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彼と彼女とアップルキッシュ(4)

 私達はクラゲの水槽の前で、すっかりのんびりしてしまった。
 イルカショーの会場には開始時刻よりもやや早めに入ったのに、よさそうな席はほとんど埋まってしまっていた。確実に水を被る前方の席はもちろん、見やすい中央の席もお客さんでみっちりだ。
 私達がどうにか座れたのは会場の端も端っこ、左手奥の最後列という有様だった。

「俺は平気だけど、お前、見づらくねえか?」
 向坂さんは背が低い私を気遣ってくれた。
 ショーの会場には階段状の座席が扇形に広がっていて、背丈で劣る私が埋もれてしまう心配はない。ただどうしても水辺までの距離は遠くて、この分じゃ肝心のイルカも遠くにしか見えないかもしれない。
 でもいいんだ。イルカが遠かろうと小さかろうと、向坂さんの隣で、向坂さんと一緒に見ていることこそが重要だ。
「ちゃんと見えてるんで、大丈夫っす」
 私は笑って答える。
 向坂さんも同じように笑ったけど、それでも気になっているようだ。
「もしよく見えなかったら言えよ。何なら午後にもう一度見てもいい」
「あ、いいっすね! 面白かったらそうしましょう。今度は最前列で!」
 今は空きのない最前列の座席を指差すと、向坂さんはそちらではなく、私が着ているキャミワンピをちらっと見た。
「いいのか。確実に濡れるぞ」
「夏ですからね。外出たらすぐ乾きますって」
 最前列を選んだ人達はむしろそういうのを期待しているのかもしれない。皆、何のガードもなく無防備に座って、ショーが始まるのを待っている。私のキャミワンピだってたとえ濡れても、外を少し歩けばあっという間に乾いてしまうに違いない。機会があるなら是非、最前列にも座ってみたかった。
 ここのイルカショー会場は飲食可で、売り子の人達が開演前の客席を回ってはたこ焼きやフライドポテトといった美味しそうなものを売り歩いていた。会場の隅には自販機もあり、向坂さんはそこでお茶のペットボトルを二本買ってきて、一本を私に差し出してくれた。
「ほら。お前もお茶でいいんだよな?」
「はい、お菓子のお供ですから。ありがとうございます」
 私はお茶を受け取ると、向坂さんが隣に座り直したのを見計らい、持ってきたバスケットの蓋を開ける。
 予告した通り、中身はリンゴのキッシュだ。マフィン型で焼いた小さめサイズで、冷凍パイシートの生地に卵液を流し込み、甘く煮詰めたリンゴをたっぷり入れたものだ。中までしっかり火を通した後、持ち出せるように冷蔵庫でしっかり冷やしておいた。保冷剤のお蔭で冷たさもキープされていたし、それでいていい焼き色は損なわれていない。
「美味そうだ」
 向坂さんはバスケットを覗き込むと、目を細めて言ってくれた。
 私もここぞとばかりに胸を張る。
「頑張りましたんで、絶対美味しいっす!」
 この顔がいいと言ってもらったばかりだ。全力アピールしていく方向で行こうと思う。
 すると向坂さんは顔を上げ、細めていた目を私に向けた。そのままじっと私を見つめる。目に焼きつけるみたいに、熱心に。
 もしかしたら今の私が、向坂さんの好きな顔になっているからそうしているのかもしれない。
 でもあんまり強く、そして長く見つめられるとどうしていいのかわからなくなってくる。目を逸らすわけにもいかないし、でも見つめ返してるとだんだん体温が上がって頭がくらくらしてくる。心臓もウーファーをめちゃくちゃ効かせた車みたいにばくばく言い出して、私はバスケットを抱えたまま固まっていた。そのお蔭でたっぷり三分間は見つめあっていただろうか。
 やがて向坂さんがおかしそうに唇を歪めた。
