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永遠に続いてほしい夢の話(4)

 その後三人は、聖堂前に集う人々と共に結婚式の終わりを待った。
 式の間、聖堂の扉は一旦閉ざされる。神の前で永久の誓いを交わす花婿と花嫁を見守るのはごく近しい人々だけだ。あとの者は聖堂の前、あるいはそこから街へと続く通りの両端で、式を終えた新しき夫婦が現われるのを待つ。花嫁と花婿は聖堂を出た後、人々の祝福を受けながら街を練り歩くのだ。その際、人々は幸せな二人に向かって花を撒く。今日より人生を共にする新しい夫と妻の道行きに、常に美しいものが溢れているようにと願いながら――。
 太陽が中天から滑り落ちた頃、聖堂前では花びらが配られ始めた。街中をお祭り騒ぎにするような結婚とあって、用意された花びらの量も随分と大量だった。花かごを持った使用人たちが人々に摘みたての花びらを配る。人々はハンカチに包んだり、手のひらにそのまま持ったり、上着やエプロンの裾を摘んでその上に花びらを抱え込み、式が終わって聖堂の扉が開く時を今か今かと待っている。
 メイベルもまた配られた花びらを受け取り、それを愛用のハンカチで丁寧に包んだ。
「いよいよね。ああ、早くお二人がこちらへやってくるのを見たいわ」
 感極まった声を上げるメイベルが、聖堂の扉にきらきら輝く瞳を向ける。
 クラリッサはその美しい横顔を見つめながら、夫人の過去に思いを馳せた。
 レスターとメイベルがどんな事情があって駆け落ちという道を選んだのか、今はまだわからない。だがその結婚を近しい人々に許されなかったのだろうということは、世間知らずのクラリッサにも察しがついた。そうでなければ故郷を離れ、遠くまで逃げてくる必要はないからだ。
 その当時、メイベルが感じた不安も想像がつく。愛する人の代わりに、彼女は多くのものを手放さなければならなかったに違いない。家族や友人、住み慣れた家、生まれ育った故郷そのもの。荷物だってそう多くは持ち出せないだろうし、もしかすると着の身着のままレスターに手を引かれて逃避行へ身を投じたのかもしれない。
 二人は、そういう恋をしたのだろう。――バートラムもかつて言っていた。
 もしかすると他には何も残らないような、何もかもを打ち捨てていかなければならないような恋が、二人を駆り立てたのかもしれない。
 今のクラリッサはまだ恋を知らない。だが不思議とメイベルの気持ちがわかるような気がしていた。
 理由は簡単だ。駆け落ちではないが、クラリッサもまた逃避行の日々に身を置いていたからだ。レスターが遺した物を狙う悪辣な連中から逃げおおせる為、住み慣れた屋敷も他の使用人たちも、敬愛する主レスターの墓さえもあの片田舎の農村に置いてこなければならなかった。それもメイベルの決断であれば後悔こそないが、今日までに味わった心細さや不安は数え切れない。
 何もかも理解できる、と言い切るのはおこがましいことだろう。
 だが、わかるような気がする。
 何かを得る為に、守る為に逃げることは決してたやすいことではない。レスターとメイベルはそれだけの覚悟をして駆け落ちをしたのだろうし、その覚悟を支えるだけの想いもまた、あったのだろう。それが二人の長い結婚生活に平穏と幸福をもたらしたのだ。
「クラリッサ。我々もそろそろ支度をしよう」
 不意に頭上で声がして、クラリッサはびくりとした。
 大きな手に布包みを載せたバートラムが、瞬きをしながら自分を見下ろしている。
「そんなに驚かなくても。ほら、花びらだよ」
「……そうでした。忘れておりました」
 驚いてしまったことにかえって動揺しつつ、クラリッサは彼から花びらを一掴み受け取り、自らのハンカチに包んでおく。握り締めていたら萎れてしまうだろうから、用があるまではしまっておかなければならない。
