Tiny garden

名前を呼んだら振り向いて

 私の名前は佐野ゆうり。
 多分、そんなには珍しい名前じゃないと思う。
 でもこの名前が、二年に進級してクラス替えしたばかりの今、ちょっとした悩みの種だった。

 そもそものきっかけは新年度始まってすぐのことだった。
 始業式を終え、新しいクラスで迎えた初めての放課後、聞き慣れない低い声が私を呼んだ。
「ユーリ!」
「えっ、は、はいっ!」
 反射的に私は立ち上がり、返事をしていた。
 あとになって考えれば私を名前で呼ぶ男子なんていないし、先生だって私を名前で呼んだりはしない。でもその低い声が当たり前のような自然さで私の名前を叫んだから、冷静に考える力なんて吹っ飛んでしまった。
 そして振り向いた先には、今日クラスメイトになったばかりの、眠そうな猫みたいな目をした男子生徒がいた。やや赤みがかったその目をだるそうに瞬かせた彼が、次の瞬間私の肩を飛び越えた向こうへ視線を送る。
「ユーリ、今日暇? 買い物付き合って」
「いいよ」
 背後では別の男子の声がした。鞄を手に席を立ち上がったのは猫背気味の背の高い男子生徒で、やはり今日クラスメイトになったばかりにもかかわらず、私は彼の名前をもう覚えていた。
 なぜかというと、
「かっしー、こっちに向かって『ユーリ』って呼んだら佐野さんが驚くだろ」
 名前を呼ばれた伊藤くんが、私をちらりと見て明るく笑う。
「佐野さんも同じ名前なんだよ。自己紹介で言ってたろ」
 そう、私が『佐野ゆうり』で伊藤くんは『伊藤悠里』。字は違えど、くしくも同じ名前の子と同じクラスになってしまったということだ。始業式後のホームルームで一人ずつ自己紹介した時、同じ名前だとびっくりして、それで彼の名前だけは覚えてしまった。ゆうりくん、って男の子にもいるんだ。考えてみればそうおかしくもないか。
 ただ今の状況下では、クラスに同じ名前の人がいるってことが少々気まずい。
 つまり私は、全然違う人を呼んだ声に返事をしちゃったわけで、
「あっ、そうだっけ。ごめんな佐野さん」
 苦笑いで手を合わせてくる低い声の男子に無言で頭を下げ返しつつ、押し寄せる恥ずかしい思いに私は早くも潰れそうになっていた。
 だって自分が呼ばれたと思って力いっぱい返事をしてしまったし、そのせいで居残ってた新しいクラスメイト達が一斉にこっちを見ていたし、そもそも聞き慣れない男子の声だったから呼ばれたのは私のはずがないのに、さも自分のことみたいに返事をしてしまった。そんな自分が恥ずかしくて、死にそうな気持ちで席に座り直した。しばらくは教室内のざわめきが全部私の話をしているようにさえ聞こえた。
「佐野さん、本当ごめん。あいつの名前が紛らわしいせいだ」
 眠そうな目をした低い声の男子がその後わざわざ私の席まで謝りに来たけど、顔を覗き込まれて何度も何度も謝ってくるものだから余計に恥ずかしかった。悪い人ではなさそうだけど、髪の毛は染めてて茶色いし、学ランの前を開けてその下の白シャツも開けて中のTシャツ見せてるし、全体的にだるそうな雰囲気もあって何となく話しにくそうな人だと思った。
 伊藤くんに『かっしー』と呼ばれてるその子の名前は、樫原くんというらしい。制服のネームプレートを見て知った。

 それからというもの、私は毎日毎日樫原くんに名前を呼ばれている。
「ユーリ!」
 いや、違う。呼ばれているのは伊藤くんだ。樫原くんのバリトンの声はよく通るし覚えやすいから、そういう意味で聞き間違うことはないはずだった。
 だけど私にとってもこの名前はもう十六年以上も親、きょうだい、友達、その他から呼ばれ慣れてる名前だ。耳にした瞬間、考えるより先に振り返ってしまう。
 そしていつも振り返ってから、あ、違う、って気づく。
 振り向いた先では樫原くんがおかしそうに笑いながら、伊藤くんを指差している。
