思い出はどこにでも(3)

 かくしてマリエは、生まれて初めてその身を着飾ることとなった。
 わざわざ仕立て屋を呼び寄せ、寸法を測り、自分の為だけにドレスを誂えてもらう。
 それだけでも非常に畏れ多いと感じていたのに、更に震え上がる展開がマリエを待ち受けていた。

 いざドレスが仕上がったところで、マリエは着方を知らず、豪奢な衣装に見合うだけの化粧の術も知らない。
 それをカレルに打ち明けたところ、主は何のためらいも相談もなくその話を令嬢ルドミラへと持っていった。曰く、秘密の保持と気安さとを兼ね備えた婦人といえばかの令嬢をおいて他にないから、なのだそうだ。
 そしてどういうわけかルドミラも二つ返事で了承し――マリエは今、彼女の手を借りながら美しい衣装をまとい、化粧まで施してもらっている。

 主の居室の応接間にて、当のカレルを廊下に追い出して支度をしている真っ最中だ。
 おまけにドレスは裾がとても長く、満足に歩けないマリエは主愛用の椅子に腰かけている。畏れ多さでは枚挙に暇がない。
「あら、瞬きをしては駄目よ」
 気忙しさからもぞもぞ身動ぎするマリエを、ルドミラがそっと咎める。
 瞼を指先で軽く押さえ、筆で縁取りをしているようだ。彼女はこういうことにも大変手際のよい人で、しかも化粧を施す表情はうきうきとしている。身分の低い相手に化粧をするなど、間違いなく初めてのことだろうに。
「力を抜いて、もう少しじっとしていて。……そうよ、軽くだけつむっておくの。すぐ終わらせてしまうから」
 畏れ多いと口にする暇もなく、マリエは諾々と指示に従う。存外に重いドレスの裾が、ほんの少しの身動ぎでしゃらしゃら鳴った。
「あなたってなかなかお化粧の映える顔をしていたのね、マリエ」
 今度は紅筆を手に取り、顎を掴みながらルドミラが語りかけてくる。
「いつもはそんな気がちっともしないのだけど、今日は確かに、わたくしよりも年長に見えていてよ」
「あ、ありがたいお言葉で――」
「ああもう、口も動かしては駄目! いいわよお礼なんて、それより黙っていてちょうだい」
 やむなくマリエは黙り込み、ルドミラが紅を引いていくのを落ち着かない気分で待っている。
 まだ鏡を見ていないので、今の自分がどんな顔をしているのかはわからない。二十一の婦人らしい顔つきをしているだろうか、せっかくのドレスをきれいに着られているだろうか。いささかの懸念があった。
「だけど、殿下からお話があった時は驚いたわ」
 マリエの唇に薄紙を押し当てた後、ルドミラは笑いを含んだ声で続ける。
「あなたと来たらこういうことには頭が固くてわからず屋さんなんですもの、殿下が何かお考えになっても、着飾るなんて決してよしとしないと思っていたわ。そのあなたがまさか、わたくしに着付けや化粧を頼むだなんて、とっても意外よ」
 別にマリエ自身が頼んだわけではないはずだが、彼女の手を借りたことは確かだ。
 それに彼女の働きがなければせっかくのドレスも無駄になっていただろうから、その辺りの齟齬はあえて放っておく。
「急なお願いで、ご迷惑ではございませんでしたか」
 化粧が全て済むのを待って、マリエは尋ねた。
 ルドミラは小首を傾げる。
「いいえ。むしろ、あなたが着飾る機会なんて珍しくて、大変興味深いんですもの。こうして手伝えてうれしいわ」
 それから一度、椅子に座るマリエから離れて、頭のてっぺんからドレスに隠れた爪先までをしげしげと眺めてみせた。
「上出来ではないかしら。見違えてよ、マリエ」
「光栄に存じます」
 マリエは慎重に顎を引き、それから傍らの卓上にあった手鏡を取ろうとした。
 が、それはルドミラの素早い動作によって阻まれ、取り上げられた。
「鏡は見ない方がいいでしょうね。あなた、気後れして殿下の御前へ出られなくなるわよ」
 冷やかす口ぶりでそう言われ、マリエは期待少し、不安が大半の心持ちでいる。
 令嬢の言葉を信じてはいても、いつもと違ういでたちでいることに心許なさを覚えた。分不相応ではないかと気がかりだった。
 だが、どんな顔であれ主には見てもらいたかった。
 いや、もっと言えば主の記憶に残っていたいのだ。見違えたとまで評された今日の姿が、想う人の心のうちに留まればいい。
「思い出にする為、でございます」
 手鏡に未練を残しつつ、マリエは小声で打ち明ける。
「殿下がおっしゃっていました。離れる日の為に、記憶は多い方がいいと。わたくしも同じく、思い出が欲しいと望んでおりました。今日のことはきっと……」
 着慣れないドレスは、剥き出しの腕や首筋が頼りなく思える。下ろした髪が自分の肌を撫でるのがくすぐったい。紅を引いた唇は閉じる度にいつもと違う感触がする。
「これから先に思い出す、よい記憶の一つになることでしょう」
 マリエは確かに信じて、告げた。
 その時、ルドミラも口元を綻ばせる。
「――そう」
 それから何かに思いをめぐらせた様子で、ゆっくりと言葉を継いだ。
「わたくしも同じように思ってよ。よい日の記憶は、そうではない日を乗り越える為の力になるんですものね。今日があなたと殿下にとって、よい思い出となること、願っているわ」
「ありがとうございます。今日がよい日だとしたら、それは力を貸してくださったルドミラ様のお蔭です」
 すかさず感謝を述べれば、令嬢は歳相応のはにかみ笑いを見せた。
「お礼はいいったら。わたくしもあなたのお蔭で、よい思い出を得られたことがあるんだから」

