十歳と八歳
「眠れないから、話をして欲しい」と、八歳の王子殿下はマリエの袖を引っ張った。
一日の仕事を全て済ませ、最後に挨拶をして退出しようとした時だ。既に寝台に入っていたカレルは、下がろうとした近侍の袖を腕を伸ばして掴んできた。
何事かと驚くマリエに対し、夜具から顔を覗かせて言い募る。
「乳母たちは私が眠れぬ時、傍で話をしてくれたぞ。お前も何か話せ」
「話でございますか」
ねだられて、マリエは困惑した。王子の側仕えとして城に上がって二月、こんな頼みをされたのは初めてのことだ。主の要望にはなるべく応えるのが近侍の務め。カレルがそう望むのなら、マリエは何としてもそれを叶えなくてはならない。
だが、そもそもマリエには『寝る前の話』とはどんな類の話かわからなかった。乳母たちとは引き継ぎの為に何度か顔を合わせたが、そのような務めがあるとは聞かされていない。やむを得ず、恐る恐る聞き返してみる。
「一体、どのような話をすればよろしいのでしょうか」
するとカレルは不思議そうな顔つきになる。
「寝る前にする話といえばおとぎ話と決まりきっているではないか。お前は聞いたことがないのか?」
「あいにくとございません」
マリエにはカレルのように乳母はいなかったし、実の母親はマリエに近侍としての仕事を教えてくれたものの、夜寝る時に付き添ってくれるような人ではなかった。マリエはいつも一人で寝台に入り、その日の出来事を振り返っているうちに自然と寝入ってしまうのが常だった。
「わたくしは物心ついた頃より一人で寝ておりましたから、寝る前に話をしてもらった覚えはございません」
詫びるつもりでマリエは答えたが、それは主の何がしかの感情を刺激したようだ。カレルは疑惑の目で質問をぶつけてきた。
「まさか。本当にお前は、ずっと一人で寝ていたと申すか」
「その通りでございます」
「小さな頃からか?」
「はい」
主の眼差しが信じがたいものを見るような色に変わる。青い目にはちらちらと光が踊り、寝台の傍らに立つマリエの影がその目の下、頬骨の辺りをかすめるように落ちていた。
ふと思いついてマリエは言った。
「もしや殿下は、お部屋が明るいから眠れないのではございませんか。少し暗くしておく方が、すんなりと眠りに就けるかもしれません」
カレルは寝室の明かりを消すのを嫌がる為、今も枕元にはランタンが煌々と灯っている。暗いのを嫌がる気持ちはわかるが、眩しすぎるのかもしれない。そう考えて切り出した近侍を、しかしカレルは実に恨みがましく睨みつけた。
「暗いのは嫌だ」
「……さようでございますか」
拒まれてしまえばどうしようもない。当を得た提案だと思っていたマリエは少し落胆したが、カレルは更に噛みついてくる。
「マリエ、お前はもしや私を臆病者だと思ってはおらぬだろうな」
「え、ええと……そのようなことは決して」
「部屋を明るくして寝るのは、夜中に寝台から降りる時、あちこちぶつかって怪我をしない為であって、別に怖いからではない。それに私はまだ八つで、お前より二つも小さいのだから、話をしてもらわなければ眠れぬことだってあるものなのだ」
ふくれっつらの弁解は、むしろ語るに落ちたといった風だ。マリエはますます対応に困り、喋りすぎたことに気づいたカレルは低い声で付け加える。
「……わ、私ももう少し大きくなったら、明かりを消して寝るようにする。何なら明日からでもいいぞ。しかし今日はまだこのままがいい。それと何か、話をして欲しい」
八歳の子供にだって自尊心はある。幼い頃から王子としての自覚を持つよう促されてきたカレルなら尚のことだ。
問題なのは、カレルと二つしか違わないマリエに、主のその自尊心にまで気を遣う余裕がないことだった。人生経験豊富な乳母たちとは違い、マリエ自身がまだ幼い子供だ。だから時々、こうして機嫌を損ねられてしまう。
