きっと傷付ける

 寝不足の夜を過ごした翌日、マリエは重い瞼を抉じ開けるのに必死だった。

 午後のお茶の時間になると、その眠気はいよいよ最高潮を迎えていた。
「今日は事のほか眠そうだな、マリエ」
 お茶菓子をつまむカレルが、気遣わしげに声をかけてくる。
 大好物のクルミのケーキを出されても、カレルはケーキより近侍の様子の方が気になるようだ。心配そうな目を向けられ、マリエは慌ててかぶりを振った。
「……い、いえ。この通り、ばっちり目は覚めております」
「もしや例の、俗な本とやらを読んでいたのか」
 カレルは困ったように眉を顰める。
「確かにこの間は学べと命じたが……それにも限度というものがある。根を詰め過ぎて身体に障れば何の意味もない」
「お心遣い、ありがとうございます」
 優しい主の言葉にマリエはほろりとする。
 だからこそ昨夜の書庫での出来事を思い起こし、えもいわれぬ罪悪感と焦燥を覚えた。

 書庫でアロイスと交わした一連のやり取りを、カレルへ告げるべきかどうか。
 昨夜からマリエはずっと思い悩んでいた。
 主のひたむきな行動を諌めるのも気が引けたし、下手なことを言って繊細な年頃のカレルをより煩わせるのも困る。多難な恋慕だからこそ、主にはせめて他のことで心煩わされないようにいて欲しかった。アロイスが気づいたのもそれだけ『わかりやすかった』ということなのだろうが、それならなぜアロイスはカレルに注進せず、マリエに話をしに来たのだろう。何をなすべしと言いたかったのか、マリエにはさっぱりわからなかった。
 ただ、カレルの気持ちが最も肝要であるという点についてだけは、マリエも心の底から同意していた。
 ならばアロイスが何か言い出さない限り、マリエも当面は黙っているべきかもしれない。昨夜、カレルについて語るアロイスの口調はどこか不遜で親しげだったから、少なくとも今すぐお止めすべきと思っているわけではないのだろう。アロイスが事態を注視するつもりでいるのなら、マリエも出すぎた振る舞いはせず、経過を見守るのがいいに違いない。

「……今度は考え事か」
 カレルのぼやくような声がして、またもマリエは慌てた。
 面を上げれば、椅子に座ったカレルが苛立たしげに頬杖をつく。
「いえ、失礼いたしました」
 詫びるマリエをじろりと睨み、カレルは拗ねたように呟いた。
「お前が考え事をしていると、何やら妙に気にかかる」
「以後、留意いたします」
「どうせまた愚にもつかぬことを考えていたのだろうが、お前は気を回し過ぎるきらいがある。何も考えぬ方がよいこともありそうだ」
 カレルの言葉は、マリエの寝不足の頭に染み込んだ。
 これから何が起こるのかはマリエにもわからない。カレルの想いがどういう形で決着するのかも、わからない。だが、いつ何時も絶対の忠誠心を胸に、カレルの為になせるだけのことをなそうと誓った。それこそがマリエにできる最大にして唯一の行動だ。
 主の信を得た以上は、マリエは理解者として、味方としてありたかった。他の者たちがカレルの懸想を知り、仮にそれを諌めたとしても、自分だけはカレルを励まし、支え、見守っていこうと心に誓った。
「殿下のお言葉、心に留め置きます」
 マリエが答えると、カレルはほっとした様子で目元を和ませた。
「疲れた時は甘いものがよいと聞く。ケーキを一切れ分けてやろうか」
「いえ、殿下から大好物を取り上げるなど、申し訳ないことでございますから」
 かぶりを振りつつも、カレルの優しさにマリエも頬が緩む。卓上に置かれたクルミのケーキはもう残りわずかで、そのことをしみじみと幸福に思った。

