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全てで恋をする(3)

 その日は結局、帰宅時間の六時まで部室で過ごした。
 雛子は俺の原稿を熱心に読んでくれたが、考えがまとまらなかったらしい。もう少し時間を貰ってもいいかと聞かれて、俺は了承した。こちらとしては締め切りに間に合いさえすればいい。

 部活動を終えた後、俺は雛子を駅まで送ることにした。彼女はかつての俺のように先に後輩たちを帰した後、部室を施錠して鍵を返却し、それから校舎を後にした。
「今日はすみませんでした。せっかく来てもらったのに」
 帰り道を歩きながら、雛子は俺に詫びてきた。原稿に対する感想をまとめられなかったことを気にしているらしい。
「気にするな。別に急がない」
 俺はかぶりを振る。
 実際、今日はそれなりの収穫もあった。雛子が俺の原稿に目を通している間、俺は有島と荒牧の原稿をそれぞれ読ませてもらっていた。それは二人に頼まれたからでもあるが、俺としても現在の文芸部の作風、文集に載る作品の傾向を確認しておきたかったからでもある。俺の書いたものが場違いではないかと懸念していたが、有島の作品は校内を這いずり回る透明人間に怯える学生たちのパニックホラーで、荒牧の作品は美しい庭園で小さな妖精と共に暮らす少女のメルヘンチックな物語だった。ここに新たにどんな作風の作品を持ってこようと、場違いで雰囲気にそぐわないと思われることはないだろう。そういう意味では安心した。
 俺は青春という主題を元に、ある高校生の物語を短編としてしたためた。俺が思う青春とは美しいばかりではなく、薄暗い闇の中を彷徨い、混沌とした心の澱に沈んで溺れかけてはまた浮かび上がるような時期だった。そういう考えを作品に反映するとどうしても暗い物語になってしまうのだが、ハッピーエンドが好きだという雛子にはそれが少し重く感じられたのかもしれない。感想をまとめる時間が欲しいと言ったのも恐らくはそのせいだろう。
 ただでさえこの時期、彼女もまた多忙なはずだった。文芸部の部長として展示の準備をし、自らの原稿も書き上げなくてはならない。文化祭では部活動だけではなくクラスの発表もあるはずだし、そういう過密スケジュールの時期であろうとも受験勉強は疎かにできない。表にこそ出さないものの、もしかすると彼女も疲れているのかもしれないと思う。
 誕生日の予定が彼女にとって、少しでも息抜きになればいいのだが――週末に迫ったその日について考えながら、俺は何気なく空を見上げる。
 十月の夜空は低い雲に一面覆われており、星一つ見えなかった。月のある辺りだけがぼんやりと光り、秋風に流されていく雲を照らしている。ここ数日は不安定な空模様になると新聞の天気予報に載っていた。次の週末もすっきりとは晴れないようで、特に日曜日は雨が降るかもしれないらしい。
「週間天気予報によれば、二十二日の天気はどうも怪しいようだな」
 俺がそのことに触れると、共に空を見ていた雛子がこちらを向く。明らかに浮かない顔をしていた。
「雨が降ったら中止ですか?」
 何気ない口調で尋ねた後、彼女は上目遣いに俺を見た。眼鏡の銀色のフレームの上に彼女の素顔の瞳が覗いており、それは思ったよりも深刻そうな色をしていた。目は口ほどにものを言う、とはまさにこのことで、彼女は自分の言葉通りになることを決して望んでいないようだ。
 俺の方も彼女を悲しませるつもりはない。誕生日当日が無理だとしても、どこかで息抜きをする日を作ってやるべきだろう。
「延期だな。さすがに雨天でピクニックは無理だ」
 提案のつもりで俺は言ったのだが、雛子は満足しなかったようだ。すぐさま食い下がってきた。
「その場合でも、ちょっとでいいので会ってもらえませんか」
「天気の悪い日に出歩けば身体を冷やす。あまり感心しないな」
