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私が私である理由(1)

 その日は、メイベルの唐突な一言から始まった。
「今日は一日、わたくし一人で過ごしたいの。構わないかしら」
 女主人の発言に、朝食の給仕をしていた執事と食後のお茶の支度を始めていた小間使いは、ほぼ同時に面を上げる。この宿で迎えた朝も既に八度目となっていたが、メイベルがそう言い出したのは初めてのことだった。
 この時メイベルはほぼ朝食を食べ終えていて、口元を上品に拭いながら続けた。
「お二人でどこかへ出かけるのなら、どうぞ行ってきてちょうだい」
 そしてにっこりと微笑んだので、クラリッサは危うく茶葉を乗せた匙ごとティーポットに突っ込むところだった。すんでのところで匙は飛び込みを免れたが、手が震えたせいで茶葉がいくらか零れてしまった。
「お……奥様? 急にどうなさったのですか」
 ひとまず手を止め尋ねると、メイベルは逆にきょとんとした。
「わたくし、そんなにおかしなことを言ったかしら」
 怪訝そうな声にクラリッサの方が戸惑ってしまう。おかしなことというほどではないが、唐突ではあると思う。
「いえ、そういうわけでは……失礼いたしました。ですが今のお言葉は――」
 断ってから聞き返そうとしたクラリッサを遮るように、メイベルはまた口を開く。
「昨日あんなに歩き回ったから、少し疲れたの。今日はお部屋でゆっくりしたいのよ」
 あのどたばたと目まぐるしかった結婚式から一夜明け、さしものクラリッサも若干の疲労を感じていた。年若いクラリッサですらそうなのだから、メイベルはよりくたびれていることだろう。現に微笑を浮かべた顔にはどことなく陰りがある。
「今朝なんて久し振りに起きるのが辛かったわ」
 そう語ったメイベルは普段より食欲も落ちているようだった。クラリッサの胸には不安が過ぎる。
「お加減がよろしくないのですか、奥様。お医者様を呼んで参りましょうか」
「いやだ、それはいくら何でも大げさよ、クラリッサ」
 メイベルは一笑に付した。何かと気を揉むクラリッサを宥めるように、優しく続ける。
「少し疲れただけなの。今日一日のんびりと過ごせば、きっと明日には元気になっているわ」
「それならいいのですが……」
「ええ。だから今日はあなたとバートラムさんで、どこか楽しいところでも出かけてきてちょうだい」
 主の言葉に、クラリッサは二重の意味で困惑した。調子がよくないというなら尚のこと、従者を傍に置いておく方がいいのではないだろうか。いざという時――考えたくない事態ではあるものの万が一ということもある。そしてメイベルは実に健康な婦人だが、決して若くはないのだ。ましてここは旅先、頼れる相手は従者たちしかいないはずだ。
 その上、メイベルは従者二人に一緒に出かけてくればいいとさえ言い始めている。
 バートラムと逢い引き云々という話をしたのもつい昨日のことだった。どんな会話をしたかという記憶が、細部に渡って鮮明に思い出せるうちから機会が巡ってきたことが不思議でならない。クラリッサの困惑はやがて疑念へと移行し、疑いの眼差しが自然と執事の方を捉えた。
 当のバートラムはわざとらしいほどの恭しさでメイベルに接している。
「奥様のお心遣いに感謝いたします。では今日一日だけ、時間をいただいてもよろしいでしょうか」
 しかもクラリッサとは違い、何の迷いも躊躇もなく夫人の言葉に従うつもりでいるようだ。主の体調を案じもしないのかと、クラリッサはほとほと呆れた。
「ええどうぞ。もうじきここも発たなくてはならないし、街を歩きたいなら今のうちよ」
 メイベルはそう言った後、思い出したように口元に手を当てた。
「そうだ、忘れていたわ。バートラムさん、クラリッサに何かドレスを見繕ってあげて欲しいの」