とはいえカレルが近侍の至らなさに腹を立てることはあっても、乳母たちの方がよかったから代われと言われたことはまだない。不満など並べ立てればきりがないほどあるだろうに、この二月はじっと我慢してくれていたようだ。そんな主の優しさに、至らぬままで甘んじていてはならないと、十歳にしてマリエは思う。
「ではご命令通り、殿下がお休みになるまでお傍で話をいたします」
大急ぎで申し出れば、カレルは目に見えて表情を和らげたが、口では疑わしげにこう言った。
「しかしお前はついさっき、おとぎ話は知らぬと申したばかりではないか。他に何ぞ愉快な話が出来るのか」
「愉快かどうかは存じませんが――」
考えながら答える。自分が胸を張って話せるような内容で、かつ主の関心を引きそうなものが、そういえば一つだけある。
「最近読んだ本のことでよろしければ、お話し出来ます」
「本か。一応、聞いてやろう」
夜具に包まったカレルが、そこで初めて寝台の脇にある椅子を勧めてきた。背もたれのない簡素な丸椅子は、まさに少し前まで乳母たちが使っていたものなのだろう。マリエが一礼の後でそこに腰を下ろすと、影もまた付き従うように座った。
それから、夜分に相応しい声量で話し始める。
「殿下は、ケーキがどうして膨らむか、ご存知ですか」
唐突な話題提起にカレルは目を瞬かせる。
「いや、知らぬ。どういう仕組みか?」
「実はわたくしもよく存じないのです。不思議なものだなあといつも思っております」
正直に答えたマリエに、主はふんと鼻を鳴らした。
「お前は自分で作る菓子の仕組みも知らぬのか」
「ですが、ケーキをよりふんわりさせるこつは存じております。それにはお湯を使うのでございます」
「湯を?」
「はい。卵を湯で温めながらよくよく泡立てますと、ケーキは膨らんでいい仕上がりになります。それも生易しい泡立て方ではいけません。腰を据えてじっくりと、弛まぬ覚悟で取り組まなければなりません」
マリエはとうとうと、本で仕入れたばかりの知識を語る。
近侍としては何かと未熟で不慣れなことも多いマリエだが、唯一菓子作りだけは得意としていた。主も喜んで食べてくれるので作り甲斐もあったし、上達に励む気にもなれた。日頃か練習をするだけではなく、本を読んで新しい菓子への知識も得るようにしている。
「卵には卵白と卵黄がございますが、きちんと分けて別々に泡立てるのも肝要でございます。一緒に泡立てると上手くいかぬものですから、片方ずつ丁寧に行いますと、ふわふわと軽い生地に仕上がります」
「ふむ」
「それでも時として上手くいかず、焼いた後でぱさぱさした生地になってしまうことがございます。その場合は糖蜜を薄めて生地に塗ると、しっとりと美味しくなるとのことです」
「ほう」
主の相槌はどうにも気のないそぶりだった。
菓子が好きな人ならまさに絶好の話題だと思ったのに――マリエは不安を覚え、おずおず確かめてみる。
「殿下。今のわたくしの話、面白いと思っていただけましたでしょうか」
すると主は困り顔になって、言いにくそうに答える。
「面白くない。しかしそれ以上に、夜分遅くには聞きたくない話だった」
「な、なぜでございましょう?」
「こんな時分にケーキの話など、お腹が空いてくるではないか。私は今、何か甘いものが食べたくなって仕方がない。どうしてくれる」
カレルの訴えようは切実だった。確かに今は夜更け頃、夕食を食べていても何となく空腹を覚え始める時間帯。そういえばマリエも無性にケーキが食べたい気分になっている。ここでようやく話題の選択を誤ったことに気づき、マリエはしょげた。
「ご期待に添えず、申し訳ございません」
しかし主は落ち込む暇さえ与えてくれなかった。すぐに急かし立ててくる。
「他にないのか。何か面白い話が」
「あとは、縫い目を目立たぬようにする繕い物の仕方について読みました」
「他には」
「それから、風邪を引いた時にいい湿布の作り方も……」
