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逢瀬の暇もないくらい(1)

 その日、帝都外れの貧民街には穏やかな夕暮れが訪れていた。
 ロックの知る限りでは日中に市場通りでひったくりが一件、発覚したスリが三件あって、その度に市警隊が巡回しに来た。『フロリア衣料店』には仕立ての注文が一件、既製服の購入客が二人、かけ継ぎの要望が五件あった。店を酒場と間違えた酔っ払いや怪しい儲け話を持ち込む詐欺師も訪れたが、それらはフィービが睨みを利かせて穏便に追い払った。
 実に平和でいつも通りの一日だ。

 そして店を閉めた後、ロックはエベルと共に市場通りへ買い物に出かけている。
 目的は夕食の材料の購入だ。
「私はあなたを食事に誘ったつもりなのだが……」
 賑わう通りを肩を並べて歩きつつ、エベルはしきりに首を捻っている。
「ええ、ですから買い物に来たんですよ」
 ロックは目を瞬かせて答えた。

 店を訪ねてきたエベルは確かに、ロックを夕食に誘ってくれた。
 すると居合わせたフィービが、それなら自分の部屋で食べるのはどうかと二人を招いてくれたのだ。
 ちょうど夕刻で、来客もエベルの他はぱったり途切れたところだった。ロックは少し早めに店を閉め、エベルを連れて買い物をすることにした。夕食の材料を揃えた後はフィービが待つ彼の部屋へ向かう算段だ。

「心配要りません。フィービは料理上手なんです」
 思いがけない夜の予定に、ロックはすっかりはしゃいでいた。
 フィービの手料理も楽しみなら、久々にエベルと過ごす時間もまた楽しみだった。父がエベルを誘ってくれたことも嬉しかった。きっととびきり楽しい夕食のひとときが過ごせることだろう。
「旅慣れてるからだと思うんですけど、何でも手早く作っちゃうんです。その上とっても美味しいんですよ」
 それを聞くとエベルは口元をほころばせる。
「楽しそうだな、ロック」
「ええ、こんな機会は久し振りですから」
 グイド・リーナスが人狼化した一件から十日が過ぎた。
 エベルと顔を合わせたのもあれ以来初めてのことで、お互い積もる話もある。グイドが暴れ回ったマティウス邸の修繕は、ヨハンナたちの怪我の具合は、それにエベル自身の今の様子――あれから少しは気持ちが落ち着いたのだろうか。聞きたいことなら山ほどある。
 それに何より、エベルの笑顔が見たい。
「あなたにも楽しんでもらえたらいいな、って思います」
 ロックがそう告げれば、隣を歩くエベルも納得したようだ。首を竦めて言った。
「では喜んでごちそうになるとしよう」
「はい、是非!」
「次の機会にはあなたの手料理も是非、と思っているが」
 エベルは抜け目なく付け加える。
「なら、料理の練習をしておきます」
「十分上手いだろう。あの麦粥はとても美味しかった」
 彼を部屋に泊めた時、朝食として出したのが麦粥だった。エベルが人狼の姿のままだったから、食べやすいものをと配慮した上での献立だ。
 だが麦粥は、料理と呼ぶには簡単で、簡素すぎる。
「伯爵閣下にお出しするならもっと豪華じゃないと」
 ロックはそう考えるのだが、エベルはきっぱりと首を振った。
「そんなふうには思わないでくれ。私はあなたの手料理なら、何だって嬉しい」
 それから記憶を噛み締めるように呟く。
「あの夜と朝は……何よりもあなたの優しさが身に染みた。麦粥の味も、生涯忘れない」
 睫毛を伏せた彼の端整な横顔を、ロックも不思議な感慨と共に見上げていた。
 あの夜のことはロックにとっても、忘れがたい、優しい思い出になっていた。