「何かお前、笑った顔がだんだん強張ってんぞ」
「いや、そんな見つめられたらいい顔キープできないですから……」
 今や私の顔にこそ保冷剤が必要だ。絶対火照ってる。

 ショーの開演までにはちょっとだけ時間があったから、私達はいち早くキッシュを食べ始めることにした。水族館の中をいっぱいうろうろしたせいでお互いお腹が空いていたのもある。
「うん、美味いな」
 向坂さんは一口でぺろりと食べた後、満足げに口元をほころばせた。
 美味しいって言ってもらえると嬉しい。私の表情もつい、とろけてしまう。
「よ、よかったっす……。どんどん食べちゃってください」
「ああ、遠慮なく貰う」
 その言葉通り、向坂さんはリンゴのキッシュを次々と食べ始めた。向坂さんにとっては一口サイズのキッシュ達はみるみるうちにバスケットから消えていき、向坂さんは次第に至福の表情を浮かべていく。
 私はその顔を見ているだけで胸がいっぱいになってしまって、全然食が進まなかった。もしかすると私、向坂さんの隣にいるだけでダイエットができちゃうんじゃないだろうか。
「甘いキッシュってのもいいな。初めて食ったけどかなり気に入った」
「ですよね! お菓子としてもアリだなあって思いました」
 今回もレシピを教えてくれた部長に感謝だ。後日、お礼も兼ねて報告しよう。
 部長のことだからまた変な勘違いをしてそうだけど、その辺も改めて訂正しよう。向坂さんとのデートはそれはもう順調かつ健全で、水族館で手を繋いだり一緒にサメの写真を撮ったり嬉しい言葉を貰ったり、そういうのばかりですのでご心配なくと言っておこう。大体あの人は真面目そうな顔して何と言うか、むっつりじゃないだろうか。我々のような花も恥じらう女子高生がそんな、美味しくいただかれちゃったとかそういうことを軽々しく口にしちゃいけないと思う。
 向坂さんは、そんな人じゃないし。
 部長との会話を思い出したら何だかそわそわしてきて、私は恐る恐る向坂さんを盗み見た。キッシュを頬張ろうと口を大きく開けた向坂さんの犬歯は鋭く尖っていて、部長が語った肉食獣のイメージはここから来たのかなと思う。噛まれたら痛そうだ。いや、普通にしてたら噛まれる機会なんてまずないと思うけど。
 私がじろじろ見ていたからか、向坂さんはキッシュを口に運ぼうとして、やめた。そして訝しそうに眉を顰める。
「どうした? 茅野」
「えっ。いえ、あの、別に……」
 何で見てたのかと聞かれたら答えづらい。私はぎこちなく目を逸らし、視界の隅で向坂さんはしばらくこちらを気にしていたけど、やがて手にしていたキッシュを再び食べ始める。
 向坂さんが皆から恐れられる理由はわかる。でも私はそうじゃない向坂さんのことを知っているはずだ。優しくて頼もしくて、私をよく見ていてくれる向坂さんのことを、皆と同じように恐れる必要なんて全くない。
 と言うか今だって、私は怖いなんて全然思ってないんだけど――部長が変なこと言うからだ。何かこう、そわそわと意識してしまうではないか。
 せっかく私、次の部長になれるように精一杯頑張ろう、頑張ったって言えるようになろうって思えたのに。その気持ちを、背中を押してくれたのだって、向坂さんなのに。
 このことも部長には早めに報告しよう。そしてついでに向坂さんのイメージ改善に努めるのだ。
 私が決意を新たにした時、向坂さんが口を開いた。
「お、始まるぞ」
 会場正面に広がる大きなガラス張りのプールに、灰色をしたなめらかな身体のイルカが数頭現れて横切った。と同時にプール奥のステージに黒いウェットスーツを着たお姉さんが登場し、ショーの開始を宣言した。
 最後列から見るイルカショーはさすがに遠かったけど、イルカ達が華麗なジャンプで盛大に水飛沫を上げるのはここからでもよく見えた。やっぱり最前列の人達は水を被る羽目になったらしく、跳んだイルカが水に飛び込む度、笑い交じりの歓声が客席の前の方から上がった。
