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幾度も生まれる恋を殺して/前編

 ランタンの光が陰鬱に揺れ、書庫の中を照らしている。
 アロイスは窓を背に立ち、用心深く室内を見回していた。城の書庫はランタン一つでは光が行き届かず、仕事柄、死角の多い場所ではつい神経を尖らせてしまう。
 まして目の前には、要人が二人もいるのだから。

 書庫を訪れたカレルとルドミラは、ひとまず読書をすることにしたようだ。現在は書棚の前に揃って立ち、互いに本を選んでいる。
 しかし反応はまるで対照的で、カレルは結局ろくに選びもせず、書物を一冊手に取った。
「これにしておくか」
 覇気のない宣言からは、本に興味がないのがありありとわかる。家庭教師の方々が嘆くはずだと、アロイスはこっそり苦笑した。もっとも、カレルの目的は別にあるのだから、読書どころではないというのも事実だろう。
 一方のルドミラは、浮き足立った様子で本棚の前を行ったり来たりしていた。結った髪をそれこそ尻尾のように揺らし、どの本から手をつけようか迷っているようだ。興味を引くものがあれば足を止め、目を輝かせて背表紙に見入っている。
「噂に違わず、素晴らしい蔵書量ですのね」
 カレルの方を振り向いたルドミラは、とびきり愛らしい笑みを浮かべていた。
 ちょうど椅子を引こうとしていたカレルが、その言葉に頷き返す
「気に入ってくれただろうか」
「ええ、とても。お招きくださったことに感謝しておりますわ。許されるのでしたらこの書庫に住まわせていただきたいくらい」
 ルドミラは感無量の様子で礼を述べると、あとは本を選ぶことに集中し始めた。何冊か手に取り、丁寧な手つきで頁を繰ると、それはどうやら当たりだったと見えて、まず一冊胸元に抱えた。それからも左見右見しながら、より興味を引かれる本を探し出そうとしている。

 しばらくの間、アロイスもその姿を目で追った。
 ルドミラは、鑑賞の対象としては実に素晴らしい令嬢だった。佇まいは凛としていて、歩く姿一つとっても惚れ惚れするほど美しい。顔立ちは精巧な人形のように整っているが、美しさよりもむしろ知性と品のよさが顕著に表れている。以前、社交界では引く手数多だと叫んでいたのを耳にしたが、それもあながち見栄や虚喝ではないのだろう。カレルの妃候補として名が挙がったのも十分に頷けた。
 妃殿下と呼びたい相手かと問われれば、顔を顰めたくもなるが――近衛隊長として、ルドミラにも忠誠を誓えと命ぜられるのは勘弁して欲しかった。アロイスがカレルに仕え続けているのはその人柄に惹かれたからで、そうでなければこんなに制約と面倒の多い職務など、とうの昔に放り出しているところだ。
 いつか与えられるはずの大役も、カレルの望みならば迷いなく従事することができる。
 ただそれは、真の忠誠とは呼べぬ感情だ。アロイスもそれは自覚していた。

「――アロイス」
 そのカレルが、小さな声で呼びかけてきた。
 アロイスは素早く歩み寄り、主の傍らでひざまずく。
「何か」
 カレルは机に向かってはいたものの、本も開かず唇も閉ざしたまま、アロイスに目配せを送ってきた。
 行け、という指示だ。
 アロイスは主の真意を察し、表向きは諾々と立ち上がる。
 本当に面倒の多い仕事だと胸中で零しながら、カレルの傍を離れる。そして、できることなら鑑賞だけに留めておきたかった令嬢に、嫌々ながらも歩み寄った。

