menu

26:忍び寄る魔の手

 その瞬間、伊瀬は弾かれたように立ち上がった。
 かつてバスケ部員だった頃を思わせるような機敏さでこちらに向き直ると、片眉を吊り上げてみせる。
「嘘だろ?」
「嘘じゃない!」
 即座に私もその場に立つと、声を張り上げて反論した。
「真面目に告白してる相手に、返事が『嘘だろ』はないでしょ!」
 こっちは柳の申し出を――間接的に棚井くんからの誘いを断った上で、誤解しようもない言葉ではっきり告白したっていうのに!
 するとさすがに伊瀬もはっとしたようだ。
「それもそうだな、ごめん」
 すぐに謝ってきた後、複雑そうな顔で続ける。
「けどお前、棚井と結婚すんじゃん」
 その言い方がどこか悔しそうにも、拗ねているようにも聞こえた。
 伊瀬が見てきた未来ではその通りなのかもしれない。でも、今の私の思いとは違う。
「そんなの未来の話でしょ? 私は知らない」
「さっき教えただろ、もう知ってるはずだ」
「だとしても今の私が棚井くんを好きになるわけじゃないよ」
 想像もつかない未来の話を聞かされたところで、今の私の気持ちが変わるわけじゃない。

 これから先の私がどんな時間を積み重ねて未来の自分に行き着くのかは知らない。でも、今の私だっていろんな時間を過ごして、積み重ねて、『今の私』になったんだ。
 その中で私は伊瀬を好きになった。
 この気持ちに嘘はつけないし、消えてしまうこともない。

「私は伊瀬が好きだよ」
 改めて、私は告げる。
 呆然としている伊瀬に向かって、今まで息をひそめていた勇気を振り絞って告げる。
「高校時代からずっと好きだった。一緒にいられるだけで楽しかったし、一緒にいてくれることがうれしかった。放課後、『部活が終わるまで待ってて』って言われて、口では文句を言ったけど本当は特別扱いみたいでうれしかったんだ」
 この体育館裏で伊瀬を待っているのをバスケ部の子たちに見つかって、付き合ってるのかってよく聞かれた。
 私はもちろん否定したけど、そうやって聞かれることさえ内心ではうれしかった。
「でも、ずっと言えなかった。伊瀬には他にも仲いい友達がいたし、何より告白して振られたらこの関係も壊れちゃうだろうって思ったから。何もかもなくなっちゃうくらいなら、黙ってるほうがいいって思って、卒業式当日にさえ言えなかった」
 卒業式が終わったら、伊瀬は進学のためにこの街を出ていくことになっていた。
 それを知っていても、言えなかった。卒業式はふつうに過ごしたし泣きもしなかった。他の子が泣いているのを慰めている伊瀬を横目に見ていただけだった。
「だからね、未来の私もずっと言えなかったんだと思う。言えないまま、他の人を好きになったんじゃないかな」
「そんなの、言ってくれれば――」
 伊瀬がそう口にしかけて、何か気づいたようにかぶりを振る。
「いや、お互い様だなそんなの。俺だって言えなかった」
「そうだね、お互い様だよ」
 そういうところは私たち、よく似ていたのかもしれない。
「正直、伊瀬に手紙だけ出して、電話もメールも送らなかった理由は想像がつくんだ」
 私は情けない気分で苦笑する。
「ちょっと前までは私、『こんなにすぐ電話したら寂しがってるって思われるかも』とか『新生活で忙しいところに連絡したら迷惑がられるかも』なんて思ってた。それが時間を経るごとに『向こうで新しい友達ができて楽しい時期かも』とか、『今さら電話かけて今までどおりに話せるかわからない』って思うようになって、そのうち『もう忘れられてるんじゃないか』なんて不安になって……そんなふうに、どんどん連絡しにくくなっていったんじゃないかな」
 そんな不安な日々のどこかで、未来の私は、近くにいた人を好きになったのかもしれない。
 遠くにいる人を想い続けるのは難しい。それが片想いなら尚のことだ。忍び寄る魔の手みたいに、日々抱く不安に、じわじわと少しずつ気持ちが削られていくのかもしれない。
「今だってここに来るまで、伊瀬から本当のことを全部教えてもらうまでは言えなかったよ」
 おととい、伊瀬が私の家に来た時ですら言えなかった。
 久々に会えてうれしいって思ったのに、それだけで終わってしまった。もちろんそれどころじゃなかったのもあるし、伊瀬に彼女がいるって聞いたからでもあるけど。
 それでも伊瀬が幸せならいいかって、割り切ろうともしてた。
 全然幸せじゃなかった伊瀬に、私はようやく言えた。
「でも今は言えた。伊瀬だって聞いたでしょ?」
 私の問いに、伊瀬は黙ってうなづく。
 それで私はちょっと笑って、でも覚悟を決めて告げた。
「だから、未来を変えちゃおうよ。私たちで」