 イルカ達はとてもおりこうで、飼育員さんの言うことを忠実に実行する。三頭のイルカが一糸乱れぬ泳ぎでプールの端まで泳ぎ着き、そこからぽうんと跳ね上がったかと思うと吊り下げられたゴムボールを次々に蹴り飛ばすところなんて、本当に声が出るほどすごかった。
「いっぱい練習したんでしょうね、イルカ達」
 私がそっと囁くと、向坂さんもキッシュの残りを食べながら頷いた。
「あれも努力の賜物だろうな」
 まさにその通りだ。イルカ達も日々の練習を怠らず、頑張ったからこそこうして美しくも豪快な演技を見せることができるんだろう。
 私も、頑張らないと。
「頑張って、そしてご褒美が貰えるんだからいいよな」
 向坂さんがそう呟いた時、演技を終えたイルカ達は飼育員さんの手からお魚を受け取り、ぺろりと平らげていた。生魚なんだろうけど、傍で見ているとものすごく美味しそうだ。
「お魚食べたくなりました?」
 私の問いに、向坂さんは軽く笑う。
「俺は甘い物の方がいい」
 それから私を見て、どことなく照れたような表情を浮かべた。
「昔はな、俺もああやってご褒美貰いながらボクシングやってたんだよ」
 急に聞かされたのは意外な言葉だった。
 私も思わず、向坂さんの方を見た。
「小学校くらいまではボクシングが特別好きってわけでもなかったんだよな。うちの親父がもうめちゃくちゃボクシング馬鹿で、俺には他のスポーツよりボクシングやらせたかったらしくて、俺を知り合いのジムに連れてったりしてたんだ」
 初耳だから知らなかったのは当たり前だけど、想像すらしなかった。私からすればボクシングが好きじゃない向坂さんなんて信じられないくらいだ。
「俺があんまり乗り気じゃないってわかると、好物の甘い物で釣ったりしてな。帰りにお菓子買ってやるからなんて言われて、ほぼご褒美目当てで通ってた」
 なるほど。向坂さんの甘い物好きはこの頃からだったんだ。
 お菓子に釣られてジムに通う向坂さん、可愛いな。会ってみたかった。同じ小学校だったらなあ。
「そのうち俺もすっかりボクシング馬鹿になっちまって、親父の思惑通り、生活全部がボクシングだけになった。練習すんのも試合に出て勝つのも俺がやりたいからだってなったら、親父もわざわざご褒美なんてくれなくなってな」
 そこでまた向坂さんは照れ笑いを滲ませた。
 私もつられて笑いつつ、聞き返してみる。
「ご褒美、貰えなくなっちゃったんすか」
「ああ、もう全然だ。うちの家族もジムの人らも部の連中も、俺がボクシングに夢中になってて当たり前だと思ってる」
 それはでも、向坂さんを知る人なら全員に通じる意識かもしれない。
 向坂さんはボクシングが好きで、それを誰に強いられることもなく自分の意思で練習に打ち込んでいる、だから強いんだって皆が思っているはずだった。ご褒美なんて要らないと思われるのも仕方ないのかもしれなかった。
「でも今は、お前が俺にご褒美をくれる」
 その言葉の直後、イルカ達がプールから一斉に跳び上がった。
 透明な飛沫を上げながらイルカ達は空中でくるりと一回転する。白いお腹がはっきりと見えた。そしてまた派手な水音を立てながらプールの中に潜っていく。歓声と拍手が会場内に響く。
「それが目当てでやってるわけじゃねえけど……何だろうな。嬉しいんだよ、お前といると。今まで取り逃してきたものが、今になっていっぺんに押し寄せてきたみたいでな」
 ざわめく会場内でも向坂さんの呟きを拾うのはたやすかった。もう既に耳が、聴覚が、そういうふうにできていた。
「だからこれからも頼むな、茅野」
 向坂さんがまた、私をひたむきに見つめてくる。
