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優しい嘘に呑まれないように(2)

 念の為、兄にも伝えておいた。
「そっちへ行くこと、うちの家族には知られたくないの」
 ホワイトデーの約束への返事が出来たのは木曜の放課後のことで、春は電話越しにその旨を伝えた。堂崎の家に行くのはいい、でも両親には秘密にしていたい、と。
『家族?』
 堂崎はその単語にあからさまな不快感を覗かせたが、
「だから、私の……」
 春が言いにくそうにすれば、多少態度を軟化させた。
『わかってるよ。お前はそう言うしかないもんな』
 お互いの内心は乖離しているが、額面では一致している。そう言うしかなかった。
「……ごめん」
『気にすんな。どっちにしろ、こっそりやるつもりだった』
 沈みかけた空気を混ぜっ返すように堂崎は笑う。一週間も待たされたせいだろう、その後の声のトーンは思った以上に明るかった。
『だったら、迎えに行くのは俺じゃない方がいいか。他の奴寄越すから』
「え、いいよ。私一人でも行けるし、お迎えなんて」
 屋敷の場所くらい知っている。というより、この街にいて堂崎家を知らない人間の方が珍しい。古い日本家屋の門構えと、広い敷地をぐるりと囲む石塀はよく目立つから、道に迷いようもない。
 しかし、春の言葉を堂崎はあっさりと払いのけた。
『けどお前、まさか玄関から入る気はねえだろ?』
「え? いや……いくらなんでも玄関から入るよ。他の入り口あるの?」
 堂崎家の敷居を跨ぐのはさぞ勇気と覚悟がいるだろう、春もそうは思っていたが、だからといって玄関から入らないという考えはなかった。よその家にお邪魔するのに、他にどこから足を踏み入れるというのか。
『それを教えてやらなきゃならないから、迎えが必要なんだよ』
 兄は笑い、明言こそしなかったが他の入り口の存在を示唆した。あるとすれば勝手口かな、と春はぼんやり想像してみる。あんなに古いお屋敷なら、秘密の入り口があったっておかしくないかもしれない。
 ともあれ、あの家に正面から入らずに済むのは春にとってもありがたい。
『心配すんな。ガラの悪くない格好で行けって言っとくから』
「吉川さんにお願いするの?」
『何だよ。あいつがいいのか?』
 質問に返された質問はほんの少しの棘を含んでいた。春は苦笑いを噛み殺す。
「だってお兄ちゃんのお友達で知ってる人、吉川さん以外にいないから」
『……しょうがねえな。あいつにしとくから、ちゃんと来いよ』
 そして堂崎は、友達という単語には不快感も、否定も示さなかった。

 二日後の土曜、春は朝早くに起床した。
 日付の変わる頃から雨が降り出していて、春は昨夜、ひたすら雨音を聞き続けた。携帯電話を何度も開き、表示されている日時をしつこいくらいに確かめては、言い知れない緊張と恐れを胸に抱いた。不安があろうと眠れなかろうと、本当にあの家に行く日がやってきたのだ。
 布団を上げて自室を出た時、玄関ではちょうど父が出勤するところだった。靴べらを使って靴を履く父と、父のカバンと傘を預かる母とが、揃って振り返った。
「おや、おはよう。休みの日なのに早いな」
 父が驚いた顔をするので、春は目を擦りながら答える。
「おはようございます。今日はクラスのお友達と約束があるんです」
「そうか。楽しんでおいで」
 目元を和ませる父の態度からは、娘の言葉を疑うそぶりは見当たらない。再来年で還暦を迎える春の父は、それでも大変姿勢がよく、靴を履き終えた後の立ち姿はすらりとしていた。今朝もスーツを着込み、早いうちからあの家へと仕事に出かけるようだ。
「行ってきます」
 母に使い終えた靴べらを手渡し、代わりにカバンと傘を受け取って、父は玄関の戸を開ける。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃい、お父さん」
 母と春の声が重なると、父はもう一度だけ振り向いた。家族の前ですらあまり笑ってみせることのない父だが、優しい表情をすることはいくらでもあった。今も控えめな会釈を残して、それから家を出て行く。
 擦りガラスに映る父の影は、開いた傘の影と共にすぐ消え去った。
 戸の開け閉めに伴い、冷たい空気が玄関へ流れ込んでくる。
「春。帰りは遅くならないようにするのよ」
 靴べらを片づける母は、娘の顔を見ずに言う。母の方は、もしかすると感づいているのだろうか。ここのところ、春が出かけるといえばいつも硬い表情をするから、どちらかといえば手当たり次第に疑いをかけているだけなのかもしれないが。
 父ほどではないものの、母だってもう若くはない。最近は体調不良を訴えることも多くなっていた。あまり心配をかけずにいたいと思う反面、兄との絆を保ちたい、繋ぎ止めていたい気持ちは抑え切れない。
 ただ、春の家族は父と母の二人だけだった。
 その事実はきっと、何年先でも変えられない。
「はい、お母さん」
 春は殊勝に頷き、後は逃げ込むように洗面所へと足を向けた。

