森の中

 城の裏手に広がる森には、清らかな空気が満ちていた。
 優しく風が吹く度に、青々と茂った木の葉がさらさらと心地よい音を立てる。よく日が照った暖かい昼下がり、小さな森はささやかなお茶会の場となっていた。
 開けた辺りに敷き物を広げ、マリエはお茶の用意をする。
 期せずして慌しい出発となってしまい、城から持ち出せたものはわずかだった。しかしお茶と軽く焼いたビスケットだけのお茶会でも、カレルは不平一つ唱えなかった。むしろ満足そうに言ってきた。
「こうして茶を飲むのも、たまにはいいものだな。ことさら美味く感じる」
「お気に召したようで何よりです」
 マリエは微笑みながら頭を下げる。

 今日の外出はカレルの発案によるものだった。
 午後のお茶の用意をしていたマリエを急に呼びつけた主は、天気がいいから野掛けを所望すると告げてきた。行き先は城の裏手の森だという。マリエは焼いたばかりのビスケットを油紙に包み、茶器一揃いと沸かしたお湯をかごに詰め込んで、忙しなくカレルのお供に参じた。
 森に到着する頃にはお湯も冷め、茶葉の色は出が悪く、さぞ薄味になっているはずだった。ビスケットに塗る果物の砂糖漬けを持参するのも忘れてしまった。
 それでもカレルは実に美味しそうにお茶を飲み、このひとときを楽しんでいるようだ。マリエも安堵していた。

「時々はこうして外に出なくては、息が詰まってしまう」
 カレルの言うとおり、普段は公務でもない限り城の外へ出ることはない。
 この森も王家の所有するものであり、警護がしやすいように人の手が加えられた、迷いようもない小さな森だった。城内の噂話によれば、国王陛下も公務の合間、従者を連れてここを訪れることがあるという。
 マリエもカレルの傍らで働いている以上、戸外の空気を吸う機会はとても貴重だった。胸いっぱいに広がる緑の匂いが、気分を清々しくさせる。思わず息をつく。
「ここはとてもよいところでございますね。居心地がよくて、爽やかで」
「そうだな。よい気分になる」
 答えたカレルは、しかしすぐに眉を顰めた。辺りを見回す眼差しがいやに鋭い。
「だが……こんなところまでも連中がついて来るのは、何とも落ち着かぬものだが」
 ほうぼうの木々の陰から、近衛兵の姿が覗いていた。

 近衛兵たちはカレルの身辺警護の為、一時たりとも傍を離れることはなかった。
 城内でも常にカレルに付き従い、時にはマリエよりも長く共にいることもある。カレルの視界に兵の姿が映らないのは、居室にいる時と湯浴みをする時くらいのものだった。
 それも仕方のないことではある。王子として国の未来を担うカレルの身は、何を差し置いてでも守られねばならないものの一つだ。厳重すぎるほどの警護も、外出先にも同道することにも、それこそ不平を唱えるべきではないはずだった。
 カレルがこの森での野掛けを決めた直後、近衛兵の一部が先行して下見と人払いを済ませたという話だ。それでも尚、カレルがここを自由に歩き回るというわけにはいかなかった。

 血気盛んな年頃の王子にすれば、そういった物々しさが疎ましいようだ。空になったカップを置くと、膝の上で頬杖をついてみせる。
「彼奴らもたまには休みを取ればよいのに。どこへでもついて来られては敵わぬ」
 こういう時に面と向かってたしなめるのは逆効果だ。マリエは一度、話題を逸らした。
「殿下、お茶をもう一杯いかがですか」
「ああ、貰う」
「かしこまりました」
 恭しく一礼してから、マリエは茶器に温くなったお湯を注いだ。相変わらず色の出は悪かったが、いつもより少し長めに淹れただけで諦め、薄い色のお茶をカレルに差し出す。
 その時、なるべくやんわりと言い添えた。
「殿下の御身をお守りする方々のこと、わたくしは大変尊敬しております。殿下をお守りするという志の下、日々弛まず鍛錬に励み、いざという時にはその剣を振るう。頼もしいことこの上ないと存じます」
 マリエも近侍として、城内で懐剣の所持を許されてはいる。だが城内にいる限りそれを振るう機会はないだろうと、近衛兵の働きを見ていれば思う。近衛隊長アロイスが指揮を執る兵たちの実力は折り紙つきで、マリエも深い信頼を寄せていた。
「私とて、彼奴らの働きが足りぬと言っているのではない」
 カレルは不満げにマリエを見た。お茶を受け取り、一口味わってから、声を潜める。
「しかし連中の顔色を窺いながら外出するというのも、なかなかに窮屈なものだ。もっと気ままに歩き回れたなら、さぞかしよい気分なのだろうな」
 声を潜めたカレルが視線を上げ、木々の枝を渡り歩く小鳥の姿を目に留める。その横顔が物憂げだった。

