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冬の日に歌を(3)

 その週の日曜は酷く冷え込んだ。
 底冷えするような気温と頬を刺すような風の中、俺は歩いて船津さんの店へと向かった。
 本当ならこんな寒い日に外出したくはないのだが、今日もアルバイトに来てくれと言われていたし、有島とも店で落ち合う約束をしている。だから仕方なく寒空の下を駅前まで歩いた。

 有島は古書店の開店直後、この寒いのに自転車に乗って現われた。
 俺は船津さんに断って仕事を一時中断し、大槻から預かっていたコンサートのチケットを有島に渡した。逆に奴からは二人分の代金を預かったので、後で必ず大槻に渡さなければならない。
「ありがとうございます、先輩!」
 店内でチケットを受け取った有島は、深々と頭を下げ、その後でチケットの表面を眺めた。
「『クリスマスジャズコンサート』……さすが鳴海先輩。目のつけどころが違いますね」
「別に俺の趣味というわけじゃない」
 無闇に感心されても困る。俺も音楽やジャズ自体に興味があって聴きに行くわけではないのだ。
 だが有島の方はこの話を持ちかけた時から実に前向きな反応を示した。二十四日夜のコンサートという条件が奴の希望と合致したらしい。すぐさま金を工面するのでチケットを買わせて欲しいと言われ、大槻にも喜んでもらえた。現在の大槻はそのコンサートの練習に土日の時間を費やしている為、俺がこうしてチケットの橋渡し役を担ったというわけだ。
「けど、俺一人じゃこういうネタは思いつかなかったですよ」
 チケットを嬉しそうな顔で眺め、有島が呟く。
「その点、鳴海先輩はさすが発想が大人ですよね。ちゃんと誘い出し方を心得てるって言うか!」
 どうやらこの件に関して、奴の誤解は未だ解けてはいないようだ。否定したところで信じてもらえそうにないのでとりあえず放っておくことにする。
 どうせそのうちに明らかになることだ。もしかすると明らかになるより早く、有島の方が助言を必要としなくなるかもしれない。
「友人も感謝していた。買ってもらえて助かったと」
 俺は大槻の言葉を伝えてから仕事に戻った。レジ前の本棚を整える為、その前で屈み込む。
 日曜ごとに通ううち、この店はまた夏頃の整然とした店構えを取り戻していた。年内のアルバイトは今日が最終日で、年明け以降は必要があればまた改めて連絡すると船津さんから言われている。もちろん必要がないのが一番いいのだろうが――。
「へえ。ジャズとか、お前わかんのかよ」
 レジカウンターにいる船津さんが、チケットに見入る有島の手元を覗き込む。
 すると有島が顔を上げ、さも当然というように笑んだ。
「あんま詳しくはないよ。俺はニューオーリンズよりニューメキシコに興味あるし」
「んだよそれ。訳わかんねえ」
「ニューオーリンズはジャズの聖地。ニューメキシコはUFOの本場だよ。船津さん、知らねえの?」
「知るか。何でUFOに本場なんてもんがあるんだよ」
 船津さんは呆れたように根元の黒い髪をかき上げる。
 話に聞いていた通り、船津さんと有島は以前から親しい間柄らしい。二人の会話からは店主と顧客という間柄も、十歳近い年齢の差も感じられず、同い年の友人のように気安く接している。
「つか、有島。お前もあの子と付き合い長いんじゃねえのか。いつまでまどろっこしいことやってんだよ」
 からかう口調で船津さんが言う。
 鞄の中へ大切そうにチケットをしまった有島が、とっさに眉を顰めた。
「船津さんにはわかんねえだろ。こういう恋愛の機微みたいなもんは!」
「なーにが機微だ。声変わりもしてねえガキのくせに」
 船津さんはわざとらしく鼻を鳴らし、
「大体、恋愛相談だったらそこの鳴海より俺に聞けっつんだよ。人生経験も恋愛経験も俺の方が上だぞ」
 俺を顎でしゃくるようにしてそう言い放った。
「え、船津さんずっと彼女いねえじゃん。そんな人に教え仰ぐのも微妙だし」
「馬鹿。俺の場合はいないんじゃなくて、あえて作ってねえんだよ」
「本当に? 何かすっげえ言い訳っぽく聞こえるけど」
「俺が特定の女と付き合ったら、泣きながら店まで押しかけてくる女どもが殺到するからな。うちの商品を涙で濡らされちゃ困る」
 もっともらしく船津さんは語ったが、有島は信じていない様子で俺に水を向けてきた。