 夏の気配はとうに消え、気温は緩やかに、だが日増しに下がりつつあった。こうして歩いている今も夜風が冷たいと感じることがある。雨が降ればたとえ日中でも肌寒く感じるだろうし、そんな悪天候の折に多忙な受験生を呼び出して連れ回すのは決して誉められた行動ではない。
 だから俺は断ろうとしたのだが、隣を歩く雛子が必死なくらい俺を見つめていたので、やがて考えを変えた。
 雨が降ったら、雨に当たらないような何かを考えればいい。例えば――そうだ、彼女の誕生日に備えて貯めたバイト代があるのだから、それで彼女をあのごみごみしたショッピングモールなり、駅前のデパートなりに連れて行けばいい。そこで弁当の代わりに甘いケーキでも食べさせて、プレゼントを選ばせて買ってやるのがいいだろう。彼女の希望通りの過ごし方ではないが、代替案としてはそう悪くないはずだ。
「一応、雨天の場合の対策も何か考えておいてやる」
 そう口にした時には既に考えていたのだが、ともかくも俺は彼女に譲歩を示した。
 すぐに雛子の表情が明るくなる。
「ありがとうございます、先輩!」
 元気を取り戻した彼女は眩しいくらい顔を輝かせ、希望に溢れた声を上げた。先程まであんなに深刻ぶっていたのが嘘のようだ。そういった目まぐるしい表情の変化は、彼女がまだ十七歳であるということを何よりもわかりやすく表しているように感じられた。
 だが彼女は次の日曜で十八になる。
 たったあと数日で一つ年を取り、あの頃――雛子と初めて出会い、それから文芸部で同じ時を過ごした俺と全く同い年になるのだ。
 そう思うと何よりも、信じがたさが先立った。
「十八になるといっても案外子供だな。俺もこうだったとは思いたくないが」
 俺は彼女のあどけなさに笑いを堪えられない。呆れているのか、本当におかしいと思っているのか、自分でも判然としなかった。
 ただ、雛子に何をしてやれば喜んでもらえるかは、確実にわかっているつもりだった。

 十月二十一日、土曜日のうちから俺はピクニックの支度に取りかかっていた。
 ピクニック用の弁当について、雛子からの特別な注文はなかった。好き嫌いなく何でも食べます、とメールで語っていたのは恐らく真実だろうし、それなら俺も自分の裁量でメニューを考えることにした。
 屋外で食べる弁当の絶対条件はやはり手軽さ、食べやすさだ。片手でつまめるものがいいだろうとそれらしい献立をリストアップし、スーパーで必要なものを揃えた。厚焼き卵を作るのには卵が必要だ。おにぎりには海苔が要るし、いなり寿司の為に油揚げも購入し、煮ておかなくてはならない。それ以外に箸を持たなくても済むよう、小さなピックも用意しておく。
 自分の為に弁当を作ったことはある。だが澄江さん以外の人の為に弁当を作るのはこれが初めてだった。八月の旅行ではおにぎりだけを作って雛子に食べさせたが、今回は弁当として食べさせることになる。となるとおかずの一品にも気は抜けない。彼女が喜びそうなものを考えた末、秋らしくカボチャのコロッケときのこの春巻き、それにオーソドックスなアスパラのベーコン巻きを作ることにした。
 買い物を済ませてアパートに戻り、台所の冷蔵庫を開けた時だ。
 隅の方にずっとしまったままだった、薄く平たい箱を見つけて、思わず呟く。
「……忘れていた」
 箱の中身はチョコレートだった。まだビニール包装すら解かれていないその箱は、俺が八月に購入したものだ。
 なぜ購入したかと言うと、八月のアルバイトが終わってから打ち上げをした際、大槻が俺にあれやこれやと吹き込んできたからだ。恐らく寂しい思いをさせたであろう雛子にバイト代で何か買ってやれ、とせっつかれた俺は、多少の不満は持ちつつも一理あるとそれに従った。雛子の喜ぶものなら知っている。彼女は甘い物なら際限なく食べるから、チョコレートでも買えば単純に喜ぶだろうと少しいいやつを購入した。
