とても素直な空模様
今年の夏休みはコンディション的に最悪だった。そもそも怪我してんだからコンディションがいいはずもない。それに加えてこのくそ暑いのに包帯巻いて、三角巾で腕吊るしてたら余計蒸し暑い。熱がこもるみたいな感じがする。
そして病院通いもまた面倒だった。世話になってる整形外科は歩きでもそこまで遠くないけど、真夏の炎天下に往復するにはだるい距離だ。もう普通に『人間として』診察を受けるようになっていたから、朝一で行かないと診察室がめっちゃ混むのも憂鬱だ。本当なら自由に過ごせるはずの夏休みだってのに、通院の為に早起きしなきゃならない。何もかもめんどい。
俺のそういう気分を反映してか、病院に行く日の朝はいつも微妙に曇ってる。
今朝も傷に障らないよう着替えながら、俺は空模様を気にしていた。
この雲行きの怪しさも多分、いや間違いなく俺のせい。この腕じゃ傘を差すのも大変だし、雨に降られるともちろん困る。気分は果てしなく滅入っていた。
そこに、萩子から電話がかかってきた。
『大地、今日は暇?』
「これから病院行くけど、その後は暇」
俺が答えると、萩子は声でわかるほど心配そうにしてみせる。
『今日もなんだ……怪我の具合、どう?』
「そんな一週間かそこらで治んねえよ」
先月怪我をして以来、萩子は心配性がより加速したみたいだ。何かと言うと心細そうな声を出すからこっちが気が気じゃない。多分、電話の向こうでも迷子になった時みたいに困った顔をしてるはずだ。
「怪我の具合がどうかはこれから診てもらう。心配すんな」
『……そっか。早く包帯取れるといいね』
いくらか気分が持ち直したようで、萩子の声が少し明るくなる。
俺は正直、怪我の具合よりも萩子がどうして電話くれたのかってことの方が気になっていた。
「で、何か用? 病院行った後は普通に暇だけど」
暇であることを強調しながら続きを促す。
すると萩子は妙に楽しげに、
『じゃあ、一緒に宿題しない? 二人一緒の方がはかどるよ』
宿題をしようって話をこんなにも楽しそうに口にするのは、幽谷町じゃ萩子くらいのもんだと思う。
いや、会長さんも言いそうか。あの人と萩子は何か知らねえけど妙に波長が合うから。
「宿題かよ……」
何となく憂鬱な声が出た俺を、萩子は笑って励ましてくる。
『おばさんにも言われてたじゃない、今のうちにやっときなさいって』
「言われてたけど。まだ八月入ったばかりだろ、急いでやることか?」
『今のうちにやっておけば、怪我治ってからたくさん遊べるよ』
前にも聞いたな、その台詞。どんだけ真面目なんだか。
でも俺は、どうせ会うんだったらもっと違うのがいい。そりゃ誘ってくれたのは嬉しいけど――本当なら俺はもっと違う夏休みを迎えているはずだった。怪我をしてなければ、七月三十日にちゃんと予定通りのことができていたら。その為に予定も立てたしバイト代も貯めたし、約束だってしてたのに。代わりに別のいいことはあったけど、俺からすればあれじゃ全然足りない。
「なら、神社のとこで待ち合わせようぜ」
ふと思いついて、俺はそう切り出した。
『山で? どうして?』
萩子は不思議そうにしている。
けど、上手いこと言って押し切るつもりだった。
「病院の帰りに前通るんだよ。終わったら連絡するから、上で待ってろ」
『いいけど、別に家の前で待ってたっていいんだよ』
「暑いだろ。あそこなら涼しいし、散歩ついでに行こうぜ」
『うん……わかった』
釈然としない様子は見せつつも、最後には萩子もいいと言ってくれた。
『お散歩の後はちゃんと宿題しようね』
駄目押しみたいに釘刺してくるのも忘れなかった。どんだけ真面目だよ。
苦笑しつつ電話を切って、ふと窓の外を見たら、いつの間にやらものの見事に晴れていた。
病院での診察を終えると、俺はすぐ萩子に連絡を入れた。
あいつも今日は電話を携帯していたらしく、すぐに繋がった。
『先に行って待ってるね。急がなくていいよ』
けど萩子が待ってるのにだらだら歩いていくなんてできないし、急ぐに決まってる。まだ腕を吊るしたまんまだから全力疾走こそできなかったけど、俺は炎天下を走ってあの山へと向かった。まとわりついてくる消毒液の匂いを振り払うように。
