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四年目(4)

 藤田さん退職の影響は、その日のうちにやってきた。
 総務課一同、寝耳に水の退職だった。課長を筆頭に引き継ぎの段取り決めや分担の為の打ち合わせに追われた。もちろん並行して通常の業務も行うというめちゃくちゃな進行ぶりだ。藤田さんの希望は月末での退職、それを叶える為には実にタイトなスケジュールをこなさなくてはならない。
 ただ、おめでたい話だけに文句を言う気になれないのも事実だ。俺自身、個人的な軋轢やら印象やらはともかくとして、藤田さんが結婚すること自体に不満を唱えるつもりはない。この忙しさだっていつまでも続くものではなし、少しの間頑張ればいいことだと覚悟を決めることだって出来た。
 来週の金曜日、二十六歳の誕生日についても、しょうがないと諦めがついていた。
 現実とはつまりそういうものだ。

「残念だったね、播上くん」
 キーを打つ音の合間に、藤田さんは嬉々とした声を上げてくる。
 顔は見えない。見たいという気持ちも起こらなかったし、顔を上げたところで机に積まれた資料が邪魔で、藤田さんのいる席まで視線が届かなかった。
 夜半過ぎの総務課オフィスで、俺は当然のように残業している。そして、当の藤田さんと二人きりだった。
 なぜこの人が珍しく残業なんぞをしているかと言えば、引き継ぎの為の資料作りをしなくてはならないからだ。きっとぶつくさ言いながら作業をするのだろうと思っていたが、意外にもごく平然としていた。どうやらとっとと辞めてしまいたいようで、その為なら多少の労も惜しまないということらしい。
 そして藤田さんの労が今、俺の机の上に積み重なっている。九年目の先輩の受け持っていた業務は多岐に及び、引き継ぎに当たっては脳内メモリの増設を余儀なくされそうだ。ロースペックの頭ではついていくのさえやっとだった。
「清水さんと誕生日のお祝いがしたかったのに、私のせいで駄目になっちゃって」
 笑うような口調で告げられ、苛立ちよりも先に恥ずかしさを覚える。既に見抜かれているとは言っても、自分の下心を指摘されるのは気まずいものだ。俺は資料に目を通しながら聞き返す。
「何でそんなこと知ってるんですか」
 資料内に記された引き継ぎ業務のうち、疑問点を抜き出してメモを取る。後で藤田さんに質問しなくてはならない部分だ。
 その藤田さんからは、すぐに答えがあった。
「聞いてたらわかるよ」
「聞かないでくださいよ」
「だって聞こえちゃったんだものしょうがないじゃない? すぐ近くに私が座ってるの、気づかなかった?」
 全く気づかなかった。
 清水しか見ていなかったから、だろうか。そうだとすると自業自得だ。もっと周りに気を配っておけばよかった――俺は今更悔やんだが、どうしようもなかった。
「ま、これでチャンスが全部潰えちゃったわけじゃないんだし」
 不意に、藤田さんの声がそう言った。
 その声がそんな言葉を口にするとは思わず、一瞬驚く。
「播上くんはこれからもこの会社で、清水さんと一緒にいるんでしょ? だったらチャンスくらいいくらでもあるじゃない。向こうにその気があるかは別としてもね」
 後に続いたのはいつも通りに辛辣な物言いだったが、それでも意外に感じた。藤田さんが俺に対して、多少なりとも前向きなことを告げてくるのは初めてかもしれない。
 結婚するから、だろうか。
 話題を逸らす目的もあり、俺は思い切って尋ねた。
「質問してもいいですか、藤田さん」
「内容によるけど。何?」
「藤田さんの旦那さんになる男性って、どんな方なんですか?」
 数秒間の間があり、藤田さんの鋭い声が答える。
「私、その『旦那』って形容が嫌いなの」
「え? ええと……」
「旦那って、何だか男の方が偉いみたいな物言いじゃない? 結婚したら女は男の召使いなのかって感じ。だからそういう言い方はやめて」
「すみません」
 すぐさま詫びたものの、腑に落ちるような、落ちないような。確かに夫が『旦那』なら妻は『家内』だから、差別的と言えばなるほどそうなのかもしれない。
 ともあれ、求めていた答えは直後にあった。
「別に普通の人。何のとりえもない人だよ」
 藤田さんはつまらなそうに言ってから、一転楽しげに語を継いだ。
「あ、播上くんに似てるかもね。趣味以外の話は出来ないところとか、下心を隠すのが上手くないところとか、そのくせ言い訳だけはやたら上手いところとか」
 俺はそういう人間だと思われているのか。