「ごめん、佐野さんじゃなくて。こっちのユーリ」
「わっ……す、すみません」
 慌てて謝り返すのもいつものことなら、樫原くんが眠そうな目つきで笑い、軽い調子で更に謝ってくるのもいつものことだ。
「佐野さんのせいじゃないよ。紛らわしいよな、同じ名前」
 そしてそういうやり取りが二週間も続くと、
「言ってんだろ、かっしー。佐野さんが間違うから教室では呼ぶなって」
 伊藤くんが樫原くんに注意するようになって、私としてはますます肩身が狭かった。
「そう言うけど、もう十年は呼んでるんだからな。急に別の呼び方とかできないって」
 樫原くんの主張はこうだ。彼と伊藤くんは小学校以来の友達らしくて、ずっと一緒に過ごしている仲良しなのだそうだ。そういう話を、私は二人とろくに話したこともないうちから知ってしまった。
 だから二人からすれば私こそが、名前が同じってだけで友達を呼ぶ度に振り向いてくる不審人物ということになる。誰が同じ名前の伊藤くんを、そして彼を呼ぶ樫原くんを責められるだろう。
「なるべく、振り向かないようにするから……」
 私としては小声でそう応じるのが精一杯だった。
 もっとも振り向かないようにと心がけていても、呼ばれ続けて耳に馴染んだ自分の名前と、樫原くんのよく通るバリトンの声はいつも私を振り向かせては気まずい思いにさせてくれた。
「ユーリ!」
 樫原くんはいつも眠そうな目をしていて、授業中も廊下を歩く時も常にだるそうなのに、伊藤くんの名前を呼ぶ時だけはものすごくはっきりとした声を上げる。呼び慣れた、大切な友達の名前だからかもしれない。
 だから私は聞き逃せない。彼が伊藤くんを呼ぶ度に、振り向いてから『違うのに』って思う。そして振り向いたら必ず謝られる。
「いっつもごめんな、佐野さん」
 手を合わせて詫びてくる樫原くんに、首を横に振って答える。
「う、ううん、こっちこそ……」
 間違えるのは私なのに謝られて悪いなと思う。次こそは、今度こそは振り向かないようにしようと心がけているつもりなのに、樫原くんの声は私を無意識のうちに振り向かせてしまう。
 そんなのが数週間も続くとさすがに危機感を覚えてきた。今でこそ笑って謝られているけど、あんまり続くと同じ名前の伊藤くんも呼ぶ方の樫原くんも、何度繰り返せば学習するんだって怒ったりしないだろうか。もともと男子と話すのが苦手な私はだんだん怖くなってきて、どうにかしなきゃと思い始めた。
 クラスの友達は気を遣ってくれて、
「じゃあ『さのゆー』と『いとゆー』で呼び分ければいいんじゃない。今日からあんたはさのゆーね」
 なんて新しいあだ名をつけてくれた。
 だけどそれを伊藤くんに、そして樫原くんにまで強制するのは気が引けた。繰り返すようだけど私は男子と話をするのが苦手だった。まして樫原くんみたいな人は尚更だ。下手なこと頼んで怒られるくらいなら私が気をつければいいだけの話なんだけど、どうしてか振り向いてしまう。
「ユーリ!」
 樫原くんの低い声ではっきりと呼ばれる伊藤くんの名前に。
 私の名前じゃないのに。

 そんな調子で早くも躓きかけてる新年度も、ようやく一ヶ月を過ぎた。
 五月の連休が明けたある放課後、私はすっかりくたびれて生徒玄関へと向かっていた。
 今日も樫原くんに名前を呼ばれた。もちろん伊藤くんの名前だった。いい加減振り向くまいと思っているのに振り向いてしまって、そして樫原くんには謝られ、そんな樫原くんを伊藤くんが叱り、私は二人に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 そろそろ本当に気をつけるようにしないと、そう思いながら自分のクラスの靴箱まで歩いていくと、背後からどかどかと歩いてくる足音がした。
 そして、
「あっ、ユーリ!」
 バリトンの声が名前を呼んだ。