山の登り口は、背の高い木が作る涼しげな影で覆われていた。ここは夏でもいい風が吹いてて過ごしやすい。勾配のきつい百段ちょうどの石段を、俺は二段飛ばしで駆け上がる。あちこちで蝉がわんわん鳴いていた。
まだ小さかった頃、よく萩子と二人でこの山に来た。石段をじゃんけんしながら上り下りした。ぐーで勝ったら『ぐりこ』だから三段。ちょきなら『ちよこれいと』、ぱーなら『ぱいなつぷる』でそれぞれ六段進める。ちっちゃい頃の萩子は欲張ってちょきとぱーばっかり出すからはっきり言って弱かった。そして負けてはにこにこしながら『大地はじゃんけん強いね!』って言ってた。
あの頃は萩子と一緒に遊べるこの山が本当に大好きで、二人で石段を上るだけでわくわくした。
今はさすがにこんなところで遊んだりはしない。だけど今、あの頃みたいにわくわくしていた。この上で萩子が待ってると思うと――。
「――あ! 来た来た、大地せんぱーいっ!」
石段を五十段目くらいまで上った辺りで、萩子じゃない女の子の声が降ってきた。
ぎょっとして顔を上げると、石段の一番てっぺんに座る人影が三つ――逆光でも見ればわかる、一つは間違いなく萩子だ。二つ結びの髪と白いブラウス、半端な丈のスカート、何もかもが萩子っぽいからよくわかる。
その左隣に座ってる同じくらい小柄で髪の長い女の子の影と、並んで座るすらりとした男の影が、石段を上ってきた俺をほんのちょっとがっかりさせた。
「栄永ちゃん……何してんの?」
途端に失速した俺は、だらだらと足を動かしながら尋ねる。
なぜか萩子が先に答えた。
「さっき、下で偶然会ったんだよ」
「ここ涼しくていいよねー。たまに涼みに来よっかな」
夏っぽいワンピースを着た栄永ちゃんが、萩子の隣で大きく伸びをする。
更にその隣からは、
「大地さん、病院はいかがでしたか?」
すっかり人間らしくなった辰巳さんが、気遣うように俺を見ていた。
人間の時は大人に見える――ってか実質俺らよりはるかに年上の辰巳さんは、こうして人間の格好してると本職のモデルみたいに存在感がある。八百屋に住み込みで働き始めてからというもの、うちの商店街は一層の賑わいを見せ始めたらしい。母さんも言ってたな、『ちょっと見ないレベルの美男子』とか何とか。
「経過はいいって言ってたよ」
俺は答えつつ、萩子の隣に腰を下ろした。
萩子がこっちを向いて、ほっとしたように少し笑った。
「よかった。もうすぐ包帯取れる?」
「ああ、おとなしくしてりゃ直に治るって」
本当は、まだまだかかるって医者に言われてきたばかりだった。でも萩子だけならともかく、他でもない辰巳さんの前で下手なことは言えない。
「そうですか……私には、回復を祈ることしかできませんが……」
現に、辰巳さんは心苦しそうに溜息をついている。
俺が怪我をした経緯を思えば気に病むのも当然だ。けどそれも普通なら、人間同士ならまず起きないトラブルのはずだった。ましてや運の悪い事故だ、笑い飛ばしておく方がいい。
「心配要らねえって。そんなに不自由してねえし」
だから俺はわざと軽く言って、すぐに話題を変えた。
「それより萩子、ぼちぼち行くか?」
「え、もういいの? 来たばかりだよ」
萩子がきょとんとする。
だってまさか栄永ちゃん達がいるとは思わなかったし、別に邪魔だとか言うつもりはねえけど、ちょっと拍子抜けってか予定が狂った感がある。二人きりかと思ったのにな。
「先輩がた、これからどっか行くの?」
すかさず栄永ちゃんが楽しげに食いついてきて、俺は首を横に振る。
「一緒に宿題やるだけだよ」
「えっ、そうなんだー。てっきりデートの待ち合わせなのかと思った!」
栄永ちゃんが若干わざとらしく驚いてみせた。
俺がどう返そうか迷っていれば、萩子の方があたふたし始める。
「ち、違うよ。今日はちゃんと勉強する予定だから!」
「今日は、ね」
意味ありげに復唱する栄永ちゃん。
途端に萩子が困ったように俺を見たから、その反応が新鮮だと思いつつ、助け舟を出してみた。
「栄永ちゃんこそ、これからどっか行くのか? 辰巳さんと二人で」
「まあ、一応ね」