 マリエは今の言葉をたしなめるべきか、同意すべきか、しばし迷った。
 城勤めの日々にはやはり自由などなく、そのことに不平こそなかったものの、カレルの気持ちが全くわからぬわけでもない。
 マリエの家は、代々王家に仕える忠臣の家系だ。マリエも幼い頃から母親の厳しい教育を受けて育ち、十一歳の時に王子の近侍に選ばれ、家を出されて城に上がった。それから十年、一度として実家に帰ることもなく、近侍としてカレルの側に仕えている。自らの生き方にこれまで疑問を持ったこともなかった。
 ただ、想像してみたことはある。
 もしも自分が平凡な家柄に生まれ、近侍ではなく、どこにでもいるような町育ちの娘だったなら。きっと今頃は嫁に行っているか、或いは両親と共に慎ましく暮らしていただろう。そこにはマリエの測り知れないような幸いがあるのかもしれない。
 カレルも同じだ。一国の王子ではなく、もっと低い身分の家に生を受けていたら――そう考えること自体が不敬でマリエは眉を顰めたが、それでも密かに思った。
 カレルの双肩には、マリエが推し測れないほどの重責が圧しかかっている。そういったものを煩わしく思い、疎ましく思うことも時にはあるのだろう。そういったものが何もなければと思いを馳せることだって、きっと、あるのだろう。

