Tiny garden

椿は恩を忘れない

 ばあちゃんの家には、妖怪がいる。

 初めて出会ったのは俺が小学三年の時だ。
 じいちゃんの一周忌で親戚一同がばあちゃん家に集まった。ばあちゃん家周辺は田舎も田舎、ド田舎で、何にもないところだった。当然、子供には暇で暇で仕方がない場所だったけど、親戚の中で子供は俺一人だった。
 それで俺はすっかり暇を持て余した。縁側に座って、ばあちゃん自慢の庭を眺めながらゲームをしていた。
 七月だった。切りつけるような陽光が差し込む真昼の庭には、すくすく育つ木々の影が黒く焼きついていた。ちょうど夏椿が花期を迎えていて、真っ白い花が枝だけじゃなく地面に落ちてまで庭を賑わせていた。
 そこに、そいつは急に現れた。

 ゲーム機の液晶画面にすっと影が落ち、俺は思わず顔を上げた。
 さっきまで無人だった庭に、見知らぬ女の子の姿があった。
 白い浴衣に赤い帯、風にそよぐ黒髪のその子は、俺と同い年くらいに見えた。
「お前、誰?」
 俺はその時、そんなふうに尋ねたと思う。
 だけどその子は黙っていた。恥ずかしそうに微笑んで、俺の顔とゲーム機の画面を交互に見つめているだけだった。
 一緒に遊びたいのかもしれない、そう受け取った俺は次に、こう声をかけた。
「やりたい? なら一緒に遊ぼうぜ!」
 女の子が嬉しそうに、無言で頷くのを見て、俺もすっかり嬉しくなった。何にもないと思ってたド田舎で友達ができた。
 仲良くなれるといいななんて思いながら、俺はできたばかりの友達にもう一つ質問をした。
「俺、夏生。お前の名前は?」
 途端に女の子は顔を輝かせて、
「じゃあ、私は椿!」
 と名乗った。

 今になって思えば、どう考えても変わった子だった。
 そもそも『じゃあ』って何だ。俺の名前を聞いて初めて、自分に名前をつけたみたいだ。
 でも小三の俺は引っかかるどころか、一切気にせずに新しい友達と遊びまくった。一台しかないゲーム機を替わりばんこでプレイして、すくすくと伸びた庭木の陰でかくれんぼもした。疲れたら縁側に座って一緒におやつを食べ、指相撲なんてけしからん遊びに興じたりもした。

 そのうち日が暮れて夕飯の時間になって、ばあちゃんが俺を呼びに来た。
「お友達もそろそろ帰る時間だろ。どこの子だい」
 そう声をかけられて、椿はにっこり笑った。
「私の家、ここだよ。このお庭!」
 それから庭でたくさんの白い花をつけている夏椿の木まで駆けていって、
「これが私! 私の木なの!」
 と言った。
 当たり前だけど、俺もばあちゃんも呆気に取られた。だって普通に訳わかんないし、そうこうしてる間に外は暗くなり始めてるし、いつもクールなばあちゃんも迷子か家出かとあたふたしていた。
 だけど椿だけは慌てず騒がず、やっぱりにこにこしていた。
「本当だよ。証拠見る?」
 そう言うなり、俺とばあちゃんに見せるように手のひらを差し出した。
 すると椿の手に、唐突に白い花が現れる。
 あの夏椿と同じ花が、まるで湧き出るみたいにぽわんと咲いて、小さな椿の手の上に転がった。それが地面に転げ落ちたのも束の間、彼女の手にはまた新しい夏椿の花が咲く。そうして次々と地面に落ちていく夏椿の花が、草履を履いた椿の足元をたちまちのうちに覆っていった。
「ね、本当でしょ?」
 足元を真っ白な花で埋め尽くし、まるで花畑の中に立っているような彼女が、さらさらの黒髪を揺らして笑った。

 その時の屈託のない笑顔を、俺は九年経った今でも忘れられない。
 あの日からばあちゃんは椿を引き取り、あのド田舎の家に二人で暮らしていた。
 高校生になった俺は、時々二人を訪ねている。ここ二年くらいは割と、頻繁に。