 しばらく黙って歩いていれば、やがて通りの一角に、屋台や天幕が並ぶ界隈が見えてくる。
 市場通り名物、露天商の集団だ。
 ここにはとれたての新鮮な魚や肉、野菜の他、帝都の商業地区には持ち込めない横流し品や故買品、帝都外からの密輸品などが幅広く売られており、禁じられているのは人売りくらいのものだという。ロックもよく買い物に訪れるが、店で使う糸や織物は絶対にここでは買わない。盗品を掴まされて、後々因縁をつけられてはたまらないからだ。
 しかし食料品に限っては、腹に入ってしまえば因縁のつけようもない。
「エベル、まずはあの店で肉を見ましょう」
 ロックは露店の一つを指差し告げる。
 居並ぶ露天商の中に、大振りの包丁を持った肉売りの屋台がある。血抜きを済ませた羊や豚の肉が塊のままぶら下がっていて、ちょうど先客が肉を切り分けてもらおうとしているのが見えた。
「フィービが鶏肉を買ってきて欲しいって言ってたんです」
 そう続けて、ロックがエベルの手を引こうとした時だった。
 エベルがふと、不審げに眉を顰める。
「……言い争う声がするな」
「え? どこでです?」
 ロックは聞き返したが、人狼ほど耳がよくなくてもすぐにわかった。

 視線を巡らせた先で誰かの身体が吹っ飛び、傍の屋台に背中から突っ込むのが見えたのだ。
 木造りの屋台は派手な音を立ててひしゃげ、突き飛ばされたか殴られたか、倒れた男が起き上がろうとしたところで別の男が胸ぐらを掴む。
「このインチキ野郎! どう落とし前つけるつもりだ!」
 怒鳴り声が辺りに響くと、買い物客は潮が引くようにその場を離れ、壊れた屋台の周囲には遠巻きにする人垣ができる。
 こんな状況下で首を突っ込みたがる者がいるとは思えなかったが、
「乱暴はよさないか。往来で喧嘩とはいただけないな」
 エベルはためらいもなく突っ込んでいき、制止の声を上げた。
 すると胸ぐらを掴んでいた男も、掴まれていた男も、同時にエベルの方を見た。
 エベルを追って人垣の中心に飛び込んだロックは、掴まれている男の方を知っていた。あのくすんだ銀髪と優男然とした風貌には見覚えがある。悪い意味で。
「クリスター・ギオネット!」
 そして同時に、聞く前から事の次第をおおよそ把握した。
「あなたの知己か?」
 エベルが尋ねてきたので、ロックは苦笑いで答える。
「いえ、顔を知ってるくらいです。彼も仕立て屋なので」
 答えた通り、ひしゃげた屋台の上には既製の服や端切れ、ざるに載せられた飾りボタンなどが見える。

 更に言うなら、クリスターはロックと『フロリア衣料店』にとっての商売敵だ。
 安価な料金で仕事をするので客が絶えないそうだが、たまにここから流れてくる客が、
『クリスターの店はもっと安かった』
 などと値切ろうとするので、ロックにとってはひたすら疎ましい存在だった。

「ああ、ロック・フロリア……」
 クリスターは頬を腫らしながらも、気安く手を挙げてみせる。
 しかしそんな余裕も、殴った男に睨まれたちまち萎んでしまったようだ。
「口を挟むな! こっちは被害者だぞ!」
 そう怒鳴る男は見る限り、いかにも柄の悪そうな荒くれ者だった。ロックにとっては見知らぬ顔だが、ある意味貧民街では珍しくもない手合いだろう。
「被害者だと?」
「何やらかしたんだよ、クリスター」
 エベルが目を瞬かせ、ロックが問いただす。
 するとクリスターはへらへら笑った。
「商売をしただけだって。こちらのお客さんがズボンを欲しいって言うから適切な値段で売ったまでさ」
「何が適切な値段だ! あんなにたやすく破れるズボンがどこにある!」
 客の男はいきり立って声を張り上げる。
「女の前で尻が破れて大笑いされたんだぞ! 恥をかかせやがって!」
 さすがにそれは気の毒だ、とロックは内心思った。