「お前はどんなつまらぬ本ばかり読んでいるのだ。どれもまるで聞きたいと思えぬ!」
遂にカレルは声を荒げ、マリエはおどおどと弁解するばかりだ。
「申し訳ございません。わたくしには殿下のお好みに合う話が出来ぬようでございます」
「確かにそのようだな!」
「ど、どうぞお許しください。またの機会までにおとぎ話を読んでおくようにいたします」
深く頭を垂れたマリエは、退出を命じられることも覚悟していた。こんな役立たずの近侍にも主はそろそろうんざりしているだろうし、ここにいたとしても言い訳しか出来ぬのでは意味がない。もう下がれと言われたら、せめて迅速かつ音を立てぬようにこの場を去ろう。主の為に出来ることは最早そのくらいしか思いつかない。
しかし、カレルはいつまで経っても下がれと言い出さなかった。
それどころか次に口を開いた時、マリエ以上におどおどしていた。
「な……ならば、仕方あるまい。私がお前に面白い話をするから、お前はここでそれを聞くがいい」
予想外の提案にマリエは勢いよく顔を上げる。枕に顎を乗せたカレルが心細げにこちらを見ていた。
「……殿下」
「私が眠くなるまでだ。いいな?」
「畏まりました」
マリエが深く頷けば、カレルはほんの少しだけ笑った。ぎこちない安堵の笑みだった。
程なくして、立場を入れ替えた『寝る前の話』が始まった。
「騎士団の宿舎の傍に馬小屋があるのを知っているか」
「存じております。騎士の皆様が、市中の見回りに使うのでございましょう」
「そうだ。そこでな、つい先日仔馬が生まれたのだ。鹿毛の奴だ。……鹿毛とは何かわかるか」
「いいえ」
マリエは正直に答える。途端にカレルは嬉しそうな説明を付け足す。
「鹿毛というのは茶色い馬のことだ。ちょうどお前の焼くパンのような色をしている」
「それは素敵な色でございますね」
「うむ。だがたてがみは黒かった。それとな、馬という奴は母親の腹から出てきたその日のうちに歩けるようになるのだそうだ。知っていたか、マリエ」
「そうなのですか、存じませんでした」
相槌を打つと、主はくすぐったげに笑い声を立てる。
「そうであろう。私もこの間アロイスに教わったばかりだ。それでな、それでな、その馬はぐんぐんと育っているのだが、どうにも気立てがよすぎて、おとなしいのだそうだ」
「おとなしいのは、よろしくないのでしょうか」
「騎士の連中が乗り回すにはよろしくないらしい。だがな、私のような子供を乗せるにはちょうどいいのだそうだ。アロイスがな、もう少ししたら乗せてくれると約束した。私はそういうことはずっと覚えていられるのだ」
カレルがよく話題にするアロイスという名の男は、マリエが城へ上がるよりも前からカレルの近衛兵を務めているという。あまりによく聞くのでマリエも名前は覚えてしまったが、あいにくと大人の顔を覚えるのが得意ではなくて、皆同じ武装をしている近衛隊のどの男がアロイスか判別つかぬありさまだった。
ともかく、主の顔から怯えの色は消えていた。いきいきと続ける。
「マリエ、お前は馬に乗ったことがあるか」
「いいえ。馬車ならございます」
「それは私もある。でも馬の背に直接乗るのは初めてだ、だからとても楽しみなのだ。おとなしい奴でも風を切って走るくらいは出来るだろうし、さぞかしいい気分になれるに違いない」
本当に楽しそうに語るから、マリエも聞いているだけで楽しくなってくる。話をするのはあまり得意ではないが、こうして主のしてくれる話を聞いているのは好きだと思う。お蔭で夜更けだというのにちっとも眠くならない。
話をするカレルの方も、一向に眠くなったと言い出さない。
結局その晩は酷く夜更かしをしてしまい、翌日はお互いにあくびを堪えるので大変だった。
だが寝る前の話の楽しさを覚えた二人は、それからも時々夜更かしをするようになる。明かりを消して寝る宣言はしばらく反故にされ続けたが、カレルはもちろん、マリエも全く気にしなかった。