 堂崎との約束の時間は午後一時。
 迎えが来たのは十五分前の十二時四十五分で、呼び鈴を鳴らした吉川を、春の母が出迎えた。外ではまだ雨が降っていたらしく、春の母は吉川に玄関の中へ入るよう勧め、ぎくしゃく拒んでいた吉川も最後には押し切られて中に入ったようだ。
 春は二人の会話をふすま越しに聞きながら、鏡の前で厚いコートを羽織った。映る顔はやはり強張っていて、紙のように白い。一度深呼吸をしてから気持ちを奮い立たせた。
 大丈夫。きっと、よくないことなんてない。
 支度を終えて廊下に出ると、その先の玄関では吉川が突っ立っていた。前髪は正月の時と同じように下ろしていて、スタジャンにジーンズに水滴をぽたぽた落とした透明な傘、という実に無難ないでたちだった。吉川は春の顔を見ると一瞬びくりとしてから、虚勢でも張るみたいに短く息をつく。
 そして言った。
「迎えに来た」
 そこで堂崎の名前を出さなかったのは、恐らく彼自身に釘を刺されていたからだろう。春が頷けば大層居心地の悪そうな顔をしながらももう一言、
「ほら、行こう」
 言い慣れていないらしい口調で促してきた。
 春は急いで靴を履く。見送りに出てきた母が傘を差し出してきたから、礼を言って受け取る。
「ありがとうございます、お母さん」
「寒いから気をつけてね。行ってらっしゃい」
 母は細い目で、じっと春を見下ろしている。
 何か言いたげなのに、決して何も言うまいと決めているような張り詰めた眼差し。
 緊張を孕んだ時、低くなる声。
 向けられた全てに対してどうしていいのかわからず、春の方が先に目を伏せた。
「行ってきます」
 家を出る。

 外はほんのり肌寒い。雨脚はそれほど強くはなく、しとしとと細く降り続いていた。
 春が紺色の傘を開いている間に、吉川は透明な傘を差して歩き出していた。慌てて後を追ったが、アスファルトの道を行く二人の間には、しばらく二歩分の開きがあった。
 吉川はどこへ行くかについて何も言わなかったが、案内役を務めてくれるつもりはあるようだ。時々こちらを振り返り、しきりと気にする様子を見せた。目が合えばたちまち逸らされてしまうのだが――どうも、いまだに恐れられている。
 少し気まずい。
 でも話をしてみたい。何せ彼は兄にとって、数少ない親しい相手だ。
「あの」
 春が何か話しかけようとすれば、水たまりを飛び越えようとした動きがびくりと止まった。慌ててそれを迂回してから、春を制するように吉川の方が口を開く。
「一個、聞いてもいいか」
 おやっと思ったが、ひとまず急いで答えておいた。
「答えられることならいいよ」
 短い間の後、二人の距離が一歩分になる。
「桂木……さんって」
「うん」
「実は、その、何て言うか――いいとこのお嬢様だったり、するのか?」
 目の端で春を見て、慎重に尋ねてくる。
 春は最初うろたえたものの、すぐに平静さを取り戻して聞き返す。
「どうして?」
「いや、親に敬語使ってる奴とかうちの学校でもあんま見ねえし、家の感じも何か、古風っつーかさ」
 吉川は話しながら考えをまとめているのか、そこで一旦間を置いた。軽く首を傾げながらしばらく歩いた後、続けた。
「お前の母さんもちょっと、上品な感じしたし」
「……そう、かな。初めて言われた」
 他人に母親を評される機会がまずなかったから、春は吉川の言葉に驚く。確かに父親同様、古風な考え方の持ち主であることは間違いないが、上品と言われると不思議な新鮮味を覚える。
 あの母親もかつては堂崎家の使用人だったと聞いている。どんな仕事をしていたのかは父同様、想像もつかない。
「だからよ、俺、思ったんだけど」
 戸惑う春に対し、吉川は更に言う。長い前髪を空いた手でかき上げながら、
「もしかして桂木、さん。堂崎さんの婚約者だったりして、とか」
 婚約者。
 一層新鮮な単語が飛び出してきて、春は呆気に取られた。
 そんな春の反応を窺うように、一歩先からちらちら視線が投げかけられる。
「もしそうなら俺、桂木さんのこと、『姐さん』って呼ばなきゃだろ」
「私が?」
 堪らず春は吹き出した。まさか自分がそんな呼び方をされるなんて思いもしなかった。
 が、吉川の方は笑われたことに若干腹を立てたらしい。すぐに食ってかかってきた。
「笑うなよ! 真面目な話だ、こっちは本当に神経使ってんだからな!」
「ご、ごめんなさい。でもそういうのじゃないから、全然ないから」
 笑いを堪えながら答える春は、心の中でだけ付け足しておく。――『ねえさん』じゃなくて妹なんだけど。言うつもりもないものの。
 吉川は春の否定に嫌な顔をしたし、疑り深い目も向けてきた。
「けど桂木……さんだけだぞ、堂崎さんがこんなに大切にしてる女って」
「あ、呼び捨てでもいいよ。言いにくいなら」
「そうはいかねえんだって。そっちがどう思ってっか知らねえけどな、堂崎さんは絶対桂木に……いや桂木さんに惚れてる。間違いねえよ」
 他の考えはないとばかりに力説する吉川を見て、春はどう返事をすべきか悩んだ。

 ついでに、ほんの少しの寂しさも感じた。
 他人からそういう関係しか連想されないほど、自分と兄とは全くもって似ていないらしい。
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