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男性心理の単純さについて

 昼休みになると、一度は部室を覗くようにしている。
 時々、映子がいるからだ。
 今日もいた。机に向かって、何か書き物をしている。部室のある廊下一帯は割と静かで、ペンのかりかり言う音まで聞こえてきた。夢中になっているのか、戸口から俺が様子を窺っているのにも気付かない。
 スランプだと言っていた頃もあったけど、最近はまた脚本書きに打ち込むようになったらしい。何事もなかったみたいに熱中している映子を見て、一緒に悩んでやった時間に意味はあったんだろうかと、内心複雑だった。まあ、元気でいてくれるならいいことなんだろう。多分。

「調子、どう?」
 声を掛けながら部室に立ち入る。途端、映子はペンを持つ手を止め、振り向く。
「あれ、氷見」
 俺の名前を呼んでから、機嫌のよさそうな顔で笑う。
「まあまあかな。本調子とはいかないけどね」
「スランプ、脱却出来た?」
 尋ねて、俺は椅子を引く。映子のすぐ隣に座る。意外に女の子らしい字でびっしりと埋め尽くされたルーズリーフが目に入る。中身は、読む気になれない。
「どうなんだろ……」
 映子が首を傾げた。笑い顔がふと曇る。
「何か、よくわかんないんだよね。自分で、自分が面白いもの書けてるのかどうか」
「へえ」
「前みたいに、自分の書くものに満足してるかって言ったら、そうでもない。でも、今書いてる以上のものが書ける気もしない、みたいな……妥協したい訳じゃないんだけどね」
 そう言って彼女はかぶりを振る。自信を取り戻せたということではないらしい。俺としては、映子がスランプになってようがいまいが、いち演劇部員として存在してくれているだけでありがたいくらいだけど。
 ただ、あまりにも長かった。映子が映子らしくない時期が随分と続いてしまった。その間だって何もしてなかった訳じゃなく、腹筋やら発声練習やら、はたまた既製の脚本の読み合わせやらをやってみたけど、ふとした時にスランプのことを思い出した彼女は、その度に表情を曇らせた。自分にはホンを書くことしかないんだとでも言いたげに、ずっと囚われたままでいた。
 今はもう十月だ。来月にはうちの高校の文化祭がある。もちろん、演劇部もステージに上がる。俺はまだ一年あるけど、映子にとっては最後の文化祭となる。彼女にしてみれば、ここで結果を出さなければと躍起になっているんだろう。また以前のように、脚本書きに夢中になっている。
「面白くなくてもいいから、まともな奴を書いて欲しいな、俺は」
 口では混ぜ返すように言ってやる。挑発に乗り易い映子は、たちまち鼻の頭に皺を寄せた。
「うるさいなあ。どうせ私の書くものなんて、氷見にとっては全部まともじゃないって言うんでしょうが」
「今まで書いたので、まともな奴って何かあったっけ?」
 購買で買ってきたパンを開けながら、俺は彼女に笑みを向けた。返ってくるのはもちろん、きつい視線だ。
「おしなべて、まともなホンばかりだったと思ってるけど」
「それは映子の趣味がおかしいんだろ」
「……覚えてなさい。今度のお芝居には、この上なく恥ずかしい台詞を随所に仕込んでやるんだから」
 拗ねたような顔の映子は、ちょっと可愛い。売り物になりそうにない、不細工な猫みたいな顔をしている。その顔と、こんな馬鹿馬鹿しいやり取りをしていられるのも今のうちだけだ。
 文化祭が終われば、映子は演劇部員じゃなくなる。肩書きが『受験生』ただ一つになる。それでも俺の彼女ではいてくれると思う。多分。
