幸せの感触

 瑞希さんは現在、出張中だ。
 会議に出席する為、今日から一泊二日の不在。
 旅行ならともかく、仕事での出張が好きな人はあまりいないと思う。実際、彼もそのくちだった。今朝の出掛けには面倒だとか行きたくないとかぶつぶつ文句を言っていた。
「こっちは新婚なんだから、会議の日程も少しは配慮してくれたらいいのに」
 ともぼやいていたけど、瑞希さんが新婚じゃなくなるまで待っていたら、会議は向こう何年も開けなくなってしまうだろう。そもそも、仕事が私たちのプライベートを配慮してくれないのは今に始まった話じゃない。結局行けないままでいる新婚旅行も、無理矢理捻じ込んだ身内だけの結婚式も、私たちの方が仕事に配慮した結果だった。

 さておき、瑞希さん――渋澤課長のいない総務課は、いつもと違う空気に包まれている。
 出張前に彼が頑張ってくれたお蔭で、業務上の支障はほとんどない。外部から電話が入った時に課長の不在を告げなければならないことと、課長の判断を仰ぐ必要のある時に、代わりに課長補佐の判断を仰ぐこと。普段通りでないのはそのくらいだ。
 ただ、空気だけは違う。総務課の皆が彼を頼りにしている事実が、漂う緊張感から伝わってくる。課長の不在中にミスをしないよう、業務が滞らないように、皆きびきびと仕事をしていた。私もそうだ。課長が出張から帰ってきた後、不在中に増えた仕事の山を見てうんざりすることのないように、出来る限りの働きをしようと思っている。
 それに、仕事に集中している方が、気が紛れていい。
 課長の席が空っぽだという事実を、それほど意識せずに済む。

 お昼過ぎ、総務課に電話が掛かってきた。渋澤課長からだ。
 同僚が気を利かせて私に取り次いでくれ、私は部下として上司の連絡を聞く。
『そっちはどう? 何か変わったことは?』
「特にありません。皆、課長のお留守をちゃんと預かっております」
 問われた私はそう答え、その後でいくつかの言付けを伝える。備品のメーカーさんから電話があったこと、備品の発注が済んだこと、部長がお土産を期待しているらしいことなどを告げた。
『皆のお土産は何がいいだろうな。芹生さん、聞いておいてくれる?』
 課長の声は電話越しにも明るく聞こえた。そして私のことを、勤務中の呼び方で呼んだ。結婚して姓の変わった私は、だけど課長を含めた皆から旧姓で呼ばれている。同じ課に二人も『渋澤さん』がいてはややこしいから、私としてもその方がよかった。まだ新しい名字にも慣れていないのも、事実だったから。
「聞いておきます」
 私が請け負うと、課長が少し笑った。
『頼むよ。もちろん、君へのお土産は特別に用意するから、楽しみにしてて』
「……それは、あの、お気遣いなく」
 思わず勤務中の口調で答えてしまう。電話の向こうで、また課長が笑う。
『いいからいいから。新妻にお土産の一つも買っていかないなんて、男がすたるってものじゃないか』
「そうでしょうか」
『それにしても、君が電話に出てくれてうれしかったよ。君の声が聞きたくて仕方がなかったんだ』
「課長、お疲れみたいですね」
『疲れたよ。こっちはかんかん照りで、スーツじゃ暑いくらいだ。おまけに歩き通しだし……こんな時に君がいてくれたら、膝枕でもしながら扇いでくれたんだろうけどな』
「課長、私、勤務中なんですけど……」
 もしかしたらわかっていないのかなと思いつつ、私は率直に告げた。勤務中に社の電話で甘い言葉を囁かれても、どう応じていいのかわからない。同僚たちは内容を察しているのだろうか。皆こちらを見て、一様に笑いを堪えている。
『知ってるよ』
 一方、課長も笑っていた。
『けどこのくらいは問題ないだろ? 盗聴されてるって訳でもないんだし、おまけにこっちは新婚の身で、妻と引き離されて出張中と来てるんだ』
「お帰りになってからちゃんと、お話を伺いますから」
 居た堪れなくなって私は言った。途端、彼が溜息をつくのが聞こえた。
『つれないなあ、君は』
 そう言うけれど、課長だってわかっているはずだ。その証拠に通話中は、私のことを名前で呼ばない。

