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歩く速さの恋人たち

 霧島さんは笑顔で言った。
「とうとう俺の部屋にも、文明の利器がやってくることになりました」
「ぶ……文明の利器、ですか?」
 何のことだろう。ぽかんとする私に対し、テーブル越しの位置にいる彼は意気揚々と続ける。
「先輩から、DVDプレーヤーを安く譲ってもらったんです。これで吹き替えや字幕を気にせずに映画が借りられます」
「そういうことですか」
 私も納得した。
 彼の部屋にはビデオデッキはあっても、DVDプレーヤーはなかった。二人で映画を観ようとレンタルビデオ店に行けば、必ず『吹き替え』か『字幕』かで頭を悩ませる羽目になった。タイトルによっては片方の種類しかなかったり、借りたいと思う方が既に借りられていたりと、悔しい思いをすることもたびたびあった。そんな時は必ず、私よりも霧島さんの方が悔しがった。
「せっかく長谷さんが遊びに来てくれるようになったのに、何のおもてなしも出来ないようでは恋人失格ですから」
 力説する霧島さん。昼下がりの空き始めた社員食堂内、彼は私だけに聞こえる声で続ける。
「今まではドンジャラとトランプしかないような部屋でしたが、少しずつ物を揃え始めています。長谷さんにもくつろいでもらえるような空間をご提供しようと計画中です」
「気を遣わなくてもいいんですよ」
 と、私は毎回言っている。彼の物言いは営業課の人らしいなあ、とおかしく思いながら。
 霧島さんの部屋に、ごく自然に遊びに行くようになってから大分経つ。私が彼のところへ行くのは彼がいるから、たったそれだけの理由だというのに、当の本人は未だにあれこれと気を遣いたがる。私が退屈しないか、つまらないと思いはしないかと不安なのだそうだ。そんな思いをしたことはただの一度もなかったのに。もう十回以上はお邪魔しているけど、一度としてなかった。
 それでも、彼の部屋にはいつの間にか物が増えていた。フローリングの床の上には座り心地のいいラグマットが敷かれるようになった。二人掛けの小さなソファーも置かれるようになったし、食器も一揃い増えていた。洗面所には歯ブラシと化粧品を置いてもらっているけど、これは私が揃えたものだ。あとは布団をもう一組揃えたら完璧ですねと言ったら、要らないと思います、と彼に断言された。そんな風に、私たちは恋人らしく休日を過ごすようにしている。
 退屈するはずがない。私はそう思っているけど、彼にはまだ満足のゆかないことがあるらしい。だからこそ、この度の文明の利器来訪と相成ったのだろう。――文明の利器という言葉も、最近あまり聞かないものだけど。
「私は霧島さんがいてくれたら、それだけで楽しいです」
 社員食堂で言うべき台詞じゃないなあ、と自覚はしつつ。それでも私が告げると、彼は照れたような面持ちであんかけ焼きそばを一口食べた。相変わらず、麺類の好きな人だった。
 その後で、言いにくそうに反論してきた。
「俺だって、それは、その通りですよ。長谷さんがいてくれたら十分です」
「うれしいです。ならお互い様ってことで、気を遣うのはなしにしませんか?」
「気を遣っているという訳ではないんです。ただ、長谷さんにつまらないと思わせるのが嫌なんです」
 霧島さんの口調は真剣そのもので、確かに私のことを考えてくれているのだとわかる。だけど、恋人同士でいるのも大分経つのだし、そろそろ気楽に、気軽に接してくれてもいいのにな、なんて思う。多少放っておかれたって、一緒にいられたら平気なくらいなのに。
 困るというほどではないけど、どう言ったらわかってもらえるのかな。

