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堰くと知りせば

 雛子が奇妙な弁解を始めた。
「私、受験勉強をしないと、先輩にお会いできないような気がしていたから……」
 打ち明けられた心中はまるで理解しがたいものだった。思わず短く尋ね返す。
「は?」
 こちらに背を向ける彼女は俯き加減になって、ぽつぽつと言葉を続ける。
「勉強を口実にしていたんです。先輩に毎週会いたいから。勉強なんて本当は二の次で、先輩に会えたらそれで良かったんです」
 斜め後方から見る姿は普段と違い、輪郭がはっきりとしていた。その輪郭を辿るように雫が落ちる。眼鏡をかけていれば、堰き止められたのかもしれない。
「ごめんなさい……」
 呟きが聞こえた。
 しかし、謝られるようなことではない。まして泣かれるようなことでもない。困惑していれば、色のない雫は次から次へと滑り落ちていく。彼女のスカートに滲んだ染みを作る。
 叱りつけてやりたい感情を抑えて、俺は雛子の手を取った。軽く力を込めて握る。
「なぜ泣く」
 尋ねると、しゃくりあげる声が帰ってくる。
「だって、私」
「泣くようなことじゃない。馬鹿げた話だがな」
 その泣き顔を覗き込んでみる。影に覆われた顔は、既に目元を赤くして、いまだ落涙を堰き止められずにいた。眼鏡がなければよく見えないのだと聞いていたが、瞳を潤ませながら確かにこちらを見上げている。見えているのだろうか。
 距離を測りかね、少し顔を近づける。
「受験勉強でなければ会わない、などと言った覚えはない」
 至近距離からそう告げると、彼女がわずかに身動ぎをした。眼鏡をかけていないせいか、より幼い表情にも見えた。
「むしろ、息抜きくらいなら付き合ってやる。……どうして言ってくれなかったんだ、馬鹿か、お前は」
 どうせなら泣く前に言って欲しかった。目の前で泣かれると始末にゆかない。神経の図太い奴だと思っていたから尚のことだ。
 内気で従順そうな外見とは裏腹に、柄沢雛子は気の強い女だった。自分がこれと思えば滅多なことでは引き下がらないし、必要とあらば徹底的な議論も厭わない。自らのこだわる事柄に対しては譲歩も妥協もしたがらない頑迷さがある。その芯の強さにはこれまで手を焼くことも多かったが、――今思えば過信していたところがあるのかもしれない。気の強い奴だから、大して気負いもないだろうと思っていた。多少の重圧も撥ね退けるだけの強さがあるだろうと、勝手に思い込んでいたふしもある。
 しかしいくら気が強いとは言え、頑迷だとは言え、彼女はたかだか十七の子供だ。強気さだけでは撥ね退けられない迷いや悩みもあるだろう。心中を察してやれなかったことには責任も感じていた。
 