 クラリッサが花びらを包む間、バートラムは黙ってこちらを見ていた。じっくりと検分するような視線が煩わしく、クラリッサは顔を顰めずにいられない。
「何かご用ですか、バートラムさん」
「ああ。君が先程何を考えていたのか、是非とも教えてもらいたい」
「瑣末なことです。あなたにお話しするようなことではございません」
 即座にクラリッサは突っ撥ねた。
 彼に声をかけられたくらいであんなに驚いてしまったことに、なぜか後ろめたいような気持ちになっていた。
 バートラムもすげなくされた程度では全く堪えるそぶりもなく、尚も追及しようとしてか口を開きかけたが――急に眉を顰めて唇を閉ざした。耳を澄ませるように視線を人混みの中へ走らせる。
 彼の反応にクラリッサは戸惑ったが、すぐに自分の耳でも確かめることができた。
 どこからか発生した囁き声だった。
 初めはごく小さく、人混みのざわめきに呑み込まれるほどの微かな会話だった。しかしそれは流れる時と共に次第に大きさを増し、聖堂前に詰めかけた人々の間を渡り歩いて広がっていく。誰かの不安を煽り、生じた疑念を呑み込んでどんどん膨れ上がっていく囁き声は、立ち尽くすクラリッサの耳にもやがてはっきりとした言葉として届いた。誰もが口にするのを止められないというように次々と飛び出した。
「おかしい。式がまだ終わらないなんて」
「終わらないどころか始まってもいないようだ。司祭様の声がしない」
「お二人はまだなの? せっかくの花が萎れてしまうわ」
 気がつけば、花びらを配られてから随分と時間が経っている。結婚式の終わりに花を間に合わせる苦労はクラリッサもよく知っているだけに、漠然とした懸念を抱いた。
 まして先程、クラリッサはアルフレッドとソフィアの頼りなげな様子を目にしている。まさかあの二人に、あの後何か起きたのだろうか。
「言われてみれば、少し遅いわね」
 人々の不安はとうとうメイベルの耳にも届いてしまった。眉尻を下げる彼女をバートラムが気遣わしげに振り返る。
「何事か、中で起きたのかもしれません」
「そうなのかしら。確かにお二人とも、少し緊張なさっているご様子だったけど……」
 二人の会話に耳を傾けつつ、クラリッサは苛立ちを覚えていた。いかなる理由があろうとメイベルを不安にさせたという事実は許しがたい罪状である。ましてあのアルフレッドには前科もある。これで結婚式が無残にも中止になろうものなら、クラリッサは生涯彼を許さないだろう。
 と、そこへ――。
 人波の中に立つクラリッサの目を、突如小さく、けれど強い光がかすめた。
 それは一瞬だけ視界を白く眩ませた後、尚もちらちらと目元を狙うようにこちらへ向かって放たれた。灼かれた目を眇めつつ光源に向かって面を上げれば、聖堂の翼廊二階、いくつか並んだ窓の一つから鏡のようなものを使って光を撥ね返してくる誰かがいた。
 その人物はクラリッサが気づいたと見てか窓を開け、手招きをしてくる――栗色の髪と真紅のマント。あれは、アルフレッドだ。
 しかし当然ながらクラリッサは、彼に呼ばれたからと言って彼の為に急いで駆け出そうとは思えなかった。むしろ嫌な予感しかしない。だが一度気づいてしまった手前、無視を決め込むのも抵抗があり、ひとまず隣のバートラムに囁いた。
「二階の窓をご覧ください」
 バートラムはその指示に従い、そしてたちまちあからさまに嫌な顔をした。
「彼は何をしているのだ、クラリッサ」
「さあ。奥様にご用があるのでは?」
「私としては、いっそ何も見えなかったことにしたい」
「可能であればわたくしもそうしたいと存じます」