 清水もそう思っているのかな。違うといいなとこっそり願う。
「播上くんと違うところは、あの人の場合、見せかけだけの『お友達』を十年近く続けてきたってことかな」
 その言葉に、反射的に顔を上げたくなった。
 上げたところで藤田さんの表情は積まれた資料に遮られて見えない。
 ただこちらの驚きだけは伝わったらしく、向こうで微かな笑い声がした。
「びっくりした?」
 笑いながら問われた。
「ええ」
 俺が頷くと、更に笑われた。
「前に言ったよね。私、播上くんと清水さんみたいな人が一番嫌いなんだって。その理由、わかったでしょ?」
 わかった。
 つまり、藤田さんの結婚相手と言うのは――。
「学生時代からの付き合いなんだけどね」
 タイプ音に交じって、どこか呆れたような語りが聞こえてきた。
「これがもう煮え切らない男で。私のこと好きなくせになーんにもしてこないし、なーんにも言ってこないしね。態度でばればれなのにばれてないと思い込んでるし、あまりにも及び腰だから、こっちだって真面目に構ってられなくなっちゃった」
 身につまされる話だ。資料を読もうとする視線が、紙の上を滑っていく。
「播上くんの方がまだましかもね。播上くんは清水さんを落とそうと必死になってるところみたいだけど、あの人は行動に出ようと決断するまでに十年掛かったんだから。しかも理由が酷いの。『遠隔地に転勤するから、一緒に連れて行こうと思った』、だって」
 言葉からは、藤田さんがその人のどこが好きなのかよくわからなかった。
「どうして、そういう人と結婚しようと思ったんですか」
 つい尋ねたら、鼻を鳴らされた。
「随分踏み込んで聞いてくるね、播上くん」
「立ち入ったことを聞いてしまってすみません。撤回します」
「別にいいけど。理由は簡単だよ、他に相手がいないから」
 そっけない答えだった。
「他に、狙ってた相手はいたんだけどね」
 そう口にした時だけ、彼女の声が沈んだような気がした。
「播上くんは知ってるよね。彼と仲良かったから、私が振られたのも聞いてるんでしょ?」
 俺は答えなかった。渋澤からは確かに聞かされていたものの、その事実を喋ってしまってもいいかどうか、とっさに判断出来なかったからだ。
 どちらにせよ藤田さんは、俺の答えを待たなかった。話を続けた。
「渋澤くんにはあっさり振られて、私も三十過ぎちゃったし、そろそろ潮時かなって。そしたらようやくプロポーズしてきたから、しょうがなく妥協してみただけ」
「妥協って……」
「そんなもんだよ、私は他に選択肢がないもの。キープしてた相手一人しかいなくなったから、それでいいやって思うしかないじゃない。人間、諦めも肝心だしね」
 冷めた言葉からは感情が窺えない。見えないだけなのか、それとも本当に何もないのか、読み取れない。
「だから播上くんも、キープされてるうちが花だよ」
 藤田さんの声に笑いが戻る。
「私の場合は当てが外れたけど、清水さんは運良くいい男を捕まえるかもしれないしね。早目に行動に出るのは正解かもしれないよ? 上手くいくかどうかはわかんないけど」
 多分、藤田さんは自分と清水を重ね合わせているんだろう。
 自分と同じように、清水も俺をキープしているだけだと思っているらしい。そんなことはないのに。
「清水はそんな子じゃないですよ」
 怒りよりも呆れる思いで俺は反論した。
 一緒にしないで欲しい、言外にそういう気持ちが表れていたかもしれない。資料に目を落としながら、俺は心の中で臨戦態勢を取っていた。
 言葉よりも先に、ぎい、と椅子の軋む音がした。
 はっとして視線を上げると、藤田さんの立ち上がる姿が映る。彼女はこちらを見下ろしていた。訝しさと呆れとが半々の面持ちで、俺を斜めに見下ろした。
「どうしてそう言い切れるの? 私とあの子、同じ女なんだよ?」
「どうしてって。性別が同じでも、藤田さんと清水は違う人間ですから」
「違うって言うなら、男と女はまるっきり違うじゃないの」
「それはそうですけど、でも」
「男って不思議だよね、女のことを全部わかったような顔をするんだから。本当はちっとも、なんにもわかってないくせに」
 言葉に詰まった俺を見てか、藤田さんは帰り支度を始める。てきぱきとパソコンの電源を落とし、椅子を収め、こちらに声を掛けてくる。
「あ、新人研修用の資料も出来たから、イントラで送信しといたよ。あとで確認してね」
「わかりました」
 俺が頷くと、藤田さんはにっこり笑って手を振った。
「じゃあお先に、播上くん」

