちは山北の商店街から旧農道を挟んで南にある。だから商店街までは同じ道になる。
「不躾な頼みとは思うが、できれば機嫌を直してくれるとありがたい。僕も傘を持ってきていないんだ」
 歩きながら、上渡さんが大地に言う。
「うるせえよ。直せって言われて直るもんじゃねえだろ」
 大地はしかめっつらで言い返す。
 私達の行く先には、雲の立ち込めた空が広がっている。でも気のせいかな、さっきより雲が薄れてきて、隙間からは微かな星の光が覗いていた。
「ね、どうしたら直る?」
 今度は私が尋ねてみる。
 すると大地は私を見下ろし、ふんと鼻を鳴らした。
「どうもこうも。そんな簡単に俺の気分を変えれると思うなよ」
「でもさっきより空晴れてきてるよね」
「本当だな。稲多くん、ありがとう」
「うわっ、馬鹿見んな! 空見んなよお前ら!」
「そう言われたって見えちゃうんだもん、仕方ないよ」
「必要のない時は見ないようにするよ。約束しよう」
 上渡さんがあまりにも真面目に答えたからだろう。
「何だよそれ」
 大地はそこでたまらず吹き出して、そうすると空が一気に晴れてくる。
 不思議なことに――理由は知っているんだけど、不思議なほどあっという間に、雲一つない夕暮れの空が戻ってきた。
「会長さんって微妙に天然だよな……」
「ああ、よく言われるよ」
「そこで肯定するとこがまたそれっぽいよな」
「僕は生まれてこのかたこの通りだ。それこそ直しようがない」
「だろうな。話してるとこう、いろいろ根こそぎ持ってかれるわ」
「では、君の苛立ちや憂鬱も持っていけるといいんだが」
「……そういうとこ、マジで天然だな」
「誉めてくれたのなら嬉しいよ、ありがとう」
 隣では上渡さんと大地が、噛み合っているような噛み合っていないような会話を続けている。聞いていると、ちょっとおかしい。
 今度は私が吹き出してしまって、すると上渡さんが嬉しそうにする。
「片野さんにも笑われてしまったな」
「何でそこで喜ぶんだよ。わかんねえな」
 大地は溜息をついたけど、私の方をちらりと見て、同じように笑った。
「……いや、わかるか。笑ってる方がいいや」

 私達の頭上の空は、もうじき一面の星空になりそうだ。
「私も、晴れてる方がいいな」
 残照が染め上げる空を見上げて、私はそっと呟いた。
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