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チケットのない舞台

 今日、氷見が舞台に立つ。
 だけど私はそのステージを見ることができない。
 せっかくの晴れ舞台だというのに、私はそのチケットを持っていないからだ。どこにも売ってはいないし、お金を出して買えるものでもない。ただ彼と同じ時間を過ごした人達だけが見ることのできる舞台――。
 見られなくて残念だ。そう告げたら当の氷見には笑われた。
『大した舞台じゃないよ。一言も喋らないし』
 だとしても氷見の舞台だ、見てみたかった。
 彼がぴんと背筋を伸ばして、堂々と、優等生らしく卒業証書を受け取る瞬間を。

 卒業式の後の夕方、氷見は私の為に時間を作ってくれた。
 私の家の近所にある小さな公園で待っていると、やがて制服姿の氷見が、卒業証書を収めた丸筒片手に現れた。ブランコに座る私を見つけるなり、眼鏡越しに笑いかけてくれた。
「ごめん、待たせた? 結構急いだんだけど」
「そんなに待ってないよ」
 ブランコに座ったまま、私はかぶりを振った。
「氷見こそ、抜け出してくるの大変だったんじゃない?」
 卒業式の後、氷見はクラスメイト達と打ち上げに出かけたらしい。ファミレスからカラオケというお決まりのコースだそうで、本当なら他の皆はマイク片手に大騒ぎの真っ最中らしいんだけど。
「『彼女に会いに行くから』って言ったらやっかまれつつ送り出されたよ」
 氷見はおかしそうに笑いながらそう言った。カラオケ帰りにしては嗄れていない、いつも通りのいい声をしていた。
「あいつら、『女子大生の彼女がいる』って言うと過剰反応するんだよな」
 女子大生の彼女、と言っても私なんて氷見とは一つ違いで、去年までは高校生だった。おまけに見た目は高校時代とさほど変わっておらず、ちょくちょく氷見にからかわれるくらいだ。
 そんな氷見も来月には大学生、またしても私の後輩になる。どんな大学生になるんだろう、と私は目の前に立つ彼を見上げた。今はまだ懐かしい制服姿の氷見は、相変わらずおりこうさんの、眼鏡が似合う顔立ちをしている。その顔に笑みが浮かぶとちょっと意地悪そうに見えた。
「もっとも、ブランコ座って彼氏待ってる女子大生もそうそういないよな」
「そんなことないと思うけど。ベンチよりこっちの方が詩的じゃない?」
「でもない。並んで座れないだろ、ブランコじゃ」
「隣、空いてるよ」
 私は三月の風に揺れる隣のブランコを指差した。
 でも氷見は頑なに座ろうとせず、真正面に立って私を見下ろしていた。
「映子は変わんないな。一年先を行ってるのに、置いてかれた感じがしない」
「失礼だなあ……氷見もそういう生意気なとこは変わんないね」
 言い返しつつ、私も渋々ブランコから立ち上がる。
 鎖の軋む音を背後に聞きながら、改めて晴れ舞台を終えてきた氷見と正対する。制服の胸ポケットに紙でできたバラの徽章をつけ、片手に握る丸筒で自分の肩を叩いている。頬が赤く、唇は乾いていて、少し疲れた様子にも見えた。
 卒業式の後でくたびれているだろうに、わざわざ私に会いに来てくれた。なら、私も言うべきことは言わなくてはならない。
「氷見、卒業おめでとう」
 今日は風が強くて、立っていると髪の毛の先が唇に張りつくのが鬱陶しかった。それを指で払いながら告げると、氷見はどこか満足げに微笑んだ。
「ありがとう、映子」
「氷見が舞台に立ったのに見られないなんて、残念だったよ」
「舞台ったってただ卒業証書貰うだけだよ。何か台詞を言ったわけでもない」
「それでもだよ。私は氷見の舞台は全部網羅したいって思ってるんだから」
 大学に入ったら、氷見も演劇を本格的にやるつもりでいるらしい。私が所属する演劇サークルに入りたいと前々から言っていて、私も歓迎するつもりでいる。一、二年のうちは雑用メインだろうけど、氷見ならすぐに頭角を現して舞台に上がらせてもらえるようになるだろう。彼がいいのは声だけじゃない。声に乗せる演技力だって、その演技についていけるだけの身体能力だって折り紙つきだ。
 私はそんな氷見をこれからもずっと支えていきたいと思っているし、傍で見続けていたいと思っている。
 だから今日、氷見の高校生活ラストステージを見られなかったことが残念で惜しくてたまらなかった。氷見なら誰にも誇れるような堂々たる態度で卒業証書を受け取っただろうし、その一挙一動の無駄のなさに誰もが見とれたことだろう。
「今日のステージにはチケットがなかったからな」
 氷見がひょいと肩を竦めた。
「あったら絶対押さえてた。氷見のラストステージだもん」
「俺は最後じゃないつもりだけど」
 そう言うと彼は制服のボタンに手をかけ、三つ並んだそれを手早くもぎ取った。
 そして私の手首を掴み、手のひらの上にボタンをじゃらりと三つとも乗せる。
「ほら、ボタン。去年、欲しいって言ってただろ」
「……覚えててくれたの?」