 疲れて注意力散漫だった私はまたしても何も考えずに振り向いてしまい、生徒玄関に現れた二人連れを見てしまったと思う。
 伊藤くんと、樫原くん。
「……何だよ、かっしー。急に大声出して」
 ちらりと気まずげに私を見る伊藤くんの隣で、樫原くんが私に向かって手を振る。また謝られるのかなと思ったら、樫原くんは肩にかけていたショルダーバッグを下ろして、それを伊藤くんに押しつけた。
「悪い、忘れ物した。これ持ってちょっと待ってて」
「マジかよ。しょうがねえな、早く行け」
「超高速で戻ってくっから。待ってろよ」
 そう叫んだ直後、樫原くんは踵を返して玄関から校舎内へ戻っていく。超高速でと言った割にはいつものようにだるそうに、ずるずるぺたぺたと足音を立てながら歩いていった。
 ショルダーバッグを受け取った伊藤くんは肩を竦め、それから私のいるクラスの靴箱前へと近づいてきた。私が思わず会釈をすると、控えめに笑いかけてきた。
「佐野さんも、今帰るとこか?」
「う、うん」
 私は頷き、外靴を靴箱から出した。今日は友達が委員会で遅くなるから、一人で帰ることになっていた。疲れていたから急いで帰って家で休もう、そう思っていた。
「そっか」
 伊藤くんも自分の靴を靴箱から取り出す。猫背気味の彼はこうして並んでみると背が高く、私よりも頭一つ分は大きかった。そういえば樫原くんよりも大きかったような気がする。
「いつも悪いな」
 靴を履き替えながら、不意に伊藤くんが言った。
 急に謝られて驚いていると、彼は私の方を向いて溜息をつく。
「かっしー、いつも俺のこと名前で呼ぶだろ。本当に紛らわしいよな」
 私は大慌てで首を横に振った。紛らわしいのはそれでつい振り向いてしまう私の方であって、伊藤くんは悪くない。同じ名前だというだけだ。
 もちろん樫原くんだって悪くない。
「あ、でも――」
 友達からは『さのゆー』って呼ばれるようになったから、それに慣れたら大丈夫かもしれない。そう言おうとした私より早く、伊藤くんが口を開いた。
「普段はかっしー、俺のこと、あんまり名前で呼ばねえんだ。付き合い長いからいちいち呼ぶ必要もないって言うかさ、おい、って呼ぶだけで通じるから」
 それは意外な告白だった。
「でも教室ではやたらと俺を名前で呼ぶだろ。それも二年になってクラス変わってからだ。やめろって言ってるのに聞かねえから、わざとやってんじゃねえかって思い始めてる」
 ぽかんとする私の前で、伊藤くんは呆れたように笑った。
 思えば伊藤くんの顔をこんなに近くで、まじまじと見たのは初めてだった。目鼻立ちのすっきりした伊藤くんは凛々しい男の子っぽい顔つきをしていて、いつも眠そうでだるそうな樫原くんとは対照的だった。髪の毛も硬そうで、樫原くんの茶色い柔らかそうな髪とは全然違う。伊藤くんが犬なら、樫原くんは猫みたいだと思う。
 そして私は、ここにはいない樫原くんの姿を、たった一ヶ月前にクラスメイトになったばかりの彼のことを随分とよく覚えている事実に気づく。
「佐野さんが困ってるだろっていつも言ってるのにな。何なんだろ、あいつ」
 私をじっと見下ろして、伊藤くんは続ける。
「小学生みたいだよな、そういうの」
 彼の言わんとしているところを飲み込んだ私は、急にどぎまぎしてきた。
 慌てて上履きを脱いだけど、外靴を履く前にまた足音が近づいてきて、
「悪い悪い。さ、帰ろ」
 生徒玄関へ戻ってきた樫原くんが、こっちを見て目を瞬かせる。私がまだいるとは思わなかったんだろう。
「ユーリ、――と、佐野さん。えっと、一緒に帰る?」
 とんでもないことだ。私は首を横に振ろうとした。
「帰りたいなら好きにしろ。俺は先に、一人で帰る」
 伊藤くんは無情にもそう言い放つと、預かっていたショルダーバッグを樫原くんに放り投げた。
 それをよろけることなく受け止めた樫原くんに軽く笑いかけた後、伊藤くんは私に向かって手を挙げる。
