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勝負には勝ちたい(1)

 二年に進級して今のクラスになってからすぐ、カラオケに誘われた。
 誘ってきたのは四月から同じクラスになった男子数人で、あまり喋ったことない奴がほとんどだったが『向坂さんもお暇でしたら是非!』と誘ってくれたのは正直嬉しかった。その日は部活も休みで自主トレだけの予定だったから、カラオケなんてあんまり行かないし知ってる曲もわずかだったが、せっかくだから付き合うことにした。
 それなりに楽しく遊んで、ぼちぼち帰るかって集団で街中歩き出した時、偶然にも妹と出くわした。

「あっ、お兄ちゃん! 何してんの?」
 駆け寄ってくる海はランドセルこそ背負ってなかったが、時刻はもう午後五時を過ぎていた。
「お前こそ何してんだ。帰宅時間過ぎてんじゃねえのか」
 俺が聞き返すと、海はその質問を待っていたみたいに得意げに答える。
「四月からは五時半までいいんだよ。それにもう帰るとこだし」
「こっから家まで歩いたら三十分かかるだろ。ちょっと待ってろ、俺も帰る」
 帰宅時間が伸びたと言ってもまだ日が落ちるのは早く、暗い夕暮れの道を小学生にうろちょろされたら危なっかしい。俺もちょうど帰るところだったから海を連れていくかと、クラスの連中に断りを入れようとした。
 だがそこで、クラスの連中は慌てたように妹へ頭を下げ始めた。
「こちらのお嬢さん、向坂さんの妹っすか! 初めてお目にかかります!」
「自分ら向坂さんと同じクラスの者です! お兄さんにはお世話になっております!」
 制服を着た高校生に小学生の海がぺこぺこ頭を下げられる光景は言っちゃ悪いがシュールだった。海は戸惑い半分、はにかみ半分で俺を見上げ、俺も多少困惑しながら制止に入った。
「そういう挨拶とかいいって。じゃあ悪いが、俺はここで抜けるからな」
「はい! 向坂さん、本日はお付き合いくださりありがとうございました!」
「ご一緒できて楽しかったっす! 明日も学校でよろしくお願いいたします!」
 俺にまで頭を下げる連中に見送られ、居心地悪さを振り切るようにやや早足で歩き出す。
 海は俺の後をついてきながら、しばらくちらちらと振り返っていた。
「ねーお兄ちゃん、あの人達ずっと見送ってるよ」
「振り返んなよ。そうやってお前が見てるから帰るに帰れねえんだろ」
 答えた俺は、だからあえて振り向かないようにしていた。
 やがて海も後ろを見るのをやめ、俺の隣を歩きながら口を開く。
「さっきの人達すごいぺこぺこしてたけど、お兄ちゃんのお友達?」
 もう四年生だからか、近頃の海は時々鋭い質問をぶつけてくるようになった。
 俺は少し考えて、だが結局、こう答えるしかなかった。
「……同じクラスの奴ら」
 暗に友達じゃないと答えたのを、海は勘よく察したようだ。それ以上は何も聞いてこなかった。

 俺には友達がいない。
 と言うと暗くて寂しい奴みたいだが、実際に寂しいと思ったことはないし、友達がいなくて困ったこともない。ボクシング以外の趣味は思いつかねえから暗いってのは事実かもしれない。何にせよ居場所ならボクシング部があったし、トレーニングについての相談には部の顧問や馴染みのジムのトレーナーが乗ってくれた。試合で結果を出していれば周りに顔を覚えられるもので、特に教師達からは良くも悪くもしょっちゅう声をかけられて、疎外感みたいなものは感じなかった。
 ボクシングを始めてから五年以上が過ぎたが、試合で結果を出せば出すほど、周囲から向けられる目は変わっていったように思う。見ず知らずの先輩がたから生意気だと呼び出されることもあれば、口を利いたこともない生徒とすれ違うだけでびびられたこともある。今のクラスの連中は物珍しがってか何かと話しかけてくるが、同い年だというのになぜか揃いも揃って敬語を使われた。気がつけば、面と向かって俺を呼び捨てにするのは教師だけという状況になっていた。
 不思議なのは、俺がそういう状況を望んでもいなければ、誰に頼んでもないということだ。
 先輩でも敬語を使えとか、呼び捨てにすんなとか、すれ違ったら頭を下げろとかそういうことを口にした覚えすらない。態度が気に入らないと言われたことはあっても俺自身が言ったことはないのに、いつの間にか俺は気難しくておっかなくて一度怒ると手がつけられない人間であるかのように扱われていた。
 もっとも俺の方にもそれを訂正しよう、直してもらおうという気持ちはなかった。こういうのは先に動いた方が不利になる。下手に口を出そうもんなら因縁をつけられたと誤解されてかえってびびらせるか、引かれるか、運が悪けりゃ教師に告げ口をされる。他人にいちいち指図をすればそれがまた威圧的な態度として取られかねないと、俺はこの十七年弱の人生で十分思い知っていた。他に上手い解決手段も思いつかなかったから、まあいいかと放っておくようにしていた。
 幸いなことに、俺はボクシング馬鹿だった。友達がいないとか皆にびびられるとかはトレーニングで汗を流し、減量に苦しんでいれば考える暇もない悩みだった。せいぜい海に『お兄ちゃんのお友達?』と聞かれた時、多少気まずいなと思う程度だ。勝てない勝負に打って出るほど迂闊でもないつもりだった。

