夏休みの宿題(3)
ザリガニ釣りに必要な道具はほんの少しだけだ。糸の端に餌となるスルメと、重り代わりの石を巻きつけて川の中へ垂らす。するとザリガニが食いついてくるのでタイミングを見計らって引き上げる。
このタイミング、普通の魚釣りと一緒で見極めが難しい。慌てて引っ張り上げるとザリガニがしっかり食いついてなくて逃げられたりする。
「わあっ、逃げられた!」
私が引き上げた糸には、端っこが少しだけちぎれたするめと重りだけがぶら下がっていた。難を逃れたザリガニは川底の泥を巻き上げるようにして潜り込み、すぐに見えなくなってしまう。
「あーあ、惜しかったのになあ……」
「引くのが早いんだよ、萩子。もっと待たなきゃ駄目だ」
大地は嘆く私に助言をくれながら、自分でもどんどん釣っている。川べりにしゃがみ込んで糸が引くのを見守る横顔はうっすらと笑んでいて、何だかすごく楽しそうだ。やがて糸を引き上げて、ザリガニがぴちぴちと水滴を跳ねながら川の外へ釣り上げられると、大地は素早くザリガニの尻尾を捕まえ、満面の笑みを弾けさせる。
「ほら見ろよ、また釣れた! これで何匹目だっけ?」
「五匹目だよ。すごいね、大地のとこにだけザリガニ寄ってきてるみたい」
ザリガニにも超もてもてだ。さすがは大地。
もちろん釣れてるのは大地だけじゃない。
「俺も五匹ーっ! この調子でどんどん釣るぜ!」
「しまった、差をつけられた。僕はこれで三匹だ」
黒川さんと上渡さんも次々にザリガニを釣り上げている。私達からは少し距離を置いた下流から、たびたび歓声が上がっていた。
二人とも前にやったことがあるんだろう。大地と同じで慣れた手つきだったし、ザリガニが釣れる度にものすごく楽しそうな顔をしていた。受験勉強で疲れていたらしい上渡さんも、この時ばかりは十七歳らしい笑顔を浮かべていて、少しほっとした。
一方、今回が全くの初めてという栄永さんはあまり上手く釣れていなかったようだ。私と同じようにすんでのところでザリガニを逃がしてしまって、その度に盛大に溜息をついていた。
「ねえ、全然釣れないんだけど! 先輩、私に間違った釣り方教えてない?」
遂には釣り方を教えてくれた黒川さんに抗議を始めたから、黒川さんが苦笑していた。
「そこまで卑怯者じゃねえっつの。栄永こそちゃんと言われた通りにしてんのか?」
「ちゃんとやってますー。もう一回最初から懇切丁寧に教えてよ!」
「忘れてんじゃねーか! しょうがないな、もっかい言うからよく聞けよー」
黒川さんがザリガニの釣り方を大声で説明すると、栄永さんは真面目な顔でうんうん頷きながら聞き入っていた。アイスやカラオケを賭けているせいかもしれないけど、ザリガニ釣り自体にすっかり夢中になっているようにも見える。
私も負けていられない。
「参考にしたいから、大地の釣るとこ見てていい?」
「いいぜ。瞬きせずにしっかり見てろよ」
技を盗もうと申し出ると、大地は快く応じてくれた。二人で肩を並べて川の中を覗き込み、ザリガニを誘き出して餌のするめに食いつかせるのを眺めた。でも大地があまりにも楽しそうにザリガニを釣ってはいい顔で笑っているから、私もその顔を見てるだけで楽しくなってしまい、なかなか釣りの方には集中できなかった。
雑木林の蝉の声を聞きながら、ザリガニが上げる水しぶきを浴びながら、私達はしばらく川で遊んだ。
黒川さんの言っていた通り、上手い人ならあまりにも際限なく釣れてしまうので、途中から三十分の制限時間を設けてその時間内にどれだけ釣れたかを競うことになった。釣った後は、展示用の一番いいザリガニを除いては逃がすようにしている。じゃないと川原がザリガニでうじゃうじゃになってしまうからだ。
そうして三十分後に集計したところ、ぶっちぎりのトップは大地の十七匹だった。二位が黒川さんで十五匹、三位の上渡さんが十二匹、ザリガニ釣りは始めての栄永さんは四位で六匹、私は最下位だったけど、大地が根気よく教えてくれたお蔭で三匹どうにか釣り上げて、ボウズだけは免れた。
「稲多くんは顔もいいのにザリガニ釣りまで上手いのかよ。天に二物与えられちゃってんじゃん」
二匹差で優勝を逃した黒川さんが悔しがると、大地は声を立てて笑った。
「ザリガニ釣りの才能、欲しいか? それはどう考えても要らねえ一物だろ」
「欲しいよその才能! 私、次こそは勝ちたい。リベンジしたい!」
