貴方の居場所

 カレルの手が、マリエが被る頭巾をそっと外した。
 微かな衣擦れの音を立てて頭巾が落ち、マリエの艶のある黒髪が露わになる。女の側仕えが身に着けるべき頭巾を外され、マリエは恥じらいと心許なさを同時に覚えた。カレルが熱を帯びた目で見つめてくるので尚更だった。

 恥じ入るマリエをよそに、カレルはマリエの髪に手を伸ばす。
 弄ぶように、しかし同時にいとおしむように指先で梳きながら、静かに口を開いた。
「かの物語において、二人が迎えた本当の結末を教えよう」
 長い指がマリエの髪をさらさらと梳かしていく。その指先はやがて耳朶をかすめ、首筋まで下りて一撫でしてから、最後に頬に触れてきた。
 大きな手のひらの心地よい温かさに、マリエは目をつむりかけた。だがカレルは手のひらにわずかな力を込め、マリエに上を向かせた。
「芝居の結末から少し後、二人は確かに結ばれる」
 再び、目が合う。
「ルドミラ嬢の言う通りだ。そうでなければ、あの男はあまりにも不憫だ」
 カレルはマリエの顔を覗き込み、思いやるように優しい微笑を浮かべた。
 マリエは瞬きさえ畏れ多く思い、ただじっとカレルを見つめる。
「しかし、それを幸せな結末と呼んでよいのかは私にもわからぬ」
 言葉は淡々と続いた。
「結ばれた直後から、あの娘は行方をくらました。親しい人々の前から忽然と姿を消したのだ。街の者も、酒場の者も、あの娘がどこへ消えたのかは知らぬことになっている。まるで初めから、どこにも存在しなかったかのように」
 想像だにしなかった顛末が、カレルの口から語られた。
「……そんな」
 マリエは衝撃のあまり言葉を詰まらせる。
 陽気で楽しく滑稽だったあのお芝居の後に、よもやそんな未来が待ち受けていようとは。あの娘がいなくなったなどと、誰も思いたくないに違いない。ルドミラも必ずやそう言うだろうし、そしてマリエも同じ思いだ。
「娘はいなくなった。人の目の触れないところへな」
 言葉の続きはどこか意味深長だった。
「殿下。それは一体、どういうことでございますか」
 思わずマリエが尋ねると、カレルは何でもない調子で答えた。
「娘はあの男の元へ行き、そして男によって、他の人々の目から逃れるように隠匿されたのだ」
「隠匿……?」
「身分の差があることをとやかく言われぬ為に、男が取り得た最善の手段がそれだった。身分の低い女を妻として娶ることはできぬ。だからこそ男は、女の存在をひた隠しにした。正式な妻を娶らず、隠れ住まわせたその女だけを大切にしてきた」
 聞かされた話の突拍子もなさに、マリエは呆然とした。人ひとりをそんなふうに隠匿しておくことなど、本当に可能なのだろうか。うさぎのように小さい生き物ならばともかく――。
 マリエの反応をどう見たか、カレルは苦笑して言い添える。
「あの男の名誉の為に言っておくなら、そうしたのはあくまで、娘の方も男の傍らにいたいと望んでいたからだ。闇雲にかどわかして連れてきたのではない」
 だとしても相当の覚悟が要ることだろう。人々の目に触れず、親しい者たちからも離れ、行方をくらましたように見せかけて男の元で身を潜めた。当然、表歩きなどはできなかっただろうし、満足な外出も、親しい友人らに再び会うことも叶わぬまま生涯を終えたのかもしれない。

 しかし一方で、腑に落ちることもあった。
 ルドミラは、歴史書を読み漁ってもあのお芝居の真実には辿り着けなかったと言っていた。
 それでいて、あのお芝居が実話を基にしているという噂だけはまことしやかに囁かれている。
 それはつまりあの娘が、歴史の表舞台には立つこともなかったからではないだろうか。身分の高いあの青年の夫人にはなれないまま、姿を消したままで、ただ親しい人々の記憶の中にだけ留まっていたからではないだろうか。