「先輩、どう思います? 俺、この店でそういうお客さんを一度も見たことないんですけど」
「……俺もない。だが絶対にないとも言い切れないだろう」
 この店でのアルバイト中に、妙齢の女性客が店を訪ねてきたのを見かけたことは一度としてない――唯一の例外が雛子だった。
 しかし先の船津さんの発言は、冗談と解釈するにはいささか空しい内容にも思える。事実でないならわざわざ言うことでもないだろう。もしかすると、本当なのかもしれない。
「まあそうですね。それこそUFOか幽霊かってなもんで、船津さんだけに見える女の子とかいるのかもしれない」
 有島が生意気なことを口にしたせいか、船津さんは鼻の頭に皺を寄せた。
「お前なあ……だったら鳴海の彼女だって俺はまだ見たことねえし、いるのかどうか怪しいもんだろ」
 それから愉快そうに俺を見て、
「一回でいいから連れて来いって。お前が女連れてる姿、見てみたいんだよ」
「遠慮しておきます」
 俺は即刻断り、有島がそこで口を挟んだ。
「先輩の彼女なら、確実にいるよ。俺、部活同じだし」
「ああ、そうだっけ。お前の先輩でもあるんだよな」
 無精髭を生やした顎を撫でながら、船津さんがそこでにやりとする。
「清楚な眼鏡美人ってマジ?」
 意外なほどの反応速度で有島が頷いた。
「マジ。しかもすっげえ優しくて、包容力もあって、それでいて先輩の前では可愛い人」
「何をどう上手いことやったらそんな女捕まえられんだよ。コツを教えろよコツを」
「ほら、船津さんも思うだろ? 鳴海先輩にノウハウ教わりたいって」
「ああ確かに思えてきた。今度じっくり聞かせろよな、鳴海。たまには酒でも奢ってやっから」
 俺は返事をしなかった。
 そもそもこんな会話にもいい加減付き合いきれない。レジから離れたところにある本棚へ移動して、俺は作業を続ける。店内は暖房が入っていたが、入り口のドアからは絶えず隙間風が吹き込んでおり、その度に身体の芯まで冷えていくようだった。
「今日は本当、寒いですよね」
 有島がなぜか近づいてきて、声をかけてくる。
 俺は顔を上げずに頷いた。
 すると有島は俺の顔を覗きながら、
「そういえば、この間久々に部長と会いましたよ」
「同じ学校にいるのに、そんなに会えないものなのか」
 奴が『久々に』という言い方をしたので、俺は思わず聞き返した。
 雛子が文芸部を引退したことは聞いていたが、それでも三年生はまだ通常通り登校しているはずだ。久々にと言うほど顔を見られないものだろうか、不思議に思った。
「だって学年が違いますから。意外と会えないもんですよ」
 有島は声変わり前の高い声で笑った。
 俺が在学中の頃は、文芸部以外のところでもよく雛子を見かけていたような気がした。登校時の通学路や生徒玄関で、昼休みに廊下の向こうで、授業中に教室から見下ろしたグラウンドで――だが思い返せば見かけた回数自体はそれほど多くなく、単に彼女のことだからよく覚えていただけなのかもしれない。学年が違えば教室のある階層も違うから、同じ学校にいても会えないものだという有島の言葉は正しいのだろう。
「でも引退セレモニーってことで、今月に入ってから、一度部室まで来ていただいたんです。部長、受験生なのに元気そうで、気負ってる感じもなくて、ちょっと安心しました」
 奴なりに雛子のことを気にかけてくれているのだろう。そう語った後で小さく声を上げ、
「あ。今はもう部長じゃなくて、柄沢先輩って呼ぶべきなんでしょうけど」
 と言い添えたので、俺はその聞き慣れない響きに口元を緩めた。
「次の部長はどっちなんだ。お前か?」
「いえ、荒牧です。面倒事はあいつが全部引き受けてくれるって言うんで」
「意外だな」
 俺はそう言ったが、有島と荒牧の関係を知った今では、それもいくらか腑に落ちた。
 そして俺は、雛子のことを思う。俺がもう知ることのない、東高校で残りの時間を過ごしている彼女のことを。
「雛子が元気ならよかった。俺は文化祭から、ずっと顔を見ていないからな」
「元気そうでしたよ。顔色もよかったし、花束贈ったら嬉しそうにしてくれてましたし」
「そうか。ありがとう、教えてくれて」
 俺が礼を言うと、有島は一瞬驚いたように眉を上げ、それから目を輝かせて頷いた。
「いえ。お役に立ててよかったです」