 その後、ルドミラはカレルを呼んでくるとマリエに告げ、一人だけ廊下へ出て行った。
 扉が開いた時、廊下で近衛兵たちがどよめくのが聞こえたが、マリエにそちらを見る余裕はなかった。おまけに手鏡は、令嬢がそのまま持っていってしまった。
 室内に残されたマリエは、自らの面立ちを知らぬまま、ひとまず見える部分だけを確かめる。
 着ているドレスは灰がかった白の本繻子で、襟刳りはごく浅く、華やかなひだ飾りがぐるりとついている。カレルはルドミラの着ていたような肩を露出する型を勧めてきたが、それはさすがにとマリエは拒み、代わりに短くふくらんだ袖を選んだ。裾にもたっぷりと布地を使ったそのドレスは、立ち上がるとゆったりした折り目が幾重にも生まれ、大変美しいはずだった。
 もっとも、マリエは立ち上がれずにいた。たっぷり布地を使っているからかドレスはやはり重く、そして裾を踏まずに歩くにはどうしたらいいのかがわからない。

 そうこうしているうちに再び、扉が開いた。
 廊下で再びどよめきが起きたが、顔を覗かせたのはカレルだけだった。こちらを見ないようにして扉を閉め、室内に一人立ち入ってくる。
 マリエはたちまち身の置き所のなさを覚えたし、やがて向き直ったカレルも同じ心境だったらしい。ちらとマリエを見るなり、困ったように苦笑した。
「ああ、確かに……見違えた」
 独り言めいた唸り声の次に、溜息が落ちる。
「まずは気の利いたことでも言ってやろうかと思っていたが、どうも、思うようにはいかぬな。何と言っていいのやら……」
 面映そうにしながらも、視線はひたと外さない。
「かの令嬢は化粧も上手いと見える、まるで別人のようだ」
 そして急いた様子でマリエの眼前に近づくと、思いつめた顔で改めて、じっと見入る。逆にマリエの方が俯きたくなり、そわそわとドレスの裾に目を泳がせていた。
 その間、数呼吸。
 ややあってから、主はためらいがちに告げる。
「……そうだな。蕾が急に花開いたようだと言ったら、月並みな文句だろうか」
 マリエは、そうは思わなかった。
 むしろその文句だけで十分どぎまぎしたし、なぜか鼻の奥がつんとして、奇妙に涙ぐみそうになる。一つの褒め言葉だけで何もかもが報われる。
「わたくしはそのお言葉だけで十分でございます」
「まだ大したことも言っていない」
 カレルの方が不十分そうに言った後、手袋を嵌めたマリエの片手を取る。
 その顔にようやく、しかし未だぎこちない笑みが浮かんだ。
「せっかくだから立ち姿も見てみたい。立てるか、マリエ」
「畏まりました」
 了承して腰を浮かせたものの、マリエはドレスに不慣れだった。裾を捌くのをうっかりと忘れた。
 思いきり踏んづけた。
「きゃっ」
 悲鳴を上げた瞬間、カレルが手を広げ受け止めようとしてくれたのが見えたが、目で捉えられたのはそこまでだった。直後、マリエは鼻先を主の胸板にしたたかに打ちつけ、それはもう痛くて痛くて堪らず、今度は容易く涙が浮かんだ。がつんと音がしたような気さえした。
「大丈夫か?」
 カレルの案じる声にもすぐには答えられない。
 どうにか顔を上げれば、頭上の心配顔は呆気なく歪んで、笑いを噛み殺す表情に変わる。
「痛かったか」
「はい、大変に……」
「裾にはくれぐれも用心せよ。……しかし私は、見てくれが整っても中身には変わりがないようで、ほっとしたくらいだ。中身まで変わっていてはどうしようかと思っていた」
 言葉の通り、カレルは微かな安堵を滲ませる。
 抱きとめたマリエの黒髪を撫で、こめかみに軽く口づけてきた。
「お前の美しさを知る者はそう多くない、だが私は今日のお前を、いつものお前と同じようにここで、記憶に焼きつけておく。だからお前も忘れるな、私が望んだのは他でもない、妃にはなれぬお前だということを」
 マリエは主の腕の中で、静かに頷く。
「私が望んだのだ。引け目に思うことはない、胸を張っていろ」
 その言葉を賜った時、マリエは誇らしさに微笑んだ。ならば今日のいでたちも分不相応などと思うことはあるまい。他でもないカレルに望まれたのだ。
「今日のわたくしも、よくよく覚えていてくださいませ、殿下」
 素直になってねだると、カレルも相好を崩す。
「無論、しかと覚えておく。たとえ離れても事あるごとに思い出すだろう」
 それからマリエを強く抱き直すと、いち早く思い出したように笑声を立てた。
「ああそれと、花瓶を見た時にも思い出すことだろう。三本分、だったな」
 マリエは答えに迷う。
 先日のそのやり取りが胸裏に甦る度、今はまだ、気恥ずかしい思いしか浮かんでこない。しかしそれも、いつかはよい思い出となるだろうか。
 離れている間も、マリエがこの部屋からいなくなってからも、望まれたようにカレルを支えることが叶うだろうか。そうだといい。

 二人きりの室内はとても静かで、廊下からさえ物音一つ、息遣い一つ聞こえてこない。
 だからマリエはしばらくの間、全てを忘れて主の腕の中にいた。
 こうしていられるのも今だけのことで、じきに近侍へ戻らなければならないが――それでいいと思う。望まれているのは一時着飾っただけの、しかし今は誰よりも傍にいられる自分なのだから。

 マリエにとっての今日は、とてもよい記憶となりそうだ。
 例えば花を摘む時に、よくよく思い出すことだろう。

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