 その時だ。
 午後の緩やかなひとときを遮るように、カレルの居室の扉が叩かれた。
 マリエとカレルはほぼ同時にはっとして、カレルが先に口を開く。
「……誰だ」
 扉越しに、男の声がした。
「近衛隊長アロイスでございます」
 告げられた名前に、マリエは表情を強張らせた。
 まさか昨夜のことだろうか。物を知らぬ近侍にあれこれ言っても埒が明かぬと、カレルに直接意見具申を行おうとしているのかもしれない。となると、昨夜のやり取りは実は警告のつもりだったのか――。
 カレルは近侍の胸中を知り得ているはずもなく、迷わずに応じた。
「入れ」
 すぐさま扉が開き、必要最低限の隙間から滑り込むように、軽装鎧姿のアロイスが姿を見せる。マリエが昨晩見たくだけた服装とは違い、武装を整えたアロイスは面差しも険しく、厳つく、昨夜とは別人のように映った。
 アロイスはマリエには一瞥もくれず、カレルの面前にひざまずいた。
「この度は殿下にご注進したいことがございまして、参上いたしました。お時間をいただければ幸い」
 注進。
 改まった物言いに、マリエは一層慌てふためいた。何を言うつもりなのだろう。もしや――。
「注進だと? 申してみよ」
 カレルは訝しげにしつつもそう答え、傍らのマリエに視線を投げる。
 目が合い、マリエは顎を引く。
「では、わたくしは失礼いたします」
 場を去ろうと口を開いたマリエに、しかし今度はアロイスが言った。
「いえ、マリエ殿も是非こちらへ」
「え……? ですが」
「お二人に聞いていただきたい話でございますから」
 アロイスは笑んでいたが、やはり有無を言わさぬ語調だった。
 困惑するマリエは視線で主に伺いを立て、カレルは眉根を寄せつつ、ぞんざいに頷く。
「何用かは知らぬが、話があると言うなら留まるがよい」
「はい……仰せの通りに」
 釈然としない思いで、マリエはカレルの脇に控えた。
 そしてマリエがこわごわ見守る中、アロイスは面を伏せたままで切り出した。
「本日は殿下に、花の美しさをお教えしたいと思うのです」
「花、だと?」
 カレルが意外そうな声を上げた。
 マリエも当然、怪訝に思う。予想していたのとはまるで違う話題だった。安堵よりも戸惑いの方が勝り、表情の選択に困る。
「はい。花はいつが最も美しいか、殿下はご存知ですか」
 淡々としたアロイスの問いに、カレルは困惑気味に考え込んだ。
 腕組みをして沈思すること数分、やがて匙を投げた。
「とんとわからぬ。花などいつ見たところでそれなりに美しいものではないか」
「ええ、それも一つの答えでございしょう。しかし、私が思うに、花が最も美しい瞬間とは、蕾が綻び咲き始める時だと思うのです」
 そう言って、アロイスは声に笑いの色を含ませた。
「花が開き切ってしまえば、後は散るのを待つばかり。しかし蕾のうちから手折っておけば、傍でじっくりと花綻び、咲き出す姿を眺められるのです。花の美しさを我が物とするならば、なるべく早めに手折るのがよいでしょう」
 アロイスがとうとうと自説を打つ。口ぶりはどこか愉快そうだった。
「殿下も、どうぞお早めになさってください。花が散ってしまったり、或いは他の者に摘み取られてからでは遅いのです。なるべく早いうちに、花開かぬうちに手折ってしまうこと、それこそが花の美しさを堪能する一番の手です」
「な、なるほど……」
 カレルは呆気に取られている。
 その横顔を盗み見て、マリエは内心安堵した。話の流れがわからないのは自分だけではないようだ。
「手折るその時こそ傷つけてしまうものでしょうが、後で丁重に扱ってやればきれいに咲くものです。むしろ、殿下ならば見事に咲かせられるでしょう」
 アロイスだけが意気揚々と言い切ると、カレルに向かって意味深長に微笑みかける。
「おわかりいただけましたか、殿下」
「……おおよそは」
「それは重畳でございます。では、わたくしはこれにて」
 言いたいことだけ言ってしまうと、アロイスは暇を告げて立ち上がる。
 一礼して退出しようとするのを、すかさずカレルは呼び止めた。
「待て。お前の注進というのは、もう終わりか?」
「さようでございます、殿下」
 平然とした答えが返ってくると、さしものカレルも面食らったようだ。
「そ……そうか。ならば、下がってよい」
「失礼いたします」
 カレルの許可を得て、アロイスはさっさと居室を出ていく。