栄永さんはすっかりザリガニ釣りにはまってしまったのか、またやりたいと繰り返していた。
「やる前にあんなに文句を言っていた人間の台詞とは思えないな」
上渡さんに指摘されてもけろりとした顔で、
「だって面白かったんだもん。次は会長にも負けないよ!」
なんて張り切っていて、可愛いなあと思ってしまった。
まあ、私は人のことが言えるような釣果ではないんだけど。
「次があるなら、私も練習しとかないと。昔はもっと釣れてたんだけどなあ」
子供の頃のようにはいかず落胆していると、黒川さんが明るく慰めてくれた。
「片野さんはしょうがないよ。隣であんなにばんばん釣られたら、そりゃ気も散るだろ」
「俺のせいかよ。悪かったな、釣れすぎちゃって」
大地がおどけた口調で詫びてきたので、私も言い訳半分で答えておく。
「そうだね。大地のことばかり見てたから、自分のがおろそかになったのかも」
「……え?」
不意に、大地が目を瞬かせた。
私、何か間違ったことでも言っただろうか。驚いている大地に、私の方が戸惑いながら聞き返した。
「何? どうかした?」
「いや、別に。びっくりしただけ」
大地は首の凝りを解すみたいに大きく頭を振った。
その後、私達は各々の釣果をメモにまとめ、ついでに申し訳程度の水質調査もした。
そして一番生命力に溢れたザリガニを、川の水を張ったコンビニの袋に入れ、学園祭用に持ち帰ることにした。当面は上渡さんがおうちで飼うのだそうだ。
振り返ってみれば久々に遊び尽くした一日だった。
次の会合は夏休みが明けてかららしい。川の傍で解散し、私は大地と二人で帰途に着いた。
「久々にすごくいっぱい遊んだ! って感じだね」
帰り道、私達はまだ川遊びの余韻に浸っていた。ずっとしゃがんでザリガニを釣っていたからか、肩や背中がばきばきだった。歩きながら伸びをしたらすごく気持ちがよかった。
「だな。まさかこの歳になってザリガニ釣るとは思わなかったけど」
大地が澄ました顔で答える。
でも口元はにやにやと笑んでいて、明らかに私のツッコミ待ちだった。
「そっか、久々だったからあんなに熱中してたんだね」
ご期待通り突っ込むと、大地は喉を鳴らすような笑い声を立てた。
「ばれたか。ぶっちゃけ結構はまった」
「ばればれです。私も久々にやったけど、楽しかったよ」
「お前はもうちょい練習が必要だな。今度付き合ってやろうか」
「あ、いいかも。またやりそうだもんね、皆も楽しそうだったし」
栄永さんはリベンジしたいって言ってたし、黒川さんも上渡さんもすっかり夢中になってた。八月はもうじき終わるけどまだしばらくは暑い日が続くだろうから、また川に行こうって誰かが言い出すんじゃないかな。そうなったら次こそはもうちょっと釣れるようになっていたい――って、私も結構はまっちゃったのかもしれない。
「なら、今度は二人で行くか。ようやく包帯も取れたしな」
大地が声を弾ませる。夏の午後の突き刺さるような日差しが、大地のふわふわした髪をより明るい色に染めていた。もう午後四時を過ぎているはずだけど、夏だけあって一向に日が暮れる気配がない。
おまけに今日は一日中、とても天気のいい日だった。雷雲が空を横切ることなんて一度もなかった。大地がこんなに上機嫌なんだから当然だけど。
と、思っていたら、
「……いや、それより先にやることがあるよな」
明るい色の髪を大きな手でかき上げて、大地は呟く。
私が不思議に思って視線を向けると、大地も私を見下ろして、少し照れたような顔をした。
「お前の誕生日祝い、まだだっただろ」
「それは先月、もうやったよ」
即座に私は答える。
七月三十日、私の誕生日に、大地と二人でお祝いをした。つい一ヶ月前のことだ。ちゃんと覚えてる。
なのに大地はどこか困ったように笑ってみせた。
「やったけど、プレゼントは買ってねえし」
「でも、貰ったもん」
私が欲しいと言った通りのものを貰った。それ以外に欲しいものはなかった。一番大切で、代わりなんてなくて、もしなくなったら絶対に困るし、嫌だ。そういうプレゼントだった。
「お前はあれだけでいいって言うかもしれないけど」
大地が溜息をついて、目の端で私を見る。
「俺は何か物足りねえって思ってんだよ。元々は買い物に行く予定だっただろ」
そうだった。隣町にあるショッピングセンターまで二人で出かけて、私のプレゼントを買ってこようって計画だった。夏休み前までは確かにそういう話になってて、でもあいにくと中止になってしまっていた。
