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薔薇色の日々

「――ですから、どこを探してもいらっしゃらないんです」
「そんなはずはない。本日は外出のご予定などなかった」
「何度お呼びしてもお返事ありませんでしたし……旦那様のお耳に入れた方が」
「まだ早い、もっと隅々までよく探してからだ」
 部屋の外から聞こえる不穏な会話に、バートラムは仕事の手を止めた。
 今日は町まで出ていく用もなく、執務室だけで仕事を終える予定だった。そして仕事が片づいたあかつきには愛らしい新妻と二人、のんびりと昼下がりの茶会を楽しもうと画策していたのだが。
「でも、奥様が行かれそうな場所は大体巡りました」
「まだ見落としている可能性もある、結論を出すには早計だ」
 廊下にいるのは最近雇い入れたばかりの若い執事セドリックと小間使いのベル、あの二人のようだ。そして話題に上がっているのが他でもない自らの愛妻であると知った時、バートラムは耳をそばだてるのをやめ立ち上がる。
 そして執務室から出ていくと、廊下にいた二人の使用人がはっと振り向いた。
「旦那様! いいところに……」
 すかさず小間使いのベルがバートラムに声をかけようとした。しかしそれをセドリックが素早く押し留め、自ら口を開く。
「旦那様、騒がしくして申し訳ございません」
「一体、何があった?」
 バートラムが尋ねると二人は顔を見合わせ、またもベルの方が先に口を開こうとして、セドリックがそれを制する。
 結局、答えたのは銀髪の執事の方だった。
「実は……この小間使いが、屋敷の中で奥様を見つけられないと申しておりまして」
「クラリッサを?」
 見つけられないとはおかしな話だ。クラリッサが誰にも黙って屋敷を出ていくとは考えがたく、そもそもこんな片田舎に黙って出ていく先などそうそうない。
 バートラムは妻の一日の過ごし方を結婚以前から実に詳しく把握している。なぜなら昔から彼女を追い駆け回しては口説きにかかるのが日課となっていたからだ。そして普段通りであればクラリッサは昼食の後に庭へ出て、午後の茶会に飾る為の花でも摘んでいるはずだった。
「普段なら庭にいるはずだが、いなかったのか?」
 バートラムが尋ねると、ベルは焦げ茶色の髪を揺らして頷いた。
「はい、旦那様。お庭へ出て、何度お呼びしてもお返事もなく……」
「屋敷の、他の部屋には?」
「それもいらっしゃらなくて。一応、寝室も食堂も、大奥様のお部屋も覗いたのですが、大奥様もご存知でないようでしたし」
 ベルは不安そうにおろおろしている。
 まだ十八になったばかりのこの少女はいささか心配性の気があるようで、彼女がクラリッサのことで気を揉むのも今日が初めてではなかった。そして小柄なベルを慰め励まそうとするクラリッサを見る度、バートラムは妻との間に子をもうけたらこんなふうになるのかもしれないと密かに想像を巡らせるのだった。
 もっとも当面の間は新婚生活を楽しみたいと思っていたが――クラリッサの方も、まだ小間使いの仕事を離れた暮らしには慣れていないようだったからだ。
「単に見落としたんだろう。馬車も馬もあるのに、奥様がどこかへお出かけされるなどありえない」
 対してセドリックの方は二十二にして冷静沈着な青年だったが、いかんせん生真面目すぎて融通の利かないところがある。こちらはバートラムが先代の執事として仕事を教え込んでいる最中だった。この銀髪の青年は物覚えもよく、多少の空気の読めなさを除けば執事としての資質に問題はないようだった。
 二人ともこの屋敷に雇われてからまだ日が浅く、また揃ってここでの仕事が初めての奉公だった。バートラムは新しい使用人を雇い入れるにあたり、『経験不問だがとにかく信用のおける人材を』と注文を入れた。しかしこんな辺鄙な片田舎でお屋敷勤めを望む者はそう多くなく、それでいて条件に合う者となると未経験の若者二人しか残らなかったというわけだ。仕事については屋敷の主であるバートラムも、その妻クラリッサも優秀な教師となり得た為、未経験であることに特に支障はなかった。
