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適正温度

 冷房の適正設定温度は二十八度だと言われている。
 私が訪ねていく時、鳴海先輩の部屋の冷房も二十八度に設定されていた。
 もっとも、それも最近の話だ。去年までは冷房を入れるよりも窓を開けておく方が多かった。鳴海先輩は自然の風が好きなようだし、私もじっと座った状態で冷房の風を浴びるのは苦手だった。先輩が愛情込めて育てている紫陽花の鉢植えに冷房の風はよくないから、というのも理由の一つだったのかもしれない。鳴海先輩が机に向かって書き物をする間、私は持参した本を読む――そういう時間を過ごすなら、夏場でも窓を開けておくだけで十分だった。
 今年に入ってから状況が変わった。厳密にはもっと早くから変わっていたのだろうけど、夏も終わるこの時期になってようやく気づいた。
 鳴海先輩は窓を開けなくなった。代わりに冷房を入れるようになった。

 高校時代より長い夏休みにも終わりが見えてきた、九月の初め。
 私は鳴海先輩に電話で誘われ、先輩の部屋を訪ねることになった。
 会う約束をする時、鳴海先輩の言葉はいつも簡潔だった。会いたいとか、少し時間を作れないかとか、そういうふうに持ちかけてくる。私は先輩の要点を重視する物言いには慣れているし、これでも昔と比べたら随分明瞭で温かみのある誘い方になったと思っている。会いたいとはっきり口にしてくれる、そのことだけでとても幸せだった。
 ただ一方で、すうっと体温が上昇するのを自覚することがある。
 それは電話で会う約束を交わした時だけでなく、電車を降りて改札を抜け、駅構内に佇む先輩のすらりとした姿を見つけた時もそうだ。白い襟付きのシャツを着た先輩は夏休み前よりも日に焼けていて、半袖から伸びた腕は狐色だ。いつもは部屋にこもって読書や創作に打ち込むばかりの先輩が日に焼けていると、別の魅力が加わったようでどきっとする。
 先輩も改札を抜けてきた私に気づき、狙いを定めるように真っ直ぐ視線を向けてくる。
 こそこそしていたわけではないけどその時、『見つかってしまった』と思った。途端に自分でもわかるくらい体温が上がったようだった。
「あ……あの、今日も暑いですね」
 顔が赤くなっているに違いないのを誤魔化そうと、私は手で自分を扇ぎながら声をかけた。
 先輩は薄い唇に微かな笑みを乗せて答える。
「そうだな。八月が終わったとは到底思えん」
 鳴海先輩の声は落ち着いていて、体温を感じないような話し方をする。冷徹だというのではなくて、淡々としているといった方が正しい。感情が揺れ動いた時こそ声を荒げたり、妙に早口になったりするものの、普段の声はなだらかで耳に心地いい。
 でも同時に、私だけが熱くなっているような気がしてそわそわする。
「行きましょうか、先輩」
 私の言葉に先輩は尖った顎を引き、私達は駅を出た。

 駅から先輩の部屋まではそれほど距離もなく、ほとんど会話もしないうちに辿り着いてしまう。
 まだ蝉が鳴く住宅街の一角に建つアパートの一階に先輩の部屋はある。年季の入った外観の、他の住人の気配がしない物寂しい建物だ。
 一昨年の夏から通うようになった先輩の部屋に、私はすっかり慣れているはずだった。部屋の中にある家具の配置も、目をつむっても思い出せるほど足繁く訪ねていた。なのに、重い金属製の扉の前で先輩が鍵を開け、大きくドアを開いてくれた時、私の体温はまた上がってしまう。まるで先輩の部屋が何かの生き物で、大きく開けられた口に食べられてしまうような錯覚さえ抱く。怖いわけではないのに背筋がぞくぞくする。
 私を先に玄関へ入れると、先輩も中に入り扉を閉める。この部屋の玄関は日当たりが悪く、扉が閉まると真っ暗になって、炎天下を歩いてきた目では辺りの様子が捉えられなくなる。それでも金属的な音が響くと先輩が玄関に鍵をかけたことがわかったし、私の傍をすり抜けていち早く部屋へと入っていく白いシャツの背中も見えた。
 後を追って部屋に入る私の前で、鳴海先輩はやはり冷房のリモコンに手を伸ばす。日焼けした腕が壁に据えつけられたリモコンへ這うように伸び、長くてきれいな指が慣れた手つきでボタンを操作する。小さな機械音の後、天井近くに設置されている白いエアコンが音を立てて動き始め、程なくして涼しい風が吹き込んできた。