「じゃあまたな、佐野さん。かっしーには、がつんと言ってやっていい」
 そう言い残すと彼はいち早く生徒玄関を出て行った。
 うちのクラスの靴箱前には、私と樫原くんだけが取り残された。
「……しょうがないな」
 樫原くんはなぜか眉を顰め、すぐに気を取り直したように軽く笑う。
「途中まででいいから一緒に帰ろ、佐野さん。多分、俺に聞きたいことがあるだろ?」
 それはその通りだった。
 男子と話すのは苦手だし、樫原くんみたいなタイプは一層話しづらい。おまけに伊藤くんからあんな話を聞いていたから尚更だった。
 だけどうやむやにもしておけない。確かめたい。そう思って、勇気を振り絞り頷いた。

 徒歩通学の樫原くんと電車通学の私で、駅までの道を一緒に歩いた。
 二人きりの帰り道、駅まで一緒に行こうと話し合った後、樫原くんはずっと口数が少なかった。どんな顔をして隣を歩いているのかは、とてもじゃないけど見る気になれなかった。
 でも、はっきりさせなくちゃいけないことがある。
「わざと、だった?」
 私は歩きながら、息をつきながら尋ねた。
 隣で樫原くんがわずかに歩くスピードを落としたようだ。合わせてゆっくり歩いてみると、小さく笑うのが聞こえた。
「うん」
 バリトンの声が私の疑問を肯定した。
「わざと呼んでた。佐野さんに振り向いて欲しくて」
 一度口にすると、あとの言葉は堰を切ったみたいに続いた。
「佐野さんが『間違えた』って顔で真っ赤になって俯くのが可愛くて、何か初めて見た時は胸がぎゅっとなって、もっと見たいって思った。だからいつも、わざと呼んでた。佐野さんが恥ずかしがるのが見たくて。普段はあいつのことわざわざ名前で呼んだりしないのに、学校で、佐野さんがいる時だけは」
 そこまで言うと樫原くんは足を止め、私の方へ向き直ったようだ。青いスニーカーの動きでわかった。
 私も立ち止まったけど、顔を上げることはできなかった。
 名前を呼ばれたと思って振り返った時より、何十倍も恥ずかしかった。
「怒った?」
 樫原くんが俯く私の顔を覗き込もうとする。
 私は俯いたまま、正直に答える。
「ちょっとだけ」
 樫原くんはいつも伊藤くんを呼んでるのに、一緒に振り向いちゃうから樫原くんにも、伊藤くんにも悪いなって思ってた。直さなきゃいけないって焦ってもいた。それにやっぱり恥ずかしかった。
 そういう私の悩みを、樫原くんがわざと引き起こしてたんだとしたらちょっとショックだ。むっとする。
 でも、私だって悪い。自分じゃない、樫原くんが私を呼ぶはずないってわかってたのに、彼の声を聞くと振り向かずにはいられなかった。低くて大人っぽい男の人の声。伊藤くんを呼ぶ時だけは――私の名前を口にする時だけは、はっきりとした声になる樫原くん。
「ごめん、佐野さん」
 謝る樫原くんの口調は軽かった。
 でも思いきって顔を上げてみたら、相変わらず学ランの前を開けた樫原くんは悲しそうな表情で私を見ていた。眠そうな猫のような顔つきも、今日は『拾ってください』と箱に書いてあるような捨て猫の顔に見えた。
 胸が痛くなった。
 だから私はできる限り笑った。あんまりそういうのが得意な方じゃないけど、男の子と喋るのはすごく苦手だったけど、ここで笑えなかったら駄目だと思ったから力の限り笑った。
 そして、
「私も、よく間違えたから。樫原くんだけが悪いなんて思わない」
 声は震えたけど、彼の声ほどじゃないだろうけど、精一杯はっきりと言っておいた。
 たちまち樫原くんは悲しいのをどこかへ放り投げたようで、眠そうな目を精一杯微笑ませた。口元もにんまりと嬉しそうに笑んで、それから元気を取り戻した声で言う。
「ありがと、佐野さん」
 私は逆に今ので全力を使い果たしたみたいで、あとは黙って顎を引くだけだった。
