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灯火の熱量(1)

 澄江さんは、季節の変わり目になると電話をくれる。
『寛治さんはこの時期になると、よく風邪を引いていたでしょう。今でも心配になってしまって』
「ありがとうございます。おかげさまでここ数年は夏に風邪を引いておりません」
『よかった。そちらはこっちと比べたら穏やかだものね。きっと過ごしやすいんでしょうね』
 受話器を持つ俺の耳に懐かしい声が届く。すると胸の奥が、小さな火を灯したように、ほんのりと温かくなる。
 郷愁という感覚を、澄江さんが暮らすあの港町に対して抱くのは間違っているだろうか。俺の生まれ故郷は現在住んでいるこの街だが、少年時代の思い出の大半は潮風の匂いと共にある。いいものも、あまり思い出したくないものも含めてだ。
 今更、向こうへ帰りたい、暮らしたいと思うことはないが、澄江さんの顔を見たいと思うことならよくある。
「澄江さんこそお変わりありませんか? 声を聞く限りではお元気そうですが」
 俺が尋ねると、澄江さんは優しい微笑が目に浮かぶような声音で答えた。
『ええ、おかげさまで。私は暖かくなってくると、だんだん調子がよくなるの』
「そちらはもう入梅ですか?」
『そうよ。あなたのところもでしょう? ニュースで見たわ』
 六月に入って間もなく、雨が降り続くようになった。今も自室の窓の外には微かな雨音が満ちている。天候自体はさほど荒れることもなかったが、しとしとと休みなく降られるだけでも気分が滅入るものだった。何より本に湿り気は大敵だ。読書家としては本を持ち歩くだけでもとかく気を遣う季節だった。
「暦の上では夏と言えど、雨の間は冷えることもありますから、どうぞお気をつけて」
 俺は澄江さんを労わるつもりでそう告げた。
『ありがとう』
 穏やかな感謝の言葉の後、澄江さんは寂しげに続ける。
『寛治さんは優しい子ね。私もあの子を、あなたみたいに育てられたらよかった……』
 澄江さんの言う『あの子』とは当然、彼女のたった一人の息子――俺の父親のことだ。澄江さんは放蕩で無責任な俺の父について、育て方を誤ったとよく悔いていた。俺が幼少期に受けた一連の不幸についても、全ての発端は自分にあるのだと思い込んでいるようだ。昔は何度か、面と向かって詫びられたこともあった。
 だが誰からも疎まれ邪険にされてきた俺を、慈しんで育ててくれたのも間違いなく澄江さんだ。彼女がいなければ俺は人の温かみというものを何も知らないままだっただろうし、俺が他の人間に対して温かい気持ちを抱くことも一切なかっただろう。俺は澄江さんに感謝こそすれ、責めるつもりなどあるはずもなかった。
 これでもし俺が立派な人格者として成長していたなら、澄江さんの育て方が誤っていたわけではないと、その懸念を一息に吹き飛ばすこともできるのだが。
 そうありたいとは思っているが、実際のところは人格者に遠く及ばず、自らの弱さ至らなさを痛感するばかりの日々だった。
 父の話が出たので、俺は先月父と会ったことを、澄江さんに打ち明けることにした。
「先月、父に呼ばれてあの家へ行きました。少し話もしてきました」
 相続についてのやり取りは澄江さんに告げるべきかどうか迷った。だが隠しておいてもいつかは露呈する話だ。それに俺の方の意思もきちんと伝えておきたかったから、いい機会だと思い全て話してしまった。
 俺の話を澄江さんは、最後までじっと聞いていてくれた。そして聞き終えると、細く長い溜息をついた。
『――そう。あの子はそんなことを、あなたに言ったのね』
「はい。俺も父がそう考えているならと、全て了承しました」
 澄江さんは俺がどんな決断をするか、既にわかっていたようだ。特に驚く様子もなく受け止めてくれた。
『あなたがそれでいいなら、私は何も言わないわ。あなたも考えなしに決めたわけではないでしょうしね』
「ありがとうございます」
 俺も反対されると思っていたわけではない。だが澄江さんから実際にそう言ってもらうと、やはりほっとした。
『あの子は、それでも思いやりだけは忘れていないと思いたかった……』
 受話器からは悲しそうな呟きが聞こえてくる。
 澄江さんと父がどのような親子関係を築いていたのか、俺はよく知らない。俺が生まれるずっと前から澄江さんはあの家を出されていたし、祖父とも離縁していたからだ。離縁後も祖父は澄江さんに仕送りを続けていたらしいが、それがどういう意味合いの送金だったのかも知らないままだった。父が俺の前で澄江さんを案じるような言葉を口にしたことはなかったが、祖父亡き後の仕送りは続けているらしい。そのような話だけは聞かされていた。