 しかし旅行前に俺の部屋を訪ねてきた雛子は、そのチョコレートに手をつけなかった。彼女は旅行に備えるという名目で例によってさしたる意味もないダイエットに励んでいたからだ。とは言え彼女もこちらの気持ちを酌んでくれたようで、旅行から帰ったら食べに来いと俺が言うと、頷いてくれた。
 あれから二ヶ月が過ぎたが、あの時の約束はまだ叶えられていない。もちろん雛子に罪はない。俺のせいだった。
 オレンジ色の庫内灯に照らされたチョコレートの箱を、俺はしばし睨んだ。俺が食べるという選択肢はないが、しかしピクニックに持っていくようなものでもないだろう。次に会った時にでもどうするか聞いておいた方がいいかもしれない。あの時のダイエットがどうなったのかは聞いていなかったが、勧められた金つばも堂々と食べていたことだし、こちらは追及しない方がよさそうだ。
 あの時、チョコレートを食べなかった雛子を責めるつもりは毛頭ない。
 だが冷蔵庫に取り残され、俺にすら忘れられていたチョコレートを、今は少し哀れに感じた。
 彼女は甘い物なら喜んで食べてくれると思っていたのに、間が悪いこともあったものだ。

 翌日、十月二十二日は朝五時に起きた。
 起床してすぐ窓の外を確かめると、まだ辺りは暗かったが雨は降っておらず、路面も乾いていた。俺は急いで身支度を整え、次に弁当の用意を始めた。
 適当な弁当箱がなかったので、食器棚の奥に眠っていた重箱を引っ張り出した。一人暮らしを始める時、これからは一人で正月を過ごすこともあるだろうと思い、購入したものだった。残念ながらこれまで使う機会に恵まれていなかったが、ようやく役立てる時が訪れたようだ。
 俺は重箱をきれいに洗い、それから弁当を一品ずつ作り始めた。前日にある程度下ごしらえをしておいたおかげで、それほど手間取らずに用意が整った。粗熱を取ってから重箱に詰め、それから昨日買ったピックを差しておく。見栄えの上でも申し分ないピクニック弁当が完成した。
 しかし弁当を包み終え、水筒に温かいお茶を入れ、全ての荷物をまとめていざ出かけようとした時だ。玄関のドアを開けた瞬間に気づいた。
 雨が降り始めていた。
 朝からずっと曇天模様が続いていたが、昼くらいまでは持つのではないかと思っていた。だが見込みが甘かったようだ。雲はいつしか空低く垂れ込め、さらさらと細く降る秋雨が止む気配はない。どうやら予定変更となりそうだ。俺は舌打ちしながら部屋へ取って返し、弁当類を置いてから傘だけを持って再び外へ出た。
 雛子もかわいそうに。ピクニックの予定をあんなに楽しみにしていたのに、今頃は電車に乗り、憂鬱な思いで雨に濡れる車窓を眺めていることだろう。雨なら雨で別の予定をと話してはいたが、そうなると作ってしまった弁当がネックになる。食べ物が無駄になるのはなるべく避けたいが、こんなものを持ち歩いて買い物に出かけるのは負担が大きい上、街中ではどこで弁当を食べるのか悩む羽目になるだろう。
 やはり本日は一旦中止という形にして、雛子には弁当を持ち帰ってもらい、後日改めてピクニックなり、買い物なりに出かけた方がいい。
 そんなことを考えながら、俺は彼女との待ち合わせ場所である駅へと向かう。

 駅のコンコースを行き交う人は、皆揃って傘を持っていた。
 電車を降りて駅舎を出て行く人はまだ傘を閉じていたが、俺のように外を歩いてきた人間は全員濡れた傘を手にしていた。駅舎の床も傘の石突から落ちる水滴と、無数の足跡ですっかり汚れてしまっている。俺の気分も沈みかけており、着ていたパーカーが湿気を吸ってまとわりつくのが鬱陶しかった。もっとも苛立っていたのはそのせいだけではなく、今日の予定が狂ってしまったことへの失望が大きかった。
 待ち合わせは午前十時の約束だった。悪天候のせいか数分だけ遅れて、ようやく雛子が姿を現した。彼女は野外に備えてか、珍しくデニムジーンズをはいており、少し短い裾から白いふくらはぎが覗いていた。上にはシャーベットのようなオレンジ色のカーディガンを羽織り、保温にも気を遣ってきた様子だった。