 無論、そうもいかないことはお互いにわかっている。二人は揃って嘆息し、それからメイベルに、周囲には聞こえぬようこっそりと事実を打ち明けた。
 それでメイベルも二階の窓を見上げ、メイベルの存在に気づくと、アルフレッドは改めて手招きをした。この距離では表情はおぼろげに見える程度だが、少なくとも笑っているようではない。
「あの方はわたくしたちに助けを求めておいでなのでしょう」
 善良なメイベルは凛とした面持ちで言った。
「それならば、わたくしたちも急いで馳せ参じなくてはならないわ。行きましょう、二人とも」
 三人は人混みを抜け、翼廊の窓の真下へと急いだ。幸い、聖堂の扉を注視する人々の注意を引くことはなかったようだ。追い駆けてくる者もなく、アルフレッドの待つ窓の外へと辿り着く。
 彼は駆け寄ってきた三人を見下ろすと、幸せな花婿らしからぬ悲痛な顔をした。
「お願いしたいことがございます。裏口へ回っていただけますか」

 聖堂の裏口から中へ入ると、ちょうど薄暗い廊下をアルフレッドが小走りで駆けてくるところだった。
 彼は三人を導きながら、現在の状況について語った。
「ソフィアが、結婚を止めにしたいと言い出したのです」
「まあ……!」
 驚くメイベルの傍らで、バートラムが一瞬さもありなんという顔をしたのをクラリッサは見逃さなかった。
 クラリッサもアルフレッドの所業を知っている以上、さほど驚きはしなかった。むしろもっと前に気づいておけばよかったのに、とソフィアに対して同情すら覚える。当日になってようやく彼の不誠実さに気づいたというなら遅すぎる。
 ただ、メイベルは傷つくことだろう。自らの美しい思い出だけに浸ることもできず、二人が迎えた破局をまるで我が事のように悲しむだろう。そう思うとやはり腹立たしい。
 そうしてメイベルを傷つけるような真似までしておいて、これ以上更にどんな面倒を押しつけてくる気でいるのか。クラリッサはアルフレッドを睨んだが、アルフレッドはそれに気づく余裕もないようだ。顔色が悪い。
「正確には今朝からずっとです。家を出る時も、聖堂に着いてからも、花嫁の衣裳に着替えた後も――皆に不安を訴え、結婚はしたくないと言い続けました」
 アルフレッドは階段を上がりながらとつとつと語る。
「先程メイベル様に来ていただいたのも、それで彼女の気が変わるかもしれないと思ったからです。しかし彼女の気は変わらず、それどころかとうとう閉じこもってしまいました」
 そこまで話した時、一行は翼廊の二階に再び辿り着いた。
 廊下の突き当たり、先程ソフィアを尋ねた部屋の前に、今は数人の人がいた。ほとんどがクラリッサよりも年上の中年男性及び女性であり、皆揃って身なりがよかった。この中の誰かがアルフレッド、もしくはソフィアの親なのかもしれないとクラリッサは思った。
 そのうちの一人、豪奢なガウンを羽織った栗色の髪の中年紳士が、扉に向かって猫撫で声で呼びかけている。
「ソフィア、いい加減ここを出ておいで。まずは顔を見て話をしよう」
 扉の中から返答はないようだ。息を潜める気配は聞こえるが、それが廊下に居合わせた人間のものか、それとも部屋の中にいるソフィアのものなのかは判断つきかねた。
「お願い、ソフィア。どうか顔を見せてちょうだい」
 次に金髪の夫人が切実そうな声を上げる。
「せっかくの祝うべき日にこんなことをするなんて……どうして急に結婚を止めるなどと言うの。おかしいわ」
 彼女の肩を支える別の紳士も金色の髪をしており、この二人はソフィアの両親だろうとクラリッサは予測する。だとすれば今のソフィアには両親の言葉すら届かないということになる。
「ほら、君のお母上もこう仰っている」
 再び栗色の髪の紳士が口を開いた。
「ここに閉じこもっていても仕方がないだろう。司祭様も待っているし、君のご両親も、伯父上だってそうだ。急がなければ――」