 同じように仕送りで暮らしている身で文句を言う気はさらさらないが、つくづく金でだけ縁を繋いでいるような一族だ。あの家は。
「思いやりならあるでしょう。俺もこうして大学まで通わせて貰っているんですから」
 俺が嘘でもなく反論すると、澄江さんは弱々しく嘆いてみせる。
『お金のことだけじゃないのよ、寛治さん。あの子はもっと大切なものを、あなたに与えてあげてないんだから』
 それが何かは知っているが、この期に及んでそんなものを父親から賜りたくはなかった。
「父は今の母と、妹を何より大切に思っているようですから。俺もそのことはわかっています」
 俺は父との関係を修復する術などないと思っている。だから軽くいなすように答えると、まだ何か言いたそうにしている澄江さんを制するように話題を変えた。報告さえ済めば、あんな男の話を続ける必要もない。
「それより、先月お送りした冊子はもう読んでいただけましたか」
『……ええ。とても楽しく拝読したわ』
 話題が転換すると、澄江さんの声もいくらか落ち着いた。
 先月、大学の文芸サークルで編集、製作した同人誌を、澄江さんの元にも一部送付していた。昔からこの人には俺が書いたものをたびたび読んでもらっていた。さすがに澄江さんが雛子のような批評や助言をくれることはなかったが、ただ喜んで読んでもらえるのが嬉しく、仕上がったものは欠かさず送るようにしていた。
『寛治さんの作品はいつもきれいな文章で、読んでいてまるで心が洗われるようよ』
 過分な誉め言葉には面食らいもするが、澄江さんからのものとなれば悪い気はしない。
「光栄です。澄江さんに誉めていただけるのが何より嬉しいです」
『まあ。学がない私じゃいい文芸仲間にはなれないでしょう?』
 若さを取り戻したようにくすくす笑う澄江さんは、相変わらず読書家ではないらしかった。あの古い家にある蔵書は未だ読破には至らず、同人誌を読んでくれるのも結局は俺が書いたものが載っているから、というだけに過ぎない。過去にはこの人ともっと文学や創作について話ができたらと思うこともあったが、今はこうして、俺の書いたものを読んでもらえるだけで満足していた。
 話し相手なら他で見つけた。十分すぎるほどの相手を。
『今のあなたにはいい仲間がいるんですもの。その方にも日頃からきちんとお礼を言うようにね』
 澄江さんから、誰のことを言われているか察した俺は、急に面映くなった。もごもごと口の中で答える。
「……わかっています」
 雛子についての話も、澄江さんには以前から打ち明けていた。高校時代の文芸部の後輩と、文学や創作について語り合うようになったことも、その相手と校内活動のみならず卒業後も付き合いを続け、今なお交流があることも話してあった。長きにわたって友人もなく、孤独な青春時代を過ごしてきた俺にそういう相手ができたことを、澄江さんもまた心から喜んでくれていた。
 ただ、一つだけ。
 俺は澄江さんに、柄沢雛子についての最も肝心な情報を打ち明けられていなかった。
『柄沢さんって言ったかしらね、その子。今年は受験生なんでしょう?』
「はい」
『なら、あまり会えなくなるから寛治さんも寂しいわね』
「多少は。ですが、少しの間のこととは思っていますから平気です」
『だけど想像つかないわね。男の子同士で集まって本の話ばかりしているなんて』
「……そう、でしょうか」
『ええ。一度あなたたちの会話を覗いてみたいわ。賑やかなのかしら? それとも静かで淡々としているのかしら?』
 楽しげな声を上げる澄江さんは、俺が話した柄沢という名の後輩を、男子生徒だと思っていた。
 俺もその誤解に気づいてはいたが、なかなか訂正する機会を得ていなかった。

 言い訳をするようだが、俺も当初はそんな誤解をされるとは思っていなかったのだ。
 しかし雛子との関係について澄江さんに、子細に渡って語り聞かせるのもどうかと思ったし、何より俺自身に抵抗があった。そこで『文芸部の後輩と仲良くなり、文学や創作について話をしている』という部分だけを掻い摘んで話した。その際、彼女を下の名前で呼ぶのもやはり抵抗があって、澄江さんには名字で紹介していた。それらが結果的に誤解を招き、澄江さんは俺に同性の友人ができたものと思ったようだった。