 私が更なる反論の言葉を考えていると、不意に差し向かいのテーブルの上、影が落ちた。
「社員食堂でデートの相談か。弛んだ奴だ」
「霧島が弛んでるのは今に始まったことじゃないけどな」
 現れたのは営業課の、安井さんと石田さん。途端に霧島さんが顔を顰めた。
「立ち聞きですか、先輩たち。趣味が悪いですよ」
「あ、お前。お世話になってる先輩にそういうこと言うのか?」
「そうだぞ霧島。文句があるならこないだ譲ってやったDVDプレーヤー返せ」
「ちょっと、先輩! 何でこのテーブルに座るんですか! よそ行ってくださいよ!」
 霧島さんの叫びも空しく、安井さんと石田さんの二人は彼の隣に次々と腰を下ろす。私の向かい側には営業課の三人がずらりと並んで、なかなか壮観だった。
「たまに混ぜろよ、俺だって長谷さんと話したいんだ」
 安井さんがもっともらしい口調で言えば、すかさず石田さんが語を継いでみせる。
「勤務中の長谷さんはお前だけのものじゃないんだぞ。独り占めしようだなんて贅沢、間違いなく罰が当たる。尊敬する先輩方に譲ろうって気はないのかよ」
「今は休憩時間中ですよ。それに長谷さんは譲れません!」
 あまりにもきっぱりと霧島さんが言ったので、私は俯き、ちょっと照れた。
 この三人が集うといつでも、私が口を挟む余地はなくなる。そして安井さんと石田さんにからかわれた霧島さんが、私にとって何ともどぎまぎするようなことを言い出すのが、くすぐったいなと思っている。
「大体お前、いつまで『長谷さん』って呼ぶつもりなんだ?」
 Bランチの安井さんが、行儀よく割り箸を割る。その問いに、霧島さんも私も、揃ってきょとんとした。
「どういう意味ですか、先輩」
「だから、名前で呼ばないのかってことだよ」
 呆れたように笑う安井さん。すると、焼き魚定食をつまむ石田さんが、笑いを堪える顔で言ってきた。
「そういやそうだよな。付き合い出してもう結構になるんだろ? なのに霧島と来たら、いつまで経っても初々しいというか、杓子定規というか」
「親しき仲にも礼儀ありですから。いいんですよ、俺たちはこれで」
 霧島さんが突っ撥ねる。だけど聞いていた私も、そういえばそうだっけ、と思ってしまう。
 彼は私のことを『長谷さん』と呼ぶし、私も彼を『霧島さん』と呼んでいる。それは恋人期間がこうして長く続いてきていても、一度として変わっていない呼び合い方だった。考えてみると、呼び方を変えようと思ったことすらなかった。向こうも名字で呼んでくれているし、私も同じでいいかな、と暢気に構えていた。彼限定で、名字で呼ばれるのも何となく、甘い感じがするから。
 とは言え、第三者から見たら不思議なことでもあるらしい。
「減るもんじゃないんだし、普通に呼べばいいだろ。『ゆきのさん』『映さん』って呼び合っちゃえば」
 ごく軽い口調で石田さんは言ったけど、それを聞いただけで私は、非常に照れた。照れているところに、更に水を向けられた。
「そうだよな、長谷さん? もういい加減名前で呼べって、内心では思ってるだろ?」
「あの、私はどちらでも、呼び易いように呼んで貰えたらいいと思ってます」
 気恥ずかしい思いで答える。映さん、なんて呼べるだろうか。声に出したら今以上に、ものすごく、照れそう。かと言って呼び捨てはもっと無理だ。絶対に無理。
 私の答えを聞いて、霧島さんが言った。
「ほら、長谷さんもそう言ってます。俺たちはこれでいいんです」
 だけど安井さんと石田さんは顔を見合わせて、それからふと、にやりとしてみせた。
「じゃあ俺たちが先に呼んじゃうけど、いいのか」
「は? 先にって……」
 怪訝そうにする霧島さんを尻目に、二人の先輩たちは口々に言った。
「ゆきのちゃん、霧島なんか止めて俺のところに来てくれ!」
「愛してる、ゆきの! 結婚しよう!」
 霧島さんにも呼ばれたことのない、私の名前を。
「な……何ですか先輩っ!」
 途端に霧島さんが叫んだ。
「止めてくださいよ、長谷さんは俺のです、勝手に呼ばないでください!」
 その叫びを聞いた営業課の先輩たちはげらげら、声を立てて笑った。
 そして会話に入っていけない私は、照れのせいでひたすら、俯いていた。
 ――男の人同士の会話は眩しくも、気恥ずかしくもある。お蔭でその日のお昼ご飯は、なかなか喉を通らなかった。

 だけど、実際どうなんだろう。
 恋人同士なのに名字で呼び合うのって、変だろうか。普通じゃない? お願いして、名前で呼んでもらうようにした方がいいのかな。
 元々が仕事帰りに知り合った同期の人、というきっかけだっただけに、今更フランクな呼び合い方をするのも抵抗があった。皆はどうやって名前呼びに移行するものなんだろう。私たちがタイミングを誤っただけで、本来なら恋人同士になった瞬間にそうするべきだった? だとしたら、今からでも挽回は利くんだろうか? そもそも、どうしても名前で呼び合わなくちゃいけないものなの?