 そこまで語ったところで、その中年紳士がこちらに気づいたようだ。振り向き、アルフレッドに向かって眉を顰める、
「アルフレッド! どこへ行っていたんだ、こんな時に!」
「申し訳ございません、父上」
 痛みを覚えたような顔でアルフレッドは詫びた。
 アルフレッドの父親は苦々しげに歯噛みして、
「全く、結婚式さえまともに務め上げられんのか。いいから早く花嫁を呼んでやれ!」
 と叱りつけたところで、後ろについてきたメイベルたちの姿に気づいたようだ。たちまち表情が一段ときつくなる。
「それに、こちらはどなただ。縁もゆかりもない者を連れてくるとはどういう了見だ」
「こちらの方は、私とソフィアの知り合いでございます。かつてこの聖堂で結婚式を挙げられ、その話を我々にしてくださいました」
 アルフレッドが紹介すると、メイベルは静かに頭を下げた。
 それでアルフレッドの父親もおざなりにお辞儀を返したが、明らかに不審そうな顔をしていた。そんな父親にアルフレッドは訴える。
「この方のお話なら、今のソフィアも聞いてくれると思ったのです。――お願いできますか、メイベル様」
「……ええ。わたくしにできることなら」
 断ってしまえばいいものを、メイベルは迷いもせず頷いてしまう。
 そしてアルフレッドの期待の眼差しと、彼の父親を筆頭に廊下に集まった人々の訝しそうな視線を受けながら、扉の前に進み出た。
 クラリッサはまるでメイベルを矢面に立たせるようだと内心憤慨していた。よほど止めに入ってやろうかと思ったが、バートラムが黙っていたので一応静観の構えを取る。彼が見守る気でいるのなら、自分は下手に動かぬ方がいい。
「ソフィア様。わたくしです、声でおわかりかしら」
 メイベルが静かに語りかけると、扉に身体を押しつけているのだろうか、かたんと音を立てて微かに揺れた。
「――メイベル様!? お外に出られたのでは……」
 扉越しに、こわごわと尋ねてきたのは確かにソフィアの声だった。
 その声を聞き、張り詰めていた廊下の空気がわずかに緩んだ。彼女が閉じこもってからは、会話すらままならなかったのかもしれない。
「アルフレッド様のお頼みで、戻って参りました」
 メイベルはそう言うと、扉に向かって柔和に微笑む。
「わたくしは今のあなたのご事情を詳しくは存じないの。けれどお話を聞くことはできるでしょう。よろしければ、話してくださらない?」
 閉じてしまった扉のせいで、ソフィアにはメイベルの顔は見えないはずだった。
 だがソフィアは息をつき、しばらくしてから答えた。
「怖くなってしまったのです……結婚が。家を出ることが」
 恐らく同じ言葉を何度となく口にしているのだろう。震える声ながら、言葉には淀みがなかった。
「わたくしにはまだ結婚は早かったのではないかと、今になってそう思えてならないのです」
「そんな……だってあなたは、結婚できる日をアルフレッド様と共に、心待ちになさっていたでしょう?」
 虚を突かれたようにメイベルが問い返す。
「ええ。でも、今となっては……」
 ソフィアはそこで啜り上げ、
「アルには悪いことをしたと思っています。でもわたくしは、やはり怖い。相手が彼なら平気だと思っていたのに、なぜだか急に不安に襲われて。こんなに早く結婚を決めてよかったのかと思えてしまって、仕方がなくて――」
 子供のように泣きじゃくりながら続けた。
 クラリッサからすればソフィアの不安ももっともなのだが、メイベルは励ますようにドアに手を置く。
「アルフレッド様なら大丈夫、あなたをきっと支えてくださるわ。信じてみてはいかがかしら」
 扉の向こうからは啜り泣きだけが聞こえる。
