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いつまで凍えるつもりなの、/前編

 不審そうに身構えるルドミラに対し、アロイスはゆっくりと切り出した。
「マリエ殿が殿下の仰せに従うと決めた、そのことはご存知でしたね?」
「ええ。マリエから、手紙で知らせてもらったわ」
 話の流れを見極めようとしているのか、頷くルドミラは怪しむそぶりを隠さない。
 アロイスも一度顎を引き、感情を込めずに継ぐ。
「殿下のお望み通りにするならば、マリエ殿は城にはいられません。近侍であり続けることもできません。城から、出て行かねばなりません」
「それも聞いていてよ」
 吹きつける風を切り裂くように、ルドミラは鋭い声で応じた。
 夕刻を迎える森が、騒がしくざわめき立てている。それでも彼女は背筋を伸ばし、真っ直ぐな視線を向けてきた。
「マリエは殿下と共に、次代を継いでいくのだと聞いたわ。つまりお世継ぎを産むのでしょう。お城にいられないというのも仕方のないことなのでしょうね」
 令嬢の口調は落ち着き払っていたが、端々に隠し切れない感情の揺らぎが覗いている。それでいて、どこか得心したように続けた。
「それであなたも、マリエと共に城を出て行くと言うのね」
 確かめる問いに、アロイスは即答した。
「はい」
「確かに……そうよね。護衛が必要よ、これからのマリエには」
「仰る通りです」

 最も理想的に事が運べば、マリエはカレルの子を産むこととなる。
 もちろんその事実は公にならず、ひっそりと歴史の裏側で系譜を連ねてゆくのだろう。マリエ自身がその役割を許容した以上、アロイスがなすべき務めはただ一つ。カレルが愛する人を守る。それだけだ。
 理想的ではない未来も密かに想定してはいる。あっては欲しくないことだが、マリエが子を産めなければ、カレルは妃を娶らなくてはならない。
 その場合の先行きは暗い。マリエは秘密裏に愛妾として扱われるか、もしくはそれすらも叶わぬまま歴史に忘れ去られていくのか。
 それでも、何があろうともアロイスのなすべきことは変わらない。マリエがカレルの生涯に同道すると言うのなら、アロイスはマリエの生涯に寄り添う覚悟だ。それが短かろうと、存外に長かろうと、剣を握っていられる間は必ず彼女を守る。それが他でもないカレルの望みだからだ。
 覚悟はしている。
 しかし思う。今日、ルドミラと共に垣間見た城の外の世界は、穏やかで暖かで居心地がよかった。カレルがマリエを伴い、飛び出していきたくなるような素晴らしい時間が、城の外には確かにあった。そのことを目の当たりにしたアロイスは、らしくもなく感傷的になっていた。
 今日の記憶を、ただの思い出としてしまい込んでおけるだろうか。
 最後になるかもしれない休日を、潔く、惜しむこともなく終わらせられるだろうか。

