幼なじみ、ふたたび(1)
放課後、同好会の皆さんとカラオケへ行くことになった。前に上渡さんと約束をしていたし――と言うか、上渡さんと一緒に下校して、いつか皆でカラオケに行こうって話をしたのはつい一昨日のことなんだけど、今となってはすごく昔の出来事のように思える。あの時の『いつか』がこんなに早く叶ってしまうなんて想像もしてなかったから、胸が幸せな気分でいっぱいだ。
それにしても、同好会の人たちは本当にカラオケが好きなんだと思う。まさか今日、入部届を出した直後に誘われるとは予想していなかった。中でも一番張り切っていたのは栄永さんで、『五時間! 今日は最低五時間だから!』と入店する前から歌い尽くす気満々だった。
私も別に歌うのが嫌いではないし、約束もしてたし、皆で出かけることには異存なかったけど、入部したての大地がどう言うかだけは気になっていた。でも大地はその誘いに二つ返事で乗った上、私に『俺が一緒だから遅くなっても大丈夫だって、おばさんに電話しとけ』と助言する余裕さえあったから、余計な心配は必要ないみたいだ。
カラオケボックスに着いた後、私はアドバイスどおり家へ連絡を入れることにした。
受付の順番待ちの間に、広いロビーの隅っこから電話をかける。
「あ、お母さん? 部活の皆と遊びに行くことになって、遅くなるんだけど……」
『遅くなるって何時なの? 暗くなるまでには帰ってくるんでしょうね?』
うちのお母さんは私のことに関しては結構な心配性だから、門限なんかも普段から厳しかったりする。これからカラオケで五時間と言ったら、たちまち雲行きが怪しくなってきた。
『萩子、この辺も最近は物騒なんだから、明るいうちに帰ってきなさい』
「だ、大丈夫だってば。私一人じゃなくて、皆も一緒なんだし」
『でも駅前なんでしょう? そこからだって結構歩くじゃない』
「そうだけど、ほら、大地だっているし……」
これは説き伏せるのが厄介な流れ。正直に帰宅予定時刻から切り出したのがよくなかったのかもしれない。一人でふらふら出歩くわけでもないのに、本当に心配性なんだから困る。
私がどう反論しようか迷っていたら、いつの間にか傍で聞いていた大地が、電話代われ、と合図してきた。
確かにこのままでは敗色濃厚なので、お願いしてみることにする。
「えっと、大地が代わってって言うから、代わるね」
お母さんにはそう告げて、私は大地に携帯を手渡す。
通話を引き継いだ大地は、すかさず愛想のいい声でやり取りを始めた。
「おばさんこんにちは、俺です。――そうなんですよ、二人で同じ部活に入ろうってことになって。今後は部の付き合いなんかで帰り遅くなる機会とか、何度もあると思うんですけど、でも萩子のことは俺が面倒見ますんで任せといてください。――はい、もちろん今日もしっかり連れて帰ります。俺が一緒だったらおばさんも安心ですよね?」
日頃、お店の出前で鍛えられてるからだろうか。こういう時の大地の社交スキルには目を瞠るものがあって、あれよあれよと言う間にうちのお母さんを説得し終えたようだ。
その後は一度も私に代わることなく、通話を終えた大地は得意げに携帯を返してきた。
「おばさんが『ちゃんと大地くんと一緒に帰ってくるのよって伝えてね』って。伝えたからな」
「あ、ありがとう……すごいね、大地」
お礼を言いつつ、私は感心していた。
あの心配性のお母さんをたったひと手間で納得させちゃうなんて。元々、うちのお母さんは大地のことをものすごく信用していて、『大地くんがいるから幽高でよかった』と言うほどだったけど、カラオケ五時間にさえこうもすんなり承諾が出るとは、びっくりだ。
「本当、すっごいね。幼なじみの信頼感!」
聞いていたのか、黒川さんも驚いたように声を上げた。私と大地の顔を交互に見て、
「もう君ら、どっちか担保にしてお金借りれるレベルだね」