 そんな調子で送ってきた高校生活に、唐突な変化が訪れたのは夏休み前だ。
 大会に向けて体重を絞ろうと必死になってる俺の前に、あいつはバニラの匂いをぷんぷんさせながら現れた。
「バニラクッキー作ってたんすよ。家庭部で」
 茅野一穂は匂いの理由をそう語った。
 彼女が家庭部員だってことを、俺はその時初めて知った。もっと言うなら『家庭部』なんて部活動がある事実すら知らなかった。茅野がクラスメイトだってことは覚えていたが、それまで挨拶以外の会話をした記憶もなかった。
 茅野の髪は耳が隠れる程度の長さで、分け目のないぼさっとした髪型をしている。上から覗くとつむじしか見えないその無造作な髪型は、本人が後で語ったところによればあえてそういうふうに決めてるものらしい――『エアリーショートって言うんすよ向坂さん!』と言われたが、俺にはぼさっとしてるようにしか見えないし、そういう無造作な感じが茅野にはよく似合っていた。
 身体つきは筋肉がついてないみたいに細くて、顔つきはのほほんとした平和的な印象の女子だった。ただ話してみれば平和どころかなかなか愉快で個性的なキャラだったし、時々見せる表情は印象に残るものが多かった。
「向坂さん、匂いだけ味わうんならいいものがありますよ」
 茅野は時代劇に登場する悪徳商人みたいな表情で、甘い物に飢える俺を校舎裏へと誘った。
 俺は興味半分で茅野に付き合ったが、その結果散々な目に遭った。バニラエッセンスをビニール袋に落として匂いを嗅いでいるところを生活指導に見つかり、あらぬ誤解を受けて生活指導室へしょっ引かれたのだ。でもまあ、誤解されてもしょうがねえなと俺は思った。ただでさえボクシング部員として目をつけられてる俺が校舎裏で不審な動きをしてたら、そりゃ生活指導だってすっ飛んでくる。
 ただそのせいで茅野まで巻き込んだのは悪いと思っていた。茅野は単に無知なだけで他は何にも悪くねえのに、弁解するどころか黙って一緒に叱られていた。俺は巻き込んで済まなかったと思っていたが、茅野は茅野で俺に悪いことをしたと考えていたらしい。
「こんな時間になったの俺のせいだからな、送ってく。お前、先歩け」
 ようやく帰宅する許可を貰い、二人で校門をくぐった後、俺は茅野にそう言った。
「え……いやいいですよそんなの。ややこしくなったのは私のせいですし」
 茅野は手をばたばた振って遠慮したが、外は既に真っ暗だった。女子を一人で帰すには危なっかしいし、最近何かと物騒な話も聞く。俺が巻き込んだ以上、茅野を放っておけなかった。
「いいから。何かあったら寝覚め悪いだろ」
 俺は強い口調で言い聞かせようとした。
 ただそこでふと、校内で俺が普段どんな扱いを受けてるかってことを思い出して――そりゃ茅野も嫌がるよな、一緒に歩いたらまた自分まで妙な誤解受けて不良みたいに思われるもんなと、提案のやり方を変えてみた。
「けど俺みてえのと一緒に歩いてたら、また変な誤解受けるからな。後からついてくから、お前は先を行け」
 いい案だと思った。
 にもかかわらず、その時茅野はどうしてか、ショックを受けたような顔をした。
 割と思ったこととか、考えてることがストレートに顔に出るタイプだと思った。具体的にどんなふうに思ってるかまでは読めないが、どんな気分でいるかは手に取るようにわかった。
「誤解とか、考えすぎっすよ。方向同じだったら一緒に帰りましょ」
 茅野は次に口を開いてそう言った時、気遣うようににまっと笑ってみせた。
「クラスメイトなんだし、一緒に帰ったっておかしくないですって」
 だから、見てすぐわかるような表情をする茅野だからこそ、その申し出の何もかもが意外だった。
 俺に迷惑をかけられといて尚も笑っていることも、俺と一緒に帰ってもいいと思ってるらしいことも、俺をクラスメイトだと評したことも、全部に驚かされていた。
 思えば誰かにクラスメイトとして扱われる機会なんてこれまでほとんどなかったし、あったとしてもやたら謙って丁重に扱われるのか、そうでなければ鬼のように怖い存在として怯えられるのが常だった。女子に、それも争いごととは見るからに無縁そうな茅野に恐れられていないのが不思議でしょうがなかった。
「そういう心配じゃ……まあ、いいか。帰るか」
 訂正してやろうかと思ったが、いつものようにやめた。せっかく茅野がそう言ってくれたのにここで野暮なツッコミをして、茅野にまで怖がられるのはちょっとなと思ったからだ。
 だがすぐに、少し後悔した。
 何で後悔したのかは自分でもよくわからなかったし、じゃあどうすれば満足も納得もできたのかなんて余計にわからない。ただ言葉を飲み込んだ事実だけが妙に引っかかって、そのしこりが恐らく、茅野をもう少し傍に引き止めたくなった理由だった。あえて理由をつけるなら――勝負を避けた自分自身が格好悪い臆病者のように思えたから、かもしれない。
「クッキー食いてえ。作って」
 俺の要求は、つまり勝負だった。
 そして茅野は、これ以上開かないんじゃないかと思えるほど目を見開いた。
「えっ……いやいや何て言うか、作れるってほどじゃないですよ!」
「何でだよ。部活の度に作ってるって言ってたろ」
「い、言いましたけどそれは作ってるってだけで、ぶっちゃけ出来の方は……」
「謙遜すんなって。それにさっき、『私のせいで怒られた』っつったよな」
 我ながら卑怯な言い方をしたもんだと今でも思ってる。
 でも何か、『まあいいか』で済ませたくねえなという気持ちがあった。俺をクラスメイトだと言ってくれる茅野と、もう一回くらい話せる機会を作れねえもんかと、その口実として勝手な言い分を突きつけたつもりだった。
「美味く作るだろ? 家庭部員だし、俺に迷惑かけたって思ってんだもんな?」
 茅野は困ったように黙り込んでいたが、困ったとも、嫌だとも、できないとも言わなかった。
 夏の夜の匂いに混じって、その日はずっとバニラの匂いがしていたのを覚えている。美味そうで、減量中の食欲を無闇に刺激する甘い匂いだった。

