伝書婦人と悪食令嬢(2)

 後日、マリエは再びアロイスの元へ赴くと、さも重大そうに切り出した。
「アロイス様。ルドミラ様から伝言がございます」
 当然ながら、彼は苦々しい表情を浮かべている。
「また安請負ですか、マリエ殿。あなたには他に大切な職分があるのでは?」
「存じております」
 深く、マリエは頷いた。
 だからこそマリエは伝言を携えてきた。誰よりも主であるカレルの意思を尊重し、その望みを果たすことこそがマリエの職分だ。それだけは迷いも、ためらいもない。
 そして今度ばかりは失敗にはなるまい。
「ルドミラ様はとてもお怒りになり、アロイス様への徹底抗戦を宣言されました」
 マリエが記憶の通りに続けると、アロイスは片眉を上げ、何か言いたそうにした。
 何か言われる前に、慌てて話を続ける。
「ですので是非、決着をつけたいと仰っておりました。以前と同じ決戦の場で」
「――決戦の場? どういう意味です」
 予想通り、アロイスはその言葉を聞きとがめた。険しい顔で問い返してきたので、マリエは粛々と答える。
「アロイス様は以前にもルドミラ様と仲違いをされ、その際、和解の為の話し合いをこの城内の書庫で行ったはずです」

 それはカレルとマリエが城を抜け出した一件から、そう日も経たないうちのことだ。
 アロイスは兵を欺き無断で町へ出向いたカレルとマリエに、近衛隊長として取るべき処置を下した。だがルドミラは彼女なりの信念からそれを非難し、憤った。
 二人は一時仇敵のように険悪な間柄となったが、その際もカレルが仲裁をし、二人の為に書庫を話し合いの場として提供した。
 城の書庫はあの二人にとって、言うなれば思い出深い場所に違いなかった。

「ルドミラ嬢が『決戦の場』にこの城を選ばれたのですか?」
 顎に手を当て、アロイスはマリエに疑惑の目を向ける。
 ひやりとしながらもマリエは首肯した。
「はい。既に殿下のお許しもいただいております」
「それは妙な話だ。かのご令嬢は豪胆かつ遠慮のないお方ですが、靦然としてこの城の一室を自らの為に使わせるほどの方ではないはず」
 アロイスはあからさまに訝しがった。
 これもカレルが事前に予想していた通りで、マリエの主はそういった疑念も見越して耳打ちをしていたのだ。
 ――彼奴はお前を怪しむだろうが、既に決まったこととして平然と押し通せ、と。
「申し込まれた果たし合いを受けずに逃げれば、アロイス様のお名前にも傷がつきましょう」
 マリエがらしくもなく脅かすようなことを口にしたので、アロイスは目を瞠った。
「それもご令嬢のお言葉ですか、マリエ殿」
「いいえ、これは僭越ながらわたくしの見解でございます」
「そうでしたか。むしろ殿下の仰りそうなことだと私には思えましたが」
 もう既に何もかも看破されているのかもしれない。マリエは冷や汗をかき通しだったが、アロイスはやがて薄く笑んだ。
「仕方ありませんな。承知いたしましたと、あなたに伝言を託した方へお伝えください」
「……かしこまりました、ルドミラ様にはそのようにお伝えいたします」
 平然と、とはいかなかったが、どうにか押し通すことはできたようだった。

 ルドミラは伝言の結果が気になるのか、さほど日を置かずに三度城を訪ねてきた。
 アロイスの姿が見当たらぬことを不思議がる彼女を室内へ招き入れた後、マリエは二つ目の伝言を告げた。
「先日ルドミラ様が仰った徹底抗戦を、アロイス様は受けて立つとのことです」
「――そう」
 たちまちルドミラが目を吊り上げる。本日の彼女は星空のような深い青色のドレスを身にまとっていたが、その静かな美しさとは対照的に、表情は怒りで満ち満ちていた。
「それで、あの人は? まさか近衛隊長ともあろう人が、私を恐れてどこかへ雲隠れしたということはないでしょう?」
「はい。アロイス様は既に決戦の場におります」
 マリエは頷き、瞬きをする令嬢に説明を添える。
「かつてルドミラ様と話し合いをし、和解を果たした城の書庫でございます」
 ルドミラの表情に今度は戸惑いの色が浮かんだ。
「そう、なの。あの人が書庫を――その、決戦の場にすると言ったのかしら」
「その通りだ。私もそれを許した」
 居合わせたカレルが口を挟むと、ルドミラはいくばくか釈然としない様子だった。
「何だか妙なお話ですこと。あの人はあんなにも殿下のことばかり案じているのに、殿下にご懇請申し上げてまでそんな真似をいたしましたの?」
 どうやらアロイスもルドミラも、お互いの人柄だけはよくよく熟知しているようだ。
 マリエなら内心でぎくりとするところだが、カレルは至って泰然としたものだった。
「そうでもあるまい。聞けば彼奴は私の馬にあなたを乗せてどこぞへ連れて行ったこともあるそうだな。必要とあらばその程度はやってのける男だ」
「……殿下はお耳が早くていらっしゃるのね」
 ルドミラは頬を赤らめ呟いた。

