或る天才の愛と生涯/前編
さてお立会い。これより語られるは、とある天才の物語。人を愛することにかけて天賦の才を発揮した、一人の男の生涯だ。
その男、女を喜ばせることにかけては勘も冴えるし手管も豊富。東に病気の弟を持つ美しい婦人がいると聞けば、医者に掛かるだけの金を工面してやり。西に厳格な父親を持つ可憐な娘がいると聞けば、娘は無論、父親にも気に入られようと何度も何度も頭を下げ。南に世を儚む令嬢がいれば、美辞麗句を重ねてこの世の素晴らしさを教え。北に争いを引き起こす未亡人がいれば、諍いを止める為にも誰かのものになれと説き。街中の女たちの心を次々と掴んでは、また他の女へと心を移していった。
しかしその男、どうにもこうにも詰めが甘い。病気の弟を持つ婦人は、遠方の医者に掛かることになり、男に深い感謝を抱いただけで町を去った。厳格な父親を持つ娘の元へは何度も通い過ぎたらしく、娘以上に父親の方に気に入られ、危うく家業を継がされるところだった。世を儚んでいた令嬢は、この世の素晴らしさに目覚めたせいか慈善事業に傾倒するようになり、争いを招く未亡人は男の助言を聞き入れてか、神に仕える修道女となった。男が愛した女たちはなぜか男の元には残らずに、ただ疲労と借金だけが残るばかりであった――。
それでも懲りずに女たちを次々と愛していった『天才』の、感動スペクタクルスラップスティックラブコメディ!
主演に我が演劇部が誇る天才『声殺しの氷見』を迎え、徹底した一人芝居の元に描かれる伊達男の生涯とは!
今秋、講堂ステージ上にて単独公開! 乞うご期待! 全米ナンバーワン!
「――その前口上は正直、どうかと思う」
我が演劇部が誇る天才は、冷静な面持ちでそう言った。
私はルーズリーフに走らせていたペンを止め、思わずしかめっつらを作る。
「本番直前にそういうこと言い出すのもどうかなあ」
「いや、本番直前にそんなもの書き始める方がどうかしてるだろ。と言うか全米ナンバーワンって」
「それは決まり文句みたいなものだから」
もっともらしく言ってから、私は肩を竦めた。がちがちに凝っていた。何せ氷見の言う通り、今は本番直前、なのだ。
「そもそも映画じゃなくて舞台なんだからな」
と、既に着替えを済ませた氷見が言う。眼鏡は掛けていない。
「文化祭で、他の生徒やら教師やらの前でやるのに、口上なんて要らないよ。さくっと没にしてくれ」
「えー! せっかく頭捻って考えたのに……」
「せっかく捻るんだったらもっとまともなこと考えろよな」
相変わらず、氷見の言うことはきつい。後輩だって言うのに、私にとってこれが最後の文化祭だって言うのに。
私は渋々、口上を走り書きしたルーズリーフを半分に破った。くしゃくしゃに丸めて、鬱憤を込めて部室のゴミ箱へと放り投げる。ナイスシュート……いや、外れた。引っ掛かってころんと床に落ちた。むかつく。
「しょうがないな、映子は」
氷見は素早くゴミ箱まで歩み寄り、丸められた紙を改めて捨ててくれた。多分、確実に処分したかったんだろう。それから顔を上げ、部室の壁に掛けられた、飾り気のない時計を眺めやる。
「出番まで三十分切ったぞ」
視線が戻ってくる。舞台衣装を身にまとった氷見は、既に伊達男の風格を備えているように見えた。
「映子、そろそろ講堂へ行こう。放送部の連中とも最終確認しておかないといけない」
氷見は私よりもしっかりしている。後輩なのに。年下なのに。
だから、私がこの演劇部からいなくなっても、何の問題もないんだろう。そう思って、私は唇を結びたくなる。
最後の舞台まで三十分を切った。講堂へ行って、氷見のお芝居を見たい気持ちと、どうしても行きたくない気持ちとが半々だった。行けば、本当に全てが終わってしまう。
終わらせない訳にもいかない、それもわかっていたけれど。
私たちの演劇部には、部員が二人きりしかいない。
そして私は三年生、この文化祭をもって退部する予定となっている。後に待っているのは大学受験。勝負の冬がやってくる。そこに甘い台詞やラブロマンスや感動スペクタクルがなくとも、私は演劇部から旅立ち、無味乾燥の受験勉強へと飛び込んでいかなくてはならないのだった。
後に残るのは氷見だけだ。私は氷見に、何も残してはゆけない。他の部員も呼び込めず、先輩としてろくな指導も出来ず、手本にもなれず。もちろん功績なんてものがあるはずもなく、ただ彼を一人にするだけだ。彼を置いてゆくだけだ。そのことが悔しい。