 俺が、演劇や部活動以外の要因でも、映子を繋ぎ止めていられたら。
「で、今はどんな話を書いてんの」
 パンをかじりながら探りを入れてみる。不細工な猫の顔がぱっと明るくなって、うれしそうに言われた。
「よくぞ聞いてくれました! 実はねえ、身近なところっていうか、実体験からヒントを得たストーリーなの!」
「へえ……」
 嫌な予感がした。どうせまたろくでもない話になりそうだ。
「ほら、氷見も覚えてるよね? 夏に駅前で待ち合わせした時、私がナンパされかけたことあったじゃない」
「……ああ」
 あったな。あれは俺と映子が、初めて校外でデートらしいデートをした時の話。待ち合わせ場所に行ったら、映子が見知らぬ男に、それもいかにも軽そうなのに引っ掛かってた。あの時はさすがに馬鹿かと思ったな。今でも馬鹿だけど。
「その時の話を元にね、軽薄な男が身を持ち崩して、人生の坂を転げ落ちていく話を、笑って泣けるストーリーに仕立てようと思ってるの!」
 転んでもただでは起きないのが彼女らしい。映子は意気揚々と続ける。
「ナンパなんていう場当たり的な行動に走る、男性心理の単純さがテーマなんだ。どう? 面白そうだと思わない?」
「どうって……」
 俺は思わず顔を顰めた。ひしひしと嫌な予感。一応、尋ねてみる。
「その『軽薄で、身を持ち崩して、人生の坂を転げ落ちていく男』ってのは、一体誰が演じるんだよ」
「何言ってるの。氷見に決まってるでしょ!」
 だろうと思った。他にはいないもんな。
 頭を抱えたくなる。何が悲しくて、彼女にとって最後となる文化祭のステージで、そんなろくでなしを演じてやらなきゃならないんだ。そのくらいなら、以前のような王子様だの何だのの方がまだましだ。
「絶対、氷見なら演じ切れると思う」
 とは言え、映子はやる気だ。
「きっといい舞台になるよ。その為に私も頑張るからね、有終の美を飾れるように!」
 俺の心中なんて放ったらかしで、映子は一人気炎を上げている。有終の美を飾るつもりらしい。そりゃ、スランプでくよくよされるよりはいいんだろうけど。
 大体、映子みたいな女に男性心理なんかわかるものだろうか。絶対わかるはずがない。近頃じゃ受験勉強と脚本書きを理由に、デートすらお預けを食らっている状況。どれほど俺が我慢させられてるか、これっぽっちもわかってないに違いない。
 今だって、部活以外でも会う時間を作ろうと、こうして貴重な昼休みにもわざわざ出向いてやってるのに。映子はてんでわかっちゃいない。スランプならスランプだけ、脚本書きなら脚本書きだけと、いつだって他のことに掛かりっきりで、俺の気持ちは後回しだ。全く手に負えない。
 俺が溜息をつくと、映子が部室の壁時計を見た。
「あ!」
 即座に声を上げ、ペンをペンケースへ、ルーズリーフは鞄へ、それぞれ片付け始める。
「そろそろ教室に戻らないと。氷見はまだいる? 電気、消してってくれる?」
「まだ十分以上あるのに、もう戻るのか?」
 こちらも時計を確かめつつ、質問に質問で返す。すると、手荷物をまとめ終えた映子はもう席を立っていた。にっこり笑って答える。
「次の授業、宿題出てたんだ。友達と答え合わせする約束してたから、早めに戻らないとね」
「なら、初めから教室で書いてりゃいいのに」
 負け惜しみみたいな心境で俺が言うと、すぐに苦笑された。
「こんな歯の浮くような台詞、教室で書いてられる訳ないよ」
 自覚はあるらしい。映子なら人目も憚らずに書いてそうだと思ったのに。
 ともあれ、彼女はさっさと部室を出て行った。後に残されたのは俺一人。食べかけのパンが途端に味気なくなる。