 ともあれ、城の書庫では一時的に職務を離れた近衛隊長が決戦の時を待っている。
 マリエはルドミラをカレルの居室から連れ出すと、城の書庫まで導いた。
「こちらでございます、ルドミラ様」
 マリエはルドミラの為に書庫の扉を開けた。静まり返った書庫の中は相変わらず薄暗く、古い書物の匂いが充満していた。その中で椅子も引かずに直立して待ち構えていたアロイスの姿を確認してから、ルドミラはつんと澄まして室内に立ち入った。
 彼女が中に入るのを見届けたマリエは、一人廊下に戻り、扉を静かに閉めた。

 そして着た廊下を戻ろうと少し歩いたところで――そうなるだろうと予期してはいたが、近衛兵を引き連れたカレルと出くわした。
「首尾の方はどうだ、マリエ」
 声を潜めて尋ねられ、マリエも小声で応じる。
「はい、ルドミラ様は既に書庫へ」
「思った以上にすんなりといったものだな。思い出というのは実によく効く薬のようだ」
 カレルは満足げに息をつく。
「あの二人も思い出の場所で存分に話し合えば、落ち着くところに落ち着くであろう」
 決戦の場に書庫を指定したのは、当然ながらカレルの発案だった。
 ルドミラから預かった伝言にほんの少しの嘘を混ぜ、二人を書庫で引き合わせるのが作戦だった。あの場所が二人にとって、数少ない思い出の場所であることをよく知っていたからだ。
「二人から自由と時間を奪っているのは他でもない私だ。私がしてやれることはそう多くはないが、だからこそやれることをする」
 真剣な顔つきで語るカレルを、マリエは眩しい思いで見上げた。
 近頃は幼子のような駄々を捏ねることも、少年らしい無茶をすることもなくなった。代わりに驚くような思慮深さを身に着けたようだ。
 成長目覚ましい王子殿下を傍で見ていると、かつてのような庇護欲ではなく、言い表せないようないとおしさが込み上げてくることがある。そしてその想いをどのように扱えばいいのかわからず、一人で困惑するのだった。カレルが望むことを叶える為なら何でもできたが、自発的な行動には未だ出られずにいた。
 無言で視線を送るマリエに、カレルもすぐ気づいたようだ。そこで微笑んだ。
「お前の不安もこれで晴れるな。伝書鳩の役目も恐らく今日限りだ」
「はい。殿下の仰る通りになると信じております」
「ではその通りになるか、最後まで見届けに行こう」
 そう言ってカレルがマリエの腕を取ったので、マリエは二重の意味で慌てた。
「えっ。殿下、まさか書庫に向かうおつもりでは……」
「まさしくそのつもりだ。あの二人なら上手くいくとは思うが、万が一ということもある」
「お、お言葉ですが、それはなりません。アロイス様にはきっと感づかれてしまいます」
 カレルとマリエだけではなく、ここにはカレルの身辺を警護する兵達もいる。こんな大勢で書庫の前に陣取れば、令嬢はともかく近衛隊長は気づかない方がおかしい。
 そして気づけば、当然ながらいい気分にはならないだろう。
「無論、そうであろう。彼奴もそれは覚悟の上であるはずだ」
 言い切るカレルは全く躊躇するそぶりがない。
「ルドミラ嬢も申していたな、私に彼奴を躾け直せと。だから私は覗きに行くのだ。これに懲りればアロイスも城内で痴話喧嘩などしなくなる」
 腕を引かれて書庫へと歩き出しながら、マリエはいくらかアロイスに同情した。