「せっかく怪我も治ったし、あと貯めといた金も使い道なくて残ってるし、今度こそ行こうぜ」
大地は歩く私の前に回り込むようにしてまくし立ててきた。
「お前にはいろいろ心配かけたし、世話にもなったし、その礼って意味でもな。お前だって買い物好きだろ? それにほら、向こうに行けば美味い食べ物屋もいっぱいあるし、ただ見て歩くだけでも楽しいし」
そうやって楽しそうなことを並べて私の興味を引こうとするところは、小さな頃とちっとも変わってない。昔と違って背も伸びたしすっかり大人っぽい顔になったのに、子供みたいにぺらぺら喋る大地が可愛くて、私はそこで笑ってしまった。
「そうだね、夏休み終わる前に出かけるのもいいかも」
笑う私がそう告げると、大地は安堵したように表情を綻ばせた。
「だろ? せっかくの夏休み、一回くらいは遠出したいよな」
夏休みも残り十日、今日が終わればあと九日だ。
将来の為の勉強ももちろん大事だけど、今年の夏は夏期講習にも通ったし、宿題だって済ませた。残りの夏休みくらいぱーっと遊んだっていいはずだ。まして大地は怪我のせいで全然遊びに行けなかったんだから、どこかへ行きたいって気持ちになるのも当然だと思う。
私だって、大地とどこかへ出かけてみたい。本当のことを言うと、夏休み前は二人で出かけるのをすごく楽しみにしていた。プレゼントなんてなくてもいいって思うくらい、七月三十日が来るのを本当に心待ちにしていた。隣町のショッピングセンターはすごく広くてきれいなところで素敵だったし、大地とだったらどこへ出かけても楽しくなるってわかっていたからだ。デートだって思うと、ちょっとだけどきどきするけど。
「じゃあ近いうちに行こっか。大地はいつならいい?」
私は大地に尋ねた。
すると大地は私の隣に戻ってきて、再び並んで歩きながら嬉しそうに答える。
「明日は店の手伝いあるから……明後日なら、多分一日中空いてる」
「私もその日は予定ないよ。やっぱり朝から行く?」
「そりゃそうだろ。結構電車乗るし、あと向こうにいられるのも七時までだしな」
隣町から幽谷町へ帰る為の電車は午後七時で終電だった。つまり隣町で遊べるのもそのくらいまでということだ。もう少し遅い時間までやってくれたらいいんだけど、利用者が少ないせいで廃線の噂もあるくらいだから仕方ないんだろう。
「なら明後日、朝九時に。駅まで一緒に行くよね?」
ちょうど曲がり角を曲がって、向こうに私達の家が見えてきた。道路を挟んで向かい合わせにある私と大地の家。待ち合わせ場所は当然、間に通ってる道の上でいいはずだった。
「ああ。もっと早くてもいいけどな」
「それは無理だよ、私だっていろいろ準備とかあるもん」
都会へ行くからにはちょっと可愛い格好をしていかなきゃいけないし、髪だって下ろしたい。爪も、また磨いてみようかな。
「準備は早起きして済ませろよ。俺なんか前の晩から寝れる気しねえし」
大地が極端なことを言い出したので、私はまたおかしくなって笑った。
「今でもそういうとこは子供みたいだね、大地」
「は? 何が子供だって?」
心外そうに大地が目を見開く。
「だって前の晩から寝れないとか。遠足の前の日みたい」
そういえば大地は遠足とか、運動会の前の晩はあんまり寝られない子だったっけ。そういうとこまで変わってないのかな。
思い出にふける私をよそに、大地は呆れたように息をついてみせた。
「お前の発想の方がお子様だろ……そういう意味じゃねえよ」
「そうかなあ。じゃあどういう意味?」
「何でもねー。いいからお前はしっかり準備して、それっぽい格好してこい」
私の疑問を封じ込めた大地が、その後でにやりとする。
「こないだみたいに可愛いやつがいい」
大地の言う『こないだ』は、間違いなく先月の誕生日のことだろう。
あの時は確かに気合入れて可愛い格好をした。髪だってちゃんとブローして下ろしたし、爪もぴかぴかに磨いた。大地に誉めてもらいたいなと思っていたら本当に誉めてもらえて、嬉しかったけどすごく恥ずかしかったのを覚えている。
そんな気持ちを思い出したら、やっぱりどきどきしてきた。
「……うん」
私がぎくしゃくと頷いた時、ちょうど家の前に辿り着いた。
足を止めた大地が私の方へ向き直り、呟くような声で言う。
「楽しみだな、明後日」