 問題はもっと別のところにある。実にささやかで、取るに足らない問題だった。
「奥様がお屋敷の中にいるなら、お返事のないことの方が心配です!」
 ベルは一層慌てふためいてセドリックに反論した。
「考えすぎだ、ベル。奥様も今朝方はお元気そうだった、倒れていらっしゃるということはないだろう」
 それにセドリックが淡々と応じれば、たちまち小間使いの顔は蒼白になり、
「た、倒れ……そんな、まさか……!」
「だから、考えすぎだと言っている。奥様がご無事であることをきちんと確かめるんだ」
「奥様がご無事でないなんて、そんなこと……!」
「何度言わせれば気が済む。考えすぎだ」
 二人のやり取りを聞き流していたバートラムには、この時ひらめくものがあった。ベルに尋ねた。
「ベル、君はクラリッサを探す際、何と呼びかけた?」
 するとベルは振り返り、啜り上げながらもどうにか答えた。
「お、『奥様、いらっしゃいますか』と……」
 どうやら推測通りのようだ。バートラムは安堵に笑み、続けた。
「それならクラリッサが応えないのも当然だろう。来たまえ、彼女なら恐らく庭にいる」
 そして先に立って歩き出すと、若い使用人達は怪訝そうに顔を見合わせながらついてきた。

 バートラムの予想通り、クラリッサは庭にいた。
 この時期、邸宅の庭には薔薇の花が咲き乱れており、クラリッサは傍らに座り込んでは一輪一輪、鋏で丁寧に摘み取っているところだった。
 赤々と美しい髪の彼女が庭の緑の中にいると、ひときわ美しい赤薔薇が咲いているように見える。バートラムも一人で来たのであれば妻にひとしきり見惚れた後、本人へ最大限の賛辞を贈るところだが、今はそんな暇もない。
「クラリッサ」
 声をかけると、彼女は面を上げた。その表情は夫の顔を見ると愛らしくほころんだが、すぐに不思議そうな面持ちに変わった。バートラムの後からついてきた使用人達の様子を見たからだろう。
「奥様っ! ご無事で何よりです!」
 ベルが大声を上げたかと思うと、クラリッサめがけて駆け寄った。そして戸惑うクラリッサの前で泣き崩れた。
「わたくし、奥様がいなくなってしまわれたのかと思って、気が気じゃなくて……!」
「え……ええ? いなくなるって、どういう……?」
 当然ながらクラリッサは訳がわからないようだった。小間使いの背を撫でながら、夫に対しては救いを求めるような目を向けてくる。
「ベルが君を探していたのだが、見つけられなかったと言うんだよ」
 バートラムはそれに応じて答えた。
「恐らく君を『奥様』と呼んでいたから、君は気がつかなかったのだろう」
「……奥様を、奥様とお呼びしたのにですか?」
 訝しそうにセドリックが尋ねてきたが、クラリッサ自身には思い当たる節があったようだった。途端に気まずげな顔になる。
「ごめんなさい。わたくし、まだ『奥様』なんて呼ばれるのに慣れていなくて……」
 バートラムの妻になる以前は小間使いとして働いていたクラリッサだ。彼女にとって『奥様』と言えば屋敷の先代の主、レスターの妻メイベルのことだった。現在のメイベルは『大奥様』と呼ばれる立場にあり、使用人達がクラリッサを『奥様』と呼ぶのは何ら誤りではないのだが、だからといってクラリッサがすぐさまそれに順応できるというわけでもなかった。
 その様子に、バートラムは以前から気がついていた。セドリックやベルが呼びかけてもクラリッサは自分に話しかけられたとは露とも思わず、肩を叩かれたり顔を覗き込まれたりして初めて気がつく始末だった。彼女が『奥様』となってまだ二月、慣れるのにも時間がかかるだろうとバートラムは暢気に構えていたが、その度に小間使いに泣かれ騒動になるのも大変である。
「何度も呼んで、探してくださってたのね。本当にごめんなさい」
 クラリッサはベルの背を慰めるように撫でた。
 それでベルも顔を上げ、涙を拭いながら頷く。
「お、奥様、こうしてまたお会いできて本当によかったです……!」
 まるで劇的な再会を果たした後のように感激するベルを見て、バートラムも苦笑する。