 書庫の前の廊下は静まり返っていた。
 扉の前で息を潜めたカレルが、音を立てないようにその扉を開ける。薄く開いた隙間から、書庫の奥を見据える青いドレスの令嬢が窺えた。横顔は未だ険しく、まだ和解の時が訪れていないことは一目でわかった。
「何を手こずっておるのだ、アロイス」
 カレルがぼやくその真下で、マリエも身を屈めて隙間を覗いていた。だがどうにも落ち着かず、罪悪感もあっておずおずと進言した。
「殿下、やはりわたくし達は……」
「しっ」
 その言葉を制するように、カレルがマリエの口を手のひらで押さえる。
 時を同じくして、アロイスの嘆くような声が聞こえてきた。
「――あなたが、振り上げた拳のやり場に困っていらっしゃることは存じております」
 扉の隙間からはアロイスの姿が見えない。
 ルドミラが睨みつける先にいるであろうことだけは推測できた。
「ですが、そろそろおしまいにいたしませんか。殿下にご配慮いただいてまで続ける喧嘩でもありますまい。あの方のお優しさに甘えていてはなりません」
 アロイスのその言葉に、ルドミラは顔を顰めた。ぎりっと歯噛みするのが聞こえた気さえした。
「正論はもう結構よ。あなたはいつもそう、正しいことしか言ってくれない」
「正しいことを申し上げるのがいけないと仰いますか、ルドミラ嬢」
「ええそうよ。わたくしが聞きたいのはがちがちに硬くて噛みきれないような言葉ではないもの」
 ルドミラはそこで、切なげに嘆息した。
「あなたはわたくしが美しいドレスを着てきても何も言ってくれないし、わたくしに会えて嬉しそうにもしてくれないでしょう。だからわたくしも、あなたに喧嘩を売るしかなくなる。それだけが、あなたが返事らしい返事をしてくれる唯一の手段だからよ」
 令嬢の真意を、マリエはこの時ようやく知った。
 カレルが言った『睦言を楽しんでいる』という表現はまさに正しいものだったようだ。
 と同時にその想いの切実さに、胸が痛むのを覚えた。
「以前も申し上げたはずです」
 今度はアロイスが溜息をつく。
「私はあなたを守ることもなく、あなたの為に剣を振るうこともない男です」
「ええ、覚えていてよ」
「あなたもそれをご承知済みだと思っておりましたが」
「ええ」
 ルドミラは二度とも頷いた。アロイスから目を逸らさず、敢然と続ける。
「でも時々は、あなたの心中が知りたいと思っていいでしょう? それも駄目かしら?」
「職務の間は困ります」
「では、今なら? 今ここで私が尋ねたら、あなたは答えてくれる?」
 その問いに、アロイスは即答しなかった。

 我慢比べのような長い沈黙が書庫と外の廊下にしばらく流れ、その間、ルドミラはただ黙って彼の答えを待っていた。
 扉の前に陣取るカレルがしびれを切らす。
「何をしている、即答せよ」
 苛立った様子の独り言に、口を押さえられているマリエは反応ができなかった。
 だがマリエもアロイスの答えを待ち詫びていたのは同じことだ。

