護りたいもの/後編

「……今日は疲れた」
 夕刻、カレルは居室に戻り、着替えを終えるなり呟いた。
 椅子にどっかり腰を下ろし、湿った髪をかき上げながら息をつく。
「しかし爽やかな疲れだ。思い切り身体を動かしたからな」
 主は大変満足げだったが、傍らで控えるマリエはそわそわと気を揉んでいた。
「殿下。お疲れのところ申し訳ありませんが、歴史の先生が既に来ております」
 気難しいことで知られる家庭教師は別室にて、カレルが呼びつけるのを待っている。案ずるマリエの言葉に、カレルは気だるげな反論をしてみせる。
「待たせておけばよい。どうせ顔を合わせれば喧嘩になる」
「お言葉ですが……」
 マリエはたしなめようとしたが、カレルはそれを見越したように微笑んだ。
「少し休んでからでなければ頭も働かぬものだろう。ひとまず冷たい水が欲しい。貰えるか」
「……はい、殿下」
 仕方なく、マリエは用意していた水差しから水を注ぎ、カレルに飲ませた。よく冷やした水を三杯飲み干してから、ようやくカレルがコップを置いた。
 汗を拭いた顔からは土埃の跡も消えていた。ただ鼻の頭と左の頬に、それぞれ擦り剥いた傷が残っていた。
「殿下、お怪我を」
 マリエが声を掛けると、カレルも自らそこに触れた。ああ、と事もなげに応じた。
「擦り剥いただけだ。怪我というほどのものでもない」
「ですが、痕が残ります。今すぐ手当てを……失礼いたします」
 慌ててマリエは主に駆け寄り、身を屈めてその顔を覗き込んだ。傷の具合を確かめるつもりで顔を近づけると、椅子に座ったカレルがマリエを見上げる。マリエが被る布頭巾の両端が、カレルの顔をカーテンのように覆い、小さな影を作る。
 マリエは黒い瞳を眇め、影の中にあるカレルの額と頬を確かめた。擦り剥けた赤い傷は見るからに痛々しかったが、幸いにして深いものではないようだ。
「よかった、これなら清潔にしておけば直に治りましょう」
 安堵に胸を撫で下ろし、マリエは主に告げた。
「念の為、消毒をいたしましょうか、殿下」
 カレルは答えず、目の前にあるマリエの顔を見ている。傷を確かめようとするマリエと同じくらいの真剣さで、しかし揺れる瞳はどこか熱に浮かされたようでもあった。
「……殿下?」
 一歩下がったマリエが呼びかけると、カレルがはっと目を瞠った。慌ててかぶりを振ってみせる。
「ああ、何でもない。何か申したか、マリエ」
「お傷の消毒をいたしましょうか」
「要らぬ。この程度、放っておいても直に治る」
 カレルは照れくさそうに笑い飛ばした。
「この程度の傷など、昔からしょっちゅう作っていた。今になって騒ぎ出すこともあるまい」
 しかしその言葉こそが、マリエにカレルの成長を意識づけた。
 思えばたった今覗き込んだその顔も、いつの間にやら凛々しい青年の面立ちになりつつある。

 昔とは違うのだと、幾度となく思ったことをマリエはまた思う。
 幼い頃、戯れに棒切れを振り回していたカレルと、剣を振るうことを覚えた今のカレルはやはり違う。
 今日、中庭で見たように、ああまで鬼気迫る顔をするような方ではなかった。
 アロイスに対峙した時に見せたあの横顔、強い眼光を思い出すだけで、マリエの心は揺れに揺れた。