 ルドミラは本を四冊も抱え、意気揚々と机に向かうところだった。幸せそうな笑みを浮かべて本を起き、自ら椅子を引こうとする。
 すかさずアロイスは声をかけた。
「私がやりましょう」
 たちまちルドミラの表情が強張る。だが唇を噛みつつも拒みはしなかったので、アロイスは彼女の為に椅子を引いてやった。
「ありがとう」
「いえ」
 ぎこちない感謝の言葉に、アロイスも短く応じる。
 ルドミラは傍らに佇むアロイスには目もくれず、椅子に座って本を開く。もはや手持ち無沙汰になったアロイスは、その背中に告げた。
「何かございましたら、是非ご用命ください」
「特にないわ」
 振り向きもせず、不機嫌そうに即答された。
 和解の糸口が見いだせない。さてどうしたものかと、アロイスはカレルの方を見る。
 カレルも横目でこちらを窺っており、尚も目配せをしてくる。まだまだこれからだと言いたげな主に、もう無理ですと訴えかけたくなる。にべもないルドミラに対して、どのようにして共同作業とやらを持ちかければよいのか。搦め手は果たして有効なのかどうか。
 溜息が出た。
「……わたくしに話でも?」
 その拍子に、ルドミラが問いかけてきた。
 はっとしたアロイスが視線を戻すと、ルドミラは本を見つめたままで続けた。
「あなたの方こそ、わたくしに何か用があるんでしょう。聞いてあげてもよくてよ」
 柔らかい言い方ではなかったが、譲歩されたのは事実だ。頑なに撥ねつけられるだろうと覚悟していたアロイスは、令嬢の意外な寛容さに酷く驚いた。
 視界の隅ではカレルも、力強く頷いている。
 アロイスは意を決し、ルドミラの傍らにひざまずいた。
 そして、
「お許しいただき感謝いたします。それでは、お聞きいただきたいのですが」
 丁重に、だが直截的に切り出した。
「以前、私が非礼を――いえ、非礼などという一言では到底表し切れない振る舞いについて、お詫び申し上げたことがありましたが」
 そこまで言った途端、カレルがびくりと緊張したのが目の端に見えた。先に命じておいた内容と違っているではないか、そう呻く声が聞こえてくるようだ。
 主の言ったような共同作業をする気はアロイスにはなかった。相手はこの通り、聡明かつ真っ直ぐな気質の令嬢だ。下手に遠回しな手を使えばかえって拗れるだろうから、単刀直入に告げた方がよいと踏んでいた。上手くいくにしても、いかないにしてもだ。
 ルドミラは黙っている。椅子に腰かけている彼女とは目線の高さがちょうど同じで、俯いている横顔が窺えた。彼女の目は、開いた本を読んでいなかった。
「あの時、あなたは私に『何も言わなくてもよい』と仰いました。しかしそれでは何の解決にもなりません」
 感情を乱さぬよう、淡々とアロイスは続ける。
「できれば、改めて正式にお詫び申し上げた上で、許していただきたいと思っております。殿下の御前で醜くいがみ合うような真似はすべきではないでしょうから」
 一瞬、ルドミラがアロイスをちらりと見た。何か言いたげだったが、何も言わない。
「ですから是非ご教示ください。何について、どのようにお詫び申し上げれば、あなたは私を許してくださいますか」
 がらんとした書庫に、アロイスの発した言葉が重く響く。
 答えはすぐにはなく、しばらく静かになった。

 ルドミラは怒りとも不満ともつかぬ、硬い顔つきで俯いていた。
 膝の上に置いた手を注視し、瞬きもしていない。ランタンの光の中では肌の白さが際立ち、美しい横顔を一層作り物めいて見せていた。口さえ開かなければ、まさに見栄えのよい磁器人形のようだった。
 アロイスは唇を引き結び、令嬢の答えを待った。無礼と知りながらも視線を逸らさず、ただひたすらに待っていた。考えつく限り最悪の反応も頭にはあったが、そうはならないだろうと思っている。楽観的に捉えているのではなく、彼女の態度から察していた。
 こちらを許す気はなくとも、何かこちらへ言いたいことはあるのだろう。
 そうでなければ、彼女の方から水を向けてくることもないはずだった。

 やがて、ルドミラが目を伏せた。
「詫びて欲しいわけではないのよ、わたくしは」
 絞り出すような声が答え、静寂は思いのほか穏やかに破られた。
 アロイスは答えがあったことに安堵する。そして問い返そうとすれば、先んじてルドミラが語を継いだ。
「それに腹を立てているのも、あなたのわたくしに対する振る舞いについてではないの。だから、あなたに謝ってもらう必要もないし、わたくしがあなたを許す必要もないわ。ただ――」
 そこで令嬢は言葉を切った。
 ためらう間があり、彼女が何か迷っているのがわかった。アロイスは無遠慮に促してみる。
「……ただ? 何でございましょうか」
 ルドミラは答えず、代わりに面を上げた。隣の机に顔を向け、そこにいたカレルを見遣る。
 完全に部外者のつもりでいたのか、カレルは熱心にこちらを見守っていた。だが二人に視線を向けられると、顔を引きつらせて慌てふためく。
「ど、どうした?」
 その問いにも、ルドミラは無言だった。視線はカレルに留めたまま、言おうか言うまいか躊躇しているようだ。
 彼女の迷いから、カレルは事情を察したらしい。
「ああそうか、私が席を外せばよいのだな?」
「申し訳ございません、殿下」
 ルドミラは丁寧に頭を下げる。
 それでカレルはあたふたと席を立ち、結局一度も開くことはなかった本を戻した後、足早に書庫を出ていった。廊下へ出る直前、アロイスの方を見て、祈るような眼差しを向けてきた。
 そんな目をされても――仕方がないのかもしれない。
 今は、言わば勝負時。ルドミラの態度が軟化するか、一層硬化するかの瀬戸際だ。アロイスの責任は重大だった。

 書庫前の廊下には、アロイスの部下の兵たちが警護に就いているはずだった。
 彼らはたった一人で退出してきたカレルを、どんな顔で迎えているのだろう。この度のことは後に彼らからも質問攻めに遭うに違いない。その時はせめて笑い話にしてやりたいと思うのだが、果たしてどうなるものか。
 無礼にもカレルを退出させたルドミラは、恐らくこれから、カレルには聞かせられない話をするのだろう。それがどんなものかは想像もつかなかったが、ここまで来た以上は耳を貸す以外あるまい。
 様々な感情を胸に、アロイスはルドミラに向き直った。
「お話を伺いましょうか、ご令嬢」
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