 へへ、と笑った樫原くんが、照れくさそうに切り出した。
「じゃあこれからは間違えないように、ゆうりちゃん、って呼んでいい?」
 バリトンの声のいきなりの提案に私は戸惑った。
 たった今、私も悪いと言ったばかりではある。あるけど、そう言った途端にこにこしてこれなんだから、すごく現金だと思う。
 私はこれでも少し悩んだり、悪いことしたなと落ち込んだり、呼ばれて振り向くのを直さなきゃって思ったり、友達に新しいあだ名を貰ったりしたのにな。
 私が困惑したのが表情からわかったんだろう。樫原くんは慌てたように話を続ける。
「駄目ならいいよ。もっと外側からこうじわじわと攻めてく感じにするから。さすがに早すぎた?」
 駄目じゃない。そういうふうに呼んでもらえたら伊藤くんと間違うことはなくなるんだから、それならそれでいいと思う。
 でも呼ばれて恥ずかしい思いをするのはこれまで通り、むしろこれまで以上だろうから、私はそれが何だか悔しくて仕方がなかった。
 だから仕返しのつもりで言ってみた。
「か……樫原くんの名前って、何?」
 聞くのにはすごくすごく勇気が必要だった。
 樫原くんはその時、ちょっとだけ傷ついたような顔をした。
「え、知らないのか? 同じクラスなのに」
「だって、ネームには名字しか書いてないから」
 私がおずおずと言い添えると、彼は気を取り直したように言った。
「樫原陽平です。陽平くんでも、陽ちゃんでも、好きに呼んでいいよ」
 そして、私が全て言わないうちから嬉しそうに笑った。
「これからよろしくな、ゆうりちゃん」

 仕返しのつもりでとは言っても、すんなり呼べるようになるにはとても時間がかかりそうだった。
「よ……陽平、くん」
 まだ小声で、片言みたいな呼び方しかできない私に、それでも陽平くんはとびきり上機嫌な、猫みたいな笑顔で振り向いてくれる。
「ゆうりちゃん、どうかした?」
 低いバリトンの声も相変わらず、私の名前を呼ぶ時だけははっきりと響く。
 彼の隣では最近、伊藤くんがよく嘆いている。
「こいつ、急に俺を名前で呼ばなくなったな。現金にも程がある」
「だってゆうりちゃんが間違えたらかわいそうだろ」
「よく言うよ。かっしーはわざと困らせてたくせに」
「ちゃんと謝って許してもらったよ。な、ゆうりちゃん?」
 同意を求めてくる陽平くんは本当に現金だなあと思うけど、私はもう怒ってはいないし、怒るだけの資格がないこともわかっている。
 何よりも自分の名前が悩みの種じゃなくなった今が、とても嬉しかった。
「ゆうりちゃん、今度の日曜暇? よかったら遊びに行かないか?」
 陽平くんがやぶからぼうにそう言った。
「えっ、あの」
 それって、やっぱり、そういうことだろうか。私が驚きつつ照れつつ答えに迷っていると、伊藤くんがにやにやしながら口を挟んでくる。
「俺は行かねえ」
「お前じゃないよ! ゆうりちゃんって言っただろ」
「俺もユーリだ。ちゃん付けは願い下げだけどな」
「こっちだってお断りだ。可愛い方のゆうりちゃんに用があんだよ」
 揉めるというよりじゃれ合う二人に、私はそっと背を向ける。さすがに目の前でこんな会話を聞くのは恥ずかしい。日曜のことはあとで改めて、勇気を出して聞いてみよう。
 そう思っていたら、
「ゆうりちゃん!」
 陽平くんの声が私を呼んだ。
 名前を呼ばれて振り向くと、眠そうな目をした彼が、ちょっかいをかけようとする伊藤くんを押し退けながら低く真剣な声で言った。
「今度、デートしてください」
 はっきり明言されるのは、名前を呼ばれたと勘違いするよりも、数百倍は恥ずかしかった。
 でも彼が呼んだのは間違いなく私の名前だ。
 だから今度ばかりは胸を張って、頷いた。
「……うん!」
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