 彼にその話をしたのは一年前、私の高校卒業直前のことだった。まさか覚えててくれてるとは思わず、私はどぎまぎしながらそれを握り締める。
「映子の言うことは忘れられないよ。いろんな意味で」
 氷見は優しい口調で割と可愛くないことを言った。
「いい意味で、ってことだよね?」
「そういうことにしとこうか」
 何か含んだような物言いをされたけど、ともかくボタンをくれたのは嬉しかった。金色のボタンは表面のメッキがところどころ剥がれ、黒ずんでいる。氷見が高校の演劇部に入ってきたばかりの頃はこのボタンもぴかぴかだったなと思うと、少し感慨深かった。
「ありがとう、大切にするよ」
 ボタンを握り締めた私がお礼を告げると、氷見は小さく頷いた。
「せっかくあげたんだから、そうしてくれると嬉しい」
「でも、いいの? 制服をお下がりにあげる予定とかなかった?」
「心配しなくていい。替えのボタンはもう買ってある」
 なるほど。しっかりしている。
 私が納得したのが気に入らなかったのか、そこで氷見は眉根を寄せ、
「けど、勘違いするなよ。映子にあげたボタンは俺が高校生活三年間を共に過ごしてきたボタンなんだ。そこらで売ってるようなボタンとは重みが違う」
 もちろん、そうだろう。氷見と苦楽を共にしてきたこのボタンは、お店じゃ買えない価値のあるものだ。それを全て私にくれるということの意味はちゃんとわかっている。
「振り返ってみれば俺の三年間は、ほとんど映子で締められてた」
 氷見は甘く低い声でしみじみと語った。
「役者になりたいとか漠然としか思ってなかったけど、その夢に色を着けて実体を持たせてくれたのは映子だ。俺はこれから、その夢を追うつもりでいる」
 彼の決意表明を、私は一字一句聞き漏らさぬつもりで耳を傾ける。いつ聞いてもいい声だ。聞いているだけで頭の奥が痺れそうになる。目を伏せて聞きたい声だった。
 でも目をつむってはいけない。ここは舞台じゃない。氷見が私を見ているのだから、私も見つめ返していなくては失礼だ。
「たやすく叶う夢じゃないこともわかってる。でも必ず叶えてみせたい……そして映子に、俺を見ていてもらいたい」
 それから氷見は、聞き惚れている私の手に目をやって、少しだけはにかんだ。
「そのボタンはチケットだ。これから俺が立つ全ての舞台を、映子には見ていて欲しい」
 眩暈がしたのは、声の甘さのせいだけじゃない。
 まるでプロポーズのような台詞だと思えたからだ。
 少なくとも私ならそうする。私がこんな台詞を思いつけたかはわからないけど、書くとしたらそういう局面でだけ言わせる。そのくらい重くて、大事で、ロマンチックな台詞だと思う。
 ボタンと、今の言葉と。私は氷見からたくさんのものを貰ってしまった。
「み……見るよ、私。氷見の全公演を!」
 私が頷くと、氷見はそんな私を見ておかしそうに笑い出した。
「映子、顔真っ赤」
「そういうの指摘しない! そんなこと言われて平然としてられるわけないでしょ!」
「平然としなくていいよ。映子はずっと俺の声に聞き惚れて、うろたえてたらいい」
 よくもまあぬけぬけと、自信ありげに言ってくれるものだ。
 もっとも、今の氷見の言葉は事実になるだろう。私にはわかる。だって今に始まった話じゃなく、ずっとそうだったんだから。
 幸い私はロマンでお腹が膨れるタイプの人間だ。氷見がその声で甘い台詞を私にくれたら、私はいつまでも氷見についていけるだろう。他に何もなくたっていい。
 と、私は思っていたんだけど。
「ところで映子、俺に卒業祝いは?」
 氷見はおりこうさんの顔に意地悪そうな笑みを浮かべて、私に尋ねてきた。ボタンがなくなったブレザーが、催促するみたいに風でひらひら揺れている。
 考えてなかったわけじゃないけど、何となく素直に言いづらくて聞き返してみる。
「何が欲しいの?」
 すると氷見は笑んだまま、黙って私の、ボタンを持っていない方の手を取った。ぎゅっと力を込めて握ってくる。温かい手のひらだった。それだけで無性にどきどきした。
 私はもうそれだけでお腹いっぱいで、女子大生の彼女らしからぬうろたえっぷりで続ける。
「は、はっきり言ってくれなきゃ……わかんないよ」
 すると氷見は私の手を引き寄せ、抱き締めながら耳元で囁いてきた。
「映子。俺の欲しいものは一つだけだよ、わかってるくせに」
 耳元で聞くこの声のこの台詞には、本当に意識が飛ぶかと思った。
 氷見は私が言われたがってる台詞を網羅しつつある。何かもう、敵わない。

 私達がこれから追う夢は、途方もなく大きく、たやすく叶うものじゃない。
 でも氷見は決めたし、私も決めた。この先何が起きても悔やみはしないだろう。今日の約束を、一緒に歩いてきた道を。
 チケットは既に私の手の中にある。他の誰にも手にすることのできない、チケットのないはずの舞台を見る為の特別な証。手放しはしない。絶対に。
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