 ばあちゃん家の前でバイクを停め、押しながら門をくぐる。
 エンジン音を聞きつけていたのか、俺がバイクに鍵をかけている間に玄関の戸が開いた。
「なっちゃーん!」
 椿の声に振り返れば、彼女が笑顔で飛び出してきたところだ。
 さらさらの黒髪は肩まで伸び、手足もすらりと長くて細い。背丈も百七十センチの俺とほとんど違わなくて、顔立ちもすっかり『美少女』から『美人』になりつつある。長い睫毛、ぱっちりした目、つやつやした赤い唇とそこに浮かぶ可愛い微笑み――。
 この通り、椿は日々成長している。
 俺が歳を取り、十八歳になったのと同じように。
「椿、元気にしてたか?」
 ヘルメットを外しながら俺が尋ねると、椿は待ち構えていたみたいに飛びついてきた。
「うんっ! なっちゃんが来てくれてすごく嬉しい!」
 背中にぎゅっと抱き着かれると照れる。服には汗がへばりついていたし、もうお互い子供じゃないからというのもある。
 だけど歓迎されるのは悪い気がしなくて、俺は笑いを噛み殺しながらお土産を手渡した。
「ほら、これお前に。バイト代入ったから」
 ちょっと大きめの紙袋を、椿は怪訝そうに覗き込んだ。
「これ、なあに?」
「新しい服。買ってやるって言ってたろ」
 すると椿はいつものようにあたふたし始める。
「で、でも悪いよ。いつも買ってもらってるし」
「もう買っちゃったし、返すなよ」
 俺はよく椿に服をプレゼントする。
 なぜかと言えば、うちのばあちゃんが買ってくる服のセンスがもれなく微妙だからだ。今日着てるのは"403 Forbidden"って書かれたTシャツだし、他にも裾がもこもこで豹柄のショーパンとか、ブルドッグの顔が描かれたワンピとか、フリルと迷彩が同居してるスカートとか――椿を育てているのはばあちゃんだから文句こそ言えないけど、時々服を差し入れるくらいはしてもいいはずだった。
「いいから着てこいって。似合うやつ選んだんだから」
 駄目押しで告げると、椿は顔を真っ赤にしながら頷いた。
「う、うん。ありがとう、着てくるね!」
 それから紙袋を抱えて、玄関から家の中に飛び込んでいく。

 俺は椿の後は追わず、そのまま庭へと向かった。
 七月だった。今年の夏も太陽からの熱射は容赦なく、地面には黒々と影が焼きついている。
 そして夏椿の木も、いつもの七月と同じように、ころんとした白い花を咲かせていた。
「今年もきれいに咲いたな」
 俺が声をかけると、夏椿の木陰にいたばあちゃんが振り向く。
「あんたが来るって連絡あった途端、咲いたんだよ」
 皺の深い顔にからかうような笑みが浮かんで、俺は肩を竦めた。
「へえ、そうなのか」
「この色男が。でれでれしすぎだよ」
 途端にばあちゃんは顔を顰め、俺の耳をぐいっと引っ張る。
 そして囁いた。
「椿はうちの可愛い孫だ。泣かせたりしたら承知しないよ」
「ばあちゃん、俺も一応孫なんだけど」
「あたしにお土産も買ってこない孫なんて知らないね」
 ばあちゃんが年甲斐もなく拗ねるので、俺は鞄からお菓子の箱を取り出す。
「お土産ならあるよ、母さんからだ」
 それを差し出せば、ばあちゃんはふんと鼻を鳴らしながら受け取った。
「お母さんにお礼言っといておくれ。お仏壇に上げたからって」
「わかった」
 俺が頷いた時だ。
 軽快な足音が響いたかと思うと、縁側に着替えを済ませた椿が現れた。
「なっちゃーん、着てみたよー!」
 そう叫んで、板敷の上でくるりと一回転してみせる。夏らしいマリンボーダーのTシャツと白いフレアスカートは今の成長した椿によく似合っていたし、スカートが風をはらんでふわりと広がるのが、ちょうど咲いている夏椿みたいだ。
「似合う? 似合う?」
 椿が誉めて欲しがるので、俺はもちろん惜しみなく誉める。
「似合うよ椿、最高に可愛い」
「本当っ?」
「嘘つくわけないだろ。買ってきてよかった」
 大満足の俺の隣で、ばあちゃんがやれやれと首を振った。
「まあまあ、マメに貢ぐ男だよ夏生は」
「どうせなら可愛い格好させてやりたいだろ」
 せっかくの美人なんだしな。
 今回の服だって、俺がバイト代を貯めて買ってきたものだ。女物の服は詳しくないから友達の詠やんに頼んだ。持つべき者は彼女持ちの友人ってやつだ。
「なっちゃんに誉められるの、すごく嬉しいな……」
 椿は縁側でもじもじしている。
「ありがとう。この服も大事に着るね、なっちゃん」
 柔らかそうな頬が赤く染まって、黒い瞳はうるうると潤んでいた。こういう時の椿は本当にきれいで、可愛くて、大切にしたいなと改めて思う。
 俺にとっての大切な女の子、それが椿だ。