 アロイスはルドミラを見つめ、複雑な思いで笑んだ。
「ご令嬢、お気づきでしたか。この森には人の手が入っております」
 その言葉にルドミラは、川のほとりに詰まれた岩や、枝を落とされた木々を見回した。城から見下ろせばわかることだが、森の形も迷うことのないように小さく整えられている。
「この森は、城に入ることを許されぬ者の為の場所です」
 視線を巡らせる彼女に、アロイスは説明を続けた。
「いつかはここが、殿下と、マリエ殿の為の場所となります」
 埃っぽい書庫や喧騒に満ちた街中よりも、よほど逢い引きに相応しい場所だ。
 カレルとマリエはこの森で、ようやく逢い引きの何たるかを知るのだろう。運命の非情さを身をもって知るのだろう。逢い引きの真似事をしていた頃を懐かしく思うのだろう。あの頃は幸いだったと、過去を羨む日が訪れるかもしれない。
 アロイスは、仲睦まじい二人を眺めているのが好きだった。何事か言葉を交わし合って、にこにこと笑って、二人で一緒にいる姿を見守っているのが好きだった。二人の幸いが失われずにあって欲しいと望んでいる。
 なるべくなら、永久に。
 この森を『作った』、ある恋人たちと同じように。
「いつかは、ですって?」
 ルドミラがそこで何かに気づき、涼しげな声を裏返らせた。
「なら、今は? 今はどなたの為にこの森があると言うの? ここは一体いつから――」
 途中で途切れたその質問に、アロイスは答えなかった。沈黙を答えの代わりとして、そのまま敏捷に立ち上がる。そして視線を高い位置へと投げる。
 目で示したのは木々の梢の更に向こう、夕陽の色が迫り始めた空の下だ。明々と壁面を染める白亜の城がそびえている。
「ご覧ください。あちらに城が見えるでしょう」
 同じように立ち上がり、令嬢が背伸びをする。それからぎくしゃくと顎を引く。
「ええ、見えるわ」
 アロイスは彼女に視線を戻す。穏やかに尋ねる。
「よい場所だとお思いになりませんか。城に入れぬ人間であっても、ここからならすぐ眼前に、城を眺めることは叶うのです」
「……そうね、でも」
 彼女は応じながら、辛そうに目を伏せてしまった。
「どうしても戻れないの? お城を出てしまったら……その時は、わたくしが会いに行くことも許されなくなるのかしら」
 寂しげな呟きを、アロイスも苦笑いで受け止める。
 夕刻は、感傷に浸るにはおあつらえ向きの時分だ。休日の締めくくりとしてはいささかほろ苦いものの、幕引きに苦さはつきものだった。その方が名残惜しさも断ち切れる。潔く、今日を終わらせることが出来る。
「その時は、もう戻らないつもりです」
 断ち切るべきものはまだいくらでもある。アロイスはためらわずに続けた。
「戻らない方がよろしいのでしょう。無用の混乱を引き起こし、殿下のお心を煩わせてはいけません。我々は誰よりもまず殿下の御為に、事を運ばなくてはならないのです」
「でも――」
 ルドミラは反論したがっている。だが聡明なはずの彼女も、今は上手く言葉が継げないようだ。苦しげに息をついた後は、何も言えずに唇を閉ざした。
「あなたはお優しい方ですね」
 アロイスは、なぜかそう口にしていた。
 自分でも思いがけない言葉だった。するりと声になったので、驚いたほどだ。あれほど角突き合わせてきたルドミラに対し、こんな言葉を告げる日が訪れようとは思いもしなかった。
「あなたのお蔭で、今日は本当によい休日となりました」
 アロイスはルドミラに改めて感謝を告げ、
「ルドミラ嬢。私はあなたのような方にこそ、歴史の真実を知り、そして見守っていただきたいと思うのです」
 続いて、懇願を口にする。
「真実の全ては、後の世には伝わりません。全てを詳らかにすることは叶わないでしょう。殿下は既にその覚悟をしておいでですし、私もそのお覚悟に付き従う所存です」
 歴史と事実とは、必ずしも合致しない。
 しかしその差異を後世の人々が知ることはない。アロイス自身がそうだった。カレルを産んだ婦人の存在は、近衛兵の務めに就くまで何一つとして知り得なかった。
 事実を知る立場となれたことを光栄に思う。
 たとえ自分の名が、歴史の陰に葬り去られようとも。
「歴史とは未来においてのみ評価されるものです。殿下のなさったことが後世の人々にどう受け止められるか、それは私にもわかりかねます。私にできのはただ、殿下のご決断に従うことのみ」
 間違っているとは思わない。思いたくない。
 カレルが覚悟をもって決めたことだ、アロイスにとってはそれだけでも貴い。そしてカレルとマリエが幸いであってくれるなら、言うこともない。
「ただ、あなたのような方が真実を知っていてくださったらありがたいのです。そのお優しさで、殿下のご決断も、マリエ殿の忍耐も、見守っていていただきたいのです。それはきっとお二人の支えとなります」
 二人のことは、改めて願い出るまでもないのかもしれない。カレルはルドミラを指して友人と言った。アロイスが口を挟む必要も恐らくはないのだろう。
 だが、次の言葉は自ら告げておかなければならない。他の誰にも言うつもりはなかった。そもそも言うべき相手が他にいなかった。遠くに暮らす家族にも、数少ない信頼できる僚友にも、言えることではない。部下の幾人かは事実を知るだろう。だが、そうではなく――。
「そして私の名を。私がいつか消えてしまう、本当の理由をも、記憶に留めてくださいませんか」
 アロイスが近衛隊長としてではなく、一人の人間として存在していた証を。
 この素晴らしい休日を共に過ごしてくれた、美しき婦人にこそ覚えておいて欲しかった。

 ルドミラは即答しなかった。
 目を伏せたまま、何の思案もできない様子で凍り付いていた。
 日が暮れ始めていた。木々の間を茜色の光が深く、斜めに差し込んでくる。風はより一層強まり、華奢な令嬢の姿を寒々しく見せていた。
 栗色の髪が風に弄ばれるようにはためいて、口元に掛かる一筋を、細い指先がそっと払う。
 その指先と腕がゆっくりと下りて、
「――どうして」
 寒さのせいか、震える声が聞こえた。
「どうしてあなたは、その役目をわたくしに?」
 夕映えの、美しい彼女を見下ろす。
 問いへの答えはそう難しいものでもなかった。むしろごく単純で、純粋だった。
「先にも申し上げました。あなたが心優しい方だからです」
 アロイスは答えた。
「殿下はあなたのことをご友人だと、そのように仰いました。ならば私にとってもあなたは、信頼できるお方だ」
 そこで自然と笑みたくなり、表情を解いて続ける。
「個人的な思いを申し上げるなら――私とて男の端くれ。覚えていてくださるのなら、見目麗しいご婦人の方がよいのです。あなたなら、何の文句もございません」
 彼女なら申し分なかった。見栄えのよさも心根の優しさも、そして何よりも必要な聡明さも備えている。
 今日を終えるべき瞬間はすぐ眼前に差し迫っていた。アロイスは呆気ない幕切れを期待していた。休日の名残惜しさを潔く断ち切る為にも、彼女は申し分のない相手だと思った。聡明なルドミラなら、きっとこちらの意を酌んでくれるはずだと。
 だが、
「酷い人」
 予想に反して、ルドミラは非難がましい声を上げた。
「あなたは酷いわ、隊長さん」
 逆立てた眉の下、はしばみ色の瞳が鋭くアロイスを睨む。
 夕刻の日差しよりも強く、厳しい眼差しが突き立てられた。
「わたくしのことをずっと小娘みたいに扱っていたくせに、今になって女の扱いをするだなんて。酷い人よ、あなたって」

 予想だにしなかった非難の言葉に、アロイスは目を瞠った。
 ルドミラの怒りが何に向けられたものなのかは測りかねたが、感情を露わにした彼女はやはり美しく、気づけば記憶に焼きつけるように見つめ返していた。
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