「ごめんなさい」
 もう一度、ぽつりと雛子は言う。
 それを聞いて苦笑した。詫びられることではない。むしろ、本当に詫びるべきはこちらなのかもしれない。
「やはり、無理はしていたな」
「先輩、私は……」
 何か反論しかけた彼女を遮り、語を継いだ。
「いや、無用なプレッシャーまで背負い込んでいるのがよくわかる」
 今ならわかる。
 その涙を堰き止める為に、何を言ってやるのが一番いいのかも察している。
「確かにな」
 言葉を選びながら、俺は告げた。
「受験生の身では、どこかに出歩くのも難しいだろう。今までのようには行かなくて、苛立つこともあるだろうと思う。何よりも学業が優先される時期が一年も続くなど、憂鬱をにしか思えないだろうな」
 自分の時はどうだったかを思い起こし――すぐに止めた。あまり参考になりそうになかった。あの頃の俺は気負いや重圧よりも、単純な焦燥にのみ衝き動かされていた。とにかく早く結果を出そうと考えていた。推薦をもらうと決めたのもそのせいだ。お蔭で特に苦労した記憶はない。
 ならば彼女はこれからしばらくの間、俺の考えも及ばぬような気負いや重圧に迷わされ、悩まされるのだろう。その度にこうして眼前で泣かれるようでは困る。その前にできることがあるはずだ。
「だから俺は、お前の力になる」
 握り締めた雛子の手は、思いのほか小さかった。頼りなげでもあった。気の強さも頑迷さも、その柔らかく小さな手からは窺えない。
「これからの一年はそうして過ごそうと決めていた。俺はお前に手を貸す存在でありたいし、必要とあらば受験勉強も、息抜きだって手伝ってやる」
 強気に主張されるのも、頑迷に食い下がられるのも構わない。だが、泣かれるのだけは困る。手に負えない。
「俺も、会う機会は多い方がいい。だから何も遠慮することはない」
 口実なのは、俺も似たようなものだ。雛子が辛い思いをしないよう、気を配れることもあるだろう。手を貸せることだってあるだろう。そのくらいはしてやれねば、――こんな風に始終会う意味もない。
 覗き込んだ瞳に、ふと、涙が溢れ出した。
 おかしい。親切に言ってやったにもかかわらず、雛子はまだ泣くのを止めない。これだけ言ってもまだ辛い思いをしているのか。何が足りなかったのか、皆目見当もつかない。
「だから、どうして泣くんだ」
 さすがに困り果ててそう尋ねたが、答えはなかった。黙って泣きながら、彼女は盛んにかぶりを振った。あまりに強く振り続けるので、しまいには両手で頬を挟んで止めてやった。掌に温い感触があった。
「わかった。わかったからもう泣くな」
 付き合いで泣いてやるほど物好きではないが、泣きたくなる気分が理解できたようにも思う。俺が何を言っても駄目で、結局しばらくの間、雛子は泣き止まずにいた。声を殺して、身も世もなく泣き続けていた。

 ようやく泣くのを止めた時、雛子は酷い顔をしていた。目元は腫れたように赤く、頬には幾筋も痕が残った。唇は血の気も失せて、零した吐息の端まで震えていた。このまま眼鏡をかけたところで、普段の顔にすぐ戻るということもなさそうだ。
 僅かに残った最後の涙を指先で掬い取ってやる。
「泣き止んだか」
 尋ねると、乾いた声が返ってきた。
「はい……」
 多少なりとも落ち着いたようだ。安堵のあまり、苦笑する。
「もう滅多なことでは泣くなよ。こっちが困る」
「そうします。ごめんなさい」
 素直な謝罪を、俺は黙って受け取っておくことにした。次がなければそれでいい。またこのようなことがあれば、対応にも困る。次こそ上手く、彼女の涙を堰き止められるかどうか、自信はさしてない。
「あの、先輩。あまり見ないでください」
 不意に、雛子がそう言った。その言葉で、俺は彼女の顔に注意を向けた。
 ようやく泣き顔以外の表情を始めた彼女は、眉を顰めるようにしてこちらを見上げていた。
「今更だな」
 人の目の前で散々泣いておいて、今更『見るな』もないものだ。
「あまり見られるものでもないから、珍しい。泣いた後の顔も、眼鏡を外した顔も」
 次はない方がいい。もちろん、そうに違いなかった。だが今、こうして眺める顔も、意外に不快なものではない。泣いた後の顔はむしろ雨上がりのような安堵感を誘う。
「……見ないでください」
 同じ科白が、鋭利になって繰り返された。
「嫌だ」
 こちらも同じように鋭く返してやる。
 瞬間、雛子が手を伸ばしかけた。傍にある座卓の上、放置された銀フレームの眼鏡へと。しかしそれを素早く制して、俺は彼女の手を掴んだ。
「先輩、私、眼鏡を掛けないと何も見えないんです。先輩の顔も見えません」
 雛子が言い、俺はもう一つ安堵した。泣いている間のこちらの困惑、あるいは狼狽していたであろう表情を、見られずに済んだのは幸いだった。恐らくろくな顔つきではないはずだ。今も、間違いなく。
「見なくていい」
 そう告げてから、色の失せた唇に目を留める。今更のように思った。涙を堰く手段は、他にもあったのではないだろうか。もう少し気の利いた、困り果てているだけではないやり方が。
 実に今更の話だったが、俺はその手段を、あえて今講じることにした。ようやく落ち着きを取り戻した雛子が、元来の強気さを発揮する前に、その言葉を堰き止めてしまおうと思った。

 ただ、堰き止めていられるのは短い間だけだ。
 唇の温度を知り終えた後の方が、余程気まずいのだということを、俺はすぐに実感することとなる。
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