 正直に言えば、彼女が妖怪だってわかった時はびっくりした。
 そんなことが本当にあるのかって思ったし、すげー友達ができたなって誇らしくもあった。俺よりもばあちゃんをはじめとする大人たちの方が慌てていた。だって椿は花を咲かせること以外は普通の女の子に見えたから、もしかしたらどこかの家の迷子なんじゃないかと思ったみたいだった。
 でも椿がここの子だって言い張って、それでばあちゃんも引き取る覚悟を決めたらしい。ちょうど一年前にじいちゃんを亡くして、一人暮らしだったせいもあったのかもしれない。それから九年、椿はばあちゃんの元でひっそりと、でも大事に大事に育てられてきた。

 図書館で妖怪図鑑を引いてみたら、椿のことらしい記述もちゃんと載っていた。
 それによれば『古椿の霊』という妖怪がいて、古い椿の木には不思議な力が宿って人に干渉する、なんて話があるらしい。
 でもばあちゃん家にあるのは夏椿だし、そもそも妖怪図鑑は植物図鑑なんかとは違う、いわば創作の図鑑だ。本当に妖怪を見た人が書いたわけではない――ない、と思う。著者に聞いたわけじゃないから、断言はできないけど。
 とにかく椿に関しては、『理屈も何もわからないけどここにいるから』って理由だけがある。
 それだけの理由でばあちゃんも親戚一同も、そして俺もこの九年間、彼女を大切にしてきた。

「なっちゃん、お疲れ様。ゆっくり休んで」
 椿が俺に、冷たい麦茶を持ってきてくれる。
「ありがとう」
 お礼を言って、俺は縁側に座った。
 何せバイクで片道三時間の距離を走ってきた。夏の日差しに水分を絞り取られた後で飲む麦茶は、格別の味がする。
「なっちゃんはすごいよね、バイクでどこでも行けるんだから」
 そう言いながら、椿が俺の隣に腰を下ろした。
 微かに花のいい香りがする。
「椿こそすごいだろ」
 俺は言い返して、庭に立つ夏椿の木を指差した。
「あんなふうに花咲かせられる奴、他には会ったことないよ」
「そうでしょ、ふふ」
 少し誇らしそうに、椿が細い肩を揺する。
「でもね、咲かせるより勝手に咲いちゃう方が多いんだ」
「それはそれで不思議だな」
 以前、椿に聞いてみたことがある。花が咲くってどんな感じだ、って。
 椿はその時、こう答えた。――嬉しい時に笑っちゃったり、恥ずかしい時にほっぺたが熱くなったりするのとおんなじだよ、って。

 不意に生温い風が吹いて、椿の髪がふわりと揺れた。
 同時に夏椿の木も、風に煽られて身を揺する。
 するとせっかく咲いていた白い花が、ぱた、ぱた、と音を立てながら地面に落ちた。
 その音を聞くと俺は言いようのない不安に囚われる。椿自身は平然としているのに。

「……花が終わったら、お前もいなくなるんじゃないかって思った」
 思い出して呟けば、椿がおかしそうに笑った。
「言ってたね。そんなこと、全然ないのにね」
 夏椿の花期は短い。本格的な夏に入ったらもう咲かないんだよとばあちゃんに言われ、小さかった俺は慌てた。もう椿に会えなくなるんじゃないかって思ったからだ。
 でも花が咲かなくなっても、夏が終わっても、葉が全て落ちてしまって冬が来ても、その次の夏が来ても――俺が訪ねていく度、椿はずっとここにいた。
 だから俺もたくさん会いに来た。
 十六になってすぐバイクの免許を取ったのも、椿に会いたいからだった。
「心配しなくても、ずっとここにいるよ」
 椿は言う。
「私は恩を忘れないからね」
 いつもそう言う。椿にとってはそれが。ここにいる何よりの理由らしい。
「恩か……大事なことだよな」
 俺が頷くと、椿はわかってくれたのが嬉しいというように微笑む。
「うん」