「ところで、聞いていなかったが何用でクラリッサを探していたのかな、ベル」
「ああ、そうでございました」
 ベルは頷き、クラリッサに向かって今宵の夕食に何を作るかを尋ねた。クラリッサも優しく微笑み、その問いに思案を巡らせ始めた。
「奥様……じゃなくて、お義母様は何をお召し上がりになるかしら」
「大奥様は温かいスープがよいと仰っていました」
「では何かお野菜のスープにしましょう」
 二人が会話をする傍らで、セドリックがバートラムに囁きかける。
「奥様を、奥様とお呼びするのは今後控えた方がよろしいでしょうか」
 バートラムが目を向けると、若い執事は堅物そうな顔つきで続けた。
「もしそうであれば、私もベルも以後奥様のことを『クラリッサ様』とお呼びするようにいたしますが」
「いや」
 即座にバートラムはかぶりを振った。
 それからクラリッサをちらりと見て、彼女にも聞こえるように答える。
「慣れるのも時間の問題だろう。君達はクラリッサが早く慣れるよう、これからも『奥様』と呼んでやって欲しい」
「かしこまりました」
 少し意外そうにしながらも、セドリックは深く首肯した。

 夕食の相談を終えた後、仕事に戻らなければと言って小間使いは屋敷の中へ戻った。
 それを追うように執事も立ち去った後、庭に残ったクラリッサは夫に向かって眉尻を下げた。
「大事にしてしまってごめんなさい。あなたもわたくしがいなくなったと心配してくださったのでしょう?」
「いなくなったとまでは思わなかった」
 バートラムは至って正直に答えた。
「君の一日の過ごし方は熟知しているし、私を愛する君が、その私を捨てていくとは考えがたいからな」
「確かに、そんなことはいたしません」
 クラリッサも否定したが、少し弱々しい口調だった。小間使いの涙が堪えたのだろうか、やがて溜息をついてみせる。
「『奥様』なんて呼ばれるの、まだ慣れていないのです」
「そのようだ。私の『奥様』と呼ばれるのは嫌かな?」
「嫌というわけではないのです。自分のことだと飲み込めていないだけで」
 どこか気落ちしたようなクラリッサの傍らに、バートラムも腰を下ろした。そして妻の肩を抱くと、クラリッサはためらいがちにもたれかかってくる。
 庭に差し込む午後の日差しは暖かく、辺りにはうっとりするような薔薇の香りが立ち込めていた。
「君には是非、慣れてもらいたいものだ」
 バートラムは寄りかかってくる妻の耳元にそっと囁きかけた。
「君は名実ともに私の妻だ。皆が君を『奥様』と呼ぶのはその証だよ」
「存じております。なるべく慣れたいと思っているのですけど」
 生真面目に頷いたクラリッサは、その後で困ったように微笑んだ。
「けど……わたくしはいつもこうですね。新しいことに慣れるのが下手で」
「下手というほどではないよ、誰だって大なり小なりあることだ」
「でもあなたは慣れるのがお上手でした。ほら、旅の間だって」
 クラリッサの脳裏には、メイベルが彼女とバートラムを従えて旅をした記憶がまだ色濃く焼きついているようだった。
「あなたはいつだって旅の先行きを考え、行動していらっしゃったのに、わたくしはついていくのが精一杯で、奥様のお役に立てたかどうか……」
「君がいなければ乗り越えられないこともたくさんあった」
 バートラムは妻の唇に指を置き、言葉の続きを封じた。
 それから、きょとんとする顔に笑いかけておく。
「君は私の道標だ。その変わらなさで、旅の間も大切なことを教えてくれた」
「わたくしが……?」
「ああ。旅の間も母が心穏やかに過ごせたのは、そして私が強くあれたのは、生真面目な君がここにいる頃と変わらず働いてくれたからだ」
 クラリッサの美徳はその生真面目さだ。バートラムとの婚姻後も怠けることなく、小間使いであった頃と同じように働いている。今も摘み取った薔薇の花を手にしており、この後は茶会の食卓に薔薇を飾って、夫の為に美味しいお茶を入れてくれることだろう。
 お蔭でバートラムはそれを励みに、仕事に打ち込むことができる。
「だから恥じることはないよ。誰にでも得手不得手があるというだけの話だ」