 もちろん、誤解をされたならすぐに訂正すればいいだけの話だろう。俺もそれを試みなかったわけではない。だが詳しく話すとなるとどうしても触れなければならないいくつかの点があり、それらの話題にしにくさ、口にする際の気恥ずかしさが高い壁として俺の前に立ちはだかった。
 実体験を踏まえて言えば、友情は相手と気が合うというだけで成立するものだ。趣味が同じである必要もなければ、容姿で篩にかける必要もない。性格の相性はある程度影響するかもしれないが、だとしても俺と大槻が友人関係にあるのを考えれば実に些細な影響であり、いくらでも擦り合わせが利くものと言えるだろう。
 だがこれが友情ではなく、異性間の機微と言うべきか、ともかくいささかややこしい間柄の場合にはそうもいかない。気が合うというだけで傍に置きたいと思えるはずがなく、長い時間を共にするなら同じ趣味があった方がよりいいだろう。容姿についても全くの不問というわけにはいかず、多少心に響くものがなければならないようだ。そして性格は何より肝要で、相手の人間性に触れることこそがその現象の発端になり得ると俺は思っているし、むしろ魂そのもののありように魅かれることがなければ、それは断じて成立しないとも考えている。
 つまり俺が雛子についてありのままを、包み隠さず打ち明けるとするなら、彼女との間にそういった条件全てが成立していることも告白しなければならないということになり――俺のような人間にとって、ましてやこのケースが初めてのこととなれば、近しい人に包み隠さず話すという行動にどれほどの勇気が必要かは言うまでもないだろう。

「澄江さん」
 俺は今日も、それを打ち明けるべく気を奮い立たせた。
「その、他でもない柄沢についての話なのですが」
『何かしら? 柄沢さんがどうかしたの?』
 澄江さんが少し深刻そうにしてみせる。
「い、いえ、大した話ではないんです」
 慌てて俺はそれを否定し、
「奴について、澄江さんにもっと知っていただきたいと思うんです。それで……」
 どうにか会話の糸口を掴もうと続けたところに、澄江さんが口を開いた。
『確かにそうね。私も寛治さんの大切なお友達のこと、もっとよく知りたいわ』
「そうでしょう。是非そのことでお話ししたいと思っていたのです」
『ねえ、夏休みに二人でこちらへいらしたらどう?』
「――な、何を仰るんですか」
 話の腰を折られただけでなく、唐突な提案までされて俺は思わず狼狽した。
 しかし澄江さんは至って楽しそうにしている。
『こちらは若い人には何もなくてつまらないところでしょうけど、でも本を読みたいだけなら涼しくて、ちょうどいいんじゃないかしら。もし何の予定もないなら、お友達と一緒に避暑にいらしたらどう?』
 あの港町は夏でも強い潮風が吹き抜ける為、夕涼みをすると大変に心地のいい時間が過ごせた。澄江さんの勧めも突飛というわけではなく、理には適っている。
『私も寛治さんのお友達にご挨拶がしたいし、お礼も言いたいんですもの。何のおもてなしもできないけど、その代わりこの家を自由に使ってくれていいのよ』
 しかし澄江さんの言葉は嬉しいが、相手が同性の友人ではなく雛子だとなると、それは不可能なことだった。
 澄江さんの暮らす港町まで、ここから始発で出ても昼過ぎになる距離がある。日帰りもできなくはないが滞在時間がわずかでは落ち着かないだろうし、かといって雛子を泊まりがけで連れ出すわけにはいかない。絶対に駄目だ。
「申し訳ないのですが、あいつは受験生ですから今年はきっと無理でしょう」
 俺は訳もなく焦る気持ちを抑えつつ、どうにか言った。
『あら、そうだったわね。いやだ私ったら、さっき自分で言ったのにね』
 同じように澄江さんも慌てている。その後で自ら笑いながら、
『でもお会いしたいのは本当よ。今年じゃなくてもいいから、いつか一緒に来てくれないかしら』
 と続けたから、この人らしくもなく強い勧めだと俺は思う。
「澄江さん、そんなに柄沢と会いたいんですか」
『それはね。だって寛治さんがとても大切にしているお友達なんでしょう?』
「いえ、……まあ、そうですが」
『わかるのよ。あなた、柄沢さんのお話をする時はちゃんと男の子みたいな声をしてるんですもの』
 そう言って、澄江さんは俺の呼吸をぴたりと止めた。
 ごく自然に、こちらの動揺には気づく様子もないままだった。
『いつもは無理して大人のふりをしているみたいだったからね、心配していたの』
 電話の向こうであの人は、穏やかに幸せそうに笑っている。
『よかったわね、寛治さん。あなたが自然でいられるような、素敵なお友達ができて』