「できるわけないじゃん。何言ってんの先輩」
横で栄永さんが面倒くさそうに顔を顰めている。その後で大きく溜息をつき、ぼやくように言った。
「でも、いいなあ幼なじみ。『萩子のことは俺に任せてください』みたいな台詞、私も言われたいなあ」
別にからかうような口調ではなかったけど、大地は困った表情になる。
「聞いてんなよ、栄永ちゃん」
「えー、普通に聞こえちゃったんだけど。どうせ隠す気もないくせにー」
投げやりに言いながら、栄永さんは口を尖らせた。
羨ましがられてるのがわかって、私は何だかとてもくすぐったい気持ちになってしまう。大地がいてよかったって思っているのは私も同じだから、お母さんの説得の件だけじゃなくて、こうして傍にいてくれるのが今は素直に嬉しい。
もっとも大地は本気で困っているみたいだし、ちらっと私を見た後はむっとしたようで、矛先をこっちに向けてきた。
「お前もにやにやしてんなよ、何でそんな嬉しそうなんだよ」
「い、いいじゃん。何か、にやにやしちゃうんだもん」
ちょうど実感してるところなんだ。宝物が戻ってきて、大地が傍にいて、すごくすごく幸せだってしみじみ思う。ただそれで、さっき学校にいる時にちょっとだけ泣いてしまったから、恥ずかしさもちょっとあったりして。
「やめろって、俺にうつるだろ!」
大地は文句を言うと顔を背ける。
その顔をそっと覗き込んだら確かにうつってたから、あまりしげしげと見ないでおいてあげた。
「ああもう、何なのこの微妙な空気!」
栄永さんは急に呻くと、くたびれた様子でその場にしゃがみ込んだ。
その姿を見下ろした黒川さんが優しく宥めにかかる。
「いいじゃないの幸せそうで。俺はもう慣れたし、栄永たちも早いとこ慣れるべきだね」
「黒川先輩、傷心の私にその言い方はないんじゃない?」
「傷心ねえ。お前がそこまで繊細だとは先輩、知りませんでした」
首を竦めると、黒川さんはそこで視線を遠くへ――カラオケの受付カウンターへと投げた。
久々に天気のいい放課後だからか、駅前のカラオケボックスはなかなかの混みようで、受付カウンター前には蛇行する行列ができている。ほとんどが幽谷高校の生徒たちで、その中には上渡さんの姿もあった。代表で並んでおいてくれると言うから、お言葉に甘えて四人で待っているところだ。
カウンターの中では店員さんが電話応対や受付、入会手続きなんかに孤軍奮闘していて、列の進みはゆったりしたものだった。それでも行儀よく姿勢もよく並んでいる上渡さんはさすがだなと思う。
私たちの待つロビーも空いてる椅子がないほどで、四人で隅に追いやられている状況だった。栄永さんが座り込んでしまうのも無理ないのかもしれない。
「とりあえず、栄永はそろそろ諦めような。往生際悪いぞ」
黒川さんは栄永さんの低い位置にある頭をぽんぽん叩く。それを栄永さんに力一杯振り払われても、笑顔のままで続けた。
「お前も羨ましがってないで、せいぜい来世には幼なじみできるよう祈っとけば?」
「黒川先輩、やな感じ……大体、来世とか訳わかんない。私は今欲しいの!」
「だって幼なじみなんて読んで字の如く、ちっちゃい頃から付き合いがないと駄目だろ」
「ああもう! ちょっと夢見るくらいいいじゃん、先輩の馬鹿!」
そう言い放つと栄永さんは立ち上がり、背丈で勝る黒川さんに敢然と食ってかかる。
「だったら、先輩の来世がヒツジになっちゃう呪いをかけてやる!」
「ええ! 俺、生まれ変わっても直毛になれないの!?」
「もうそれは先輩の宿命だから。諦めないなんて往生際悪いんじゃないの?」
「何だと……ぶっちゃけ『宿命』が『縮毛』に聞こえるくらい悩んでるっていうのにか!」
向き合う二人が互いにファイティングポーズを取る。