「かしこまりました」
 またしても唐突な言葉がクラリッサの耳に届き、今度は匙ごと取り落とした。それでもクラリッサは顔を上げ、瞠目せずにはいられない。
「奥様、それは――あのお言葉ですが、一体どういうことでございましょうか」
「昨日話したばかりじゃない。あなたに何か新しい、それもよそゆきの服が必要ねって」
 忘れてしまったのが滑稽だというように、メイベルはくすくす笑う。
「無理もないわね。昨日はあんなに忙しかったんですもの、朝の話なんて失念していて当然よ」
「い、いえ、そういうことではなく――」
 忘れていたわけではない。その話が既に決定事項であるとは夢にも思わなかっただけだ。
「さすがに生地から仕立ててもらう時間はないから、お店で選んでもらうしかないけど、きっとあなたに似合ういい品があるはずよ」
 混乱のあまり匙を拾い忘れて立ち尽くすクラリッサをよそに、メイベルはバートラムに水を向けた。
「バートラムさん、クラリッサが買い物をするのを手伝ってあげてね」
「承知いたしました、奥様」
「きっとクラリッサは遠慮ばかりするでしょうから、ちゃんと言い聞かせて、結局何も買わなかったなんてことのないようにしてちょうだい」
「もちろんでございます」
 二人はまるで示し合わせたように話を進めている。しかもとんでもない方向に進んでいる。まるで乗ったいかだが急流に押し流されてどんどん速さを増し、今まさに滝に差しかからんとしているようだった。
 何か言わなくては、このまま流された挙句真っ逆さまに落下してしまうだけだ。危機感を胸に、クラリッサはおずおずと口を開く。
「あの、一体どういうことなのでしょう」
 メイベルとバートラムが一斉にこちらを向き、次に顔を見合わせる。
「わたくしはどこかへ行きたいなどとは申し上げておりませんが……」
 尚も言い募れば、バートラムがこちらを向き、端整な顔に極上の笑みを浮かべた。
「忘れたのか、クラリッサ。我々は近いうちに逢い引きをすると約束をしただろう」
 彼の笑みは顔立ちが整っている分、どこか作り物めいているように見えた。
 そして彼の言葉は半ば事実だけに、クラリッサはメイベルの前では反論もできず、途方に暮れた。

 確かに約束はした。
 いや、厳密には逢い引きをしようなどと言ったのではなく、単に二人で話をするだけのつもりだった。あなたは逢い引きをしたいと言い張っていたようだが、自分はそういうふうには言っていないし認めるつもりもない。
 ましてそういう話が持ち上がった昨日の今日で、しかも奥様が疲労を訴えているというのに実行に移すのはいかがなものだろうか。あなたが奥様に何か吹き込んだのはわかっている。奥様にまでお気を遣わせるのは自分の本意ではない。
 二人きりになってからクラリッサがそういった本音を次々とぶちまけても、バートラムはどこ吹く風だった。
「吹き込んだとは人聞きの悪い。少しお願いしてみただけだよ」
「それを吹き込んだと言うのでしょう」
「私の切実な願いを奥様は聞いてくださった。あの方は素晴らしい主人だ」
 おどけたように言ってから、彼はひょいと首を竦める。
「無論それも、奥様のご都合と我々の都合が合致したからだ。このまたとない好機を逃してはならないだろう?」
 バートラムの嬉しそうな顔を見るにつけ、クラリッサは怒りや苛立ちとは違う、どこか焦燥めいた切羽詰まった感情を覚えるのだった。やはりいかだに乗せられ、流れの激しい川に放り出されてしまったような――そこではたと我に返り、流されまいと必死になって食らいついた。
「好機だなんて……。わたくしは逢い引きのつもりはないと申し上げました」
「君が何と言おうが、我々が二人で出かけた時点でこれは逢い引きだ。そういうものなのだよ」
「そんな理屈、間違っています。到底承服しかねます」
「では今日一日でじっくりと納得させてあげよう」