「兵から聞いた話がある」
 物思いに耽るマリエを連れ戻すかのように、カレルが切り出した。
「近頃、町では芝居を観るのが流行っているそうだ。面白い芝居があるから劇場が賑わっていると聞いた」
「殿下は観劇に興味がおありでしたか?」
 マリエが瞠目すると、きまり悪そうな苦笑いが返ってくる。
「父上と行くような、頭の固い連中の芝居は好きではない。神話だの、歴史だのをわざわざあんなところにまで学びに行くのは酔狂だ」
 そして軽い口調に戻って、続けた。
「町で流行っているのは、もっと軽くて愉快な芝居だそうだ。顔に色を塗ったおかしな連中が、おどけた芝居をするものだから、見ていてもつい笑ってしまうほど面白おかしいのだと聞く」
「それはとても素敵でございますね」
 マリエもぱっと表情を輝かせた。
 これまで、マリエは観劇の機会に恵まれずにいた。カレルに付き従って劇場へ出向く場合でも、マリエの分の席が用意されているということはない。用意された客間に控えているばかりで、芝居というものをまともに見たことがなかった。
「ああ。劇場を出る頃には笑いすぎて顔や頬が痛むほど、そして嫌なこともすっきり忘れてしまうほど滑稽な芝居なのだそうだ」
 カレルが朗らかに続ける。
「腹を抱えてたっぷり笑って、いい気分で劇場を出る。私もそういう芝居を一度は見てみたいものだ。お前はどう思う、マリエ」
「はい、殿下。わたくしも拝見してみたいと存じます」
 町で流行だという芝居の話は、たちまちマリエの心を捉えてしまった。それは本で読むよりもずっと面白おかしい世界だろうか。まだ目にしないものを想像するのは愉快で、心が弾んだ。
 その様子に気をよくしたのか、カレルはマリエの耳元に唇を寄せると、小声でそっと囁いた。
「いつか、彼奴らの目を盗んで、評判の芝居とやらを観に行かぬか」
 風に紛れそうな囁き声にマリエは驚いた。思わず辺りを見回し、近衛兵たちの反応を窺う。彼らの耳には当然届いていないはずだが、マリエはこわごわカレルを見返した。
「殿下、まさか本気で仰っているわけでは……」
 それに対し、カレルははにかんだ笑顔で言い添える。
「お前だけは特別に連れて行ってやってもよい」
「え……」
「特別だ」
 念を押すように、重ねて告げられた。
 言葉の強さと、向けられた眼差しの意外な真摯さにマリエは戸惑う。思わず息を呑むと、カレルも口元に照れを滲ませて続けた。
「お前は私の為によく働いてくれているが、ここ最近は特にそうだ。私の悩みを聞いてくれたり、寝不足になるほど机に向かってくれたりと……まあ、結果の方はさて置くが」
 そこで一度咳払いをして、
「だが、お前の気持ちは嬉しく思っている」
 マリエに向ける青い瞳を優しく細めた。
「だから私もお前を労いたいと思う。お前だからこそだ、わかるか」
 カレルの言葉に、マリエは返答に詰まった。
 特別扱いされるのは気分のよいものだ。カレルが自分に全幅の信頼を置いていることを実感する度、嬉しさと誇らしさが胸に満ちてくる。日頃から無茶を言われたり、感情をぶつけられたりしていても、マリエにとってのカレルはやはり可愛い存在だった。
 だが、カレルの言う『労い』は、決して実行されてはならないことだ。
 マリエは困り果てながら、ようやく答えた。
「お言葉ですが、殿下。お気持ちはとても嬉しゅうございますが、わたくしでは殿下の御身をお守りできません」
 その返答が意外だったのか、カレルがきょとんとしてみせる。
「お前に守ってもらおうなどとは考えてもおらぬ」
「でも、お城の外には危険なこともございましょう。そういう目に遭った時、わたくしでは十分な警護ができません。お優しい殿下に、もしものことがあれば一大事でございます」
 本心からマリエはそう述べた。諌める意味でも、案じる意味でも、ほんの少し残念がっている内心をも含ませて、主に告げた。
 しかしカレルは事もなげに応じた。
「案ずるな。いざとなればお前一人くらい、私が守る」
 青い瞳でマリエを見据え、まるで誓いを立てるように、堂々たる口ぶりで言い放つ。
「その時は必ず、私の剣がお前を守ってやる」

 マリエは急に声を失った。
 返事ができなかった。主の言葉に対し、何の受け答えもせずにいるのは非礼なことだ。しかしそうとわかっていても、言うべき答えが浮かんでこない。なぜか、どぎまぎしていた。
 可愛いばかりと思っていたカレルの、意外な男らしさを目の当たりにしたからかもしれない。先日の湯浴みで見た広い背中の通り、成長を遂げたカレルに気づいたからかもしれない。あるいは、異性からそんな言葉を告げられたのが初めてだったから、かもしれない。
 本当なら今の言葉は、カレルが想うその人にこそ告げられるべきもののはずなのに。自分のような取るに足らない存在が賜ってよい言葉ではないのに。どうしてこうもたやすく、守るなどと言ってみせたのだろう。どう答えていいのか、わからなくなる。

 頬を紅潮させたマリエは俯き、何も答えられぬまま、黙り込んでいた。
 やがてカレルは嘆息して、再び空を見上げる。
「風が出てきたな」
 それからごく自然な口調で、近侍に対して穏やかに告げた。
「このまま留まっていれば身体が冷える。そろそろ戻るとするか、マリエ」
「……はい、殿下」
 マリエは赤い頬のまま応じ、茶器の片づけを始めた。
 何とはなしの物寂しさを抱きながら、カレルの想い人をにわかに羨ましく感じていた。

 従者にすら心揺り動かす言葉をくれる主は、かの婦人には更なる心ときめく言葉を贈られるに違いない。
 叶うのならばそれを傍らで聞いてみたいものだ。
 マリエは密かに、不敬なことを思っていた。