 あの夏椿の木は、ばあちゃんがじいちゃんと二人で、手塩にかけて育てたものだ。
 じいちゃんの命日に椿が現れたのもそういうことじゃないかって、父さんたちは言っている。寂しかったばあちゃんの元に、木の精がご恩返しに現れたんじゃないかって。
 気丈なばあちゃんも、じいちゃんが亡くなった直後は酷く落ち込んでいた。一時期はこの家を売って、ばあちゃんを俺ん家で引き取ろうかって話もあったほどだ。でも今じゃ見違えるようにパワフルで、この田舎で百まで生きるなんて宣言しているからわからないもんだ。

「そうだ! なっちゃん、写真撮ってよ!」
 椿が急に立ち上がり、夏椿の元へ駆けていく。
 白いスカートを翻し、地面に落ちた花を器用に飛び越えて木の幹に抱き着くと、くるりと振り向き俺に微笑む。
「ほら、いつもみたいに記念に!」
「また撮るのか?」
 気乗りせず縁側に座ったままの俺を、ばあちゃんがつついた。
「撮っておやり。あの子がわがまま言うなんて滅多にないんだから」
「おばあちゃんも言ってるよ!」
 椿が聞きつけて尚も促す。
 それで俺は仕方なく立ち上がり、携帯電話をカメラモードにして、椿の方へと向ける。
 白い花咲く夏椿がなるべく入るように照準を合わせ、シャッターを切った。
「撮れた? 撮れた?」
 駆け寄ってきた椿が画面を覗き込む。
 俺も彼女と一緒に、おでこをくっつけ合って撮れたばかりの画像を見た。
「上手に撮れてるねえ」
 椿は満足そうにしている。
 それを眺めるばあちゃんもやっぱり満足げで、だから俺も笑っておいた。
「ああ、きれいに撮れてる」
「やったー! なっちゃんに誉められた!」
 大喜びの椿が今度は俺に飛びついてきたから、もう少しで庭にすっ転ぶところだった。

 ばあちゃん家から帰る時は、日が暮れる前に発つようにしている。
 免許を取って二年経つとはいえ、夜道の走行はまだ怖いからだ。
「なっちゃん……もう帰っちゃうの?」
 帰り際になると、椿はたちまち萎れてしまう。俺の袖をぎゅっと握って、なかなか離してくれない。
「泊まってけばいいのに。おばあちゃんも、なっちゃんの分のパジャマ買ってあるって」
 その気持ちはありがたいけど――ばあちゃんチョイスのパジャマはちょっとアレだけど、俺は明日も学校がある。あまりのんびりはしてられない。
「夏休みに入ったらまた来るよ」
 俺はそっと椿の手を剥がし、それからどうにか笑いかける。
「だから、またな」
「うん……」
 寂しそうな椿を置いていくのはまさに後ろ髪引かれる思いだ。
 背中にまとわりつくような視線を感じつつ、引き返して抱き締めたい衝動を堪えつつ、俺はバイクを押してばあちゃん家の門をくぐる。

 そして椿が追い駆けてこないことを確かめてから、携帯電話を取り出した。
 画面の中には今日、庭で撮ったばかりの写真がある。
 白い花をたくさん咲かせた夏椿とその木が作る影の中、青々と茂る下草――写っているのはそれだけだ。

 椿は写真に写らない。
 そのことが彼女を不確かな存在に思わせて、とても切ない気分にさせる。
 ずっとここにいるよ。椿はいつも、そう言ってくれるけど。

 七月が終わりに近づくと、夏椿も終わりか、なんて思う。
 花期が過ぎてしまったところで夏椿の木はばあちゃん家の庭にずっとあるんだけど、何とはなしの物寂しさと不安を感じる。
 でも明日から夏休みという喜ばしい日に、物寂しさを覚えるのも場違いだ。

「ナツ、椿ちゃんはどうだった?」
 終業式の後、昼飯を食べながら詠やんが聞いてきた。
 バイトもないし飯でもどうよと誘われて、学校帰りにハンバーガー屋に立ち寄った。詠やんの隣には当たり前のように彼女のモカちゃんがいて、チョコシェイクを美味しそうに飲んでいる。
 放課後も一緒の二人が羨ましくなることもある。
「椿なら元気そうにしてたよ」
「だけ? 他にもあるだろ、服似合ってたかとか」
「サイズ、大丈夫だった?」
 詠やんに続いてモカちゃんからも尋ねられ、俺は正直に答えた。
「問題なかったし、似合ってた。相談乗ってくれてありがとな」
 モカちゃんには椿の服選びを手伝ってもらっていた。椿のことは既に話していたし、詠やんもモカちゃんもいい奴だから何でも相談に乗ってくれる。
 ただそんな二人にも、椿が人間じゃないってことは言えない。
「そっかそっか、よかったあ」
 胸を撫で下ろすモカちゃんとは対照的に、詠やんは不満げだ。
「写真とかないのかよ、椿ちゃんの」
「……撮ってない」
「撮ってこいよ! ナツも随分出し惜しみするよな」
 喚く詠やんがしなしなになったポテトを振り回す。
「俺にもそろそろ紹介してくれたっていいだろ」
「夏生くん、意外と恥ずかしがり屋だよね」
 モカちゃんも冷やかすように言ってきた。