 こちらへ近づいてくる雛子に落ち込んだ様子はなかった。ピクニックが中止でも別の場所へ出かければいいと思っているのだろう。だが俺は別の考えの方をより強く希望しており、それを告げるのがひたすら憂鬱だった。
「昼過ぎまでは持つかと思ったが、見込みが甘かったな」
 挨拶より先に、俺は彼女にそう告げた。
 俺の傍で足を止めた雛子が苦笑いを浮かべる。
「本当ですね。空はそれほど暗くないように見えたんですけど」
 彼女の言う通りだった。忌々しい空模様が気を持たせるようなことをしなければ、俺も弁当など作らなかったのに。
「降るなら降るで、いっそ朝のうちから降っておけばいいものを」
 恨みを込めて溜息をつくと、俺は雛子に言わなければならない話を切り出す。
「この悪天候のせいで一つ問題が起きた」
 雛子が瞬きをする。
「問題? 一体、どんなことですか?」
「既にピクニック用の弁当を用意してしまったことだ」
 そう深刻な問題には聞こえなかったのだろう。一瞬、雛子が吹き出しそうになっていたのを俺は見逃さなかった。もっとも彼女はすぐに気遣うような顔つきになり、俺に尋ねてきた。
「ありがとうございます、先輩。お弁当作りは大変でしたか?」
「そうでもない。作る分にはな」
 前日から用意をしておいたおかげで、今日はそれほど手間もかからなかった。思ったよりも早くに支度が済んでしまい、少し早起きしすぎたと後から思ったほどだった。
 だがそれも急な雨のせいで全て無駄になった。
「しかし食べる分には大変だろうな」
 俺は肩を竦めてから雛子に告げる。
「お前さえよければ少し持って帰ってくれないか」
「も、持ち帰りですか? あの、せっかくだから一緒に食べるんじゃなくて……?」
 雛子がおずおずと聞き返してきた。
 もちろん俺もそうできればいいとは思う。せっかく作った弁当を一人で食べるのは空しいことだ。ましてそれを彼女にも強いるのは心苦しい。
「この天気ではピクニックは無理だ。考えればわかることだろう」
「いえ、そういうことじゃないです。お弁当だけなら屋内で食べたっていいでしょう」
 俺の言葉に、雛子はどこか歯痒そうな顔をした。それから少し考えて、遠慮がちに言葉を継ぐ。
「もし迷惑じゃなければ、先輩のお部屋にお邪魔したいです」
 ――駄目だ。
 答えるよりも早く、胸裏で強く否定していた。
 その思いが面に出ていたのだろう。雛子はたちまち慌てふためく。
「迷惑じゃなければ、です。もし問題があるなら他の場所でも構いません」
 問題ならある。彼女を俺の部屋に連れていくことはできない。
 だがそれは決して雛子のせいではない。彼女が気に病まないよう、そのことは伝えておかなくてはならない。
「迷惑というわけではない」
 とは言え、それだけで引き下がってくれるような彼女でもないだろう。雛子もなかなか理屈っぽいところがある。なぜ駄目なのか、ある程度の説明は必要かもしれない。
 だが、それでは、一体どう言えばいいのか。
「本当に、駄目なら駄目でいいですから」
 雛子は尚も懇願してくる。こんな時に限って強気な物言いをせず縋りついてくるのだから質が悪い。
「駄目というわけでも……」
 俺は言いかけて、目の前を早足で通り過ぎていく人影に気づく。
 駅の構内は日曜の午前であるにもかかわらず、人の出入りが激しいようだ。待ち合わせた時のままで立ち話をする俺たちの傍を、これまで何人もの人間がすれ違っていった。彼らのほとんどは俺たちに目もくれず、早足で通り過ぎていくだけだったが、それでも俺は人波が途切れるまで待たなくてはならなかった。
 他人には聞かれたくない話だった。
「ただ、あまり感心できることではない」
 ようやく人目が気にならなくなったところで、俺は雛子を咎めた。
 雛子は解せないという顔をする。
「そうでしょうか」
 すかさず俺は頷き、