 再び主と近侍だけになった居室には、何とも言えぬ沈黙が漂っていた。
「マリエ、こちらへ」
 カレルはマリエを手招きし、マリエが傍によると耳元で囁いてきた。
「お前はあの者が何を言わんとしていたか、理解できたか?」
 やはり、カレルにもさっぱりわからなかったようだ。
 アロイスはあの通り、屈強かつ無骨な男だ。その彼が花の美しさについて語り出すとは、マリエも驚きだった。ああ見えて実は土いじりが好きなのかもしれない。
 だがそれをわざわざカレルに告げるということは、そこに何がしかの伝えたい思いがあるということなのだろう。
「わたくしも全てを理解できたわけではございませんが……」
 マリエは考え考え、自分なりの推察を口にした。
「もしかするとアロイス様は、殿下にもう少し外へおいでになって、自然と触れ合うのがよろしいと考えているのでは」
「外へ、だと?」
 カレルが驚きに声を裏返らせる。
 マリエには思い当たる節があった。つい先日も森へ出かけたばかりだが、あの時のカレルは随分と寛いだ様子だったし、緑の中でのびのびと過ごせていたようだった。帯同したアロイスの目にもそのように映り、この度の注進と相成ったのではないか――マリエはそう考えた。
「外へ出て、緑を眺めたり、花を愛でたり、花摘みや木の実拾いをすれば心が安らぐものです。きっとアロイス様は、殿下にもそうなさって欲しいのでしょう。殿下の御心が安らぎ、穏やかでいられるようにと」
 昨夜の会話を振り返ってみれば、アロイスもカレルを気にかけているようだった。いくつか不敬なことを言っていたのも事実だが、アロイスは近衛隊長の地位にある者だ、やはり忠義には篤かったのだと、マリエはいたく感じ入った。
「なるほど。お前の申すとおりなら、彼奴の言い分も腑に落ちるな」
 腕組みをしたカレルが、やがて思い立ったように椅子から立ち上がった。
 一歩下がったマリエに対して、笑顔で申しつける。
「ではこの後、庭に散歩にでも行くとしよう。マリエ、お前も是非同道せよ」
「仰せに従います、殿下」

 散歩の支度を済ませると、カレルはいそいそと居室の外へ出た。
 外に控えていた近衛兵が姿勢を正して迎えたが、その中にはアロイスの姿もあった。カレルの後ろに付き従うマリエを認めると、アロイスは嬉しそうに笑み、逸早くカレルに声をかける。
「殿下、どちらへ向かわれますか」
「庭までだ」
 カレルも胸を張って答えた。
「お前の進言に則り、花でも眺めてくる。花を摘んで活けておけば、お前の申したとおり、咲き始めの美しさも楽しめるであろう」
「は……はあ」
 一転して、アロイスが愕然とした表情になる。
 しかしカレルはそれは気づかなかったようだ。先に立ち、足取りも軽やかに廊下を歩き出す。続いたマリエの後ろには、更に近衛兵が列を成した。
「……意味が伝わらなかったか」
 アロイスがそう呟くのが聞こえた気がして、マリエは彼の方を振り返る。
 だがその時にはもう、近衛隊長は感情の一切を窺わせない表情でカレルの警護についていた。もしかすると空耳だったのかもしれないと、マリエも深く考えないことにした。