 その翌週、地方大会を終えた俺の為に、茅野は約束通りバニラクッキーを焼いてきてくれた。
 先日と同じように美味そうなバニラの匂いをぷんぷんさせて現れた茅野は、わざわざ俺を学校近くの公園まで呼び出した後、なぜか恥ずかしそうに赤いリボンをかけた包みを差し出してきた。
「これ、クッキーです」
 手渡されたクッキーはほんのり温かくて、そしてめちゃくちゃ美味かった。さっくりと軽く、きめ細やかで、バニラの匂いとほんのり甘い味がした。茅野は随分謙遜していたようだが、こんだけ作れんならもっと胸張ってもいいはずだった。
「まさに食いたかった味だよ。我慢してた甲斐もあったってもんだ」
 俺がクッキーの出来栄えを誉めると、茅野は短く応じた。
「頑張りましたから」
 そう口にした時の、茅野の表情をずっと覚えている。
 茅野の顔は正直だった。怯えも、驚きも、笑いも、気遣う気持ちも、全部わかりやすく顔に出た。
 そしてこの時の茅野は頬を赤らめつつ、落ち着かなく視線を泳がせつつも口元は微笑んでいた。自信ありげに見えた。笑わずにはいられないってそぶりにも見えた。可愛かった。
「ありがとな」
 俺は手を伸ばして、無造作な茅野の頭を撫でた。茅野の髪は猫っ毛で柔らかく、触っていて気持ちがよかった。茅野は耳まで赤くなって俯いてしまって、消え入りそうな声で俺に『優勝おめでとうございます』と言ってくれた。
 この時の勝負の結果は勝ちだと思ってる。
 目論見通り茅野にクッキーを作ってきてもらって、もう少し話すことができた。
 ただ俺が勝ったからといって茅野が負けたのかといえばそうでもない気がしたし、茅野に対してはほんのちょっと負けたと言うか、やられた、という気分になっていたのも事実だった。少なくともこの時のやり取り、特に茅野の表情は俺の記憶に印象深く残っていて、後々までしょっちゅう思い出していた。

 勝負を避けて『まあいいか』で済ませるのをやめたから茅野を好きになったのか、好きになったから勝負に出る気になったのか、この辺りは今でもはっきりしない。
 一つだけはっきりしているのは、勝負に出て後悔はしてないってことだ。
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