「二人はやがて、子をもうけた」
 カレルはマリエが気を落ち着けるまで待ってから、続きを語った。
「男は妻を娶らぬまま子を得たのだ。幸か不幸か、生まれてきたのは男児だった。当然、近しい者たちは騒然とした。その子は男にとっての世継ぎとなる。にもかかわらず、母親の顔も知れぬとあればあらぬ噂が立てられる。かといって身分の低い女の産んだ子だと知れれば、石頭な連中が黙ってはおらぬ」
 まるで見聞きしてきたかのような、落ち着いた口調だった。
「しかし、男はどうしてもその子に跡を継がせたかった。他の女を妻に迎える気もなく、そのくらいならどんな批判を浴びてでも、愛した女の産んだ子だけを慈しみたいと考えた。そうして熟慮の末、その子を自分の子だと世間にも明かすことにした――母親の名も、顔も、存在すら隠したままで」
 カレルの端整な顔に影が落ちる。
 その顔立ちは父親たる国王とはまるで似ていない。白金色の髪をしているのも、王族の中ではカレルだけだった。
「女に対しては、約束がされた。その子は男に仕える者たちが、男の世継ぎとして丁重に、大切に育てること。引き換えに母親の存在は永久に隠し続けること。母親は子の教育にも、政にも、決して口を挟まぬこと。母親の名は歴史には残さず、何の権限も持たぬまま、人目を忍んで余生をひっそりと暮らすこと」
 溜息が一つ落ちる。
「約束の遵守を条件に、二人の子は世継ぎとして育てられた。母親の名はその子にさえ知られぬままだ。そうして母親となった女は今も、どこかでひっそりと暮らしている」
「今、も……?」
 マリエは思わず声を漏らした。
 古い話なのだと思っていた。あのお芝居の物語は、マリエが生まれるよりはるか昔、お伽話ほどに古い物語なのだと思っていた。
 カレルの口から語られた二人の恋人たちが、今もこの国のどこかで生き続けているのだとは、想像もしていなかった。
「そうだ」
 しかし、カレルは大きく頷いた。
「亡くなったとは聞かされておらぬ。その時くらいはせめて、私の耳にも入るだろう」
 口調は独り言のように軽かった。
 それでもマリエは――察しが悪いだの勘が鈍いだのと、カレルを始めとする周囲の人間から散々な評価を受けていたマリエですら、この瞬間、全ての真実に気づいた。
 途端に血の気が引き、膝から力が抜ける。くずおれそうになったところを、カレルがしっかりと抱き留め、支えてくれた。
「倒れるにはまだ早いぞ、マリエ」
 温かな腕に包まれても、唇の震えが治まらない。それどころか書庫ごとぐらぐら揺れているように思える。
「殿下、それでは、まさか……」
 息も絶え絶えに尋ねると、カレルは面映そうに首肯した。
「そうだ。――あの芝居の主役であった男、あれは私の父上だ」

 国王陛下には、お妃様がいなかった。
 そのことはマリエも知っていた。マリエが物心ついた頃には既に、王妃という存在はこの国にはなかった。王妃陛下の不在をマリエも幾度となく疑問には思ったが、不幸にもお若いうちに崩御なさったのだろうと捉えていた。
 だが今になって思えば、腑に落ちない事柄も多数あった。王妃陛下の崩御は、カレルが生まれた後でなくてはおかしい。なのにマリエはその事実を全く知らない。近年、国葬が執り行われたという記憶もない。
 マリエの両親も代々王族に仕える身でありながら、カレルの母親となる人物について、一度として言及したことはなかった。触れてはならぬ事実なのか、それとも両親さえ知らぬことなのか――明らかにすることもないまま、マリエは深く考えずに城勤めの日々を送ってきた。