 私はそんな先輩の一連の動作と、リモコンの窓に表示されたデジタルの数字を見つめていた。
 冷房は二十八度に設定されている。
「……どうした」
 私の視線に気づいてか、鳴海先輩が訝しげな顔をした。
 先輩は自分で意識しているのだろうか。夏場に冷房を入れるようになったこと、窓を開けなくなったこと。
 それらを指摘するのも恥ずかしく思えて、私は誤魔化すように笑った。
「今日、やっぱり暑いなって思ったんです」
「そうだな、お前は先程から顔が赤い」
 鳴海先輩はリモコンに触れていた手を私の頬へ伸ばし、指の腹でなぞるように軽く撫でた。先輩の指は、先輩の声と同様に温かくはなかった。
「何か水分を摂った方がいい。麦茶でいいならすぐに出せるが、紅茶の方がいいか?」
「いえ、麦茶でお願いします。すみません」
 私は答えてから床に座り、先輩が台所へと消えていくのを視界の隅で見送った。すぐに食器棚を開けてグラスを二つ取り出す音が、次いで冷蔵庫を開ける音が聞こえてくる。麦茶を注ぐ水音が涼しげだった。
 八畳の部屋をエアコン一つで涼しくするのはたやすいことのはずだった。二十八度という高めの温度設定なら尚のことだ。
 にもかかわらず私の熱は一向に引くことがなく、涼しくなっていく部屋とは対照的に体温が上がり続けていくのがわかる。
 冷房の風はあまり得意ではないはずだった。いつだったかフレンチスリーブの服でショッピングモールへ出かけた時、店内の低すぎる室温に肩を冷やし、しばらく筋肉痛のような痛みに悩まされたこともあった。
 だけどこうして先輩の部屋にいると、冷房は必要不可欠だと思えてならない。
「ほら、麦茶だ」
 台所から戻ってきた先輩が、座卓の上にグラスを二つ、並べて置いた。
「ありがとうございます」
 お礼を述べた私のすぐ隣に、先輩は黙って腰を下ろす。
 思えばこうして座る時の距離感も変わった。昔は座卓を挟んで向かい合うのが私達の定位置だった。それがいつの間にかこうして隣に並んで座るようになった。先輩もそれが当然だというように、二人分のグラスやカップを、座卓に並べておくようになった。
 間違い探しをすればきりがない。春先からこの部屋に現れたセミダブルのベッドは私達の関係の変化を如実に表すものだし、いつも整頓されている机の上に置かれた紫陽花の鉢植えは花期を終えて剪定された後で、その寂しい姿が表すのは夏の終わりだ。先輩の本棚に今年から一気に増えた哲学書は年単位での時の移り変わりを表している。もうじきここに、就職活動に関する書籍が並ぶようになるのかもしれなかった。
 何がどう変わろうと、どれほど時が流れようと、私が鳴海先輩を好きなことに変わりはない。
 でもだからこそ、先輩と接する度に、そして以前との違いに気づく度に体温が上がってしまうのだと思う。
「お前もいくらか日に焼けたな」
 麦茶を飲む私を、鳴海先輩はしげしげと見つめてくる。
 先輩が私を見る目にはいつも遠慮がない。皮膚を透かして胸の内まで見通せそうな、鋭い目つきで私を見る。他の人なら恐れをなしそうなその眼差しが、近頃では羽毛で撫でられたようにくすぐったい。
 また体温が上がる。体温計の中で水銀がぐんと伸びていくように上がる。
 私は落ち着かない心境で応じた。
「そうなんです。これでもようやく火照りが引いたところで」
「まだ痛むのか? 触ったら」
「少しだけ。でも以前よりはましになりました」
 先月、私と先輩は海水浴に出かけた。水着になった後で日焼け止めを塗っておいたのに、私も先輩もそれなりに日に焼けてしまった。私達は日焼けの仕方が大分違うようで、すぐ黒くなってしまった先輩とは逆に、私は数日間肌が腫れたように赤くなり、服を着るにも寝転がるにもいちいち呻くような生活を送る羽目になった。
 今は多少落ち着いたものの、日焼けの跡はくっきりと身体に残っているし、痛みも消えてしまったわけではない。あくまで以前よりましという程度だった。
「先輩もすっかり狐色ですね」
 私が水を向けると、先輩は苦笑いを浮かべた。
「ああ。我ながら、やけに健康的な面構えになったものだと思う」
「似合いますよ、先輩には」
「お前のようにもともと色が白いわけではないからな」
 色の白いのも良し悪しだ。鳴海先輩は私ほど痛みに悶え苦しまずに済んだようなので、その点は素直に羨ましかった。
「先輩も水着の跡がついちゃいましたか?」