 俺だって、選んでもらった服を着ている椿を見せたいのはやまやまだった。
 俺が言うのも何だけど椿は美人だし、あの服も本当に似合ってたし、見せたらきっと驚かれただろう。
 でも椿は写真に写らない。
 詠やんとモカちゃんにその顔を見せることもできない。
 まさかバイクで片道三時間の距離を『一緒に来てくれ』なんて言えないし。

 でも写真じゃ見せられない椿のことを、俺はどうしてか話したくてしょうがない。
 自慢したいってだけじゃなく、いろんな人に知っておいて欲しかった。
 椿の存在を、どうにかして確かなものにしたかった。

「にしても洋服のプレゼント、羨ましいな」
 そう言って、モカちゃんは詠やんへしなだれかかる。
「ねー詠くん、すごいと思わない?」
「思う思う。夏生の甲斐性ってのも大したもんだ」
「いいなあ、私も欲しいなあ」
 彼女に甘えられた詠やんは、寄りかかられた肩を竦めた。
「全くだ。俺も欲しいなあ」
「スルーされた! 彼女がおねだりしてるのに!」
 愕然とするモカちゃんを見て、詠やんがげらげら笑う。
 モカちゃんは一瞬むくれたけど、すぐにつられて笑顔になった。二人で楽しそうにじゃれ合っている。
 そんな様子をテーブル越しに見て、やっぱり羨ましいなと思った。

 仲の良さなら俺と椿だって負けちゃいないけど、俺たちの間には片道三時間の距離がある。
 そして目には見えない漠然とした不安もある。
 椿が普通の女の子だったらと考えたことは数え切れない。一緒の高校に通って、一緒に放課後の寄り道をして、友達とその彼女と四人で遊んだりして――今も俺はそういう想像を巡らせては罪悪感に苛まれる。そんなふうに考えるのは、椿の存在を否定しているんじゃないかって気もするからだ。
 普通がいい、わけじゃない。椿がいい。
 でも詠やんは、モカちゃんがいつか消えてしまうかもなんて思ったことはないはずだ。それだけはどうしても、羨ましい。

 昼飯の後、詠やんたちからは遊びに行こうと誘われた。
 だけど俺はそういう気分になれなくて、それを断った。邪魔しちゃ悪いからというのは建前で、椿に会いに行くと付け加えたら逆に冷やかされながら送り出された。
「椿ちゃんによろしくね!」
「顔見たいって言ってたって伝えといてくれよ!」
「わかったよ」
 伝えるだけならできる。見せる手段は今のところないけど。
 ともあれせっかくの午前授業、そして明日からは夏休みだ。
 完全に思いつき、もしくは罪悪感を吹っ飛ばしたくて、椿に会いに行こうと決めた。空はうんざりするほど晴れ渡っていたし、バイクのガソリンは満タン、ハンバーガーのお蔭で腹もいっぱいだった。片道三時間くらい楽に走れそうだ。
 家に帰って制服を脱いで、夏用のメッシュパーカーに着替えた。フルフェイスのメットは熱がこもるけど、日焼け対策にはこれしかない。庭からバイクを運び出し、エンジンをかけた。
 熱射で干からびたアスファルトの道を、入道雲を遠目に見ながら走り出す。

 途中で何度か水分補給の為の休憩を挟んだ。
 最後のつもりの休憩の後、そういえば連絡もなしに来ちゃったなと思う。
 いつもは必ず電話で連絡を入れていた。大体はバイト代が入る月初めだから、向こうも把握してるのか待ち構えててくれる。でも勢いで走ってきた今、『もうすぐ着くから』なんて電話をするのは何か照れた。
 椿が遠出することはまずないし、空振りってことはないだろう。