今日の舞台も、私たち二人だけでは完成させられなかった。放送部に協力を仰ぎ、音響や照明をまるまるお願いすることになっていた。大道具は用意出来そうになく、衣装と小道具は自前で揃えた。華やかであるべき『天才』の舞台に、私は何も捧げることは出来なかった。一つきり、芝居の脚本を除いては。
前口上を急遽用意したくなったのもそのせいだ。氷見に似つかわしくない貧相な舞台を、少しでも盛り上げられたらいいと思った。本人に引かれてしまったからしょうがないけど、後で悔やむかもしれない。
いや、後悔だけならいっぱいしてる。これで本当に終わってしまう。今更だけど、私は自分のやるべきことを全て、ちゃんとやり切れたんだろうか。しなかっただけで、やろうと思えば出来たこともあったんじゃないだろうか。そんな後悔がうっすらとあった。
「意外に人、入ってるな」
講堂の舞台袖からこっそりと客席を覗き、氷見が低く呟いた。
薄暗がりの中でもわかる、パイプ椅子の並んだ客席はそこそこ埋まっている。演劇部の前は吹奏楽部の発表があった。それが済んでも席を立たないということは、皆、演劇を見てくれる気でいるんだろう。
心なしか、前の方の席は女子生徒ばかりのように見えた。やっぱり氷見目当て、なんだろうな。そういうお客さんでももちろん、うれしいけど。
「本当はさ」
伊達男の衣装で、伊達男に相応しい声が私にそっと告げてくる。
「一緒に舞台に立ちたかったよ、映子」
氷見は笑っていた。トーンを落としても明瞭に聞こえる滑舌のよさと、低音でこそ映える魅惑のセクシーボイス。これに演技力と見た目の聡明さまで併せ持っているんだから、女の子からもてないはずがない。
一方、私には何もない。演技力も声量も、舞台に立つことすら出来ないレベル。長らくスランプに苦しめられて、やっとの思いで書いたホンが最後の舞台となる。そのスランプだって、私一人の力で脱した訳ではなかった。私には本当に何もないんだと思い知らされた。
ふと目の前で、氷見が眉を顰めた。黙っていた私の頬に、指先で触れてくる。
「本番前にそんな顔するなよ」
どんな顔、してるんだろう。自分でもよくわからない。余裕のないことだけは、わかってる。
舞台袖は客席ほどではないものの薄暗く、近くに寄らなければ表情なんてよく見えないはずだった。向き合う位置にいる氷見にだけ、今の私の顔も見えてしまっているんだろう。目が悪いはずなのに、ちゃんと見えているんだろう。今更、笑顔なんて作れなかった。
「緊張してる?」
氷見が尋ねた。私は頷き、問い返す。
「うん。氷見は?」
「適度に緊張しとかないとかえってとちる」
どこにも緊張なんて窺えない口調。その後で、氷見はまた笑ってみせた。
「ま、映子は俺ほど緊張することもないからな。せいぜいここから見惚れてろよ」
「……は?」
「見てろ、虜にしてやるから。俺の芝居でな」
やけに自信たっぷりに氷見が、あまり氷見らしくないことを言った。
むしろそれは私の好きな、芝居がかった気障な台詞。私が何度せがんでも、当の本人はあまり言いたがらないような台詞のはずだった。
ぽかんとしている私の肩を軽く叩き、氷見はもう一度笑んだ。
そしてくるりと踵を返す。
舞台袖で控える横顔をちらと見て、私はようやく悟る。――ああそうか。彼の舞台はもう既に始まっているんだ。
ブザーが鳴り、幕が開く。
スポットライトの下で一人きり、氷見の演技は上々の滑り出しだった。貧相な一人芝居の舞台だというのに、まるで寂しさを感じさせない。あっという間に客席を引き込み、笑いの渦に巻き込んでいく。
舞台上で、伊達男は恋をする。たくさんの女たちを才能と欲求の赴くままに愛し始める。
東に住む、病気がちな弟を抱えた婦人に言う。
「どうぞ涙を拭いて、美しい方。あなたの弟御は私が必ず救いましょう」
西に住む、厳格な父親を持つ娘に告げる。
「ご心配なく可憐な君。私がお父上にも認められる男であること、証明してみせましょう」
南に住む、世を儚む令嬢に教える。
「あなたのいる世界は素晴らしい。あなたという貴い存在があってこそ、全てのものは美しく完成されるのです」
北に住む、争いを招く未亡人に説く。
「男どもは皆、あなたに夢中です。しかし誰かのものになったあなたを取り合う気にはならないはず。どうすべきか、おわかりでしょう?」