 できればもう少し雛子について詳しく聞き出したかったが、今はアルバイト中な上に船津さんが目を光らせている。後で改めてメールでもしよう。
「……お前、彼女の話ってなると声まで変わるよな」
 その船津さんが呆れた口調で俺に言う。
「そんな優しい声、彼女絡みでしか出したことねえだろ」
 言われるほど大きな違いがあるとは、俺には思えない。
 ただ船津さんの指摘と、それに対して有島が吹き出しかけて慌てて堪えていたことが気まずく、俺は誤魔化すように咳払いをした。
 身体が冷えていたせいだろうか。その時、微かな喉の痛みを覚えた。

 翌日になると喉が焼けつくようにひりひりし始めた。
 体調が悪いとは感じなかったが、喉が痛むだけでも不快なものだ。俺はマスクをして大学へ出向いた。帰りにドラッグストアに立ち寄り、薬とのど飴を仕入れておかねばと思う。
 大学構内でもマスクをした者、咳き込む者を相当数見かけた。空き教室や図書館ではあちこちから咳が聞こえてはよく響いた。いくつかの授業が休講となっており、風邪の流行が目に見えて現われたようだ。

 大槻とは今回も大学の食堂で待ち合わせた。ちょうど互いの空きコマが一致したので、一緒に遅めの昼飯でも食べながら話をしようということになった。
 約束の五分前に食堂へ足を踏み入れると、大槻は既に来ていた。ただ奴の隣には知らない顔の女が座っていて、二人は何事かを真面目な顔つきで話し合っていた。
 俺の姿を見つけた大槻は一度手を挙げた後、詫びるように両手を合わせてきた。
「ごめん、鳴海くん。もう済むからちょっと待ってて」
 声を発するのが億劫で、俺は黙って頷いた。
 それから二人とは少し距離を置いた席に着き、咳が出そうになるのを堪えながら会話が終わるのを待つ。昼下がりの学食はテーブルの三分の一程度しか埋まっておらず、二人の会話もそれなりに聞こえてきた。大槻と話している女はどうやら楽団の人間らしく、やけに深刻そうな口調だった。
「……さすがにこの時期、練習できないのはやばいよね。どうしよう」
「しょうがないだろ。病人に無理して出て来いなんて言えないし」
 大槻が肩を竦める。ただ奴の顔にも焦りの色が浮かんでおり、どうも差し迫った問題があることを如実に示していた。
「ああもう、何で皆して風邪なんか引くかなあ……」
 女は困り果てたように顔を両手で覆う。明るい色の長い髪をくるくると巻いた、大学ではよく見かける類の髪型をしていた。
「とりあえず、集まれる人間だけでも集まって練習しよう。最悪、木管だけでも集まるとかしてさ」
 慰めるような口調で大槻が言うと、女も顔を上げて頷く。
「そだね。それしかないよね……」
「じゃあ俺、他の連中にも連絡取っとくから。一応予定空けといて」
 大槻の言葉に女はようやく笑い、
「任せてもいいの?」
「もちろん。詳細決まったらまた連絡する」
「うん、わかった。じゃあよろしくね、大槻」
 うって変わって明るい声を上げた女が、そこで席を立つ。膝下まで届きそうな長さのブーツをかつかつと鳴らして学食を出て行く。大槻はその後ろ姿をたっぷり見送った後、ようやく俺の元へやってきた。
「ごめんごめん。楽団でも風邪が流行っちゃってさ、練習どうするかって話してたんだ」
 俺の真向かいの席に座り直した大槻が、こちらを見て心配そうに顔に眉を顰める。
「もしかして、鳴海くんも風邪?」
「いや、大したことはない」
 俺は即座に否定したが、声がかすれて喉で引っかかり、少し咳が出た。
 大槻は気遣わしげに笑んだ。
「今年の風邪は結構しつこいみたいだから、用心しなよ。引き始めが肝心って言うしね」
「そうしよう」
「うちの楽団でもさ、もう次々ダウンしちゃって。何か伝染力もすごいらしいんだよね」
 やはり『今年の風邪は質が悪い』ということらしい。雛子にはくれぐれも気をつけるよう改めて忠告しておこう。自分のことを棚に上げて俺は思う。
「さっきの子もそれですっかりテンション下がっちゃって、長々愚痴られたよ。本番近いから皆ナーバスになってるってのもあるんだけど、そこに風邪で練習滞りそうってんだからさすがにね」
 くたびれたように零した大槻が、それでもそこで頬を緩めた。
「けど、可愛い子の愚痴だったら悪い気しないんだよなあ。さっきの子、結構いい感じだったろ?」
 同意を求められても困る。