黒川さんは随分と髪型を気にしてるようだけど、雑誌のモデルさんみたいで素敵だと思うんだけどな。でも癖があると特にこれから、梅雨の季節になると大変だから、悩んでしまうのもわかる。私も雨降りの日はまとめるの結構手間だったりするし。
そんなことを考えつつ成り行きを見守る私に、にやにやが収まったらしい大地が小声で聞いてきた。
「おい、どうする萩子。このまま放っとくと妖怪大戦争始まりそうだぞ」
「あ、そっか。……止めに入る?」
大戦争というほどスケール大きくないような気はするし、言い合う黒川さんと栄永さんは正直楽しそうだなという印象もなくはない。ただ、化学同好会に入れていただいた以上は一員としての役割を全うしたいと思っているから、大戦争になる前に仲裁に入るのも大事な役目かなあと、割って入ることに決めた。
ちょうどその時、受付を済ませた上渡さんが、部屋番号のプレートを手に戻ってくるのが見えた。
これはいいタイミングと、私も、それに大地も思ったらしい。ほぼ同時に口を開いていた。
「あの、会長さん戻ってきたみたいだけど……」
「もう部屋入れるっぽいけど、まだ続けんの?」
たちまち睨み合いがぴたりと収まった。
表情をぱっと明るくした栄永さんは、ぱたぱたと上渡さんに駆け寄る。
「お帰り会長! 部屋何番? 何階?」
「ほら」
伝票つきのプレートを栄永さんに手渡した後、上渡さんは少し渋い顔をする。
「ロビーに何やら騒がしい人たちがいるなと思ったら、見知った顔だった。気づいたらこっちが恥ずかしくなったよ。二人で何を騒いでたんだ?」
咎められると栄永さんも、そして黒川さんも不満そうに眉根を寄せた。
「だって黒川先輩がしつこく絡んでくるんだもん!」
「な、何を……! 元はと言えば栄永が稲多くんに絡んでたんだろ!」
「しかも傷心の私にちっとも気を遣ってくんないし!」
「お前の傷心なんてどうせ、あぶらげ食べたら即治るレベルだよ!」
またしても二人は睨み合い、あわや妖怪大戦争再びかと思われたところへ、上渡さんが大きく溜息をつく。
そして言うには、
「今日はただ遊びに来たんじゃない、稲多くんと片野さんの歓迎会でもあるんだ。皆で楽しく過ごそう」
ごく穏やかでやんわりした口調だったけど、効果はてきめんだった。
「そういえばそうだったっけ。歓迎会なんだもんね」
「そうだよ。せっかくの新入部員、逃げられないよう結束固めとかないとね」
栄永さんと黒川さんは顔を見合わせ、それまでの言い合いなんてなかったみたいに、にっこり笑ってくれた。
歓迎会って言葉に、歓迎してもらえてるんだなあってつくづく思う。
大地は照れてるのか居心地悪そうに目を逸らしていたから、私は隣でにやにやしておいた。うつしてやるつもりで。
「喧嘩ばかりの集まりだと誤解されても困る。仲がいいのが一番だ」
上渡さんも嬉しそうに、控えめに笑んだ。
それからふと、私を真っ直ぐ見て――ちょっとだけだけど泣いた後だけに、その痕跡に気づかれたんじゃないかと私は身構えていたけど、上渡さんが口にしたのは予想とは違う言葉だった。
「約束が果たせてよかった」
私はその言葉の意味を、当然すぐに理解できた。
つい一昨日交わしたばかりの約束だったけど、その間にはいろんな、忘れがたい出来事がたくさん起きた。皆から力を借りて、助けてもらって、目も眩むような困難だって乗り越えられた。それらの思い出を、私は今度こそ失くさないよう大切にしていきたい。もう昔みたいに都合の悪いことを記憶の奥底に押し込めておくだけじゃ、いつまで経っても前には進めないから。
そうして一歩、まずは一歩だけでも前進できた結果が今日の、この時なんだ。
「うん。私も皆で来れて、よかった!」
頷きながら答えた私は、すぐに隣を向き、怪訝な顔をしている大地に教える。
「会長さんと約束してたんだよ。いつか大地も一緒に、五人でカラオケ来ようって」
「約束? つかカラオケって、会長さんのキャラとは違う気すっけどな……」