 退勤後、一人で帰途につくのは初めてではない。
 渋澤課長は私よりもずっと忙しい人だから、私よりも帰りの遅くなることも多々ある。そういう時は当然、先に帰宅していた。徒歩なら二十分ほどの道程、すっかり住み慣れてしまったマンションの部屋に辿り着く。既に何度も通った道で、迷うこともなかった。
 ただ、一人きりでこの部屋にいるのは、少し寂しいと思う。
 部屋の明かりを点けて、まずは着替えをする。それから手を洗って夕飯の支度。一人分なので自然と手抜きメニューになる。瑞希さんがいないとどうにも、作り甲斐がない。
 夕飯を済ませてから、化粧を落とし、シャワーを浴びる。瑞希さんがいる時はバスタブにお湯を張るのに、自分だけだとシャワーだけで済ませてしまう。結婚前は何とも思わなかった事柄が、今はやけに億劫で、そして寂しく感じられた。行動の一つ一つに彼を連想してしまって、空しくなる。
 入浴後、テレビを点ける気にもなれず、がらんとしたリビングに座っていた。今日の新聞をぼんやり読み返す。すぐに飽きて畳んでしまう。本棚から適当な本を抜き取って、つまみ食いみたいに読む。やはり、直につまらなくなる。
 気が付くと、目はテーブルの上の携帯電話を留めている。彼からの連絡を待っている。
 いざ携帯電話が鳴り出すと、面映くて、くすぐったくて仕方ないくらいなのに。
『一海、起きてた?』
 瑞希さんが私の名前を呼ぶ。それだけでどうしようもなくうれしい。
「起きてましたよ」
『そっか、何してた?』
「いえ、特には何も……ぼんやりしていました」
『僕のいない寂しさで、泣いてやしないかと心配してたよ』
「それは大丈夫です。心配しないでください」
 寂しいのは確かにそうだけど、泣くほどじゃない。
 むしろ、寂しいという言葉さえ、彼に対しては告げたくなかった。彼を心配させたくない。出張先でも忙しいのだとわかっているから、家庭のことで心煩わせるのも嫌だった。
「瑞希さんはいかがですか。お疲れではありませんか」
『すごく疲れた。これからホテルに行くんだけど、部屋に入ったらすぐに寝入っちゃいそうだ』
「是非、そうしてください」
『でもそうすると、君と話が出来ないじゃないか。寝る前にもう一度、君の声を聞こうと思っていたのに』
 外を歩きながら通話しているらしく、彼の声は少し響いて聞こえた。そして確かに、疲れているようにも聞こえた。
「私は平気ですから」
 笑って、釘を刺しておく。
「無理をしては駄目です。こちらのことは気にしないで、ゆっくりお休みになってください」
 すると瑞希さんは不満そうに応じてくる。
『今は勤務時間外なのに、君は相変わらずつれないな』
「そんなことないですよ。瑞希さんのことを心配して言ってるんですから」
『やっぱり顔を合わせて話さないと駄目かな。声だけじゃ物足りない』
 その言葉は事実だと思う。声だけでは足りない。それに、こちらの気持ちだって伝えにくい。離れているからと思うと、なかなか正直には言えなくなってしまう。
「明日のお帰りは何時頃になりますか」
 待ち遠しい思いで私は尋ねる。途端、彼の声が曇った。
『それなんだけど。明日の夜はこっちで飲み会があるって言うんだ。ちょっとでいいから顔を出してくれって頼まれてさ』
「そうなんですか……」
『もちろん、最終には間に合うようにするよ。ただ、そっちに着く頃には日付が替わってるだろうから』
 そこで一つ、溜息が聞こえた。
『待ってなくていいからな。明後日も勤務だし、一海は先に寝てて』
 瑞希さんはそう言ったけど、私は即座に反論した。
「起きてお待ちしています。せっかく家に帰ってきたのに、私が寝ていたら、瑞希さんは寂しいですよね?」
『そりゃあ、そうだけど。でも僕だって、君に無理はさせたくないよ』
「無理じゃありません。平気です。そのくらいしないと、妻の名がすたります」
 言い募ると、やがて彼も諦めたように笑う。しょうがないな、と言ってくれた。
『だけど、くれぐれも無理はしないでくれよ。君が先に寝てたって、奥さん失格だなんて言ったりはしないから』
 優しい人だから、瑞希さんは私を気遣ってくれる。
 だけど私はそれ以上に、彼にとってのよき妻でありたいと思う。――寂しいと言いたくないのも、そういうことだ。そして彼の帰りが遅くなっても、ちゃんと起きて待っていたい。私はそういう妻でありたかった。
 電話を切った後、部屋の中がやけにしんとしていた。テレビを点けておけばよかったと今になって思った。
 潜り込んだベッドは冷たくて、広い。瑞希さんがいないだけで、何もかもが空虚だった。寝る直前にまた彼から電話があったけど、短い挨拶だけで終わった。愛を込めた言葉を贈り合っても、どうしても物足りなかった。

