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ロボットの体温

 私は自律型ヒューマノイドロボット、アシュリーです。
 "Autonomous System Humanoid robot"――その頭文字を取ったASHを、女性型らしく呼びかえた"ASHlee"が商品名となっています。
 外見は完全に人を模して創られており、私は人と同じように瞬きをし、呼吸をし、そして体温を有しています。主に育児や家事の補佐を目的としている為、ロボットとしては不要であるはずのモジュールが必要となってくるのです。

 私がグレンぼっちゃんと初めてお会いしたのは、彼が6歳の時です。
 正確には2117年9月21日午後2時43分になります。
 旦那様と奥様が私を購入してくださって、それで私は家政婦としてアークライト家に伺ったのでした。

 その時ぼっちゃんは、ヘーゼルの瞳を輝かせて私を見上げていました。
 私はプログラミングされている通りに屈み込み、目線を合わせて挨拶をしました。
「はじめまして、ぼっちゃん。アシュリーと申します」
 するとグレンぼっちゃんは丸い瞳をますます丸くして、歓声を上げました。
「すげー、ほんとにロボット? スーパーにいるのと全然違うじゃん!」
 どうやらぼっちゃんにとって、私のような人に近いロボットと出会うのは初めてのことだったようです。旦那様と奥様がにこにこ笑う中、グレンぼっちゃんは私をじっくり眺めた後でこう仰いました。
「なあ、アシュリー。試しにほっぺた触ってもいい?」
「どうぞ」
 私が頷くと、グレンぼっちゃんはそのぽちゃぽちゃした手で、人工皮膚に覆われた私の頬をぎゅうぎゅう引っ張ります。
「うわ、柔らけー! しかもすっげー伸びる! 痛くない?」
「痛くはありませんが、加圧によって頬がもげそうです」
 ぼっちゃんは、やんちゃ坊主でありました。
 旦那様と奥様が止めてくださらなければ、私は初日からメンテナンスが必要になるところでした。

 家政婦ロボットの私は、ぼっちゃんの子守りも務めのうちです。
 奥様はぼっちゃんをお産みになる際に会社を辞められていて、この時復帰されることが決まったのだそうです。私がアークライト家へやってきたのも、そういう事情があってのことでした。
 しかし6歳のグレンぼっちゃんは、なかなかに利かん坊でした。
「ぼっちゃん、お休みの時間です」
 設定された午後8時に声をかけると、彼は決まってこう言い張るのです。
「まだ眠くない! もっと遊ぼうよ、アシュリー!」
 この頃のグレンぼっちゃんはガンマンごっこに夢中でした。小さな手でリボルバー銃を巧みに操るぼっちゃんは、私に攫われた町娘と悪役のボス、それに愛馬の役まで兼ねるよう言います。私はロボットなのでくたびれるということはありませんが、ごっこ遊びに上手く対応する為に映画などを見て、自己学習をすることを余儀なくされました。
 ですが、そんな遊びの時間ももうおしまいです。
「ベッドに入れば、自然と眠くなりますよ」
 人の身体は温めることで、より眠りに落ちやすくなります。ですから私はベッドに入ることを勧めたのですが、ぼっちゃんは頑として聞き入れません。
「眠くないったら眠くない!」
 そこで私は、私に備わった機能を最大限活用することにしました。
「仕方ないですね、抱っこして差し上げます」
 私が抱き上げて軽く揺すると、最初は嬉しそうににやにやしていたぼっちゃんの瞼が、やがてとろとろ下りてきます。人と同じく設定された私の体温は、睡眠導入剤として役立っているようです。
「眠くないったら……」
 寝言でも言い張るグレンぼっちゃんを、ベッドまで運んであげました。
 眠りに落ちる時、彼の小さな身体はとても体温が高くなり、私も慣れないうちは何度か簡易医療プログラムを起動してしまいました。ですがどうやら、子供というものはそういうもののようです。