大地は話を聞いても不思議そうだ。
一昨日の私もちょうど、そんな風に思ったっけ。だからもう一つ、更にびっくりさせようと思って話しておく。
「何かね、メジャーなところを歌うらしいよ、会長さん」
「マジで? 一体どんなメジャーどころだよ。うわ、気になる!」
案の定、大地は目を輝かせて食いついてきた上、
「そりゃ是非とも聴いとかないとな。会長さん、俺、超楽しみにしてるんで!」
言葉どおり楽しそうに声をかけたから、すかさず私も追随した。
「私も一度聴いてみたかったから、すごく楽しみにしてたよ」
そう告げたら、上渡さんは真面目な顔つきになる。
「期待されるほどのものではないんだが……。なるべく適当に聴いてくれないか」
と言った後、ふと視線を横に逸らし、気まずげに呟いていた。
「今更だが、少しどきどきしてきた……」
あ、緊張させちゃったかな。楽しみなのは本当なんだけど。
胸に手を当てる上渡さんの肩を、黒川さんは強めに叩き、
「ちょっ、こっちの方がよっぽど繊細だよ! ほらしっかりしろ、会長!」
「ほらほら、早く行こうよ! 五時間だってきっとすぐ過ぎちゃうよ!」
部屋番号のプレートを持った栄永さんの先導で、私たちは二階への階段を上り始める。
階段を上り、ポスターだらけの狭い廊下を進んだ先の一室で、まず栄永さんが足を止めた。
「あ、ここ! よーし皆、行くよー!」
そしてドアを開けるなり真っ先に飛び込んでいったから、黒川さんが慌てる。
「馬鹿、普通は今日の主役が先だろ! ったくもう!」
ぶつぶつ言いながら、続いて室内に入る黒川さん。
そこで閉まりそうになるドアを上渡さんが押さえ、私と大地に、中へ入るようにと勧めてくる。ありがとうと頭を下げて、私も後に続こうとした。
すると急に、引き止められるみたいに強く腕を掴まれた。
びっくりして振り向くと、大地が真顔で私を見ている。例によって大きな手で私の腕をしっかり捕まえ、何か言いたそうにしている。
「え、何?」
だから尋ねてみても、なぜか大地は口を開かない。ドアを押さえてる上渡さんを気にするみたいに、そちらへ視線を向けている。どうしたんだろう。
そのうち、私たちの様子を見た上渡さんが気遣わしげな顔になり、
「じゃあ、先に入ってるよ」
そう言い残して部屋へ立ち入ると、静かにドアを閉めた。
廊下には私と大地だけになる。
カラオケの防音設備って全然大したことなくて、あちこちの部屋からノリノリの歌声が漏れていて、時々陽気な歓声も響いて、音の洪水みたいにごちゃごちゃ溢れて聞こえてくる。あまり静かではないし、落ち着かない空間だった。
「どうかした?」
きっと私に言いたいことでもあるんだろうけど、皆も待ってるのに、こんなところで一体何だろう。違和感を持ちつつ改めて聞くと、大地はそこでなぜか照れ笑いを浮かべる。
「別に、大した用じゃねえんだけど」
そう言いながらも私の腕を掴んで離さない。少なくともちゃんと聞いて欲しい用ではあるみたいだ。
「うん……それで、何?」
騒がしい中でもう一度促した。
大地は一呼吸置き、私にはっきり聞こえるよう、耳元まで近づいてから囁いてきた。
「俺は、お前の歌も楽しみにしてるから」
「え? あ、うん」
「……それだけ」
「それだけ?」
そんなたった一言、別にわざわざ引き止めてまで言うことでもないはずだ。
私は呆気に取られたけど、大地は本当にそれだけの用だったらしい。やっと私の腕を離してから、何でもなかったみたいにいつもの声で言ってきた。
「言いたかったんだからいいだろ。ほら、行くぞ萩子」
今度は大地にドアを開けてもらって、私はようやく部屋に入る。
脈絡ない一言だったし、何なんだろうって思った――けど、それだけって言われても、楽しみにされるのって案外緊張するものだ。上渡さんもさっきはこんな気持ちだったのかな。
確かに私も、少しどきどきしていた。