「殿下」
 マリエは迷った末、重い口を開いた。
「今日、殿下が剣術の稽古をなさっているところを、拝見しておりました」
「何? あの場にいたのか、マリエ」
 カレルが物珍しそうに瞬きをする。
「お前が剣術に興味を持つとは思わなかったな。来るなら来ると、先に申せ」
「申し訳ございません。興味があったと申しますか、殿下をお迎えに上がっただけなのですが……」
 正直なところ、気にはなっていた。
 カレルがあれほど熱心に打ち込んでいる剣術の稽古とは、どれほど楽しいものなのか。一度見てみたいとは思っていた。
 先日、森に出かけた際の発言もある。カレルはマリエを『守ってやる』と言ったが、それがどういう意味合いのものか、確かめたくなったのだ。少年らしい自信過剰で戯れの剣技に酔いしれているだけなら、今のうちに釘を刺しておくのがいい。そう思った。
 しかし、あの中庭にいたのはあどけない少年でも、庇護されるべき王子でもない。戦士として剣を握り、敵と見立てた存在に果敢に立ち向かわんとすべく、闘争本能を剥き出しにした青年だった。
 マリエは打ちのめされていた。自分の知らない顔をしたカレルを目にしたことに。
 カレルが内に秘めていた鋭さと、苛烈さに。
「本物の剣を用いて、稽古をされているのですね」
 おずおずとマリエは尋ねた。
 カレルは造作もなく顎を引く。
「ああ。そうでなければ感覚が掴めぬ」
「そういう……ものですか」
「そういうものだ」
「ですが、危なくはないのですか」
 堪らず直截的な問いを向ければ、カレルは軽く笑い飛ばした。
「刃引きをしてあるとは言え、全く安全ということはないだろうな。だが、近衛隊の連中は腕のよい者ばかりだ。あと一歩の際どいところで手を抜くやり方を知っている。私もまだまだ、本気で手合わせしてもらえているわけではない」
 そうだろうか、とマリエは思う。
 近衛隊長のアロイスからはあの時、手を抜いているそぶりは窺えなかった。あれが本気でないというなら、本気で臨む稽古はどれほどのものになるのだろう。想像を巡らせたマリエは、思わず身震いした。
「殿下、わたくしは……恐ろしゅうございました」
 呟くようにマリエは打ち明ける。
「あれほど緊迫した稽古であるとは考えてもみないことでしたから。近衛の皆様を疑るつもりはございませんが、殿下の御身にもしものことがあっては一大事でございます。どうぞ重々ご留意を」
「心に留めておこう」
 カレルは拗ねたように応じると、すぐに笑顔になって尋ねてきた。
「して、どうであった、マリエ。私が剣を取るのを見たのであろう? お前の目にはどのように映った?」
 嬉々とした問いは、誉めて欲しい心底がわかりやすく透けて見えていた。
 だが打ちのめされたマリエは、主の望むようには答えられなかった。
「わたくしは……殿下が別人になってしまわれたようで、それもまた恐ろしかったのでございます」
「何?」
 途端にカレルが眉を顰めた。
「私が別人のように見えただと?」
「はい、殿下。剣を取られた殿下はまるで、鬼気迫るお顔をなさっておいででした」
「鬼気迫るとは、むしろ喜ばしい賛辞ではないか。そうか、そう見えたか」
 満更でもない様子で口元をほころばせたカレルは、しかしマリエが不安げにしているのを認め、たしなめるように語を継いだ。
「それに、恐れることは全くないぞ、マリエ。お前に剣を向けることなどありえぬ。むしろ……」
 その時カレルが向けてきたのは、ただ温かな眼差しだった。鋭さも苛烈さもなく、慈しむように柔らかく、それでいてどこか縋るようでもある。
「私は守りたいものがあるからこそ、剣を習うのだ」
「守りたいもの、ですか」
 マリエはその言葉を繰り返すように口にした。
 するとカレルは、面映さを隠すように顔を顰め、顎を引く。
「そうだ。約束は果たす」
 約束。
 その言葉も、マリエは心の内で繰り返す。
「必ず守ると言ったであろう」
 カレルがきっぱりと告げてきた。
 頼もしげな言葉だった。自負と強い意思に満ちていた。
「……え」
 マリエは瞬きを止める。
 約束も、以前告げられたその言葉も、忘れようもなかった。だからこそ今日は中庭まで足を向けたのだ。
 そして今、森でそのやり取りをした際に抱いた思いが甦る。不思議とどぎまぎして、うろたえながら、罪悪感をも抱いた瞬間のことを思い出す。
 今も、マリエは反応に困った。どう答えるべきかまるでわからなかった。
 それでも主へ視線を向ければ、それを真っ直ぐ受け取ったカレルが青い瞳を大きく瞠る。その後、慌てたように再びかぶりを振ってみせた。
「と、ところで……そうだ、小うるさいのが私を待っているのではなかったか。あれも放っておくわけにはいくまい。そろそろ呼んで参れ」
 先程までの威勢が失せ、しどろもどろになりながら言われた。
「あ、そうでございました」
 小うるさいのと言われて、すぐに家庭教師に思い当たるのもどうかと感じたが、頓着している余裕はなかった。マリエは慌てて一礼する。
「ただいま、呼んで参ります」
 そして退出しようと扉に手をかけたマリエの背に、ふと、声が聞こえた。
「……お前のことだ、マリエ」
 呼ばれて振り向けば、あらぬ方を見やるカレルの姿が目に入る。
 肩がわずかに動いて、低い声で言葉は続けられた。
「守りたいものは、お前だ。お前だけだ」
 雷に打たれたようだった。
 瞬間、マリエの頭は痺れた。訳のわからぬ思いが胸に満ち、甘く掻き乱されるような感覚が走り、まともに考えることができなくなった。
 それでも何か言わねばと思いを巡らせ、喘ぐように、ようやく言った。
「あれ……ありがとうございます、殿下」
 それだけで、マリエは退出した。覚束ない足取りで家庭教師のもとへと向かう。
 心臓が早鐘を打ち、呼吸も酷く苦しかったが、きっと平静を保っていなければならないのだろうと思った。

 動じているのは、おかしい。
 今の言葉は――おかしいのだ。自分に対して向けられてよいものではないはずだ。カレルをああまで駆り立てているのが自分であってはならないはずだった。
 だがもし自分であったとしたら、どうするべきか。別人のような顔をして剣を握るカレルを、諌めなくてよいのだろうか。制さず、止めずにそのまま任せておいてもよいのだろうか。あの方は大切にされるべき、庇護されるべき存在であるはずなのに。
 それに、想う人がいるというなら、その人にこそ向けるべきだった。
 あれほどに甘く、心とろかすようなその言葉は。
 しかしどぎまぎする思いはどうにもならず、マリエは自身の罪深さに改めて恥じ入った。何を動じているのだろう。自分はあの方の近侍だ。従者の一人でしかないのだ。なのに――。

 不機嫌な家庭教師をカレルの居室まで送り届けた後、マリエは深く嘆息した。
 約束が果たされる時は、本当に来るのだろうか。あってはならないと頑なに思う心の裏側に、別の思いが潜んでいるのを、この時マリエは自覚していた。