凛、とした

「殿下、お初にお目にかかります。お会いできて嬉しゅうございます」
 訪ねてきた貴族令嬢ルドミラは、大変美しい娘だった。
 立ち姿は愛らしいと言うよりも凛々しく、背筋が真っ直ぐに伸びている。ややきつめの顔立ちは美しいながらも媚びを感じさせず、知性と気位の高さを隠しきれていなかった。栗色の髪を高めに結い上げ、白い縮緬のドレスもすっきりと細身で、彼女の瑞々しい美しさを引き立てている。
 麗しき令嬢を目の当たりにして、カレルが何を思ったかマリエにはわからない。ただ傍目には実に愛想よく、上機嫌で彼女を招き入れていた。
「よく来てくれた。歓迎しよう、ルドミラ嬢」
 今朝は子供のように駄々を捏ねていたカレルも、一国の王子として最低限度の礼儀は身に着けている。物腰柔らかにルドミラに接し、型通りの挨拶が滞りなく進んでいくのを目にして、マリエは一瞬胸を撫で下ろしかけた。
 だがすぐに我に返り、暗澹たる思いに囚われた。

 カレルとルドミラが円卓を囲む。その卓上にマリエがお茶菓子の皿を並べる。
 そして下がろうとしたところを、主が素早く呼び止めた。
「マリエ、皿が足りぬぞ」
 小声での問いに、マリエは血の気が引く思いで答える。
「畏れながら殿下、これで全てでございます」
「なぜだ。いつもなら客人のある時は、クルミのケーキを焼いてくれるではないか」
 カレルは訝しげだった。
 それはむしろ客人の為にと言うより、苦手な客人が来ると機嫌を損ねるカレルの為に用意しておいただけだ。好物のケーキを口にすれば、カレルもとりあえず機嫌を直して客人と接してくれる。だからマリエも来客のある時は、必ずクルミのケーキを焼いておくようにしていた。
 しかし今日はその皿がない。卓上に並んだお茶菓子の中に、カレルの好物は存在していなかった。
「申し訳ございません、殿下。本日はご用意ができず……」
 マリエはこわごわとカレルに詫びた。居合わせているルドミラの反応が気になり、ちらと視線を向ける。
 彼女は素知らぬふりで、目を伏せてくれていた。
「そうか、残念だな。お前の焼いたあのケーキが食べたかったのだが」
 カレルは目に見えて落胆したが、
「では、後で焼いてくれるか」
 すぐに気を取り直して尋ねてきた。
 マリエは申し訳なさに押しつぶされそうになりながら、かろうじて答える。
「明日でよろしければ、材料を揃えて参ります」
「普段なら、いつでも作れるようにと用意をしておいてくれるだろう」
 優しい主は近侍のことを知り過ぎていた。マリエがカレルの為に、望めばいつでも好物のケーキが焼けるように材料を揃えているのも知っていた。カレルの好物を把握してからというもの、マリエは材料を切らしたことはこれまで一度もなかった。
「いえ、その……」
 マリエは答えに窮し、またしてもルドミラの方を窺う。内緒話から弾き出されているにもかかわらず、ルドミラは気にしたそぶりもなく窓の外を眺めている。
 そこでマリエは声を落とし、主の問いに答えた。
「実は、一つ焼いたものがございます」
「何と、そうか。持って参れ」
「それが……少々焦がしておりまして、見映えがよろしくないのです」
 花瓶の件、そして意気の足りないカレルの様子に気を取られ、すっかり石窯の中身のことを失念していたのだ。思い出して厨房に駆けつけた時、クルミのケーキには、見事な焦げ模様がついていた。
「食べられぬほどか」
 カレルは諦めきれぬ様子で食い下がってくる。
「多少であれば私は気にならぬ。今日はとにかくあのケーキを楽しみにしていたのだ」
「いえ、さすがにお客様の前には……」
「食べるのは私だけだ、問題ない」
 そういう問題でもない、とマリエは思う。失敗したケーキを人前に出せば、恥を掻くのはマリエではなく、他でもないカレルなのだから。
 思いはしたが結局、主の命令は絶対だ。最後には説き伏せられ、件のケーキは日の目を見ることとなった。