 どのくらい待っただろうか。
 やがて、とうとうアロイスが言った。
「承知いたしました。何なりとお聞きください、ご令嬢」
 諦めまじりとも、精一杯の優しさともつかぬ穏やかな声音でそう言った。
 途端にルドミラの険しかった表情が解け、久方ぶりに少女らしい微笑みが浮かんだ。
「では、まず聞かせてちょうだい。前に伺ったのだけど、職務を終えて一息つく時は真っ先にわたくしの顔を浮かべているって本当?」
 先程よりは短い沈黙が書庫の中に落ちた後、
「……事実でございます、ルドミラ嬢」
 アロイスは、聴いたこともないような優しい声でそれを認めた。
 するとルドミラの横顔は、ますます明るく輝く。
「そう、よかった。他には?」
「他と仰いますと?」
「他にどんな時、わたくしのことを考えているのかしら?」
「それは……例えば、夜、眠りに就く時などです」
「そう。わたくしの夢を見たことがある?」
「無論、ございます」
 書庫の外で二人の会話を聞くマリエは、この辺りで頭がくらくらしてきた。これは誰がどう聞いてもただの睦言だ。他人が盗み聞きしていい会話ではない。
 だがカレルはマリエの口を押さえたまま、扉の前から動こうとしない。
 そしてアロイスは堰を切ったように話を続ける。
「私は殿下に全てを捧げたつもりでした。この剣と、忠心と、我が生涯。それが私の全てだと思っておりました」
「でもあなたはそれだけの人じゃない、そうでしょう?」
「仰る通りです。他には何もないと思っていた私の胸に、あなたはたやすく入り込んでしまわれた」
「だってわたくしは、近衛隊長ではないあなたを知っているんですもの。少しだけだけど」
 そう言うとルドミラは少々照れたように栗色の髪をかき上げた。
「またいつか、あなたのことを知る機会があるかしら……」
「わからないとしか申し上げられません」
 この問いにアロイスは即答し、ルドミラと書庫の外の面々を苦笑させた。
「そういうところは正直なのね」
「私にも、嘘をつきたくない気分の時がございます」
 アロイスはそう言うと前に進み出て、ルドミラの足元にひざまずいた。
 扉の隙間から覗くマリエからもその姿がようやく見えたが、頭を垂れているせいで表情はやはり窺えなかった。
「私の剣と忠心と生涯、それ以外のものはごくわずかでしょうが、それでよければ全てあなたに捧げましょう」
 誓いを立てるようにアロイスは言い、目の前に立つルドミラの手を取った。そしてその手の甲に口づけた。
 誰かが深い吐息を漏らし、マリエは危うく跳び上がりそうになったが、意外にもルドミラはそこで眉を顰めた。
「手の甲だけでは嫌」
 すぐに、アロイスが面を上げる。困惑しているのが表情からありありとわかる。
「ルドミラ嬢、それは……」
「困るとでも言うの? わたくしはちっとも困らなくてよ」
「ですが……」
 アロイスの目が横に流れ、書庫の扉を、薄く開いた隙間を捉えた。一瞬浮かんだ微苦笑の後、令嬢に向き直る。
「ご存知かもしれませんが、ここも殿下の御前です。それはさすがのあなたもお困りになるでしょう?」
「えっ」
 とっさにルドミラも扉の方を向き、その顔がたちどころに上気した。
 マリエは彼女と目が合ったようにも思ったが、ルドミラはすぐにアロイスへ視線を戻し、真っ赤な顔で言い放つ。
「そんなことくらいで尻込みするなんて、近衛隊長ともあろう方が意外と臆病なのね」
「……あなたの豪胆さには、私とて敵いません」
 目を剥いたアロイスはそう応じた後、身軽に立ち上がった。
 それからはもうためらうこともなくルドミラの細い肩に手を置き、そっと顔を近づけたが、マリエが見ていられたのは二人が目を閉じた瞬間までだった。
 あとはもう正視することもままならず、両手で目を覆って、周囲で湧き起こる感嘆の声から大方の状況を察するしかなかった。

 令嬢はその後、いつになく上機嫌で帰途についた。
 書庫に残ったのは対照的に不機嫌そうなアロイスと、そんな彼を見て笑いを堪えているカレル、そしてすっかりあてられて赤面したまま立ち直れていないマリエだった。
「殿下のお手を煩わせたことは反省しておりますが、だからといって見世物扱いはあんまりです」
 アロイスが抗議すると、カレルはにやりとして応じる。
「喧嘩をする方が悪い。これに懲りたら少しは控えよ」
「私はそうありたいのですが、ご令嬢がどう思われるか」
 首を竦めたアロイスは、その後で未だに動揺しているマリエに目を向けた。
「マリエ殿も、そこまで恥ずかしがるなら見なければよかったでしょう」
「も、申し訳ございません。見ないようにしていたのですが……」
「全く。あなたが止めてくれなければ、他に誰が殿下を止められるのですか」
 そう言い残すと、アロイスは書庫を出ていこうとする。
 だが扉に手をかけたところで振り返り、並んで立つカレルとマリエを眺めた。その時、わずかにだけ目を細めたように見えた。
「殿下、マリエ殿。ここはお二人にとっても思い出の場所でしょう」
 城の書庫はいつでも古い書物の匂いがする。雨の日だけは少しだけ空気が重く感じられたが、それでも匂いの本質が変わることはない。
 それはマリエの記憶にもまだ新しい、いくつかの思い出に絡む匂いでもあった。
「私は外におりますので、次はお二人でどうぞごゆっくり」
 まるで意趣返しのように言い残し、アロイスが書庫を出ていく。

