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その名前は希望

 自分の名前を心から気に入っている人間は、この世にどのくらいいるんだろう。
 氷見拓。拓と書いて『ひらく』と読むのが俺の名前だ。
 気に入っているかと聞かれれば、まあまあ、としか答えようがない。濁音がないからか全体的に柔らかく、締まりがないようにも感じられる。下の名前が一発で読まれる率はそれほど高くなく、たまに名字も読めないと言われる。ただ今のところ出会った人達と名前が被ったことはなく、他人から覚えてもらいやすいという利点もある。イニシャルがHHなのは何となく嫌だったが、二十年以上も連れ添えば何となく慣れてきた。そこまで奇特な名前じゃないだけ恵まれてる方だ、と思っている。
 そんな俺にも改名のチャンスが二度あった。

 一度目は映子と入籍する時だ。
 婚姻届には夫婦どちらの氏を名乗るか記載する欄があり、俺達はどちらの名字にするかの選択を迫られた。お互いに平凡な家柄で家を継ぐ必要もない。だから好きに選ぶことができた。
 俺としては二十年以上連れ添った名前に多少の思い入れはあるものの、変わるならそれはそれで別によかった。長嶺という名字はなかなか品格があって格好いいし、画数の少ない名字だった俺にとっては憧れでもあった。長嶺拓、というのもなかなかしっくり来る。
 だが、映子は頑として氷見姓にすると言い張った。
「画数多い名字って、大変だよ」
 真面目くさった顔つきで語るから妙な真実味があった。
「自慢じゃないけど私、小四まで自分のフルネーム書けなかったからね」
「確かに、小学生には難しい漢字ではあるけどな」
「でしょ? 同じ苦労を氷見に、そして私達の子供に背負わせたくないよ」
 映子の力説にも一理ある。『氷見』ならどちらも小学校低学年で習う漢字だから、書くのに手間取ることはないだろう。
 ただ俺はそこまで言われても『長嶺』の風格が捨てがたかった。自分の名前に対する思いを語ったのもこの時が初めてだった。
「俺、自分の名前あんまり気に入ってなくてさ」
 そう打ち明けると、映子は目を瞬かせた。
「どうして?」
「何か締まりがないだろ。骨がない感じがする」
「いい名前だと思うけどな、拓くん」
 高校時代からの付き合いだというのに、映子に下の名前で呼ばれたのはこの瞬間が初めてだった。
 思わず俺は押し黙り、映子はそんな俺の顔をじっと見る。それから芝居がかった仕種で両手を挙げた。
「いい? その名前は希望だよ、氷見」
「はあ? 希望って?」
「道を拓く、未来を拓くって意味じゃない。それは困難を切り抜けて栄光を目指す者であり、まだ見ぬフロンティアに挑むパイオニアにこそふさわしい名前だよ」
 映子は結婚する歳になってもロマンで腹が膨れる女だった。芝居の台本みたいな気障ったらしい台詞を至って真面目に口にした。フロンティアに挑むパイオニアだとか――さすがに大袈裟だ。
 過剰に誉められて面食らう俺をよそに、
「私もこれから氷見のこと、拓くんって呼ぼうかな」
 彼女は気楽な口調で言った後、なぜか首を捻った。
「でも『拓くん』って言いにくいね。『ひらくん』にしていい?」
 そんな呼ばれ方は親兄弟親戚一同にもされたことない。俺は一層面食らった。
「可愛すぎるだろ。年下扱いっぽいから嫌だ」
 慌てて抗議しても映子は気にするそぶりもない。
「実際に年下なんだからいいじゃない」
「一つしか違わない」
 たった一年、大人になってしまえば誤差みたいな歳の差しかないのに年上ぶられるのは気に入らなかった。
 とは言え社会人になってからの映子は、急に大人っぽくなった。学生時代は夢を見てばかりだった彼女が、いつの間にか地に足の着いた考え方をするようになった。俺には芝居を続けるように言い、自分は働きに出て俺を養うと決めてしまった。
 お蔭で俺は夢を追い続けることができた。
 それがどんな未来に繋がるか、この時はまだ見通すこともできなかったが――。
「ねえねえひらくん、婚姻届書いちゃっていい?」
 映子はその可愛すぎる呼び方をやめようとしない。
 だから俺も復讐に出た。
「じゃあ俺は、しばらくお前を『氷見映子さん』って呼ぼう」
 半ば賭けのような反撃だったが効果はてきめんだった。映子ははっとして、すぐに顔を赤らめた。