口説き文句の度に客席からは笑いが起こる。文面だけなら気障なだけでどうってことのない台詞。それで笑いの渦を巻き起こせるのは、ひとえに演技力のなせる業だ。
私は舞台袖から、伊達男が次々と女性を口説いていくのをサポートする。東の婦人に贈られる札束入りの鞄、西の娘に捧げられる高級な酒の瓶、南の令嬢が受け取る花束や北の未亡人のポケットにそっと忍ばせられる指輪。それらは全て私が、見えないように氷見へと渡す。氷見はそれを演技の途中、ごく自然なそぶりで受け取り、そして舞台中央へと戻っていく。そのやり方も見事だ。
照明と音響を放送部に任せた私は、小道具の用意の傍ら台本のチェックをしていた。氷見の芝居にはいつもほとんどアドリブがない。それは私のホンを気に入ってくれているからとか、信用してくれているからではなく、既存の台詞、既存のト書きを最大限に上手く演じられる自信があるからなんだろう。私が書けばただの文字でしかない台詞も、氷見の声が紡げば極上の口説き文句になる――。
派手なアドリブをしてくれたのは、そういえば、あの時だけだ。
氷見に初めてキスされた、部室での練習中。
あの時、私は氷見の演技に引き込まれた。ただのお芝居の練習だってわかっていて、氷見も『私好みの自分』を演じていたに過ぎないのに、あっという間に引き込まれてしまった。ヒロインに相応しい姿もしていないくせに、あの時の私はまるで触れなば落ちん風情だった。
やっぱり彼は、天才なのだと思う。
天才と呼ばれた伊達男は、けれど運には恵まれなかった。
女を愛し、喜ばせる術は心得ていた。天性の勘と感性とで、その女が最も欲しているものは何かをすぐさま察することが出来た。なのに男の元に女たちは留まらない。最後の最後でするりと捕まえ損ねてしまう。
そのうちに男は借金取りに追われる身となる。女たちに金を掛け過ぎた。気前よく贈り物をする性格が災いし、東の婦人への金の工面が決定打となった。追い回され、一つところに落ち着けぬ日陰の生活が続く。
前半のスラップスティックさから一転、後半はシリアスな展開に変わる。
BGMと照明が変わっただけでそうなるのではなく、ましてト書きにあるからそうなる訳では決してなく、氷見が懸命に演じるから舞台の雰囲気も変わっていく。観客の反応も変わった。じっと、息を詰めるように注視している。氷見の演技を。伊達男の運命を。
ライトがぱっと赤くなる。
伊達男は街を出て行こうとする直前で、借金取りの差し向けた追っ手に出くわした。必死に抵抗し、そして業を煮やした追っ手がナイフを突き立てる。腹を刺され、男は地面に倒れ込む。
ステージ上では、半身を起こした氷見が、天を仰いで恨み言を吐く。
「どうしてこんな目に遭うのだろう。私はただ、いとしい人たちを愛しただけなのに」
傷は深手だった。血糊を使う許可は下りなかったので、赤いライトで延々と続く流血を表現している。そして息も絶え絶えの男が、その目を伏せようとした瞬間。
男に、声が掛けられる。
もちろん一人芝居だから、実際には声はない。ただ氷見は、あたかも誰かの声を聞いたように、最後の力を振り絞って目を瞠る。今際の時にすら望んだものが、傍らにあることに気付いて。
男の元に、女たちがやってくる。東の婦人は弟の完治を待って、やっとこの街に帰ってきたところだった。西の娘は父親を振り切り、密かに慕った男を探し回っていたのだった。南の令嬢は追われる男の噂を耳にし、今こそ礼が出来ると金の工面を始めていた。北の未亡人は毎日のように、信心の道に導いてくれた男の為に祈りを捧げていた。そしてこの瞬間もまた。
男の手を、誰かが握る。それが誰であるか、最早男にはわからない。祈りの言葉が聞こえてくる。死に逝く者に、せめて最後の安らぎを、穏やかな眠りをと、愛をもって祈る言葉が聞こえてくる。
男は愛されていた。自分が愛した女たちから、深く深く愛されていた。それは男の望んだ愛の形とは違っていたのかもしれない。けれど何の行動もなしに得られる愛ではなかった。彼自身がその天賦の才で生み出し、最後の最後で掴み取った愛だった。
間違いなく、男は天才だったのだ。
人を愛し、そして人に愛される才能を持っていた。
やがて男は再び目を閉じる。女たちに、最後まで甘い言葉を残して。
「君たちに涙は似合わない。どうか、笑って、いとしい人」
ある天才の生涯は、愛に彩られて幕を下ろす。