 空しい。
 何が空しいって、まるで相手にされてない、この状況がだ。
 二人きりの部活で、一応、お互いに付き合ってる関係。そうでありながら部室に二人でいても、何の恋人らしさもない。甘い台詞やら気障ったらしい芝居が好きなはずの映子は、こと自分の場合に関してだけ、そういう雰囲気を煙たがった。自分がヒロインになるのは見栄えが悪いから許せないらしい。どういう理屈なんだか。
 たった一年のハンデなんてどうってことないはずだった。精神的にも経験値でも映子より絶対勝ってるはずなのに、まともに相手もしてもらえない。映子にとっての恋愛沙汰は、いつだって他人事だ。それは映子が大人だからではなくて、むしろガキだからだと思う。年上なのに子どもっぽい。単純さで言ったら、絶対に彼女の方が勝ってる。そんな奴に男性心理の単純さなんてテーマが書けるものか。言うほど単純なものじゃない。
 それでも、彼女にとって高校生活最後の文化祭。どうにか花を持たせてやりたいと思う。たとえろくでなしの役でも演じ切ってやろうと思う。俺の声が好きだと言ってくれた彼女の為に。
 ――好きなのは声だけなんじゃないか、とも思う今日この頃だけど。俺、本当に映子の彼氏なんだろうか。

 気分が鬱々としてきたその時、ふと、映子のいた机の上に目が留まった。
 鈍い銀色のペンケース。映子の使っている奴だ。あんまり急いだんで忘れてったんだろうか。
 午後の授業だってあるだろうし、ペンがないと困るだろう。全くしょうがない先輩だ。こっちだって貴重な昼休みだっていうのに。俺は溜息をつきつつ、食べかけのパンを口に押し込んだ。ペンケースを掴んで立ち上がる。
 その足で、映子のクラスへと向かう。

 三年生の教室へ行くことはあまりない。せいぜい、教室移動の時に前を通りかかるくらいだ。
 映子のクラスに行くのも初めてで、さすがにちょっと緊張した。映子相手ならともかく、他の先輩がたには敬語を使わなきゃならない。それでなくともネームプレートや上履きの色で学年の判別がつくシステム。二年生の俺は、三年生ばかりのいる一帯では明らかに浮いていた。時折視線を感じつつ、背筋を伸ばして廊下を歩く。
 彼女のクラスは知っていた。教室を覗き込んでみる。
 映子は……すぐに見つかった。教室の隅の方で、他の女の子数人と机を囲んでいる。皆で何か喋っては、その度にげらげら笑い転げてる姿が見えた。
 やけにいい笑顔で、ちょっとむかついた。部活に顔を出してる時よりも楽しそうだ。
 こうして見ると、映子は普通の女の子みたいだった。あんな歯の浮きそうな台詞を書いたり、気障ったらしい芝居を好んでいるようには見えない。魅惑のベルベットボイスやら、ハリウッド女優のボディメイクやら、ニューヨーク在住の自立するキャリアウーマンやら、そんな突飛な事は言い出しそうにない普通の女子高生がそこにいた。
 スランプなんて微塵も感じさせない顔。自信のなさだってどこにもうかがえない。どこにでもいるような女の子は、今が一番楽しいといった様子で笑っている。何にも囚われていない顔。
 その顔を遠目に見た俺は、声を掛けるのをためらいたくなった。割り込んでいく気には到底なれなかった。ペンケースは誰かに預けて、渡してもらおうかとさえ思った。
 同い年の子となら、ああいう顔も出来るんだろうか。年下といるのは楽しくないんだろうか。一年のハンデが急に、やたらと重く感じられた。結局いつだって、俺の入る余地はどこにもないような気がした。