 グレンぼっちゃんは9つの時に、抱っこを卒業されました。
 正確には、2120年7月31日のことでした。
「ぼっちゃん、お休みの時間です」
 私がいつものように声をかけると、ぼっちゃんは待ってましたと言わんばかりに言い放ちました。
「抱っこはいいからな、アシュリー。俺、自分でベッド行くから!」
 前日までボーイスカウトのサマーキャンプに出掛けられていたので、そのことが何がしかの影響を及ぼしたものと推測できました。
「俺もう大人だから、そういうの恥ずかしいし!」
 そう言い張るぼっちゃんを、私はとても興味深くメモリに記録しました。旦那様と奥様から、ぼっちゃんの成長の記録を取っておいて欲しいと頼まれていたのです。この日の記録もお二人にとても喜んでいただけました。
 そして私の中のプログラムもきちんと切り替えておきました。今夜からはぼっちゃんを抱っこしてはならない、ベッドにはお一人で行ってもらうように、と。
 ところがロボットとは違い、人はその心をすぐに切り替えられるものではないようです。
 抱っこを卒業した後のぼっちゃんは、それでも時々は寂しくなるのか、寝室に私を呼んでくださることがありました。
「アシュリー、傍にいて」
 明かりを消してしまった寝室で、グレンぼっちゃんは私にねだります。
 抱っこ卒業宣言とはうって変わって、弱々しい言葉でした。
「では、手を繋いでおきましょう」
 私はぼっちゃんの小さな手を握り締め、そのヘーゼルの瞳を覗き込みながら、彼が眠るまで見守りました。
 相変わらず体温が高い、眠る彼の小さな手。その温かさも、私のメモリにちゃんと残っております。

 グレンぼっちゃんのやんちゃぶりは、彼が12歳になっても変わりませんでした。
「なあなあ、腕相撲しようぜ!」
 キッチンに立つ私を引っ張ってはゲームに興じようとするので、夕食作りのシークエンスに支障が生じます。
「構いませんが、一度だけですよ」
 仕方なく私が家事を中断すると、ぼっちゃんは細い腕をぐるぐる回しました。
「テレビで見たけど、アシュリーって実はすげえロボットなんだろ? 介護用にも対応できて、大人一人くらいなら簡単に持ち上げられるって!」
「その通りです。私は家政婦ロボットですので」
「んじゃ力試しな!」
 グレンぼっちゃんがテーブルの上に肘をつきます。
 私が彼を真似て肘をつくと、最近少し大きくなった手が私の手を強く握ります。私が水仕事をしていたせいか、ぼっちゃんの手は私の手よりも温かく、彼はそこで驚いたようでした。
「お前、手冷たい。風邪引くぞ」
「お言葉ですが、ロボットは風邪を引きません」
「でも壊れるかもしんないじゃん。温かくしとけよ」
 ぼっちゃんはそう言って、私の手を厚みのある手のひらでさすりました。
 どうやらやんちゃ坊主のぼっちゃんも、いつまでも幼いままではないようです。そうした温かい気遣いを、私は成長の証としてやはり記録に留めます。
 私の手が温まると、グレンぼっちゃんは改めて宣言しました。
「俺もう子供じゃないし、手加減すんなよ!」
 そう仰るので出力30パーセントでお相手したら、2秒で負けたぼっちゃんは、しばらく拗ねて大変でした。
 お蔭で私は遅れてしまった夕食の支度の他、デザートにミシシッピーマッドパイを作る必要まで生じてしまいました。この時の出来事は反省としても記録しておいたのですが、旦那様も奥様もご覧になるなり大笑いされていました。