 バートラムは自信たっぷりに言い放ち、クラリッサをますますいきり立たせた。
 二人は既に宿を離れ、古い港町を歩き始めていた。クラリッサはぎりぎりまで粘り、メイベルの傍を離れまいとしたのだが、逆に夫人と執事に諭されてしまう始末だった。
「今日を逃したら、次はいつ時間をあげられるかわからないのよ。構わず行ってきてちょうだい」
「クラリッサ、奥様もこう仰っている。ご厚意をむげにするのはかえって失礼だよ」
 夫人はともかくバートラムに言われると一層腹立たしいのだが、メイベルが一人でいたがっているようなのもあり、最終的にはクラリッサも従うより他なかった。
 だが街へ出てからも夫人のことが気にかかり、石畳の大通りを歩きながら何度か宿の方向を振り返った。どんどん遠ざかっていく宿の建物に心がかき乱される。今なら引き返すこともできるはずだ。
「奥様のことが気がかりなのだろう」
 ふと、バートラムが尋ねてきた。
 当たり前のことを聞くものだと、クラリッサは眉を顰めて応じる。
「気にかからない方がおかしいでしょう。お加減がよろしくないようなのに」
 しかし彼はクラリッサの怒りすら受け流すようにかぶりを振った。
「奥様のお言葉を信じたまえ。疲れているからゆっくり休みたいのだと仰っていたはずだ」
「それはそうですが……」
 クラリッサも、メイベルが身体を壊しているとまでは思っていないし、思いたくもない。だがもう若くない主を案じるのに、案じすぎるということはないはずだった。老いた体にはほんの軽い疲労さえ病を招き入れる鍵となる。もし自分たちが不在の間に何かあったら、と心配の種は尽きなかった。
「きっと奥様はお一人でいたいのだよ。結婚式の後だからな」
 振り向いても宿が見えなくなる辺りまで歩いた時、バートラムが呟くように言った。
「昔を思い出して感傷的になるのもやむを得ないことだ。違うかな、クラリッサ」
 更にそう問いかけられて、さしものクラリッサも答えに窮した。
「いえ……あの、そういうことなのでしょうか」
「そうだろう。休めたいのは身体ではなく、恐らく心の方だ」
 そこまで考えが及ばなかったことを、クラリッサは今更のように恥じた。メイベルの疲れた表情には気づいていたのに、一人になりたがっているそぶりもわかっていたのに、その裏でどんな思いを抱えていたのかまでは察することもできなかった。
 この街はメイベルとレスターの思い出の地だ。ここにいればメイベルは自然とレスターのことを思い出すだろうし、幸せな花婿と花嫁を眺めた後では尚のこと、在りし日の記憶に浸ってしまうものだろう。そしてそういう記憶は誰とも共有せず、一人で振り返りたいものなのかもしれない。
 そんな時は旅の道連れである従者でさえ、傍には置きたくないのだろう。
「奥様、一日でお元気になられるでしょうか」
 クラリッサが懸念を口にすると、バートラムはためらいなく頷いた。
「心配は要らない。あの方はしっかりしたご夫人だ」
 全くだとクラリッサは思う。自分よりも遥かに芯が強く、思慮深くて、思いやりにも溢れている。クラリッサには主を見習うべきところが山ほどあった。
「さて。君の気分が落ち着いたのなら、早速今日を楽しむことにしようか」
 バートラムが歩きながら顔を覗き込んでくる。
 その訳知り顔を居心地悪く見返しつつ、クラリッサはもう一つの懸念について尋ねた。
「本当にお買い物をされるおつもりなのですか」
「当然だ。言っておくが、これは君の買い物だよ、クラリッサ」
「ですが、わたくしに必要なものとは思えません」
 二人は普段通りの喧騒が戻った街並みを抜け、仕立て屋のある通りを目指しているところだった。件の仕立て屋は先日メイベルが結婚式の為に新しいドレスを作らせた店で、既製の服や装具もたくさん並べてあったのを知っている。