するとどういうわけか、栄永ちゃんは苦笑して、
「私と花音さんは、会長さんのおうちへお邪魔するところなんです」
辰巳さんが答えた。
「ほら、会長に宿題教えてもらう約束してたじゃん。今から行くとこ」
「そう言やそんな話もあったな」
「私も会長さんから字を習っているんです」
そこで辰巳さんは胸を張り、栄永ちゃんが携帯電話を取り出して何か操作したかと思うと、出てきた画面を俺と萩子に見せた。
「見て見てこれ、辰巳さんが書いたんだよ」
表示されていたのは見覚えのある会長さん家の居間で、白い紙を手に得意そうにしている辰巳さんの顔だ。紙には妙にかくかくした個性的な字で『たつみ』と書かれているのがかろうじて読めた。
「今はひらがな五十音を覚えるのが目標なんです」
見るからに大人の辰巳さんが、誇らしげにそんなことを言う。
でも、この人はそこから習ってかなきゃいけないんだよな。人間として幽谷町で生きてく為には。
「辰巳さん、すごいね。もう字が書けるんだ」
萩子が誉めると、むしろ栄永ちゃんの方が嬉しそうに笑った。
「でしょでしょ? 会長も『筋がいい』って誉めてた!」
「会長さんの教え方が上手なんです。あの方はいい先生です」
謙遜か、むしろ本気でそう信じているのか、辰巳さんはきっぱり言い切る。
確かにあの人は教え方上手そうだ。マジで一個上かと思うくらい落ち着いた口調とか、頭のよさとか、真面目なとことか。
「何か、わかるかも。会長さんって時々、本当に先生みたいだよね」
萩子も、そんなふうに同意を示した。
「私にはめっちゃ厳しい先生だけどねー……」
溜息をついた後、栄永ちゃんは何か思いついたようだ。ぱっと顔を明るくした。
「そうだ! 先輩がたも宿題やるんなら、一緒に会長ん家行かない?」
真っ先に石段から立ち上がり、ワンピースの裾をなびかせながら振り返る。
「わかんないとこ教えてもらえるし、私ばっか怒られずに済むし。一石二鳥じゃん!」
「いきなりお邪魔しちゃって、迷惑じゃないかな」
萩子が戸惑ったように聞けば、栄永ちゃんは手をひらひらさせる。
「ないない。むしろ人が増えたら喜ぶと思うよ、会長なら」
「そうですよ。会長さんはそういう方です」
辰巳さんも頷いている。
俺も、そう思う。会長さんなら二人増えても多分気にしない。喜んで勉強を教えてくれるはずだ。まして――。
ちらりと、隣の萩子を見てみる。
ちょうど萩子も俺の方を見た。小首を傾げて、どうしよっかと聞きたそうにしている。その表情からは乗り気なのかそうじゃないのかいまいち読み取れなくて、俺は言葉に詰まった。どうしたいか、答えならとっくに決まっていたけど。
その時ふと、あんなにわんわん泣いていた蝉の声が止んだ。
「……あ」
萩子が空を見上げる。
ほぼ同じくらいのタイミングだった。ぽっかり開けた神社の拝殿前に突然暗い影が落ちた。俺達の頭上に広がっていた八月の夏空に、あっという間に雲が張り出してきて、いかにも一雨来そうな空になる。
栄永ちゃんがにやにやしながら俺を見る。
「やっぱやめといた方がいいね。宿題、二人でするんでしょ?」
「お、俺のせいって決まったわけじゃねえだろ!」
慌てて反論したけど、これはどう見てもアレだ。俺のせいだ。なんてタイミングだ。
お蔭でこっちは萩子の顔を見られなかった。
「えっ、大地さん達は行かれないんですか?」
「いいのいいの。私達だけで行こ」
戸惑う辰巳さんの手を、栄永ちゃんが引いて立たせる。
「じゃあまたね、先輩がた。宿題以外も頑張ってねー!」
そんな言葉を残して、栄永ちゃんは石段を下りていく。辰巳さんは目を瞬かせ、栄永ちゃんに引っ張られたまま二人一緒に去っていった。
石段の最上段には俺と萩子だけが取り残されている。
当然、気まずい。
「大地、行きたくなかった?」
萩子はまだ空を見ている。
空はどんより曇ってて、俺の今の気分をそのまんま映しているようだった。
「行きたくなかった、ってか……」
素直に言うなら、その通りだ。行きたくなかった。