「そうだ。男の部屋に軽々しく足を運ぶのは決して誉められた行動じゃないだろう」
 彼女に注意を促すと、雛子が大きく目を見開く。
「え、ええ……?」
 驚きのあまり半分吐息のような彼女の声に、俺も気まずさを覚えていた。
 今更だと言われても仕方がない。雛子を俺の部屋に招くようになってから、既に一年以上が経過していた。彼女は俺の部屋の合鍵も持っており、これまでにも何度となく訪ねてきてくれた。だからこそ冷蔵庫の中には今もチョコレートが眠っており、彼女の次の来訪を待っている。
 だが、今更のような常識、正論を持ち出してでも彼女を遠ざけなければならない理由がある。そしてその理由を、彼女には決して打ち明けられない。
「私は、先輩をとても真面目で誠実な人だと思ってますから」
 何も知らない雛子は、俺を庇うような発言さえする。
「今までだって何度もお邪魔しましたけど、問題のあるような過ごし方はしてないですよ。いつも本を読んだり、先輩は書き物をしたり、私は受験勉強をしたりして……ほら、実に清廉です。外聞が悪いということもないと思います」
 彼女の言葉からは温かい気遣いと俺への信頼が感じられ、俺の罪悪感を一層駆り立てる。俺が気に病まないよう、精一杯言葉を選んでいるのもわかった。優しさからくるそのフォローが、生半可な非難や糾弾よりもよほど胸に突き刺さる。
 現在の俺が、そこまで言ってもらえるほど清廉な人間であるはずがない。
 だが彼女のその思いに、俺は応えなくてはならない。雛子の信頼に足る人間でなくてはならない。
「確かにそうだが……」
 ためらう俺に、雛子は説得を重ねてくる。
「今日は残念ながらピクニックの予定が流れてしまったので、やむを得ない措置ってことでどうでしょう」
 彼女の口調は穏やかだったが、一方で奇妙なくらいの懸命さも見て取れた。俺の懸念をどうにかして払拭しようと躍起になっているようだった。
 恐らく、雛子が払拭したいのは今ある懸念だけではないのだろう。俺が彼女を初めて部屋に招いた日から続いてきた、試行錯誤だらけの俺たちの歴史そのものを否定されたくないと思っているのだろう。痛いほどに伝わってくる彼女のひたむきさに、俺はどう向き合っていいのかわからなくなっていた。
 ただ、ここで頑なに彼女を拒めば、かえって彼女を傷つけることになるのはわかった。
 それなら、弁当を食べるほんのわずかな間だけなら、彼女を招き入れるのも致し方あるまい。食後はすぐに部屋を出て、二人でどこかへ出かけてしまえばいい。そもそも今回の支障となっている弁当を、天候に対し甘い見通しを立てて作ってしまったのは俺だ。あれを片づけてしまうまでは身動きも取れない。それならさっさと片づけてしまう方がいいだろう。
「そういうことなら仕方ないな。弁当を作ってしまった俺にも責任はある」
 まだ迷いはあったが、俺は彼女に許可を出した。表向きは平静を装い、いかにも詮方ないという口ぶりで続ける。
「仕方ないな、弁当を食べるだけだぞ」
「はい。ありがとうございます、先輩」
 雛子の表情が和らぐ。
 素直に礼を言われると、非常に決まりが悪かった。
「そうと決まればさっさと行くぞ。雨が酷くなったら困る」
 俺は急いで彼女を促し、彼女は自分の鞄から折り畳み傘を取り出す。
 そして二人で駅舎を出た後、俺はそれこそ今更のように気を揉み始めていた。

 雛子はこれほどまで懸命に、ひたむきに俺を想い、気遣ってくれている。
 だというのに俺は彼女に隠し事をしているのだ。それもこの上なくやましく、彼女に知れればその想いさえ危うくなってしまいそうな、重大な隠し事をだ。
 本当にいいのだろうか。彼女に隠したまま、彼女を欺いたままで、俺は彼女の信頼に足る人間になれるのだろうか。

 冷たい秋雨の中を、思案に暮れながら歩いた。
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