 しかしメイベルのお供で行くならともかく、自分の服を買うような店ではないとクラリッサは感じていた。そもそもクラリッサは仕立て屋で服を購入したことがこれまで一度もない。屋敷ではお仕着せが支給されたからそれを着ていればよく、孤児院時代は寄付されたものばかり着ていた。この旅の間に着ている外套さえ、屋敷で働いていた別の使用人のお下がりだった。屋敷で働いていた頃は仕事以外で出かけることがまずなかった為、外出着を身に着ける機会は村の聖堂へ行く時くらいのものだった。
 かといってメイベルの言うように、これから必要になるとも思えないのだが。
「奥様が必要だと仰ったのだ」
 バートラムは主の言葉を盾に押し切る気のようだ。迷うクラリッサを取り成すように言った。
「私とて、お仕着せの君とでは逢い引きを存分に楽しめないからな」
「それなら余計、このままで結構でございます」
「そう言ってくれるな。今日くらいは務めを離れ、美しく着飾った君を見てみたい」 
 流し目を送ってくるバートラムは前裾の短い黒い礼服を身にまとっている。執事という身分上、彼は仕事においてもお仕着せではなく自前の衣服を身に着けることを許されていた。無論、レスターやメイベルよりも上等のものを着ているわけではないが、客人などと顔を合わせることも多い立場上、彼の着るものは仕立てのいい品が多かった。
 クラリッサはそんな彼の姿を何気なく眺めていたが、バートラムもその視線に気づいてか、意味ありげに微笑んだ。
「君も私と並んで歩く間、余計な人目を引きたくはないだろう?」
「どういう意味でしょう」
「今の我々を他人が見たら誤解されるだろうということだ。とても逢い引きができるような間柄ではない、とね」
 その言葉の意味は、彼と自分のいでたちを見比べてみればよくわかった。
 礼服姿のバートラムはその着こなしも堂々とした立ち振る舞いも、街中にいる紳士と大差ない。一方でクラリッサは最小限の生地だけを使用したお仕着せを着ている。襟元や袖には飾り気がなく、身体に合わせて作られたものではないせいで胸元や腰は生地がだぶついている。そのくせスカートはすとんと真っ直ぐに足元まで下りていて、貴婦人のドレスのように優雅なドレープを描くことはない。
 何も知らない人間が今の自分たちを見ればどう思うかは言うまでもない。恐らく、主である青年にいちいち盾突いては喧しく吠える小間使い、というふうに映ることだろう。
「わかってもらえたかな」
 バートラムが唇の両端を吊り上げた。
 クラリッサはまだ踏み切れない気持ちでいる。内心、着飾るという行為に抵抗があった。若い女らしくそれなりに興味こそあったが、触れる機会は全くなかったせいだ。自分にそういう物が許される日がやってくるとも思っていなかった。
「奥様のお言葉ですから、仕方ありません。従います」
 散々ためらった挙句、ようやくクラリッサはそこまで口にするに至った。
「ですが、なるべく安価なものに致しましょう。お金は貴いものです」
「そんなことを君が気にする必要はない。最も君が美しく見えるドレスを選びたまえ」
 しかしこれまでドレスに無縁だったクラリッサに、どんなドレスが似合うかなどわかるはずもない。赤褐色の髪にはどんな色が合うのだろう。これまで自らの身体に合う服を着たことさえないのだから、何もかも試してみなければわからないということだ。
 すると迷子のように心細い思いが募り、隣を歩く執事にそっと告げた。
「もしあまり似合わなくても、お笑いにならないでくださいね」
 途端にバートラムの笑みが楽しげな、心からのものに変わった。青い目を優しく細めて答える。
「もちろんだとも。しかし私は、君が必ず美しくなるものだと信じているよ」
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