 ばあちゃん家の前に着いたのは午後四時過ぎだった。
 夏だからまだ日が沈む気配もなく、年季の入った大和塀がてかてかと光っている。その塀越しに、背の高い夏椿の木が覗いていた。花はもう咲いていない。
 門の前でバイクを止めると、辺りは蝉の声だけになる。誰かが出てくる気配はない。
 エンジンの音は家の中まで聞こえるはずなのに――留守だろうか。やっぱ連絡しとけばよかったかなと思いつつ、バイクを押して門をくぐる。
 玄関の呼び鈴を鳴らしてみた。
 メットを脱ぎつつ待っていたが、出てくるどころか物音一つしない。
 ばあちゃんも椿もいないようだ。仕方ない、庭で涼んで待っていようとそちらに足を向ける。

 そこで、俺は椿を見つけた。
 縁側の板敷の上に倒れている、彼女の姿を見た。

「椿っ!」
 メットを放り出し駆け寄れば、椿は目を閉じていた。ノースリーブのワンピースから伸びる白い手足は、ぐったりと力が抜けている。赤い唇はかさかさに乾いていて、それを目の当たりにした時、背中に冷たい汗が流れた。
 まさか――。
「おい、おいってば、椿!」
 俺は椿を抱き起こし、渾身の力で揺さぶる。
 その度に椿の首はがくがくと怖いくらいに揺れた。まるで壊れた人形みたいに。
「椿、どうしたんだよ!」
 必死になって呼びかけ続ければ、やがてその瞼がぴくりと動く。
 ゆっくり開いた黒い瞳が、どこか虚ろに俺を捉えた。
「……なっちゃん……?」
 かすれた声に呼ばれ、胸が詰まる。
「大丈夫か椿、しっかりしろ!」
「え……うん……」
 椿は一度目をつむり、大きく胸を上下させてから再び俺を見上げてきた。
 そして次の瞬間、黒い瞳が見開かれる。
「えっ、なっちゃん? どうしているの?」
 その言葉は今までよりも、ずっとはっきり放たれた。
 少なくとも消え入りそうな、弱った声には聞こえなかった。
 俺は驚いたが、椿も酷く驚いているようだ。抱きかかえられていることに気づくと、血の気のなかった頬にぱっと赤みが差した。
「も、もしかしてお姫様だっこ? そんな、どうしよ……」
 なんだこれ。
 腕の中でもじもじし始める椿を見下ろし、俺は呆然としていた。
 まさか、寝てただけなのか。
「椿、昼寝してたのか?」
「うん。昨夜は蒸し暑くて眠れなかったから」
 屈託のない答えを聞いて、事の次第を把握した俺は、安堵のあまり脱力した。
 同時に目の奥が熱くなり、涙が呆気なく頬に零れた。
「よかった……!」
 ほっとしていた。
 椿に何かあったとかじゃなくて、本当によかった。
「なっちゃん!? どうして泣いてるの?」
 勢いよく飛び起きた椿が、慌てたように俺の顔を覗き込む。
 泣いてるところを見られるなんて絶対に嫌だった。なのにどうしても涙を止められなかった。

 ずっと、たまらなく不安だったんだ。
 椿がいつか、いなくなるんじゃないかって。

 俺が泣き止むまで、椿は黙って傍にいた。
 そしてようやく涙が止まると、絞ったタオルと冷えた麦茶を持ってきてくれた。
「……格好悪いとこ見せたな」
 タオルで顔を拭きながら告げたら、彼女は強くかぶりを振る。
「そんなこと、全然ないよ」
「あるよ。でも怖いんだ、本当に」
 詠やんはこんな気持ちを、モカちゃんに抱くことなんてないだろう。
 世の中の誰だってそうだ。好きになった子が人間だったら、こんなこと思ったりしない。
「怖いって、何が?」
 椿が小首を傾げる。
 俺は答える前に家の中を振り返り、そこにばあちゃんの気配がないことを確かめた。
「ばあちゃんは?」
「旅行」
「旅行!? 椿を置いてか?」
「町内会の温泉旅行だって。私がお留守番するから大丈夫だよって言ったの」
 平然と答えた椿が、にこにこと続ける。
「たまには孝行しないとね!」
 身につまされるその言葉に俺は口を噤んだ。
 でも、さっきの質問にはちゃんと答えなくちゃいけない。
「椿がいなくなるんじゃないかって……いつも、不安に思ってる」
 いつも、そしてずっとだ。
 出会ってからずっと。
「私、いなくならないよ」
 椿はきょとんとしてから、恐る恐る聞き返してくる。
「なっちゃんは、私がここにいたら嬉しい?」
「当たり前だろ。いてくれなきゃ嫌だ」
「えへへ、よかった」
 ほっとしたように息をつく椿が、俺の左隣に腰を下ろす。
 微かに花の香りがした。