 俺は先程の女をそこまで気にしていなかった。喉の痛さに気を取られていたせいでもあるが、せいぜいよく見る髪形だと思ったのと、長いブーツを履いているなと思ったくらいだ。雛子もたまに、ああいう編み上げのブーツを履いているから。
「顔はよく見なかった」
 俺の答えを聞いた大槻は、わかりきったことだというように頷いた。
「そうだよね。鳴海くんは雛子ちゃん以外の女の子になんて興味ないに決まってるし」
「別に、そうは言ってな――」
 反論しかけたら本格的に咳き込む羽目になり、まあまあと大槻に宥められてしまう。
「君のことはよくわかってますって。つかさっきの子も、俺には興味持ってくれてないんだけどね」
 それから遠くを見るような目をして、
「何回か飲みに誘ってんだけど全然乗ってくんないし、楽団の話しかしてくれないからね。全く鳴海くんが羨ましいよ」
 そう言われたところで何と返事をしていいものか。
 もしかすると大槻は先程の女に惚れているのだろうか。それなら顔を見ておけばよかったと思ったが、大槻の口調からは楽団のことを話している時ほどの真剣さは感じられず、どこまで本気なのかも読み取れなかった。案外こいつなら、そういうふうに声をかけている相手が四、五人はいそうな気さえする。
 考えても詮無いことだ。俺は話題を変えようと、自分の鞄から一束百円で買える類の茶封筒を取り出した。この中に有島から預かったチケットの代金が入っている。
「これ、預かっていた金だ」
 大槻に手渡すと奴は恭しくそれを受け取り、
「ありがとう! いや助かったよ、おかげで今年はどうにか売り切れた!」
「それはよかった」
 喜んでもらえたことを、俺も少なからず嬉しく思う。大槻には世話になり通しだから、こうして礼ができたのはいい。
「で、君の後輩は意中の子を上手く誘えたって言ってた?」
 封筒をしまいながら大槻が尋ねてくる。
 ちょうど昨夜、有島からメールで報告があった。二十四日は二人で市民会館へ行くそうだ。
「ああ。首尾よくやったと言っていた」
「へえ、よかったじゃん。そんじゃ俺も精一杯いい演奏をしますか」
「そうだな」
 俺も音楽がわからないなりに、多少は二十四日を楽しみにしている。今年は雛子がいないのが寂しいが、あいつが来年はまた行きたいと言いたがるよう、感想を聞かせてやろうと思う。
 その為にもこの忌々しい喉の痛みをどうにかしなくてはならない。去年もこうして喉の痛みから始まり、咳き込むようになって、間もなく高い熱が出た。早めに手を打っておかなければ長引くかもしれない。
 考えているうちから咳が出た。俺が苦しげに息をつくと、大槻も不安そうにこちらを見る。
「鳴海くん、大丈夫? 何か調子よくなさそうだけど」
「いや、喉が痛むだけだ。具合が悪いわけではない」
 俺はかぶりを振った。
 しかし考えてみれば大槻は、それこそコンサート本番を翌々週に控えた大事な身だ。まして奴の周囲には風邪引きが溢れているようだし、俺までもが奴に対して病原菌をばら撒くわけにはいかないだろう。
「お前にうつすとまずい。俺はそろそろ行こう」
 そう言って立ち上がりかけた俺を、大槻は戸惑い気味に引き止める。
「え、飯まだなんじゃないの? どうせなら一緒に食べようよ」
「マスクを外して食事をしたら、お前に風邪をうつすかもしれない」
「そんなの気にしなくていいよ。大体、そんなこと言ってたら学内じゃご飯食べられなくなっちゃうだろ」
 大槻は俺の懸念を一蹴し、更に胸を張ってみせた。
「それに心配しなくても、俺は滅多に風邪なんか引かないからね」
 言われてみれば大槻と知り合ってからというもの、奴が体調を崩しているところを見たことは一度もない。風邪も引かず、夏バテもせず、二日酔いにもならない丈夫な身体の持ち主だった。
「健康管理が上手なんだろうな」
 俺が感心すると大槻は手をひらひらさせる。
「そういうことじゃないと思うよ。昔から言うだろ、何とかは風邪を引かないって」
「迷信だ、それは。何の科学的根拠もない」
「でもそうとしか言いようないんだよ。小中高と学級閉鎖になった時だって、毎回俺だけはぴんぴんしてたんだから」
 大槻は言い張ったが、奴本人が言うほど奴は馬鹿でもないはずだった。
 だが本人はそういうことにして欲しがっているようなので、俺もそれ以上はあえて言わなかった。

 結局、俺は大槻と共に学食で昼食を取った。