 どうしたら未来が変わるのか、それは私にもわからない。
 変えたらどうなってしまうのかもわからない。
 でも、既にいくつかのことは伊瀬の記憶と食い違っている。私は2003年の夏に伊瀬に電話をかけたし、メールもした。伊瀬は私に未来の結婚相手の話をして、その上で私は柳と棚井くんに『好きな人がいるから』と詫びた。
 この先のことは、自分たちで確かめるしかないだろう。

 あんなにうるさかった蝉の声が、いつしかぴたりと止んでいた。
 風もない体育館裏はすっかり静まり返っていて、立ち尽くす伊瀬がうつむくと、そのまま時が止まってしまったように思えた。
 伊瀬は迷っているんだろうか。しばらく何も言わず、じっとスニーカーの爪先を見下ろしていたようだ。ミルクティー色の前髪に隠れた表情を、私は予測できずにいた。
 やがて、ぎこちなく面が上がる。
 伊瀬はまだつらそうに、悲しそうに私を見ている。
「いいのか、キク」
 彼は言う。
「俺は知ってるんだ、お前が幸せになること。あのハガキに使われてた写真、お前はすっげえ幸せそうに笑ってた。何もしなかったらああやって笑えるようになるんだぞ。そういう未来が保証されてるのに、それでもいいって言うのか?」
 それは――。
 そんなのは、私の知らない話だ。
「私が好きなのは伊瀬だよ。未来のことなんて知らない」
「それだって今だけかもしれねえぞ」
「今、好きならそれでいいでしょ!」
 歯切れの悪い伊瀬に、私はまた声を張り上げる。
「あのね、伊瀬はもう22かもしれないけど、私はまだ19なの! 今しか知らないし、今の気持ちが一番大事なの! 未来にどうなるかなんて知らないよ! 今は伊瀬が好きで、ずっとずっと前から好きで、伊瀬が幸せになってくれるならどうなったっていいと思ってる! この先どこかで後悔したっていいよ、今ここで好きな人を見捨てて後悔するよりずっといい!」
 誰だって未来のことなんてわからない。
 伊瀬だって22歳になるまでのことはわかっても、その先のことは知らないはずだ。
 私の未来はたぶん変わる。私が変えてみせる。それで何が起きたとしても、自分で選んだ未来だという自負だけは残るはずだ。
 19歳の私は、19の今、好きな人を選んだ。
 その人のために、何でもしようと思った。

 伊瀬が、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。
 高校時代よりも鋭さを増した目が、それでも懐かしい真剣さで私を見つめている。時々見せるこういう顔も好きだったな、と場違いなことを思う。
 その伊瀬は、やがて何かを決意したようだ。
 一度目を伏せた後、こちらに大きく踏み出してきたかと思うと、両腕でいきなりぎゅっと抱き締められた。
「わっ……」
 急な接触に思わず声を上げかけたけど、その叫びごと伊瀬の腕の中に閉じ込められた。
 耳元で伊瀬の声がする。
「俺も好きだ、キク」
 聞きたかった言葉が聞こえた。
「ずっと、言えなかった……」

 私は四ヶ月経ってから。
 伊瀬はたぶん、三年と四ヶ月も経ってから。
 お互いにようやく、その言葉を口にできた。
top