「うん。いいお天気になるといいね」
「それはまあ、大丈夫だろ。お前が一緒なら」
そういう言い方をされたら、なんて答えていいかわからなくて、困った。
私も、そうかもしれないなって思ってるんだけど――空を見ればわかるって知ってるからかな。そのことが妙にくすぐったかった。
家の前で見上げた空は、今も青く晴れ渡っている。雷雲どころか白い夏雲さえどこかへ行ってしまった。いい天気だった。
それから二日はすぐに過ぎ、夏休みの終わりまであと八日となった。
この日、私と大地は家の前の道路で落ち合い、二人で駅まで歩いて、二人で電車に乗っていた。一両編成の電車は朝早いせいかがらがらで、私達は余裕で座席に座ることができた。横並びの青いシートに、窓を背にして座っている。頭上では白い吊り革が揺れ、向かい側にもある窓には快晴の空と夏の野山の風景が広がっている。幽谷駅も口縄川もとっくに見えなくなっていた。
大地は私の左隣に座っている。さっきから窓の外も見ずに、黙って私を見つめている。おかげで耳も頬も左側だけ熱い。
私は髪を下ろして、お気に入りのワンピースを着た。爪も磨いてきた。誕生日と同じようにおめかししてきた。
「いつもそういう髪型にすりゃいいのに」
そんな私を見て、大地は深く息をつきながら言う。指の先で私の髪を一筋掬って、しげしげと見入っている。
同じことを先月、誕生日にも言われていた。私も同じように答える。
「校則違反だからね。学校にはしていけないよ」
「栄永ちゃんを見習えよ、一年なのに校則なんて全く気にしてねえぞ」
「それはそうだけど……私が校則破ったら、先生に叱られると思うな」
先生方も案外と生徒を見て叱ったりするものだ。私は変なことをしたら一番に叱られる生徒だと思う。
それに、毎日髪を下ろしてたらそのうち見慣れて、誉めてもらえなくなる気がする。こういうのはたまにだからいいんだ。たまに誉めてくれるくらいでいい。
「俺と出かける時だけってのも悪い気はしねえけど」
大地はそう言うと右手をこちらに伸ばして、何の断りもなく私の左手を取った。
大人みたいに指が長くて手のひらも大きい大地の手が、私の手を軽く持ち上げ、ためつすがめつ眺めてくる。
「やっぱちっちゃいよな、お前の手。俺の手ですっぽり隠せそうだ」
「私が小さいんじゃなくて、大地の手が大きいんだよ」
「かもな。昔は同じくらいだったのにな、いつの間に差がついたんだか」
私の手は他の、同世代の女の子と比べても、特別小さくできているとは思わない。むしろ大地が一人で大きくなっちゃっただけなのに驚かれるのは変な感じがする。
変と言えば、大地は髪にも手にもいともたやすく触れてくるのもが変だ。触っていいかとか、手を繋ごうとか、そういうことを何にも言わない。聞かれたら聞かれたで答えに詰まるだろうけど、聞かれないのもすごく困る。気にする私の方が変なのかな、とさえ思えてくる。
「あと爪、やっぱきれいにしてんだな」
磨いた爪に気づいて、大地がそう言った。
誉められたくてそうしたっていうのに、いざ誉められるとやっぱり恥ずかしくてしょうがない。自分でも変な理屈だって思うけど、心の動きはごまかしようがなかった。
お返しに大地を誉めてみようと視線を向けてみたものの、大地は至っていつも通りだ。ワックスでふわふわにした明るい色の髪はやっぱり決まっていたし、すらっとした身体つきにはTシャツにジーンズというシンプルな服装でも十分馴染んで、格好よく見えた。一昨日は『眠れないかも』なんて言ってたけど眠そうなそぶりはなく、むしろ朝から元気いっぱい、少しはしゃいでいるようでもあった。
「大地はいつも通り、格好いいね」
他の誉め言葉が思い浮かばなくて、私は結局そんなふうに誉めた。
大地が私を見て、何か言いたげに目を細める。
一呼吸置いてから口を開いた。
「本気でそう思ってくれてんなら嬉しいけどな」
「思ってるよ。言っとくけど、お世辞じゃないからね」
「そりゃどうも。こういう時くらいはそう思わせとかねえとな」
そう言うと、大地はまだ触れたままだった私の手をぎゅっと握った。
「お前には格好悪いとこも散々見せてるし……今日で、挽回したいんだよ」
私は大地のことを格好悪いなんて思ったことはないけど、手を強く握られたせいで何も言えなかった。
窓の外の景色は流れる。
雲一つない晴れ空の下、だんだんと建物が増えてきて、隣町が近づいてくる。