 クリスターの仕事の値段相応ぶりは有名で、買ったばかりの服が破けただの解れただのといった苦情も多いらしい。それでも客が絶えないのは、その日暮らしの住人が多い貧民街ならではだ。品質確かなものに金を出せるほど裕福な者は多くない。
 ロックは自分の仕事に誇りを持っているが、それを客の誰もが正当に評価してくれるとは限らない。貧民街においては確かな技術よりも安価さが求められるのも事実だった。
 ともあれ、評判を知った上でクリスターから服を買ったのなら自業自得なのだが。

「悪かった。最近忙しくて、ちょっと疎かになってたんだ」
 謝罪もおざなりなクリスターに、客の男はいよいよ激高した。
「それで許されると思うなよ……金を払え!」
「しょうがないな、返金なら応じるよ」
「それだけで済むか! 慰謝料もだ!」
 客の怒りはもっともだが、だからといって金を巻き上げていいという話にはなるまい。
「お気持ちはわかりますが、返金で手を打ちましょう」
 穏便に片づけようと、ロックも口を挟んだ。
「クリスターが余分なお金を払うはずないですから、脅すだけ時間の無駄です」
「うるせえ、生意気な小僧が!」
 男がロックを怒鳴りつけると、すかさずエベルがロックの前に出る。
「そもそも名誉は金では買えるものではない。恥をすすぎたいというなら恫喝はやめて、紳士らしく振る舞うことから始めたまえ」
 伯爵閣下の諫めとも、煽りともつかぬ正論に、
「何だと、てめえ!」
 客の男が遂に切れた。
 掴み上げていたクリスターを放り投げると、真っ直ぐにエベルへと向かってくる。
 途中で懐剣を抜き放ってみせたが一対一では分が悪い。ロックが瞬きをする間に、エベルは突っ込んできた男の手から懐剣を叩き落とし、更にその手首を捻り上げ、身体ごと引っ繰り返すように地面へ叩きつけた。
「くそ、詐欺師め! 呪われろ!」
 よろよろと起き上がった客の男は、捨て台詞を吐いて逃げ出した。人垣を荒々しく掻き分け、みるみるうちに通りの向こうへ消えていく。
「他愛もないな」
 呆気に取られたエベルの声に重なるように、がしゃがしゃと乱暴にかき集めるような音がした。
 それでロックが振り向けば、クリスターが壊れた屋台から品物をまとめ、抱えて逃げるところだった。
「助かったよロック・フロリア! 連れの男にも礼言っといてくれ!」
「はあ? 自分で言いな――ちょっと、どこ行く気!?」
「市警隊が来たら困るんで帰るわ、あとよろしく!」
 さっきの男以上に迅速な逃げ足で、クリスター・ギオネットは市場通りの人波へと紛れ込む。

 その場に残されたのはめちゃめちゃに壊れた屋台と、地面に散らばる飾りボタンと、ロックとエベルを取り囲む人垣だけだ。
「エベル、お怪我は?」
 いち早く我に返ったロックが手巾を差し出せば、エベルはやんわりとそれを拒んだ。
「大丈夫だ。しかし、私は余計なことをしただろうか?」
「エベルが出ていかなかったら、クリスターは刺されてましたよ」
 ロックはそう思う。少なくとも彼の命を救ったのは事実だ。
 もっともこの程度でクリスターが反省などするはずもなく、また近いうちに面倒を起こすに違いない。
「私もそう思いたいが……」
 エベルは複雑そうに嘆息した。
「この街には、いろんな人間がいるな」
 貧民街は、帝都から弾き出された人々の吹き溜まりだ。
 そして先程のような喧嘩沙汰があっても、この街は今日も平和で、いつも通りだった。
「嫌な気分にさせてごめんなさい」
 ロックが詫びると、エベルは金色の目を瞠る。
「なぜあなたが謝る? それに、嫌な気分というほどではない」
「本当ですか? でも……」
「むしろ愉快に思っていたくらいだ。この街は、やはり興味深い」
 平然と言ってのけたエベルが、ロックに柔らかく微笑みかけた。
「さて、買い物をしようか。仕切り直すには美味しいものを食べるのが一番いい」
 優しさが身に染みるとはどういうことか、今ならロックもわかる気がする。
 だからエベルに向かって、心からの笑顔を返した。
「……はい。行きましょう、エベル!」
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