 二人で眺める夏の庭は、ようやく日が暮れ始めている。
 夏椿が作る下草の上の長い影が、夕闇に紛れ、飲み込まれていく時間だ。
 遠くでヒグラシの声がする。風はまだ温く、空気は湿っていて蒸し暑い。

「……初めて会った時のこと、覚えてるか?」
 俺の問いに、椿は柔らかく微笑む。
「忘れられないよ、なっちゃん」
「俺もだ。何の脈絡もなく、突然現れたよな、お前」
 あの時も俺はこんなふうに縁側に座っていた。
 そうしたら椿が、唐突に姿を見せたんだ。
「いきなり現れたから、いきなり消えるんじゃないかって思えて……」
 椿は人じゃない。
 どうしているのかわからない。写真にだって写らない。
 そんな彼女が不確かな存在に思えて、離れている間もずっと不安だった。
「私、消えたりしないよ」
 椿はそう言うと、細い両腕を前に伸ばす。
 いつも白いその肌は、それでもいくらか夏の日差しに焼けたようだ。
「この身体はもう人だから。消えたりしない」
 呟くように、椿は続ける。
「ううん。人だって命がある以上、いつかはいなくなるよね。そういう意味でなら、私がいなくなる日も絶対に来る。でもそれは誰だって同じことだよ」

 言われて俺は、隣に座る椿の身体にしげしげと見入った。
 見た目は人と同じだ。さらさらの黒髪、細くて柔らかそうな手足、俺より少し低いだけの背丈。夕風に震える長い睫毛、空の色が映えるぱっちりした目、今は少し乾いた赤い唇とそこに浮かぶ可愛い微笑み――椿は、本当にきれいになった。
 この身体は、本当に何もかも『人』なんだろうか。

「なっちゃん、見すぎ」
 椿が恥ずかしそうに身を縮ませたので、俺は気まずく目を逸らす。
「ああ、悪い……」
「でも、わかったよね。私は簡単に消えたりしないよ」
 不意に左の肩が温かくなり、椿がそっと寄りかかってきた。
 モカちゃんが詠やんにそうしたみたいに。
「初めて会った時のこと、なっちゃんも覚えてるよね」
「一生覚えてるよ」
「私も。恩は絶対に忘れないからね」
 風が吹く度に、椿の髪が俺の腕をくすぐる。
「あの時ね、私、なっちゃんから名前を貰ったの」
「……名前?」
「そう。椿って、私の名前」
 それは俺があげたわけじゃなく、椿が勝手に名乗った名前のはずだ。
 怪訝に思っていれば、彼女はくすくすと笑い声を立てた。
「『夏生』って聞いたら、『椿』しかないなって思ったんだ」
「自分でつけたんだろ?」
「でも、なっちゃんが名前を教えてくれなかったら――あの時、声をかけてくれなかったら、私は『椿』にはなれなかった」
 日が沈んでいく。
 縁側から眺める庭がどんどん暗くなり、空には星が微かな光を放つ。
「昔の私にも名前はあったよ。夏椿、シャラノキ、あるいは"Stewartia pseudocamellia"――でもそれは、人を『人間』って呼ぶのと同じで、私だけの名前じゃない」
 俺にもたれかかる、椿の体温が心地いい。
 夏椿の木にはないものの一つだ。
「名前って、命そのものなんだと思うな」
 椿は言う。
「名前を貰った時、私は夏椿じゃない『椿』になれた。なっちゃんには人としての、『椿』としての命を貰ったんだよ」
 俺の腕にぎゅっと抱き着き、頬をすり寄せながら言う。
「だからね、私は恩を忘れない」
「恩……」
「命を貰ったこと。それと、幸せを貰ったことも」
 しみじみと、微かに震える声がした。
「私……『椿』になれてよかった。毎日そう思ってる」
 俺も思う。
 椿に会えてよかった。あの時声をかけてみて、本当によかった。
「木の生き方も悪くなかったけど、人とおしゃべりはできないもん。おばあちゃんが悲しんでいる時、何も言えなかった。一人で寂しそうにしている男の子に会った時も、私からは声をかけられなかった」
 それから椿は俺の腕にしがみついたまま、静かに顔を上げた。
 黒い瞳が、暗がりでもわかるくらい潤んで揺れている。
「人の身体でできること、全部楽しいよ。おしゃべりも、ご飯を食べるのも、なっちゃんが買ってきてくれたきれいな服を着ることも――なっちゃんと一緒にいる時間も、全部」