 友達というわけではありません、という言葉が喉元まで出かかった。
 だが今それを言うと更に気恥ずかしい思いをするだろう。どうしても、言えなかった。

 澄江さんも、俺が正直に打ち明ければそれはそれで喜んでくれるに違いない。
 むしろ洗いざらい話す方が、何かと俺を気にかけてくれる澄江さんを、ようやく安心させられるのかもしれない。そうも思う。
 だが口にするのは予想以上に難しく、俺はずるずると機会を逃してばかりだった。
 雛子の方も家族に、俺の話をできていないと言っていた。その割にお兄さんにはあっさりと話してしまったようだが、それはあの兄妹の仲のよさゆえなのだろう。相手が親ともなればまた別で、気恥ずかしくて言いにくいという気持ちは今の俺には十分共感できるものだった。
 しかも俺の方は中途半端に話してしまったが為に、より気まずいことになっているようだ。
 俺は澄江さんにあいつのことを、そんなに大切だとか素敵だというふうに説明した覚えはない。なのにあの人には、なぜそれがわかるのだろうか。

 澄江さんと電話をした翌日以降も、ぐずついた天気が続いた。
 日中は曇り空を維持していても夕方頃には空が暗くなり、雨粒がぽつぽつ降ってくる。俺はその時分まで大学におり、ちょうど講義を終えて廊下に出たところで、窓を叩く雨の音に気づいた。
 ガラス越しに見上げた空は墨を薄く溶かしたような色をしていて、思わず溜息をつきたくなった。こんな時期に傘を持ってこない迂闊な人間はいないだろうが、傘があったとしても物憂い気分になるのが雨の日というものだろう。鞄や服が濡れると鬱陶しいし、水溜まりを避けて歩くのも面倒だ。
 もっとも俺は、雨が嫌いなわけではない。
 雨の日となるといつも、思い出すことがある――。
「鳴海くん! ちょうどよかった!」
 廊下の窓が雨に濡れていくのをぼんやり眺めていた俺の耳に、大槻の周囲を憚らない声が響いた。
 眉を顰めながら振り向けば、こちらへ駆け寄ってきた奴は口を開く前から愛想笑いを浮かべている。今日ばかりは何か用でもあるのだろう、と瞬時に察した。
「どうした、大槻」
 目の前で足を止めた奴に尋ねると、大槻は間髪入れずに切り出した。
「今帰るところだろ? それなら入れてって!」
「入れて……って、お前、傘を持ってこなかったのか? この時期に?」
 迂闊な人間もいたものだ。
 俺が思いっきり呆れてやったせいだろう。大槻はこちらを見上げ、心外そうに眉を逆立てる。
「いや違うって! 俺は傘忘れてきたとかじゃないし!」
「じゃあ何なんだ」
「こないだ友達に貸してたんだよ。それをまだ返してもらってなくてさ」
 そう言い放った後、いっそ誇らしげに破顔した。
「まあ実際、貸したこと自体は忘れてたんだけどね」
 大槻らしい失態だ。俺はやはり呆れたが、断るような話でもないし頼みを聞いてやることにする。どうせ今日は用事もない。
「どこまで入れていけばいい?」
 俺が尋ねると、奴はぱっと表情を輝かせる。
「ありがとう友よ! じゃあ外のコンビニまで送ってくんない? そこで傘買うから!」
「生協じゃ駄目なのか?」
 送りたくないわけではなかったが、大学内で買い物ができるのになぜ、という疑問はあった。
 すると大槻は手をひらひらさせて、
「ああ、購買は駄目。さっき見てきたけど激混みだったもん」
「雨のせいか」
「多分ね。ビニール傘持って並んでる奴、結構いたし」
 この時期でも意外と軽率な人間は多いものらしい。大槻のように事情あってのことかもしれないが、それで余計に金をかけるのは少々もったいない。
 しかし、購買がそんな状況であるならば、外のコンビニの傘の売れ行きも推して知るべしではないか。ふと思いついて、後から言い出されるのも面倒だからと、俺は大槻に提案した。
「コンビニも売り切れていたら困る。部屋まで送っていこうか」
 俺の申し出に大槻は目を丸くする。
「いいの? 男二人で延々と相合傘なんて、傍から見たら間抜けな絵じゃない?」
 親切心を出して言ってやればこれだ。俺だって、好きで大槻と同じ傘の下に入っていくわけでもないというのに。
「じゃあ勝手にしろ。俺はもう帰る」
「あ、うそうそ! 冗談ですって! お願いですから入れてってください!」
 先に立って歩き出したら、大槻は弁解の言葉を並べながらばたばたとついてきた。
 その弁解が奴らしくもなくしおらしかったので、俺は愉快な気分になって少し笑った。
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