 だが食べ始めてみると思ったよりも箸が進まなかった。寒気がするので温かいそばを注文したが、喉が痛くてそばどころか、水を飲むのさえ辛い有様だった。今朝はここまで酷くなかったはずなのだが、大学に来たら病状が悪化したようだ。
 喉の焼けつく痛みに耐えながらどうにか食べ終えると、待ち構えていたように大槻が言った。
「鳴海くん、本当に大丈夫? 今日はこの後講義出るの?」
「ああ、五限には出る」
「なら、それ済んだら帰って早めに休んだ方いいよ。喉の風邪は熱に繋がるって言うよ」
 大槻が思いのほか真剣に案じてくれたようなので、俺も神妙に頷いた。
「わかった。拗らせるわけにもいかないからな」
「そうそう。君がもし倒れちゃったりしたら、雛子ちゃんだって心配するよ。勉強手につかなくなっちゃうかもよ」
 澄江さんと同じことを大槻も言う。
 俺もわかっていないわけではないのだが、一旦引いてしまったものは仕方ない。もし熱が出て寝込みそうな気配があれば、彼女にも早めに連絡を入れておくべきかもしれない。今日までほぼ毎日のように送り続けてきたメールが急に途切れたら、雛子はそれこそ受験勉強が手につかないほど心配してしまうだろう。その際は余計な心配をかけないよう、あまり病状を詳しく話すべきでもないだろう。
「何とか、早めに治せるといいんだが」
「そうだね。もし酷くなりそうだと思ったら、病院行った方がいいかもしれない」
 大槻はそう言うと席を立ち、俺の分のトレーまで持ち上げる。
「いや、そのくらいは――」
 自分でやる、と言おうとしたが激しい咳に阻まれた。
「いいっていいって。病人は座ってなよ」
 軽い口調で言うと、大槻は二人分の食器を片づけに行った。こちらが面食らうほどの親切さに、かえって危機感が募った。
 今年は風邪を引かないでいようと思ったのに――何がいけなかったのだろう。それとも気を遣ったところでどうしようもなく、引く時は引いてしまうのが風邪というものなのだろうか。まだ熱が出ていないだけましだが、それも今後どうなるかわからない。
 しかし考え込んでも仕方がない。と言うより、今は思索に体力と気力を割くことすら難しかった。
 俺は椅子にもたれたまま漫然と視線を彷徨わせていたが、ふと別のテーブルに目が引きつけられた。
 食事を終えたところなのか、一人の女子学生が立ち上がり、椅子をしまおうとしている。彼女がかけた金属的なフレームの眼鏡が目に留まった。だが眼鏡をかけていてもその女は髪が短く、顔つきも遠目にわかるほど雛子とはかけ離れている。そもそもここに雛子がいるはずはないとわかりきっているのに、なぜいちいち確かめるように見てしまうのだろう。
 風邪のせいとは言えない。いつもこうだ。
 目を逸らしながら一人密かに苦笑していれば、
「――前から思ってたんだけど」
 いつの間に戻っていたのか、大槻の声がすぐ傍でした。
 思わず振り向くと、大槻は俺の隣に立ち、にやにやしながら食堂の向こう、俺が先程目に留めた女子学生の背中に視線を投げる。彼女は友人たちと連れ立って、食堂を出て行くところだった。
「な……何だ」
 見られたのだろうか。嫌な予感を覚えつつ俺が聞き返すと、大槻は俺に視線を向ける。
「君って、眼鏡の女の子のことよく見てるよね」
 満面の笑みで言われた。
 しっかりと見られていたようだった。
「ち、違う。今のは別に」
 弁解しようとする俺を大槻は余裕たっぷりに押し留める。
「大丈夫、君がよその子に目移りしてるなんて思ってないよ。雛子ちゃんみたいかもしれないって見てたんだろ?」
「だから違う、俺はそういうつもりでは」
「考えてみりゃずっとそんな感じだったもんなあ。傍を眼鏡かけた子が通る度、センサーみたいに振り返ってたからね、君」
 大槻は心底楽しげに言うと、気持ちの悪い汗を掻き始めた俺を見下ろしてこう言った。
「そんなに探しちゃうくらい恋しいんですか、彼女が」
 俺の反論はとっさに呑んだ息のせいで咳に変わってしまい、次いで一気に体温が上がるのを感じ取る。
「顔真っ赤だよ、鳴海くん。熱上がっちゃった?」
 からかわれた俺は黙って大槻を睨みつけたが、奴の推測は事実だった。

 帰宅後に測った体温は、三十八度を超えていた。
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