 口元は笑んでいるけど、目は笑っていない。気圧されそうになるほど真摯だ。これまでずっとボクシングにのみ傾けられてきた情熱のほんのひとかけらが、今、私自身に向けられているような気さえした。
「も……もちろんっす。また作ってきますよ、お菓子」
 私が雰囲気に呑まれかけながらも頷くと、向坂さんは口元の笑みさえ消してしまって、抑えた声で続ける。
「何だよ。俺が貰ってるご褒美がお菓子だけだと思ってんのか?」
「えっと、違うんすか?」
「さっき言った通りだ。お前は俺がボクシングにかまけてて取り逃したものも、手に入れられなかったものも全部くれた」
 向坂さんはそう言うけど。
 けど私には、お菓子作り以外に、向坂さんの為にできたことなんて何かあるだろうか。
「俺にとってはお前そのものがご褒美だ」
 だから、向坂さんが言葉を続けた時、違うって思った。
 違う。まだ足りない。私にはもっと向坂さんの為にできることがある。ご褒美っていうのはもっとすごくて、特別で、頑張ったからこそもらえるものでなくちゃいけない。
 それに私は――私だって向坂さんからご褒美を貰っているのだ。それはもうたっぷりと。現金な私が、それだけで走り出せてしまうようなたくさんのものを既に貰っていた。
「お蔭でイルカ見てると他人事に思えねえんだよな。俺も傍から見りゃ、茅野に手懐けられてるイルカみたいなもんだろうな」
 向坂さんはそこで笑ったけど、私はおずおずと、しかし確固たる意思を持って首を横に振った。
「逆っすよ、絶対」
「逆?」
「私の方が……今までいっぱいご褒美貰って、柄にもなく頑張ったりとかしてますから。手懐けられてるのは私の方じゃないかと」
 途端、向坂さんが目を瞬かせる。
 その後で不思議そうに尋ねてきた。
「お前の言うご褒美って何だよ、茅野」
「それはあの、誉めてもらったりとか、頭撫でてもらったりとか……」
 私なんて大変に現金な人間なので、そういうので十分舞い上がって頑張れちゃったりしてしまうのだ。
 恥ずかしながら打ち明けた私を、向坂さんは少し驚いたように見つめた。
 それから大きな手を私の頭に乗せ、がしがしと力強く、でも心地よく撫でてくれた。
「この程度のご褒美でよけりゃ、いくらでもやるよ。遠慮なく言え」
「あ、ありがとうございます……!」
 撫でられながらお礼を言う私は、向坂さんの惜しみない撫でっぷりに感激し、浮かれ、そしてものすごくどきどきしていた。
 これはやばい。こんなにたっぷり撫でられたら私、どこまで頑張って突っ走ってしまうか自分でもわからない。
 だけど、困ったな。私、本当に向坂さんが好きだ。
 今なら向坂さんの為に、どんなことだってできてしまいそうな気がして怖いくらい好きだ。

 結局、私達は午後に改めてこの会場でイルカショーを見た。
 やっぱり最後列じゃ遠くて物足りなかったし、他のことで頭がいっぱいになってショーに集中しきれなかったのも事実だからだ。
 今度はものすごく早めに会場入りして最前列をキープした。もちろん隣には向坂さんがいたからまた集中できなくなるのではという懸念もあったけど、イルカのジャンプの度に盛大に水飛沫を被れば集中できないも何もない。
「うわっ、大丈夫か茅野。髪の毛から何からずぶ濡れだぞ」
「そういう向坂さんだって……あっ、向坂さんは服だけっすね」
 つるりとした坊主頭の向坂さんよりも私の方が被害甚大だったけど、それはそれで楽しかった。私が笑ったら向坂さんも笑って、ショーが終わってずぶ濡れのまま会場を後にする際も、二人でげらげら笑っていた。
 笑いながら、私は本当にこの人が好きだなあ、と思っていた。
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