 そんなふうにやんちゃだったぼっちゃんも、15歳になると落ち着いてきたようです。
 まず声が変わり、私は音声認識機能を何度か調整しなくてはなりませんでした。それから顔つきも3年ほどでみるみる大人びて、毎日のようにメモリに保存しては旦那様と奥様にお見せしました。
 気づけば背丈もうんと伸び、ロボットである私を飛び越して、見下ろすほどになっていました。
「アシュリー」
 そのグレンぼっちゃんが、低い声で私を呼びました。
 これは2126年9月21日の出来事です。
 不機嫌そうな仏頂面で歩み寄ってきたかと思うと、近所にあるショッピングモールの紙袋を差し出してきました。
「小遣い貯めて買ったんだ。使えよ」
「こちらは何ですか?」
「何って、見りゃわかるだろ」
 近頃のぼっちゃんは常に機嫌の悪そうな話し方をします。本当にご機嫌を損ねているのかと思いきやそうではなく、その複雑なご心境はロボットの私を困惑させます。
「いいから開けろ」
 促され、私は紙袋を開けました。
 中には新しいエプロンが収められていました。淡いピンクのエプロンは丸襟のワンピースのようなつくりをしていて、黒いリボンを首の後ろで結ぶホルターネックです。裾には邪魔にならない程度のフリルがあしらわれており、とても可愛らしいものです。
「これを、私にくださるのですか?」
 私が尋ねると、グレンぼっちゃんは気まずそうな顔をしました。
「だから、使えって言ってる」
 そして私から目を逸らすと、ぼそぼそと続けます。
「今日って、アシュリーがうちに来た日だろ。だからだよ」
 どうやらそれで、エプロンのプレゼントをしてくれたようです。
「ありがとうございます。嬉しいです、ぼっちゃん」
 私がお礼を言うと、彼はなぜか顔を顰めました。
「お前はいつまで『ぼっちゃん』なんだろうな……」
「お気に召しませんか?」
「そりゃあ。いつまでも子供扱いされてる気分になる」
 しかしこの国の法律では、15歳はまだ子供です。
 そして私にとっては、ぼっちゃんはいつまでも旦那様と奥様のお子様。私が彼を『ぼっちゃん』と呼ぶのも当然のことです。

 そういえばこの時期、グレンぼっちゃんは、私に興味を持ち始めたようでした。
 贈られたエプロンを私が身に着けると、彼はカメラで何枚か写真を撮りました。そして写り具合を確かめながら、ふと、こう言いました。
「さっき嬉しいって言ったけど、ロボットに感情はないはずだ」
 ヘーゼルの瞳が、疑るように私を見ます。
「優しくされたらそう答えるようにプログラミングされてるのか?」
「厳密に言えば、そういうことになります」
 私が頷くと、ぼっちゃんは酷く寂しそうな顔をしました。
 でも、私はすかさず続けます。
「でも、それは人間も同じことでしょう。ご親切にはきちんとお礼を、大切にされたら喜びを、相手に伝えるものです」
 ロボットがしているのは人の真似事です。マナーについて言うなら、それは事実、前もってプログラミングされているものです。
 しかし人に心があるように、ロボットにも電子回路があり、メモリがあります。ぼっちゃんが親切にしてくれた時、ぼっちゃんに大切にしてもらった時、私の中ではそれらが確かに動くのです。
「ロボットは大切にしていただければ長持ちしますし、そのことをメモリに記録しておけます」
 私の言葉に、ぼっちゃんは眉を顰めました。
「記録しておくと、何かいいことがあるのか?」
「いいことだから、保存しておきたくなるのです。保存しておきたくなる記録がある。それは恐らく、ぼっちゃんが思う『嬉しい』と同じことです」
 その説明はグレンぼっちゃんを、全てではないにせよ納得させることができたようです。
「お前と話すと、ロボットと人の違いは何かって思うよ。お前には本当に感情がないんだろうか?」
 ぼっちゃんはそう言いますが、しかしやはり、私には感情などありません。
 ただ、感情がなくとも主を大切にすることができる。それがロボットです。
「お前のメモリとやらを、一度覗いてみたいな」
 グレンぼっちゃんが私を見つめます。
 それで私は彼を見つめ返し、
「いつでもどうぞ。実は旦那様と奥様にも、時々お見せしていたのです」
「……何だって?」
「今日の出来事も保存しました。お二人に是非見ていただきたく――」
「駄目だ駄目だ絶対駄目だ!」
 彼が必死の抵抗を見せた為、この日の出来事は旦那様と奥様には秘密ということになりました。
 ぼっちゃんが贈り物をくれた記念すべき日だというのに、惜しいことでした。