 だけど、そこへ、
「あれ? 映子の彼氏じゃない?」
 声が掛かった。
 一瞬、反応が遅れた。自分のことだと思えなかった。まさか映子が、俺のことを他の誰かに話しているとは思っていなくて、それで。
 俺に声を掛けてきたのは、これまたどこにでもいるような女子の先輩だった。派手でも地味でもないその子は、教室にいる時の映子に似ていた。俺の顔を見てにこやかに言ってきた。
「ね、そうだよね? 演劇部の子でしょ?」
 自分のことだ、とやっとわかった。慌てて答える。
「そうです。二年の氷見です」
 すると、見知らぬ先輩はもう一度笑った。
「やっぱり。映子に用事なの? 呼んであげようか」
「え……いや、あの」
 ペンケースだけ渡してください、と頼む暇はなかった。俺の答えすらさて置いて、その先輩は教室の中に向かって叫んだ。
「映子っ! 氷見くんが来てるよー!」
 教室の中で、映子がはっと顔を上げる。周りを囲んでいる女の子たちも同様に。そしてこちらを見るや否や、口々に、
「あ、本当だ。映子、彼氏が廊下にいるよ!」
「へえ、あの子? あたし初めて見たよ。可愛いじゃん」
「演劇部の後輩くんを誑かしたんだって。ねー、映子?」
 囃し立てる声の中、映子が拗ねた顔で立ち上がる。
「誑かしてなんかないよ、普通に付き合ってるのっ!」
 一言、他の子たちに言い返したあとで、廊下へと歩いてきた。そして俺の前に立つ。こっちの顔を見るなり、照れ笑いを浮かべる。
「珍しいね、氷見。何か用だった?」
 教室の中からは、まだ冷やかしの声が聞こえてくる。映子を呼んでくれた先輩も、どこかからかうような視線をこちらに向けてくる。珍しい気恥ずかしさに身を置いて、俺も普通にしているのが難しかった。
「これ」
 ペンケースを、映子に差し出す。
 映子が瞬きをする。
「私の?」
「そう。部室に忘れてっただろ」
「ああ、そうだったんだ。ちっとも気が付かなかった」
 手渡すと、映子は笑顔でそれを受け取る。
「わざわざありがとね。助かっちゃった」
 普段よりも素直な態度に見えていた。

 男性心理なんてものは、言うほど単純じゃない。
 俺だってそうだ。映子みたいに単純な人間じゃないはずだ。
 でも、――こんな些細なことがうれしかった。映子が俺のことを、他の人間に、普通に話してくれてたこととか。ついさっきも、ごく軽い調子で付き合ってることを肯定してくれた、こととか。あるいはたった今、いつになく素直に礼を言ってくれたこととか――。
 単純じゃない。そう思いたかったけど、今の俺は限りなく、単純に近かった。はっきり言って、うれしかった。むちゃくちゃうれしかった。

「気を付けろよ」
 言いながら、笑いを堪え切れなかった。
 当然、映子には見咎められた。
「何か氷見、随分うれしそうだね?」
「いや別に」
「そうかなあ。妙に機嫌よさそうじゃない。それとも猫被ってる? ここ、三年の教室だから」
 そんなの、お互い様だ。俺は映子の、普段の突飛さを知ってる。あの頭の中にしまい込まれた甘い台詞や気障な芝居を知ってる。普段、教室にいる時は、おくびにも出さないようにしてるらしいけど。
 けど、そういう時でも俺は、ちゃんと映子の中にいる。ただの後輩じゃなくて、演劇部仲間じゃなくて、彼氏として存在してる。ものすごくうれしいことだ。
 たったそれだけのことで、気分がよくなるから、不思議だ。
「ホン書き、頑張れよ」
 去り際に声を掛けたら、映子は怪訝そうな顔をした。
「あれ、応援してくれるの?」
「まあ一応は」
「私の書くものは好みじゃないんでしょ? いいの? 私、頑張っちゃうよ?」
 好みじゃない、とは違う。まともじゃないんだ。映子の書くものは。
 でも、最後の文化祭だから。映子の望む役を演じてやる。映子が好きだって言ってくれた声で、映子の創り上げた台詞を告げてやる。
「いいよ」
 俺は頷いた。そして、いつの間にか教室の戸口辺りに集まっていた、映子のクラスメイトたちには聞こえないような声で、言い添えた。
「その代わり、上手くいったらご褒美な」
「ご褒美?」
 つられるように映子も声を落とす。眉を顰めている。
「そんなに高いものは無理だよ。私、お小遣い少ないし」
「安心しろよ。元手の要らないものだから」
「は?」
 彼女が口をぽかんと開けたタイミングで、ちょうど予鈴が鳴った。だから俺は映子に笑いかけ、先輩がたには愛想よく会釈を送って、それから自分の教室へと歩き出す。

 男の心理が単純だって言っただろ? だったらそいつを試すいい機会じゃないか。
 俺だって、メリットさえあれば脚本に合わせて単純になってもいい。映子の笑顔と、ご褒美と。それだけあれば満足な、単純な男になってやる。――ただし、元から単純なんてことはない。断じてない。
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