 扉が完全に閉まったのを確かめてからカレルがこちらを向いた。
 途端にマリエはうろたえながら進言した。
「で、殿下、そろそろお戻りになってお茶にいたしましょうか」
「何を慌てている」
 カレルはそんなマリエの反応を面白がっている。声を立てて笑った。
 しかしマリエは笑えるはずもなく、不自然なくらいに静かな廊下が気になって仕方がない。それでなくともこういった雰囲気には慣れていない為、すぐ傍にいるカレルの顔を直視できない有様だった。
 するとカレルはマリエの肩に手を回し、ぐっと引き寄せた。そして廊下に聞こえないよう、耳元で囁いてくる。
「どうだ、マリエ。私の策は見事に上手くいったぞ」
「は……はい。さすがでございます、殿下」
「だから言ったであろう。私にはルドミラ嬢の気持ちがよくわかる、とな」
 カレルは得意げに語ったが、それでマリエは弾かれたように面を上げた。
 肩を抱き寄せる王子殿下の、すぐ近くにある顔を見上げる。実に晴れやかな、一点の曇りもない満面の笑みだ。だからこそ、マリエは問いかけずにいられなかった。
「殿下も、ルドミラ様のように不安を抱かれることがあるのですか?」
 もしそうなら、マリエにもするべきことがあるはずだった。カレルが胸に不安を巣食わせたままで日々を過ごしているのかと思うとマリエの心まで痛んだ。何をすればいいのかはわからないが、何かして差し上げたいと思う。
 問いかけられたカレルは笑んだまま、マリエの瞳を見つめ返してくる。
「今は全くない」
 答えは簡潔で、力強かった。
「今は……。では、以前はもしや……」
「私はお前をよく知っている。お前はずっと私の傍にいてくれたからな」
 マリエの言葉を遮るように、カレルはそう言った。
 そしてふと笑みを消し、静かな声で付け加える。
「一つ、私が最も知りたいと思うことを長らく知り得ずにいたが、それも先だって知ることができた。だからもう、不安などない」
 それを聞いて、マリエは深く息をついた。安堵したのと同時に、今の言葉が胸に響いて、またしても言い表しようのないいとおしさが満ちてくるようだった。
「お前の方こそ、不安はないか」
 逆にカレルが尋ねてきたので、マリエは間髪入れずにかぶりを振った。
「わたくしも、何一つとして。殿下のお傍にいる今は、幸いに満ち満ちております」
「そうか。ならば不安になった時はすぐに申せ。何ならルドミラ嬢のように怒ってみせてもよい」
「お言葉ですが、わたくしが殿下に怒りを抱くなど、あり得ないことでございます」
 カレルに憤る自分自身はあまりにも想像がつかず、マリエはそこで小さく笑う。

 その顔にじっと見入ったカレルが、意を決したようにマリエの顎を掴んだ。
 そして半ば強引に上を向かせたかと思うと、黙って唇を合わせてきた。
 口づけられていた時間はほんの一呼吸の間だったが、柔らかく慣れない感触はマリエを動揺させるには十分だった。

 声も出せずに硬直するマリエを見て、カレルは先程とは違う大人びた笑みを浮かべる。
「確かに、不意を打ってもちっとも怒らないのだな、お前は」
 廊下で起きたどよめきが、今のマリエには遠く聞こえた。
「で……殿下、あの、急にこのようなことは……!」
「それどころか実に幸せそうな顔をする。お前がそういう顔を見せること、私はずっと知らなかったぞ」
 カレルがしみじみと感じ入ったように言った。
 マリエは今の自分がどんな顔をしているか知りようがなかった。ここには鏡も、その代わりになるようなものもない。だが主の言葉は信じられるものであったし、それによれば今のマリエはこれまでにないような顔つきをしているらしい。
「恐らく、まだ他にもあるのだろうな。私の知り得ぬお前の顔が」
 そう言うとカレルはマリエの熱い頬を撫で、万感の思いを込めて呟く。
「それらを全て、これから見てみたいものだ。私の記憶に留めて、いつ何時でも思い出せるようにな」
 マリエはその言葉にすら答えられず、カレルの日ごとに大人びていく面立ちに見入っていた。
 胸には幸福が満ち溢れ、いとおしさも込み上げていたが、まだそういう感情をどう表せばいいかわからなかった。ただ口元には自然と笑みが浮かんで、照れながらもそれを隠さずにいると、カレルも同じように幸福そうに笑い返してくれた。

 かくして、マリエは伝書鳩の役割を無事解かれることとなった。
 なお、ルドミラの悪食ぶりはこれ以降いくらか鳴りを潜めたようだ。犬も食べないような喧嘩はその後しばらく起こらなかったが、近衛隊長と王子殿下が互いに相手を冷やかし、からかいあう小競り合いが代わりに当面続いた。
 お蔭でマリエもこれらの記憶を、ずっと忘れることはできなかった。
 それを幸いなことだと思えるようになるまでにはいくらか時間が必要だったが――後になって振り返れば確かに、幸いな日々の記憶に違いなかった。

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