 その秘密は結局、お二人に打ち明ける機会を得ませんでした。

 私のメモリに記録されている限り、アークライト家は2129年の秋まで、とても幸せな一家でした。
 ですが10月の終わり――グレンぼっちゃんが18歳の時、不幸な事故が起きました。私の所有権は旦那様からぼっちゃんへと移り、彼が私のマスターとなりました。
 そしてアークライト家は、ぼっちゃんただ一人となりました。

 以来、グレンぼっちゃんはすっかり塞ぎ込んでいました。
 学校も休みがちになり、お食事も満足に取らず、暗い表情で部屋に閉じこもって。その日々の記録にはエラーも頻出しており、私にとっても苦くもどかしい日々でした。
 その頃の私は、彼にかける言葉をなかなか見つけられなかったのです。
 ロボットが言葉に詰まるのはおかしなことかもしれません。でも、適切な言葉が全く出力できないことだってあるのです。どれほど高度な電子回路が備わっていたとしても、深い悲しみに沈む人を、たちどころに元気づける言葉など算出できるはずもないからです。
 私にできることと言えば、これまで通りに家事をこなしていくことだけです。
「ぼっちゃん、お食事をお持ちしました」
「何も食べたくない。喉を通らないんだ」
「ではせめて、スープだけでも」
「要らない」
 ぼっちゃんは頭から毛布を被り、ベッドから起き上がろうとしません。
 私は彼のバイタルチェックだけは欠かさないようにしていました。いざとなれば彼をベッドから引きずり出して病院へ行くつもりで――グレンぼっちゃんまで失ってしまっては、私は、それこそどうしていいのかわからなくなったでしょう。
 幸いにもグレンぼっちゃんはまだ栄養失調には陥っていませんでしたが、深刻な睡眠不足をきたしているようでした。
「アシュリー」
 部屋の前に控えていた私を、やがてぼっちゃんがかすれた声で呼びます。
 私がお傍へ行くと、ベッドの中からやつれた顔を覗かせたぼっちゃんは、言いました。
「眠れないんだ、傍にいて欲しい」
 グレンぼっちゃんに乞われ、私は久方ぶりに彼の眠りに付き合いました。