 なら、俺の責任は重大だ。
 これから先、何年経っても椿が椿になったことを後悔はさせない。

 一呼吸置いて、俺は椿の細い肩に腕を回した。
 そのまま初めて抱き寄せると、椿はびくりとして息を呑む。
「な、なっちゃん……」
「俺も毎日思ってる。椿のことを考えない日なんてない」
 温かくてちゃんと生きている、確かな存在の椿を両手でしっかり抱き締めた。
「一生、幸せにするからな」
「プロポーズみたいだね、それって」
 俺の言葉に椿が照れる。
 指摘されれば俺だって照れたけど、本心はそれほど違わない。結婚、とか考えられる歳でもないけどもしするなら好きな子がいい。椿がいい。
「そう取ってもいいよ」
 だから笑って応じてみた。
「きっと俺は、何年経っても椿が好きだ」
「ほ、本当っ?」
 椿は勢いよく顔を上げ、俺と目が合うと恥ずかしそうに再び伏せてしまった。
 そして俺の腕の中でくぐもった声を出す。
「私を、お嫁さんにしてくれるの?」
「当たり前だろ。他に、なって欲しい相手なんていない」
 腕に力を込めて告げると、やがて小さく頷くのがわかった。
「……うん」
 それから椿は何度も深呼吸をして、勇気を振り絞るようにそろそろと上を向く。
 俺と目が合うと一瞬怯んだような顔をしたけど、やがて真っ赤になってこう言った。
「えっと……おばあちゃん、明日帰ってくるって」
「ああ、旅行だもんな」
「なっちゃんは……泊まってく?」
 問いかける口調の後で、椿は俺のパーカーの袖をぎゅっと掴んだ。

 前に読んだ妖怪図鑑によれば。
 古椿の霊は、美女に化けて男を誑かす妖怪だそうだ。
 今まで椿のことをそんなふうに思ったことはなかったけど――今夜ばかりは、椿にだったら誑かされてもいい、なんて思ってしまった。

 翌日の昼前に帰ってきたばあちゃんは、俺に気づくなり釘を刺してきた。
「あんた、うちの孫を弄んだりしたら承知しないよ」
「俺も孫だろ、ばあちゃん……」
 いつものように反論したけど、見抜かれてるようなのが居た堪れない。
 椿も恥ずかしいのか、あたふたと夏の庭に飛び出していく。
「えっと、ほら、写真撮ろうよ! 記念に!」
「何の記念だよ」
「な、何でもいいからっ」
 追及すると藪蛇なので聞き流してやることにして、俺は携帯電話のカメラを起動する。
 写真を撮るのはやっぱり気乗りがしない。だけど写らなくたって、椿は確かにここにいる。
 そう思ってシャッターを切ったら――。
「……なんだこれ」
 真夏の強い日差しが作る、夏椿の木の影の中、半透明の椿が映っていた。
 はにかむ可愛い笑顔が透き通っている。
「わあ、写った! 初めて写った!」
 椿は大はしゃぎで飛び跳ねていたけど、画面を覗く俺は苦笑するしかない。
「これも、詠やんたちには見せられないな……」
 でもいつか俺は、はっきりと写った椿の写真を撮ることができるかもしれない。
 この時、何となく予感していた。

 そしてこの夏のプロポーズから五年後。
 出会ってから十四年後の初夏、俺ははっきりと写った椿の写真を取った。
 彼女は夏椿の花びらみたいに白いドレスをまとっていて、カメラに向かって幸せそうに微笑んでいる。
 その隣には感極まって号泣するばあちゃんと、それをはらはらと見守る親戚一同が写っている。俺に向かってカメラの動作を指示する詠やんと、椿のベールを直してくれているモカちゃんもいる。皆の頭上には夏椿の花が咲き、庭の下草の上にも一面に敷き詰められている。
 まるで皆で白い花畑にいるみたいだった。

 椿が写真に写らなかった理由も、今でははっきり写るようになった理由も、よくわからない。
 でも、椿は確かにここにいる。俺の隣に今もいる。
 それがどんなに幸せなことか、俺も椿も知っているし、きっと一生忘れない。
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