 あれこれ一人で考えても埒が明かない。そう思った私は、二人きりの時を見計らって、彼本人に尋ねてみた。
 ちょうど、彼の部屋で過ごすことになった休日。やってきたばかりの『文明の利器』DVDプレーヤーに、借りてきたばかりの映画DVDをセットした直後。ソファーに並んで腰掛けた、そのタイミングで聞いた。
「霧島さんは、名字で呼ばれるの、抵抗ないですか?」
「え?」
 リモコンを手にした霧島さんが、こちらを向く。怪訝そうな顔をしている。すぐに、ふっと口元をほころばせた。
「もしかしてこの間のことですか。先輩がたが言ってたこと、気にしてます?」
「……多少は」
 私が笑い返すと、彼も笑顔で肩を竦める。
「あの人たちの言うことは深く気にしないでください。からかい半分ですから」
 そう言って、リモコンの操作を始める。私は彼の手元を見ながら、実際その通りなんだろうな、と内心で同意もする。からかわれているのは確かだ。
 でも、半分は事実でもあると思う。付き合い始めてからその先もずっと、名字で呼び合う人たちはそういないんじゃないだろうか。皆、どの辺りで切り替えるものなのかな。
「長谷さんは、名前で呼ばれる方がいいですか?」
 リモコンを置いた霧島さんが、ソファーの背凭れに寄り掛かる。そういう時でも両手は膝に置いて、妙に行儀よく見えるのが彼だった。
 私もソファーに背を預け、彼に向かって苦笑してみた。
「正直、よくわからないです」
 名前で呼ばれたいのか、名字のままでも構わないのか。今のところ、肝心の自分の気持ちがよくわからない。
「ですよね。俺もです」
 率直な言葉に頷きを貰うと、少しうれしい。
「しばらくは名字のままでもいいかなって思うんです。ほら、うちの社に、他に同じ名字の人がいたら別ですけど」
「ああ、そうですね。『長谷』も『霧島』も他にお見かけしませんし」
「間違える心配のないうちは、楽な呼び方でもいいと思います」
「賛成です」
 意見が完全に合致した。私と霧島さんとは顔を見合わせ、何となくうれしくなって笑い合う。
 その後で彼は、私の手を取った。ごく軽く握って、笑んだままで続ける。
「でも、俺の両親と会うことになったら、その時は名前で呼んでもらえると助かります。全員名字が同じなので、こんがらがってしまいますから」
「それもそうですね」
 霧島さんの言葉に私は納得し、また笑った。彼の家は皆『霧島さん』だろうし、うちの両親はどっちも『長谷さん』だ。お互いの家族と顔を合わせる時は、それぞれ名前で呼び合う方が混乱しなくていいかもしれない。
 だけど、家族同士が顔を合わせる機会ってあるだろうか。お互い、実家はこっちの方ではないし。
 もし、そういう機会があるとすれば、それは――。
 私がぼんやり考えている目の前で、テレビの画面が切り替わる。映画の配給元の名前が消え、オープニングテーマが掛かる。映画が始まった。日本語吹き替えはのんびり観たい時にはぴったりだ。
「……ちょっと、遠回し過ぎたかな」
 ふと霧島さんが呟いた。
 直後、軽く握られていただけの手に力が込められたのがわかった。指が絡められて、しっかりと繋がれる。驚いた私が彼の方を見ると、僅かに気まずそうな顔が同時にこちらを向いていた。
「ゆきのさん」
 彼が、私の名前を呼んだ。
 息を呑んでしまったせいで、私は返事が出来なかった。びっくりしていた。だって。
「今すぐではありませんが、将来的に結婚してください」
 いつもの穏やかな表情と、レンズの向こうの温かい眼差し。彼はゆっくり言葉を継いだ。
「それまではお互い、呼び易い呼び方をするということでいいと思います」
 映画が既に始まっている。日本語のはずの台詞が次々と聞こえてくる。なのに頭に入らない。テレビの方を、せっかくの文明の利器を、観ることすら出来ない。
 私は、ぎくしゃく頷いた。
 それから呼吸を整えて、何とか答えた。
「練習します。霧島さんのこと、自然に名前で呼べるように」
「急がなくていいですよ。ゆっくりで。時間はまだまだありますから」
 彼はそう言って、はにかむように笑んだ。
「俺もまだ慣れてないです。しばらくは、今まで通りに呼ばせてください」
「はい」
 また頷く。ゆっくりでいい。私もそう思う。
 だって私たちは今まで、ずっと、そんな風だった。ゆっくりと今日まで歩いてきた。急いだことも、焦ったこともなかったと思う。だから、これからだってゆっくり、のんびりでいいはずだ。
 いつか、自然に呼べるようになる。お互いの名前。必要に駆られる頃には、きっと。
「映画、観ましょうか」
 どこか困ったように笑う霧島さんが、不意に言った。
「そうしましょう」
 私はもう一度、頷く。そしてテレビに視線を戻す。

 文明の利器があるこの部屋は、どきどきする、浮つきがちな空気に包まれていた。
 だけどとても、居心地がいい。
 今日も退屈することはなさそうだ。――これから先だってずっと、そうだろう。ゆっくり、のんびりが似合う私たちだから、退屈に思うことなんて、絶対にない。
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