 勤務中はまだましだ。仕事に集中していれば、彼の不在を意識することはあっても、寂しさを感じている暇はないから。
 出張二日目の業務も滞りなく、何事もなく過ぎていった。途中、彼からの連絡があって、私は同僚たちから聞いたお土産の希望を伝えた。皆が聞き耳を立てていると知っていたので、その時もあくまで部下として会話をした。
 彼と、同僚たちの気遣いのお蔭で、彼がいない間もその声を聞くことは出来た。だから決して寂しいとは言えない。そんなことを言うのは贅沢だし、わがままだ。

 二日目の、一人きりの帰宅。誰もいない部屋に明かりを点けて、まずは着替えをする。それから手を洗って、夕飯の支度をする。私しかいないから、どうしても手を抜きたくなる。どうせ食欲もなかった。
 食事の後は化粧を落として、シャワーを浴びた。パジャマ姿で居間に座り込んで、ぼんやりと考えを巡らせる。
 一人でいるのが寂しいと思うようになったのは、いつからだっただろう。
 学生時代からずっと、私は親元を離れて、一人暮らしをしていた。自分の為に食事の支度をするのも、バスタブに湯を張ってのんびりと入浴するのも、一人でテレビを観るのだって普通のことだった。誰といるよりも一人でいるのが気楽だった。独身前はこうして過ごすのが当たり前だったはずだ。
 それがいつの間にか、当たり前ではなくなっている。平気ではなくなっている。食事は彼の為に作るようになり、入浴だって可能な限りは二人一緒になっていた。テレビを観る時も新聞を読む時も、何もしていない時だって瑞希さんが傍にいてくれた。大体のことを片付けたちょうど今時分は、二人揃ってぼんやりとしているのがいつものことだった。言葉を交わさなくても傍にいられたらよかった。幸せだった。
 無性に寂しくなって、私はソファーに寄り掛かる。時計を見遣る。午後九時。もうじき、瑞希さんが帰ってくる。もう少しで会えるのに、寂しくて堪らなかった。
 結婚してからというもの、私は寂しがりやになってしまったみたいだ。いや、彼と出会ってからと言うべきかもしれない。瑞希さんと一緒にいる幸せを知ってからは、寂しがりやで、どうしようもなく打たれ弱くなってしまったように思う。彼がいないというだけで、今まで出来ていたことが出来なくなってしまうくらい。今の私は幸せを知っている。知識でというだけではなくて、感覚的に知ってしまっている。きっと、知らない頃には戻れない。
 私は、せめて彼の前でだけはよき妻でありたかった。寂しさも弱さも全て、彼には秘密にしておきたかった。結婚生活の中で、彼に気取られないうちに何もかも克服してしまいたかった。
 彼が帰ってくるまで、あと少し。その『あと少し』が永遠にも感じられた。時計の針の進みが遅い。私はソファーの上、憂鬱な思いで目を閉じる。