「私は、歴史の勉強が嫌いだ」
 低い声でカレルが呟く。
「王位を継いだ者たちには代々、王妃となる存在があった。もちろん母親もいた。歴史書にはそういう女たちの名前と存在が書き連ねられているというのに、父上の代にだけはないのだ。王妃となる存在も、父上の世継ぎたる私の、母親となる存在の名前も」
 表情に苦痛と、わずかな安堵を滲ませていた。
「奇妙に思っていた。私にだけ母親がないはずもないのに、どうしてこの城には母上がおらぬのか。どうして父上には妃がおらぬのか、漠然と不思議に思っていた。歴史を教えるあの口喧しい家庭教師は、私に何も教えてくれなかったが――」
 視線がすっと移動して、机上の書物に留められる。既に閉じられたその本に何が記されているのか、マリエにも理解できていた。
「城の書庫にはあった。真実が記された、門外不出の歴史書が。表に出されず、広く知られることもない歴史が、これにだけは綴られていた。私もようやく得心した」
 じわりと照れ笑いを浮かべたカレルが、再びマリエの髪を撫でる。
「母上は、私と同じ髪の色をしていた。そのことだけはおぼろげに覚えている。物心ついた頃には乳母の手に預けられていたから、もしかすると確かな記憶ではないのかもしれぬが」
 その時、マリエが思い出したのはまだ新しい記憶だった。
 マリエの黒い髪が母親譲りだと話した時の、カレルの言葉と、表情。
「今も私は、母上の居場所を知らぬ。父上に尋ねてもきっと教えてはくださらぬだろうし、城の他の者たちでも同様だろう。私もこの度のことがなければ、真実には到底辿り着けなかった」
「殿下」
 心中お察しいたします、そんな言葉を口にしかけたマリエは、けれど結局黙り込んだ。
 察することなどできるはずもない。カレルは母親を奪われたも同然だ。もし王子殿下として生を受けたのでなければ、今頃は当たり前のように、両親と共に暮らせていただろうに。
「母上のことはこれからも、広く知られることはないだろう」
 だがカレルも、既に少年ではない。
 自らの運命を受け止め、全てを悟ったように穏やかな面持ちをしていた。
「ひっそりと伏せられたまま、世に出る歴史書に名を綴られることもないのだろう。それを幸せな結末と呼ぶのかどうか、私にはわからぬ」
 カレルがかぶりを振ると、白金色の髪はきらきらと光った。
「ただ、私は幸いだと思う。こうして父上の血を引く者として、皆に認められていることを。誰もが私をこの国の王子として認めてくれていることを、何物にも代え難い幸いなのだと思う。たとえそれが、母上の犠牲の上に成り立っているのだとしても」
 それはカレル自身の資質以前に、生まれ持った運命のようなものだった。
 全ての民に愛される代わりに、全ての民の為、この国を背負っていくさだめがカレルにはある。そしてそのさだめを引き継ぐことができるのは、ひとえに国王を愛し、カレルを産んだ名も知られぬ婦人の挺身があってこそ、なのだろう。

 少しの間、マリエは気が抜けたように主の顔を注視していた。
 自分の足で立っているのかさえ自覚できなくなっていた。抱き締める腕の力強さに支えられ、ようやく意識を保っていた。奔流のように伝えられた全ての情報が、頭の中には入り切らず、辺り一面でちかちかと瞬いている。

 視線の先ではカレルが笑みを消した。
 代わりに凛々しい面持ちになり、真剣な瞳がひたむきにマリエを見つめてくる。
「私はまだ、未熟な人間だ」
 抱き締める腕にも力が込められ、マリエは息苦しさを覚えた。
「だが未来においては立派な王になり、父に代わってこの国を治めねばならぬ。この国の為に王として生きること、それこそが父上に対しても、母上に対しても、報いることだと思っている、だから」
 だがそれ以上に、胸が痛かった。
 全てを語られるより早く、主の苦悩に気づいたからだ。マリエが耳を押し当てた胸の奥、カレルもまた苦しそうに息をしていた。ごくりと喉を鳴らすのも間近で聞こえる。
「――だから、迷った」
 溜息と共に声がつかれた。
「その私が、父上と同じことを、同じ歴史を繰り返してもよいのかと」
 震える声を聞きながら、マリエは、名も姿も、居場所すら知らぬかの人に思いを馳せる。
 ――あなたはその時、一体どんなお気持ちで、尊い決断をなさったのでしょうか。
「だが、どんな正論をぶつけられようと、手酷く頬を打たれようと、この先に待つのが今より苦難多き未来であろうとも、最も欲しいものだけは諦めがつかぬ。他には何も手に入らなくても、これだけはどうしても欲しい」
 傷のある唇をほころばせ、カレルは敢然とマリエに告げた。
「長い歳月の間、想い続けてきた――お前が、欲しい」
 もしかするとそれは、あの始まりの日、告げられなかった言葉だったのかもしれない。