でもその理由を、俺は萩子に言えない。どうせ宿題するなら萩子と二人がいいとか、人が増えたら何か嫌だとか、会長さんのことは嫌いじゃねえしいい人だと思ってるし世話にもなって感謝してるけど、萩子絡みではどうしても『駄目だ』って思ってることも、全部言えなかった。素直に言えば空を見るより明らかに伝わってしまう気がした。
俺はそれを、空に映る本心を、本当なら七月三十日に言うつもりだった。
言えなくなって挫けた、諦めたってわけじゃないけど、だからって今すぐ言えるかっつったら無理だ。どうせならコンディションいい時に言いたい。こんな、病院の匂いぷんぷんさせて腕吊ってる最中じゃなくて。
で、結局、こう言った。
「俺の方が先に約束してただろ」
ガキみたいな物言いだと思う。
でも、事実だ。俺の方が先だった。おまけに誘ってきたのは萩子で、だから他の奴のとこになんて行きたくない。行って欲しくない。
横目で左隣を窺う。
そしたら、しっかりこっちを見てた萩子と目が合った。
萩子は思ったよりも真面目な顔で頷く。
「そうだね、大地の方が先だもん」
拍子抜けするくらいあっさりと言われて、ほっとするより先に驚いた。
「いいのかよ、お前は行きたかったんじゃねえのか」
「ううん、さすがにアポなしでっていうのは悪いと思うし」
首を横に振り、萩子は笑いのない口調で続ける。
「それにね、私は大地の怪我の話、ちゃんと聞きたかったから……」
辰巳さんの前で嘘ついたの、ばれてたか。
でも聞いたところでどうにもなんないのにな。萩子だって心配性のくせに。
「聞いたらかえって心配になんじゃねえの、お前」
そう言ったら、萩子は少し考えるように目を伏せてから、
「違うよ、心配だから聞きたいんだよ。大地のことだもん」
思わせぶりにも程がある台詞を口にした。
それ聞いて俺がどう思ったかなんて、言うまでもない。
ただ俺が反応するより先に、空の方が動いた。あれほど立ち込めていた雨雲があっという間に掻き消えて、頭上には八月らしい青空が戻ってきた。じりじりと焦がすような日差しの下、森の中では蝉が再び鳴き出した。
空模様は怖いくらい素直だ。俺の気分を反映して晴れたり曇ったり、厄介にも程がある。こんなにあからさまじゃ、まるで俺の器がちっちゃいみたいで格好悪い。
「俺のせいとか言うなよ。言われなくてもわかってる」
弁解にもならないことを俺は言う。
でも萩子は俺と同じように空を見上げた後、はにかんだ。
「あ……じゃあ、行こっか。ほら、二人で宿題しよ」
「……おう」
俺は立ち上がりながら、左隣の萩子を見た。同じタイミングで立ち上がった萩子は、気のせいか頬が赤くなっていたように見えた。スカートの後ろを払う右手を、怪我してなかったら握れてたのになと思う。
治ったら、今度こそ。
誕生日には言えなかったことを言う。
「そうだ」
石段を下りようとしたところで、萩子が声を上げる。
「大地、久々にじゃんけんして下りようよ」
「いいけどお前、勝つ自信あんのかよ」
昔の萩子はじゃんけんが弱かった。今だって強くなってるとは思えない。
俺の問いに萩子は照れ笑いを浮かべる。
「あんまりないけど、負けたって別にいいよ」
「何でだよ。悔しいだろ、負けたら」
「ううん。だって大地、勝っても待っててくれるでしょ?」
そんなの当たり前だ。俺だってじゃんけんは勝っても負けても、どっちでもよかった。勝って気分よくなりたいとか、萩子を置いて一番乗りしたくてじゃんけんしてたんじゃない。
萩子が一緒にいてくれればそれでよかった。昔からずっと。
百段ちょうどの石段を下りながら、俺達は久々にじゃんけんをした。
萩子は欲張ってちょきとぱーしか出さないから、やっぱりすごく弱かった。結局、俺が先に登り口まで辿り着いて、萩子は昔みたいに残りの段差をにこにこしながら下りてきた。
「大地はやっぱりじゃんけん強いね!」
負けたくせに、何だかすごく楽しそうだ。
そして誉められた俺も満更じゃなくて、いい気分だった。
「お前には一生負ける気しねえよ」
「え? なんで? どうしてそこまで言い切れるの?」
「内緒。でもいいだろ、お前が何回負けても待っててやるよ」
お社の森を出たら眩しい日差しと真っ青な夏空が俺達を出迎えた。
雲一つない快晴なのは、もちろんじゃんけん勝負に勝ったからじゃない。