 次の週末を、俺は引き継ぎ資料の読み込みと食事のストック作りに費やした。
 来週はずっと慌しいだろうし、遅くまでの残業も余儀なくされるだろう。そう踏んで、土日のうちに備えておくことにした。食材を買い溜めし、下ごしらえをした後で小分けにして冷凍保存。これで食事の支度が楽になる。
 清水からメールがあったのは日曜日の夕方だった。
『唐揚げ、大成功だったよ。見事お兄ちゃんの度肝を抜いてやりました。お母さんより上手だって言ってもらえたよ!』
 無機質な文字まで躍って見える彼女の報告。俺は微笑ましく思いながら返事を打つ。
『よかったな、おめでとう』
 送信してから、その文面のそっけなさに苦笑したくなる。清水とのこうしたやり取りはもう三年以上も続いていることなのに、メールの文章が簡素なのは相変わらずだった。
 藤田さんの言う、趣味の話以外が出来ないという指摘は実に的を射ていた。料理以外の話を女の子とするのは得意じゃない。たとえ相手が付き合いの長い清水でもだ。
 その清水が、再度メールをくれた。
『ありがと。播上もお仕事大変みたいだけど、頑張ってね。また月曜日にね!』
 月曜日はどうだろうな。しばらくは忙しいから昼休みの時間も惜しいし、食堂には行かず、総務課で弁当を食べるかもしれない。

 ふと、藤田さんとの会話を思い出す。
 あの人と十年も友人でいた男の気持ちはよくわからない。どうして十年間、何の行動も起こさずにいたのか。どうして十年目で行動を起こす気になったのか。会ったことすらない相手だ、何を思ってそうしていたのか知るよしもない。
 藤田さんの気持ちは、それでもわかるような気がする。あの人の言葉を借りるなら、本当は何もわかっていないくせに、わかったようなつもりになっているだけだ。だとしても察することは出来た。あの人が俺と清水の関係を、どれほど歯痒く思っていたか。そこに自分と、もうじき結婚する相手とを重ね合わせて、どれだけの苛立ちを覚えていたか。あの人からすれば男女の友情なんて出来の悪い張りぼてみたいなものなのかもしれない。決してきれいじゃない本音を覆い隠して、それでも隠しきれずにつぎはぎの隙間から下心が覗いてるような、そんな絵に映るのかもしれない。
 もちろん、異性間においても純然たる友情は成立する。俺は今でもそう思うし、清水のことを純粋な友人として見ていた時期もあった。その時期があったからこそ今があるとも思う。ただ、今の俺は友情を騙って彼女の隣にいるだけに過ぎない。そして藤田さんの結婚相手も、きっとそういうふうにしていたんだろう。藤田さんはそれを目の当たりにしてきたからこそ、男女の友情を否定するんだろう。
 清水はどうなんだろう。彼女も藤田さんの考え方に共感するだろうか。

 携帯電話を握り締め、俺はしばらくぼんやりしていた。
 すると不意に電話が鳴った。
 手の中で音を立てる電話の画面を覗き込むと、掛けてきたのは渋澤だった。
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