「えっ……な、何なの急に」
 両手を頬に当てて俺を睨む、その顔が可愛い。
 俺は追い打ちをかけるように続ける。
「呼ばれ慣れなくてそわそわするだろ、氷見映子さん」
「す、する! って言うかすごく恥ずかしい……!」
「結婚して名字が変わるってのはそういうことだよ、氷見映子さん」
「しかもその声に言われると、超どきどきする!」
 反撃を食らった映子はしばらく身悶えた後、甘えるような目で俺を見た。
「これもまたロマンだよね。好きな人と同じ名前になる、とかさ……」
 うっとりと口にされたその台詞が、俺達夫婦の名字を選ぶ決め手となった。大急ぎで婚姻届を全て埋め、二人で市役所へ駆け込んだ。その日のうちに、映子は本当に『氷見映子』になった。
 俺の方の単純さは、学生時代から何ら変わってはいない。今でもだ。

 改名の二度目の機会は、結婚してから一年が過ぎる頃にやってきた。
 所属していた劇団の運営が軌道に乗り始め、テレビや映画などの仕事もぽつぽつとだが増えてきた。個々の仕事はまだ端役がいいとこだったが、この頃には劇団員もそこそこの大所帯になっていた。そこで劇団員のスケジュールを管理する必要が生じた結果、皆で話し合った結果、事務所を構えることにした。
 その際、何人かの劇団員が芸名を名乗ることを決めた。理由は様々だったが――今後を見据えて覚えやすいものにしたり、元々の本名が平凡だったので個性的な芸名をつけてみたり、縁起を担いで画数のいいものにしたり。事務所のホームページには写真入りで劇団員が紹介されるようになり、俺達はささやかながらも役者を生業とし始めていた。
 俺も、芸名をつけるかどうかは少し悩んだ。
 氷見拓。この名前が新聞のラテ欄に載ったことも既に何度かあった。この先同じように映画やドラマのエンドクレジットを飾り、もしかしたら津々浦々に広まっていくのかもしれない。いや、そうならなくてはならない、映子の為にも。
 だから――。
「私は変えなくていいと思うな」
 家に帰って映子に相談を持ちかけると、彼女は即座に答えた。
「変わっちゃったら探しにくくなるもん」
 映子は俺がドラマに出る度、新聞のラテ欄を切り抜いて後生大事に保存していた。俺に仕事が来ることを誰より一番喜んでくれるのも、誰より一番応援してくれるのも彼女だった。たとえ画面に数カットしか映らないような出番であっても、そのシーンに差しかかれば食い入るように見てくれた。
「そう言うと思った」
 俺も映子の答えは予想していた。納得してみせたら当の本人には苦笑されたが。
「なんて答えるかわかってるのに聞いたの?」
「一応、確認の為にな」
「いい名前だもんね、大切にすべきだよ」
 映子の言葉に、俺も心から頷いていた。
「もはや俺一人の名前じゃないもんな」
 彼女と結婚した時、婚姻届に夫婦どちらの氏を名乗るか記入した時、『氷見』という名前は俺だけのものじゃなく、二人のものになった。そして俺が役者として名乗る『氷見拓』という名前もまた、俺だけのものじゃない。この名前を仕事で名乗る度、いつも映子の存在を感じている。彼女が傍にいなくても、俺には同じ名前を持つ妻がいる。家族がいる――そう思うと、どんな仕事も疎かにはできない。何でも精一杯やった。
 だから俺は、この名前で仕事をする。
 幸いにもそうそう被らなさそうな本名だ。柔らかく締まりがない感じもあるにはあるが、だからこそ人には覚えてもらえるかもしれない。誰かの記憶にわずかにでも残っていくかもしれない。そう期待していた。

 その判断が功を奏したかどうかは定かじゃないが、ある日、映画の仕事が舞い込んできた。
 劇団で事務所を設立し、俺が本名で役者を続けると決めてから数ヶ月後のことだった。
 たまたま地元で割と大がかりな映画の撮影があり、うちの劇団員も挙ってオーディションを受けることとなった。俺は見事に合格し、端役ではあるがどうにか仕事をもぎ取った。撮影は数ヶ月にわたって行われ、劇団にとっては名前を売る大きなきっかけになったようだ。
 映子はその映画を何度も何度も何度も見た。試写会にはもちろん呼んだのだが、封切り後には映画館へも出向き繰り返して見てくれた。そして劇場公開が終わると、今度は家でDVDを擦り切れそうなくらい再生しては俺の仕事ぶりを見てくれた。