 マリエが運んできたケーキは、クルミの香ばしい匂いを漂わせていた。
 焦げ具合も食べられぬほどではなく、普段であれば詫びながらもカレルの前へ差し出せる出来だった。優しい主は広い心と健啖ぶりをもって受け入れてくれる。
 だが今日は客人が、しかもカレルの妃となるかもしれない相手が同席している。ルドミラに対して完璧ではないケーキを晒すのは気が引けた。
「お持ちいたしました」
 マリエが卓上に載せたケーキを、カレルは輝く眼差しで見つめた。
「焦がしたというからどれほどのものかと思ったが、この程度か。何の問題もあるまい。早速切り分けろ」
「……かしこまりました」
 マリエは渋々命令に従い、あまり焦げの目立たない辺りを切り分け、皿に取って差し出した。
 受け取ったカレルは手つきだけは行儀よく、たちまちぺろりと平らげてしまう。そしてにこやかに告げてきた。
「うむ、上出来だ。何も気に病むことなどないぞ、マリエ」
「あ、ありがとうございます」
 カレルの心遣いは嬉しいが、居た堪れなくもあった。
 マリエはまたルドミラの反応を窺う。栗色の髪の令嬢は状況が掴めない様子ながら、卓上のケーキに目を向け、微笑んだ。そしてたおやかに口を開いた。
「美味しそうなケーキでございますわね」
「ああ、とても美味しい。よい味だ」
 と、カレルは我が事のように胸を張る。
「私の近侍は腕がよいのだ。作るものは大抵何でも美味しいが、中でもこのクルミのケーキは絶品だ。多少焦げているのも贔屓目ではなく、余計にクルミの味を引き立てているように思う。よければ、あなたも一切れ賞味してはどうか」
 嬉々して勧められると、さしものルドミラも一瞬目を泳がせた。それでも再度ケーキへ目を留める。表情が凛々しく変化して、すぐに顎を引いてみせた。
「ええ、いただきますわ」
 彼女の答えを聞き、マリエはこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。もちろん逃げられるはずもなく、焦げたケーキを一切れ、ルドミラにも差し出す。
 ルドミラもどこか困惑気味にケーキを口に運んだが、食べた後は表情を愛らしくほころばせた。そして手放しに賞賛してくれた。
「とっても美味しい。本当にお上手ですのね」
 マリエの胸裏で、この令嬢に対する好感が芽生えた。と同時に、居た堪れなさは天井を打つほどに高まっていた。こんなに喜んでもらえるのなら、焦がしていないものをお出ししたかった。
 そんな近侍の内心も知らず、カレルは少年のような無邪気さで続ける。
「そうであろう。何と言ってもマリエの茶菓子を作る腕前は、そこらの料理人にも劣らぬからな。この通り、いささか抜けたところもあるが、補って余りある腕の持ち主だ」
 光栄さと申し訳なさとで、マリエは一人赤面した。

 カレルの真意はわかっている。恐らくマリエの失敗を庇おうとしてくれているのだろう。マリエがカレルに恥を掻かせたくないと思っているように、カレルの方もマリエに対し、不名誉なことはさせまいと考えてくれているようだ。その気持ちは大変ありがたいものだったが、効果の程には多少の疑問もあった。
 現に、ルドミラは目を瞬かせている。
 カレルが近侍へと向けている親しみの情は、他所の人間からすれば過分なほどにすら思えるだろう。マリエ自身もカレルの心遣いが特別温かいものであることは理解している。
 社交慣れしていないカレルのやり方は不器用だった。幼い、真っ直ぐな恩情は温かだったが、それを受ける側以外の者がどう思うかまでは考えが至らないようだ。