 ――ふと、身体が傾いだ。
 おぼろげな意識の中、抱き上げられたのだとわかった。瑞希さんだとすぐにわかった。だけど、どうして彼がここにいるのか、そのことを疑問に思った時、私の身体はそっと着地した。ベッドの上に置かれた。
 はっと目を開けると、薄暗がりの中、彼の顔が見えた。目が合うと、彼は笑った。
「ああ、ごめん。起こしちゃったか」
「瑞希さん……」
 寝起きの声が出て、私は察した。いつの間にか寝てしまっていたようだ。見上げる彼はまだスーツ姿で、それでもにっこり笑んでいた。
「お帰りになってたんですか」
 尋ねながら身を起こそうとすると、すかさず両手で押し留められた。
「いいよ、寝てても。僕もさっき帰ってきたばかりなんだ」
 そう言って、彼はベッドに腰を下ろす。私に布団を掛けて、続ける。
「君がソファーで寝てたから、驚いたよ。無理しなくていいって言ったのに」
「すみません」
 恥ずかしさのあまり、私は布団に潜りたくなった。起きて待っていようと思っていたのにとんだ失態だ。あんなに寂しがっていたくせに、ぐうぐう寝入ってしまう無神経さは結婚前と変わっていない。
「待っててくれようとした気持ちはうれしいよ」
 瑞希さんが私に軽くキスをする。それから身を離して、ネクタイを解き始めた。
「ついでだから、もう少し待っててくれる? 今、シャワー浴びてくる」
「あ、それなら起きて待っています」
 私は起き上がろうとしたけど、やはり彼には止められた。
「いいって。後でちゃんと起こしてあげるから」
 苦笑と共に言い残して、彼は寝室を出ていく。やがて微かに水音が聞こえ始めた。瑞希さんが帰ってきたのだと、ようやく認識出来た。
 途端、じわじわと込み上げてきた。自分以外の誰かが傍にいてくれることは幸せだ。誰かの立てる物音がして、一人ではないと確かに実感する。この部屋に一人きりでいるのではないと思うと、ほっとした。たった二日の間に感じていた空しさ、味気なさが、掻き消えてしまうのがわかる。
 この部屋に瑞希さんがいる。帰ってきてくれた。明日からはまたいつも通りの――当たり前となってしまった日常が始まる。一度味わってしまったら戻れるはずがない。忘れることも出来ない。ただひたすら、彼の存在だけを望んでしまう。
 幸せは、人の心を弱くしてしまうのだろうか。
 それとも、元々弱いものなのだろうか。人の心は、幸せを覚えてしまうと、知らなかった頃に戻れなくなるほど弱いものなのだろうか。だとしたら、今の私は人間らしい心でいるのかもしれない。かつて、無神経で鈍感で、どうしようもなく卑屈だった頃と比べても、よほどまともでいるのかもしれない。

 しばらくして、水音が止んだ。
 代わりに忍ばせた足音が聞こえてきた。私はその時も、ちゃんと起きていた。そうしてベッドのスプリングが軋んだ瞬間、こちらから彼に抱きついた。
 本当は、お帰りなさいと言いたかった。
 なのに彼の体温を感じたら、違う言葉がついて出た。
「寂しかったです」
 わがままで、贅沢な言葉を口にしていた。
 瑞希さんはごく当たり前みたいに笑って、私を抱き締めてくれる。
「僕もだ。君に会いたかった」
 直後、唇を塞いできた感触は、覚えていた以上に柔らかだった。

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