 話の流れで尋ねてみた。私の身体には購入したばかりの水着の跡が、まるで筆で描いたようにありありと残ってしまっていたからだ。
「まあな。それは致し方ないことだ」
 鳴海先輩は諦念を滲ませるように答え、私も少し笑った。
「そうですけど、あんまりくっきり残っているので恥ずかしいです」
「恥ずかしがることか? 誰に見せるようなものでもあるまい」
 そんなふうに先輩が断じた。
 違和感を覚えたのはその時だ。私は思わず目を瞬かせ、鳴海先輩も私の様子に気づいてふと眉根を寄せる。
「何だ、妙な顔をして」
「え……あ、いえ」
 私は慌ててかぶりを振ったけど、多分、遅かった。
 また体温が上がる。先輩が何かしたわけでもないのに、ひとりでに上がる。
 鳴海先輩は眉を顰めたまま私を見つめている。間違いなく、私がうろたえていることに気づいている顔だ。
 私が言葉も継げずに黙っていると、鳴海先輩もしばらく無言で私を見た。
 そうして二人で黙り込むと、他に人の気配のないアパートの一室は音のない世界のように静まり返る。息継ぎすらためらわれる静寂の中、私達は固まったままで長らく見つめ合った。ただ表情は対照的だったはずだ。先輩はひたすら怪訝な顔をしていたし、私の顔は発熱しているみたいに赤くなっていることだろう。
「あ、あの」
 沈黙に耐えかね、私は口を開いた。
「私、変なことを言ったかと思うんですけど、忘れてください」
 そう告げると、先輩は意外にも笑った。
「無理だな」
「先輩!」
 抗議の声を上げた私を見て更に笑った後、先輩はどこかたしなめるように続ける。
「人を惑わせておいて忘れろなどと簡単に言うな。できると思うか?」
 水着の跡を見せる可能性のある相手がいて、私はそのことを恥ずかしいと思っている。その相手は今まさに私の目の前におり、私が恥ずかしがる理由を察している。今の言葉からはそこまで読み取れた。
 でも惑わすというなら、先輩だって私のことをたびたび惑わせている。私が先輩の行動に幾度となく体温を上げている事実を、惑わされていると言わないで一体何と言うのだろう。
「しかも自分で言っておいて恥ずかしがるのか。こっちはすっかり妙な気分だ」
 そう言って先輩は指で私の唇に触れる。
 冷たい指が私の下唇をくすぐると、私の中でまた体温が上がる。
 今度はきっと、思い出したからだ。私は先輩の激情家としての一面を知っている。だからこそ私は、先輩が私を部屋に呼んだ時の、以前とのわずかな違いにさえいちいちうろたえる。そしてひとりでに体温は上がる。冷房が必要になる。
 鳴海先輩はそこまで理解した上で冷房を入れるようになったのかもしれない。
「……見たいですか?」
 唇に先輩の指を乗せたまま、私はそっと尋ねる。
 目ではその指から繋がった先にある、夏らしく剥き出しの腕を見ていた。血管の浮いた男の人らしい先輩の腕はいつもより日に焼けていて、触れてみたいと強く思う。いつもと違う感触がするだろうか。それとも同じだろうか。
「見てもいいのか?」
 先輩はためらわずに聞き返してくる。その迅速さとは裏腹に、目は笑っていなかった。瞳に宿る鋭い眼光が、私を柔らかく撫で上げて、身体の中へと突き抜けて心臓を蹴り飛ばす。たちまち心拍数が上がって息苦しくなるのがわかった。
「こうして部屋に連れてきてすぐ、というのも性急だが」
 私が黙っていると、先輩がそう前置きしてから、恥じることも迷うこともなく続けた。
「今すぐ、お前が欲しくなった」
 とても率直な言葉だと思った。
 だけど、それでいいのだとも思う。私は鳴海先輩からは簡潔で率直な言葉が欲しい。それだけで足りなければ、言葉以外のものをくれればいい。私ももう純粋な子供ではないから、言われたことを額面通りに受け取るしかできないわけじゃない。
「あの……駄目なはずがないです。どうぞ」
 私はそんなふうに答えた。言葉にして答えるのはそれが精一杯だった。
 あとはもっと違う伝え方をするしかない。そう思い、膝立ちになって先輩に近づき、自分から唇を重ねた。
 先輩の薄い唇は冷房のせいか、私のものよりも少しだけ冷たく、唇の間で混ざり合う吐息は熱かった。唇が触れ合う間、先輩は日に焼けた私の肌が痛まないよう、とても優しく抱き締めてくれた。

 かつての私は、言葉が欲しいと思っていた。
 本を愛する者として、言葉そのものの価値を信じきっていた。人の心を揺り動かし、変容させ、感動に打ち震えさせえることすらできる言葉が、愛を伝え合う唯一無二の手段だと思っていた。