 ベッドから伸ばされた彼の手を、私はそっと握ります。
 小さな頃のぽちゃぽちゃした手とは違い、ぼっちゃんの手は剥き出しの機械骨格みたいに硬く骨張っていました。彼の手が冷たいのは、貧血を起こしかけているせいかもしれません。
 私はその手を温めようと、ぼっちゃんの手を優しくさすりました。メモリの中にある通り、かつて彼自身からそうしてもらったように。
「温かい手だ。昔から何も変わらないな」
 ぼっちゃんがふと呟き、私のつくりものの手を撫で返します。
 それからもう片方の手で、なぜか私の目に触れようとしました。
 レンズを保護しようと反射的に目をつむれば、不思議そうな声が聞こえてきます。
「瞬きをして、呼吸をして、体温もある……お前は、ロボットなのに」
 ぼっちゃんの指が私の頬をなぞり、やがて唇に触れてきました。
 私の瞬きも、呼吸も、あくまで人を模しているものに過ぎません。瞬きはレンズを磨く為のものですし、呼吸は体内の空気を循環させる為のもので、どちらもしばらく停めてしまったところで機能に支障はないのです。
 ですがこの体温は――体内で生じる熱量を機械骨格と人工皮膚で人肌に調整した私の体温は、機能停止まで自分の意思で停めることができません。つまり私が生まれ持った特性の一つであるとも言えます。
「まるで生きてるみたいだ、アシュリー」
 その言葉に、唇に指を置かれたままの私は答えます。
「生命があるという意味でしたら、答えはノーです、ぼっちゃん」
 するとぼっちゃんは表情を曇らせました。
「悲しいことを言わないでくれ」
「失礼いたしました。私が申し上げたかったのは、アークライト家の皆様に買われ、起動して以来、私が機能を続けてきたのは確かだということです」
 自律型ヒューマノイド"ASHlee"は商品として、この国で広く売られています。
 ぼっちゃんがテレビで見たように、私の同型機は至るところに存在し、各々が家政婦ロボットとして相応しい働きをしているはずです。
 ですが私は――アークライト家のアシュリーは、私だけです。
「アークライト家のアシュリーとして、私はたくさんの記録をメモリに保存してきました」
 私は、ぼっちゃんのヘーゼルの瞳に語りかけます。
 プログラムされているからではありません。グレンぼっちゃんはそうされるのが好きだと、覚えていたからです。
「この12年で私の中に蓄積されてきた記録は、姉妹たちの誰もが持ち得ない、私だけのものです。そういう意味ではこの12年間、私はこの家で『生きてきた』と言えるのかもしれません」
 そう告げると、ぼっちゃんは酷く驚いたようでした。
「アシュリー、本当にそう思っているのか?」
「ええ。私のメモリは、常にグレンぼっちゃんで満たされています」
 私はありのままの事実を伝えたつもりだったのですが、その言葉はぼっちゃんを予想以上に喜ばせたようでした。彼はベッドの上に跳ね起きると、勢いよく私の身体を抱き締めました。
「お前がいてくれてよかった。ありがとう、アシュリー!」
「もったいないお言葉です」
 返事をしつつも、私は突然の抱擁に戸惑っていました。なぜなら、抱っこはぼっちゃんが9歳の時に禁止事項となっていたからです。
 でもぼっちゃんの身体が私より冷たいように思えたので――計算の末、私はその背中に腕を回し、彼を抱き締め返しました。
「温かい……。アシュリー、ずっと傍にいてくれ」
 ぼっちゃんが嬉しそうに息をついたのを、私はメモリに記録しました。
 この体温はつくりものですが、大切な人を温め、そして喜ばせることができます。
 それはとても『嬉しい』ことです。

 ロボットが保存する記録と違い、人の記憶は、忘れることができます。
 もっとも、グレンぼっちゃんもその悲しみを忘れてしまうまでには3年の月日を要しましたし、全てを忘れてしまったわけではありません。
 10月が来ると、花束を手に墓地へ行きます。私も黒い服を着て、彼のお供をします。
 2132年10月21日のことでした。