「ひらくん、格好いい……さすが私の旦那様!」
 リビングのソファの上でクッションを抱えて、映子は一人で身悶えている。
 テレビ画面の中には俺がいる。目深に被ったフードの中で獣のように目をぎらつかせている俺だ。手には光る包丁が握られている――俺の役柄はヒロインの元カレで、彼女を執拗に付け狙うストーカーだった。ヒロインを襲おうとして返り討ちに遭い、ヒロインは人を殺めた罪から逃れようと主人公に縋るようになる。俺の出番はこの冒頭部だけであり、数分後にはめった刺しにされて血だまりに突っ伏す運命だった。
 それでも映子は目を輝かせて画面に見入る。
「この美声にこんな台詞言わせちゃうなんて……!」
 映画の中で俺は、およそ映子が書かないような台詞を口にしている。ねちっこく、執拗にヒロインをいたぶる役柄だからだ。
「でもこれはこれでいい! 私が思いつかないこの口汚さもいい!」
「何だよ、こういう男が好みなのか?」
 ソファの隣に座って問いかけると、映子はクッションを抱いたまま俺を見て笑った。
「好みではないなあ、ストーカーだもん」
「映子ならこういう台詞は書かないなって、俺も思った」
「でもセクシーボイスの可能性感じちゃったな。こういう演技もいいね!」
 画面の中で悲鳴が上がり、俺が血だまりに倒れる時が来る。映子はリモコンを手に取り、コマ戻しして俺の登場シーンを見直そうとする。
「何回同じとこ見るんだよ」
「あと一回! もう一回だけ見たら続き見るから!」
 俺のツッコミをものともせず、映子はまたしてもストーカーの俺を鑑賞にかかる。
 悪い気はしないし自分の演技を見るのに今更恥ずかしいということもないが、さすがに繰り返して見るのはこそばゆい。
 映子だって、隣に本物がいるのに仕事中の俺にばかり夢中になっているのはどうなんだ。映画の撮影中はあまり帰ってくる時間もなくて、夫婦で顔を合わせる時間も少なかった。公開後も劇団で独自に宣伝して回ってたものだから忙しくて、今になってようやく落ち着いてきたところだった。既に次の仕事も決まっているから、もう少ししたらまた忙しくなるだろう。
 だからこそこうして二人でいられる時間は大切にしたい。
「この映画も確かに面白いけどな」
 エンドクレジットが流れるまで待てず、俺は映子の肩に手を回す。
 そして抱き寄せながら告げた。
「久々に、甘い台詞が得意な大先生のホンも演じてみたいな」
「だ……大先生、ってさすがに持ち上げすぎじゃない!?」
 映子は俺の肩に寄りかかりながら目を白黒させる。
「演劇部じゃそんな感じだったろ。歯が浮くような台詞を次々に生み出してた」
 あの頃の映子はまるで神が降りていたかのようだった。ありがたい神かどうかはわからないが。
 俺は乞われるがままに彼女の書いた台詞を演じ、甘い言葉を口にし続けた。この声が別の意味でも武器になると学んだ。
 今も、妻を口説くいい武器になる。
「せっかくの夫婦水入らずなんだ、たまにはそういう過ごし方がしたい」
 映子の顎に手を添えて軽く持ち上げると、たちまちその表情がうろたえる。
「そ、そんなの急に言われても思い浮かばないから!」
「甘い台詞は得意だろ。ご所望とあらば一晩中でも耳元で繰り返してやる」
「そしたら寝れなくなっちゃうじゃない!」
「俺がいるのに寝れると思うなよ」
 言葉の前後に唇を重ねる。映子は律儀に二度目をつむってから、照れ隠しのように俺を睨んだ。
「台詞、考えさせる気ないでしょ」
「ムード作りを手伝ってるだけだ。その方がはかどるだろ」
「むしろ集中できないから!」
 こうなるともはや映画もそっちのけで、俺達はソファの上でしばらくじゃれあう。
 何度目かのキスの後、映子は俺の耳元で囁く。
「ねえ、ひらくん。台詞はやっぱり思いつかないから……名前、呼んで」
「名前?」
「うん。いっぱい、呼んで」
 ねだる映子が、恥ずかしそうに目を細める。
「その声で名前呼ばれるのが、一番好き」
 芝居の為の台詞じゃなくて、唯一無二の彼女の名前。
 そして今は、俺の妻である彼女の名前。
「……映子」
 俺は心を込めて名前を呼ぶ。
 俺にとってはそれこそが希望だ。口にするだけで幸せをくれる、世界で一番いとおしい言葉。
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