 マリエの懸念も知らず、カレルは給仕をするマリエを見上げてくる。いつものように親しげに、ややからかうような口ぶりで声をかけた。
「私の口に合ったのだ。誇りに思ってよいぞ、マリエ。胸を張っているがよい」
 むしろカレルの方が誇らしげに見える。
 マリエは込み上げてくる感情を抑え込み、静かに応じた。
「……もったいないお言葉です、殿下」
「うむ。いささか誉め過ぎたかもしれんな」
 カレルが屈託のない笑みを見せると、思わずマリエの唇もほどけた。ケーキを焦がしたことについて、許されて安堵した後だからだろう。迂闊なことに、つい気が緩んでしまったのだ。
 視線を交わして笑い合ったのは、ほんの一瞬だけのはずだった。
 だがそこへ、冷静な声が割り込んだ。
「仲がよろしいんですのね」
 ルドミラが言った。あくまでも穏やかに、顔色も変えず。
 しかしマリエはぎょっとしたし、カレルもにわかに眉根を寄せた。
「急に何だ、ルドミラ嬢。近侍を相手に仲がいいも何もあるまい」
「いえ、とっても睦まじく見えましてよ。失礼を承知で申し上げるなら、まるで姉弟のようですわ」
 ルドミラの発言に棘はなかった。だが場の空気を凍りつかせたのも確かだった。主と近侍を並べて姉弟のようだとは、それこそ出過ぎた扱いだとマリエは思う。
 恐れを知らぬ令嬢の言葉に、当のカレルは気分を害したようだ。
「姉弟というのは……あまりよい表現ではないな。マリエと比べて、私が幼いと思われるのも心外だ」
 マリエとは違う点に引っ掛かりを覚えているらしいのも、カレルのカレルたる所以である。
 しかしルドミラは極めて冷静に応じた。
「では、恋人とお呼びした方がよろしくて?」
「――何を」
 はっと、カレルが息を呑むのが聞こえた。その拍子、手元からはフォークが落ち、マリエは素早く屈んで拾う。
 その後で視線を上げたマリエが見たのは、席を立つルドミラの姿だった。燃えるように挑戦的な眼差しが、椅子に腰かけたカレルを見下ろしている。
「それほど見当外れではございませんでしょう」
 ルドミラは言い、くいと細い顎を反らした。
「殿下、わたくしはこう見えても気位が高い方ですの。本日はもうお暇させていただきますわね」
「どういうことだ」
 うろたえているのか、カレルが噛みつく声を上げる。
 するとルドミラは尚も強気に言い放った。
「どういうことかと、わたくしにお尋ねになりますの? ご自分の胸に聞いてみればよろしいでしょう。わたくしは殿下にお会いしたくて参りましたのに、殿下と来たら近侍の者にご執心のご様子で、わたくしはすっかり蔑ろなんですもの。わざわざ参った先でこうもわかりやすく目合いを見せつけられて、平然としていられましょうか」
 美しい顔は怒りの色が露わになってもなお美しく、しかしまくし立てられた言葉は鋭利だった。
 マリエは愕然とした。どうやらルドミラの怒りを買ってしまったようだ。だが彼女は誤解もしている。執心しているなどということはあり得ない。
「ルドミラ嬢、あなたは誤解をしているようだ」
 カレルもマリエと同じように思ったのだろう、すかさず反論した。
「蔑ろにしたなどと申すな。私が客人のあなたよりも、近侍の者を重んじるはずがあるまい」
「あら、どう見てもわたくしの読み通りでございましょう。殿下はそちらの方に、随分と熱を上げておいでに見えましたもの」
「な……」
 切り返された言葉はより鋭く、さしものカレルも答えに詰まった。怒りの為か、それともあらぬ誤解のせいか、頬が紅潮している。
「別に、わたくしだって」
 ルドミラは荒く息をつきながら、嘆くように続けた。
「わたくしだって、父の要望でなければ参りませんでしたのよ。ご存じないでしょうけど、わたくしは社交界ではそれこそ引く手あまたなのですから。それでも父がどうしてもと言うから、殿下のところへ参りましたのに……この扱いはあんまりですわ」
 実に正直な吐露の後、彼女はこう言い捨てた。
「父がうるさいでしょうから、また参ります。でもご心配なく。わたくしは殿下とそちらの方の間に割って入ろうなどとは微塵も考えておりませんから」
 そして顎を反らしたまま、憤然と部屋を退出していった。小気味よく揺れる結い髪の先を、マリエはぽかんとして見送った。

 嵐の過ぎた後のような静けさが、しばらく続いた。
 先に口を開いたのは、マリエの方だった。
「殿下、あの……よろしいのですか」
 まだ真っ赤な顔をしたカレルが、感情をぶつけるようにマリエを睨む。
「これ以上どうしろと申すのだ。何をどうしてよいのか、私にもわからぬというのに」
「お、お言葉ですが、ルドミラ様は大変な誤解をしたままで――」
「誤解か」
 カレルは溜息でマリエの言葉を遮った。
 床の上に屈んだままの近侍を見つめた後、やがて力なく項垂れる。
「あの女にわかって、どうしてお前にはわからぬのか。まあ、誤解というのも事実ではあるのだが……ああもう、何から正してよいのか、困ったものだ……」
 額を押さえて呻く姿に、マリエは何の言葉もかけられなかった。まさに何から正してよいのかわからない。卓上には今日の為に心を尽くしたお茶とお茶菓子がそのまま残されており、そういったものをどう片づけるか、途方に暮れていた。
 カレルもしばらくの間、いたく気落ちしていたようだ。
 だがやがて、弾かれたように顔を上げた。そして開き直った口調で言い放つ。
「マリエ、茶を淹れろ」
「は……はい、殿下」
「クルミのケーキも切り分けろ。全て食べてやる」
 矢継ぎ早の命に、マリエは慌てた。ルドミラのことも放り出し、自棄になったようにケーキを食べ始めたカレルに、困惑するばかりだ。
「殿下、あの……」
 淹れ立ての茶を差し出しながら声をかければ、優しいはずの主は凛とした口調で宣言した。
「今日のことはもう知らぬ。お前も深く考えるな」
「……仰せの通りに」
 そうは言われても考えてしまうのがマリエの性分だったが、ひとまずは落ち込む主を精一杯もてなし、気遣おうと心に決める。

 去り際の言葉通りなら、ルドミラは近いうちに再びカレルを訪ねてくるのだろう。
 その時は今日の誤解を何が何でも解かなくてはならない。そもそもあり得ないことだ。執心だの、熱を上げているだのと――思い返すと落ち着かない気分になるそれらの単語を、マリエは頭の隅に追いやろうと苦心していた。
 全く、嵐のような一日だった。