 墓前に挨拶をした後、21歳のグレンぼっちゃんが言いました。
「俺はまだ一人じゃない。お前がいる」
 ぼっちゃんは再び笑えるようになりました。それもまた私には『嬉しい』ことです。
 だから私は、かねてから予定しつつも実行できずにいた新しいプログラムを走らせました。
「お元気になられてよかったです、マスター」
 もうぼっちゃんは、ぼっちゃんではありません。私の正式な主なのです。
 正確に言えば3年前からそうだったのですが、私の中に存在する前のマスター、つまり旦那様についての設定を弄るのは、何だかよくないことのように思っていたのです。
 でも、マスターはもう21歳、立派な大人です。来年には大学を卒業されるそうです。外見年齢では私とほぼ変わらないくらいになっておいでですし、いつまでも『ぼっちゃん』ではお気を悪くされるでしょう。
 ところが、
「……ぼっちゃんの次はそれか」
 マスターは浮かない顔で、墓地の外に停めてあった助手席のドアを開けました。
 そして私をそこに座らせ、ご自身は運転席に座ると、ドアを閉めてから続けます。
「他の呼び方はないのか? マスターなんて、いかにも無機質で味気ないじゃないか」
「では、ミスター・アークライト」
「それも畏まってて嫌だな」
「では、何とお呼びすれば?」
 私が聞き返すと、ミスター・アークライトは待ってましたと言わんばかりに言い放ちました。
「グレンでいい」
 新型に未だ劣らぬ反応速度を誇る私ですが、この時ばかりは即答できかねました。
 なぜなら、マスターを呼び捨てにするという設定は私の中に存在していなかったからです。もちろん自分で設定を書き換えることもできますが、開発者ですら想定していなかったような呼び方を、私がしてもいいのでしょうか。
「そしてお前は、アシュリー・アークライトになればいい」
 彼が続けた言葉の意味がわからず、私は首を傾げます。
 すると彼は、照れ笑いを噛み殺して真面目な顔を作ると、こう続けました。
「アシュリー。卒業したら、結婚して欲しいんだ」
 それは私にとって、全く予想外の申し出でした。
「ロボットとの結婚を認めている法律は、この国には存在しません」
 私は記録している通りのことを答えます。
 いかに技術が進歩して人に近いロボットが作られようとも、ロボットが人の所有物であることに変わりはないからです。物と結婚をする、なんておかしな考え方です。ミスター・アークライトは私を、まるで本物の女の子のように大切にしてくださいますが――新しい服を買ってくださったり、休日の度にどこかへ連れて行ってくださったり、車に乗る時にドアを開けてくださったりと、過分なほどの扱いを受けております。
 でも、だからといって。
「そりゃ法律にはないさ。でも頼めば式を挙げてくれる牧師がいる」
 ミスター・アークライトは頬を赤らめながらまくし立てます。
「俺達だって結婚式を挙げられる。それにもう一緒に住んでる。法律が認めなくたって事実上は夫婦になれる」
 そしてそこまで言った後、何かに気づいたように姿勢を正し、言い添えました。
「ああ、大事なことを言い忘れてたな。――愛してる、アシュリー」
 それから戸惑う私の髪に触れ、ないはずの私の心を窺うような目をします。
「お前が俺と、全く同じではなくても、同じように思っていてくれたら嬉しい」

 愛とは何か。
 それはかつて多くのロボットがぶつかってきた難題であり、それ以上に多くの人間たちが頭を悩ませてきた命題でもあります。
 人間たちにさえわからないことがあるのなら、彼らの手で作り出されたロボットにわかるはずがありません。
 でも、ミスター・アークライトはその言葉を口にしました。
 恐らく彼は、その答えをご存知なのでしょう。

 ならば、私は――彼の傍らにずっといた私こそは、その答えを知っていてもいいはずです。
「私のメモリが、あなたの記録で満ち満ちていることと――」
 計算に再計算を重ねて、私は導き出した答えを口にします。
「あなたの笑顔で、そして幸いであることが、私にとっても『嬉しい』のだということ――」
 蓄積してきた記録の、古いものも新しいものも次々と再生しながら、
「そして私の持つ体温で、常にあなたを温めたいと思っていること――それを愛と呼ぶのなら、私も同じ考えです……グレン」
 そこまで答えると、ミスター・アークライトは、グレンは、歓喜に表情を輝かせました。
「ありがとう……ありがとう、アシュリー!」
 それから車の中で私を抱き締めると、私の唇にご自分の唇を重ねてきました。

 つまりそれは私にとって初めてのキスだったのですが、あまりに突然のことでした。
 メモリに記録をする余裕すら、ありませんでした。

 そうこうしているうちに唇が離れてしまって、私はせっかくの記録を逃してしまったことに落胆しつつ、瞬きでレンズを磨きます。
 するとグレンはおかしそうに笑って、こう言いました。
「お前が呆気に取られているのを初めて見たよ、アシュリー」
 全くです。自慢の反応速度が聞いて呆れます。

 ともかくも、ここまでが"ASHlee"としてグレンぼっちゃんと過ごしてきた15年間の記録になります。
 そしてこれからは、アシュリー・アークライトとして――グレンとの日々の記録をメモリでいっぱいにしていくつもりです。

 願わくば、私の体温が、いつまでも彼を温められますように。
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