 バートラムはそう言うと、クラリッサの赤い前髪をかき上げて、その額に軽く口づける。
「あっ……」
 途端にクラリッサは狼狽したが、バートラムは再び妻を抱き寄せて囁いた。
「ただ、奥様と呼ばれることには早く慣れてもらえると助かるな」
「そ……そうですね。またこんな騒ぎになってはご迷惑でしょうし」
「それだけではない。君の美しい名前を、たとえうちの使用人であっても他の男に呼ばれたくはないのだ」
 執事の申し出を拒んだ理由はそれだけだった。
 バートラムの言葉にクラリッサは目を瞬かせる。
「もしかして、それでさっき……」
「いけなかったかな。私の嫉妬深さは旅の間、君も十分よく知ったことだろう」
「ええ。よく存じております」
「ではまさか、そんな私に愛想を尽かしたりはしないだろうね?」
 尋ねると、クラリッサは頬を染めつつくすっと笑った。
「まさか。……あなたの為にも、やはり早く慣れるのが一番いいようですね」
「ありがとう、いとしいクラリッサ」
 感謝を述べたバートラムは、クラリッサの薔薇のような髪をそっと撫でた。
「君はいつも美しいが、ここにいると赤薔薇が一輪増えたように見えるよ」
「わたくしの髪が赤いせいでしょう」
「それだけではない。君が薔薇にも劣らず香り高く、瑞々しいからだ」
 赤々と美しい髪を一房手に取り、そっと口づけを送る。
「君という薔薇を私に手折らせてくれたこと、幸いに思うよ。永遠に私のものだ」
 バートラムのその言葉に、クラリッサは髪と同じくらい赤い顔をしながら俯いた。
「困ります。あなたのその物言いにも、まだ慣れる気がいたしません……」

 一足先に屋敷へ戻った執事は、しきりに首を傾げていた。
「『奥様』が駄目なら、やはりお名前でお呼びするのが手っ取り早いと思うのだがな」
「本気で仰ってるんですか、セドリックさん」
 隣を歩く小間使いが、赤い目を擦りながら声を上げる。
「無論、本気だ。奥様もその方が、ご自分が呼ばれたとすぐにわかって便利だろう」
「便利だとか、そういうことではないのです」
 ベルは強くかぶりを振った。
「旦那様は奥様が『奥様』と呼ばれることを嬉しく思っておいでなのですよ」
「なぜだ。奥様を奥様と呼ぶのが、どうして旦那様の喜びに繋がる?」
「ご結婚されたばかりだからでしょう!」
 やや興奮した様子で、ベルはセドリックに向かってまくし立てる。
「ですからわたくし達が『奥様』とお呼びすることは、とても大事なことなのです!」
「しかし、君はそれであんなに泣く羽目になったのだろう」
「わたくしのことはいいのです。肝心なのは、旦那様と奥様のお気持ちです!」
 セドリックには全く腑に落ちない話だった。夫人に無理を強いるより、自分達が呼び方を変える方がよほど合理的だ。今日のようにベルが泣く羽目になることもない。
 その腑に落ちなさがベルにも伝わったのだろう。やがて溜息をつかれた。
「とにかく。旦那様の意に沿わないことはすべきではないと思います」
「……残念だな、この上なく合理的な解決法だと思うのに」
 セドリックは肩を竦めた。諦めきれない思いもあったが、さすがに主の意思に逆らう気はない。
 それにしてもわからないのはベルの心境だ。あんなに夫人を案じ、涙まで見せたというのに、その問題がたちどころに解決する方法には賛同したがらないというのだから。
「次の機会には、君が泣くことがなければいいが」
 セドリックは本心から言ったつもりだったが、ベルからは恥ずかしそうに睨まれた。
「だって、本当にいなくなってしまわれたかと思ったのです!」
「だから、奥様をお名前で呼べばいいのにと言っている」
「ですからそういうことではないのです!」
「全く理解しがたいな」
 先代ほどではないにせよ、新しい執事と小間使いの折り合いもそれほどよくはないようだ。

 しかし先代の執事と小間使いは今、かつての諍いが嘘のように薔薇色の日々を送っている。
 あの二人を見れば誰もが、先のことなど見通せまい、わかるまいと思うことだろう。
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