 だけど印刷された言葉とは違い、声に出して伝えるのはとても難しい。私は鳴海先輩が好きで好きで好きで好きで仕方がなくて、何度となく先輩に自分の想いを伝えたつもりでいたけれど、なかなか正しく伝わらなかった。先輩が同じように私へ言葉を贈ってはくれないかと思っていたのに、かつての先輩はそれどころではないほど追い詰められてしまっていた。
 抱き合うことを覚えた私達は、以前よりもずっと素直でいられるようになった。
 今は、先輩から率直な言葉を貰える。お互いに触れ合いたいと思う気持ちを隠さずに済む。そして伝わらないことに悩み苦しむもどかしさを解消するやり方を得ることもできた。
 言葉だけでは足りない。私はずっと、先輩の全てが欲しかったのだ。

 二十八度の冷房の風が途切れ途切れに吹いてくる。
 部屋の隅にあるセミダブルベッドの上、鳴海先輩は汗の浮いた私の身体に触れ、身体に残る水着の後を指先でなぞっていた。ごちそうを食べた後、残ったソースをパンで余さず掬うような、名残惜しげな手つきだった。食べ足りないのかもしれない。
「女心を理解するのは難しいな」
 私に触れながらもそんなことを言うので、私は寝そべった姿勢から先輩を見上げる。
「どうしてです? 私、わかりやすいですよ」
 こんなに一生懸命愛を伝えているというのに、まだ伝わらないのだろうか。そう思って聞き返すと、先輩は私の身体を抱き寄せ、額に口づけながら答えた。
「この間、海では胸ばかり見るなと言われた。だが今はこうして眺めていてもまるで怒らない」
 先輩がそれをどこまで本気で言ったのかは測りかねた。口元は笑んでいたし、目つきも今は穏やかだ。案外、あの時の私の指摘を引きずっているのかもしれないな、と思う。
「外ではあんなに見られたら困ります」
 私は笑いながら答える。
 先輩が私を見る目はくすぐったくて、すぐに体温が上がってしまう。外では冷房が効かないから困るのだ。
「でも二人きりの時はいいですよ、いくらでも」
 そう言い添えると、先輩はなぜか苦笑した。
「いくらでもなんて言うな。そのうち見るだけでは我慢できなくなる」
「それでもいいです。先輩の好きにしてください」
 こうして抱き合うことを覚えてしまった後で、何をためらうことがあるのだろう。今更だと思う私の頬を手のひらで包んだ先輩が、顔を覗き込んできて、語を継いだ。
「そればかりでは即物的すぎて、成熟した愛ではないと思わないか」
 もっともらしい顔つきで、そんなことを語られた。
「俺はいつもお前が欲しくてたまらなくて、許される限り好き勝手にお前を抱いているのに、同時にお前をとても大切にしたくて、一つとして傷つけたくないと思っている。そうして矛盾しているうちは成熟した愛とは言えん」
 鳴海先輩は様々な点においてとても変わったと思うけど、理屈っぽいところだけは相変わらずだ。同時にそれはとてつもない殺し文句でもあったけど。
「矛盾してないですよ。そういうものです、愛は」
 私は冷房が効いているのをいいことに、まだ下がらない体温と精一杯の愛をぶつけるべく、寝返りを打って隣に横たわる先輩に飛びついた。ぎゅっと頭を抱え込むように抱き締めると、胸の中に響くような先輩の声がした。
「急に何をする」
「愛情表現です。先輩、私がどうして先輩の部屋を訪ねてくるか、考えてみてください」
 冷房を入れるようになった、窓を開けなくなった先輩の部屋にも、私は迷うことなく訪ねていく。恥ずかしさやためらいはないとは言えない。でもいつだって最後には先輩への想いが打ち勝つのだ。
「私は先輩が好きですから、何度でもこの部屋に来るんです」
 先輩の愛も欲望も下心だって何もかも受け止める自信があるからこそだ。
 そういう気持ちが伝わるようにしばらく抱き締めていたら、やがて先輩が深く息をついた。くすぐったかった。
「……幸せすぎて、溶けそうだ」
 二十八度は冷房の適正設定温度でもあるけれど、チョコレートが溶ける温度でもあるという。
 だけど先輩はチョコじゃない。私の腕の中にいても先輩は溶けてはしまわなかったし、冷房の風の下でもうしばらく抱き合っていることもできた。
 よって私達の適正温度は、二十八度であると言える。
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