「夫婦の愛も信じることから始まるのよ。出会ってすぐに信じられるというものではないの。だから――」
 メイベルがアルフレッドに目を向けた。
 一瞬だけ困惑の表情を見せたアルフレッドだったが、やがて頷き、自らも扉の前に進み出た。
「ソフィア、私を信じてくれないか。私は必ず君を幸せにする」
 アルフレッドが声を張り上げる。
「君はただ私についてきてくれるだけでいいんだ。何も不安に思うことなどない。怖いことだってない」
 だがソフィアはしばらく啜り泣きを続けた挙句、ぽつりと言った。
「ごめんなさい、アル……」
 彼女の反応は頑なだった。目の前の不安と恐怖に絡め取られて、身動きもできなくなっているようだった。初めて港で彼女を見かけた時、その後この聖堂で再会した時、彼女はアルフレッドを一心に想い、そして信じているように見えたのに――何が彼女の心を揺るがしたのだろう。それとも本当に何もないまま、彼女は不安にとらわれてしまったのだろうか。
「頼む、ソフィア! 私を信じてくれ! 私についてきてくれ! どうか共に式を挙げてくれ!」
 アルフレッドは扉に取りすがったが後は何の反応もなく、しばらくがたがたと揺らした後、父親たちによって引き剥がされた。
「お前まで取り乱してどうする! 少しは落ち着け、馬鹿息子が!」
 父親に怒鳴られ、アルフレッドの顔から一層血の気が引いた。かと思うと彼は床に崩れ落ち、項垂れてしまう。
 そして扉には父親たちがまた駆け寄り、口々に声をかける。
「ソフィア! アルフレッドを、君のご両親を悲しませないでくれ!」
「お願い、今ならまだ間に合うわ! 式を始めると言ってちょうだい!」
「何も怖がることはない。早くするんだ、ソフィア!」
 悲痛な叫び声を聞いていると、さしものクラリッサでさえ辛くなってきた。やはりここは縁もゆかりもある人々に任せるべきでは――そう思いながらメイベルに目を向けると、メイベルはうずくまるアルフレッドに声をかけているところだった。
「お役に立てなくてごめんなさい。でもどうか、挫けないで」
「ええ……」
 アルフレッドはメイベルの手を借り、よろよろと立ち上がる。彼が蒼白な顔でいることに、父親も、ソフィアの両親も気づいていない。目もくれない。
 引き際を計るようにバートラムが腕組みをする。クラリッサもそろそろこの場を去りたいと思っていたが、その瞬間、アルフレッドと目が合った。合ってしまった。
 途端、彼は何か見出したようにはっとして、驚くメイベルをよそにこちらへと歩み寄ってきた。そしてクラリッサの手を掴み、言った。
「クラリッサ嬢。今度はあなたの力を貸していただきたい」
「わたくしの?」
 ご冗談でしょうと言いかけて、どうにか思い留まった。
 だがどう考えてもこの状況において、クラリッサにできることなどないだろう。クラリッサは結婚したこともなければ夫婦愛の素晴らしさも知らない。ソフィアの考えを翻らせるような妙案があるわけでもない。
「どうかお願いいたします。あなたが今は必要なのです」
 アルフレッドの色素の薄い瞳がクラリッサを捉える。真剣そうだと思えなくもない目をしている。だが相手はアルフレッドである。そう易々と信じる気にはなれない。
 どう断ろうかと悩むクラリッサに、今度はメイベルが言い募る。
「クラリッサ。こんな時よ、手を貸して差し上げましょう。あなたにできることをお二人の為にすべきよ」
「お、奥様……」
 他の誰の言葉より、メイベルの言葉はクラリッサの心を揺り動かしてしまう。今も、奥様が言うなら仕方ないと、不承不承頷きかけた。
 だがそこへ、バートラムが割り込んだ。
「お待ちください」
 と言いながら、アルフレッドの手をクラリッサから強引に振り払う。アルフレッドもクラリッサも驚き、思わず彼を見上げたが、バートラムは平然と語を継いだ。
「アルフレッド様。クラリッサに何ができるのか、あなたのお考えを先に教えてはいただけませんか」
「どういう意味です、執事殿」
 眉を顰めてアルフレッドが聞き返す。
 するとバートラムは口元だけでわざとらしく笑み、
「いえ、あなたのお考えを聞いておきたかっただけです。それが有効な手段であるかどうか、客観視する必要もあるでしょう」
 どうやら彼は明らかにアルフレッドを疑っているらしい。クラリッサはなぜかほっとしたが、アルフレッドは小さくかぶりを振った。
「そのような時間はありません。一時、彼女をお借りします」
 と言うなりクラリッサの腕を取り、強引に廊下を進み出す。
 クラリッサはまたしても引きずられながら、やはり以前のように一度振り向いた。
 険しい顔のバートラムがこちらを見ている。その隣には祈るような面持ちのメイベルがいる。クラリッサはどんな顔をしていればいいのだろう、わからないままアルフレッドは翼廊の端まで戻り、ソフィアのいる部屋から扉を三つ四つ隔てた部屋に、クラリッサを押し込んだ。
 まるでいつぞやのようだ、と思えたのも一瞬だけだった。

 扉が閉まった次の瞬間、クラリッサは息もできないほど強く抱き締められていた。
「助けて……ください……」
 抱き締めている相手はもちろんアルフレッドだ。栗色の髪に金の冠を戴き、真紅のマントを羽織ったれっきとした花婿である彼が、花嫁ではない自分を腕の中に押し込めている。
 そして耳元で悲痛な声を上げる。
「私にはもうどうしていいのかわからない。ソフィアは今日になって急に結婚を止めたいと言い出し、父は私に責任があると叱責するばかりだ。皆が私にどうにかしろと言うが、私は、私だってどうしていいのか――」
 クラリッサは拒絶どころか相槌さえ打てない。息が詰まる。彼の力強さは尋常ではなかった。逃がすまいとしているような――むしろ嵐の中で吹き飛ばされまいとしているような、必死の抱擁に思えた。
「あなたに恋人がいても、私を一時慰めることはできるでしょう。せめてあなただけでも、私に優しくしてくれたら……」
 アルフレッドはクラリッサの髪に顔を埋めようとした。身を捩ってもがけば、彼は顔を近づけ懇願してくる。
「お願いです。もういっそ逃げてしまいたい……どうかあなたの愛を一時だけ、私に……」
 その言葉に、クラリッサの頭の中で何かが弾けた。
 自分でも驚くほどの力が身体のうちに生じたようだった。クラリッサはアルフレッドの腕を振り払い、そしてそこから逃れ自由になった右腕を勢いを落とさず振り上げた。もはやためらうことなく彼の頬に手のひらを叩きつける。
 小気味よい音がした。クラリッサの手のひらがじんと痛んだ。
 アルフレッドの顔は打たれるままに傾ぎ、たちまち左の頬だけが赤くなる。彼は信じられないものを見るようにクラリッサを見つめた。
 そしてクラリッサは感情に身を任せ、叫んだ。
「逃げたいなどと、何の覚悟もないくせに仰らないでください!」
 バートラムがこの場にいたら、止めてくれたのだろうか。それとも守ってくれただろうか。
 だがここにはまだ彼はいない。クラリッサは一人で戦わなくてはならない。
「あなたは何も失う覚悟などないのでしょう! ただの一時気が紛れたらそれでよくて、また元の安寧にのうのうとお戻りになられるつもりなのでしょう! 逃げたいと仰るなら失う物もあることを覚悟なさい! 逃げる覚悟すらもない者に、誰が愛を捧げたいと思いますか!」
 元よりそんなつもりはなかったが、今こそ心の底から思う。
 誰がこんな男に、この手を、この身を、この心を預けたりするものか!  
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