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乙女のエマージェンシー

 演劇というのは、実は体力勝負だ。
 意外と知らない人が多いらしい。文化系クラブとして括られているから、演劇をするのに体力なんて要らないものだと思っている人も結構いるとのこと。だけど一度でもお芝居を――うちの演劇部の舞台なんかでも、観たことがあるならわかると思う。お腹の底から声を出すのだって力が要るし、舞台をあちこち駆けずり回ったり、幕が下りている間に早着替えをしたりと、体力の必要な場面はたくさんあるんだ。
 もっとも、脚本を書く人間は別。演技をする人たちとは違って、それほど身体を鍛えておく必要はない。せいぜい二徹しても無理の利く程度の体力と、俳優陣から文句が出た時の為の忍耐力が必要なくらい。ああそれと、私の場合はスルー力もだったけど――後輩に一人、やたらと注文の多い奴がいるから。

「でも、今は映子も身体を鍛えておくべきだろ?」
 と、氷見は言う。私の両足を押さえつけながら。
「今の映子はうちの部の、唯一にして看板を張る女優なんだから」
 その言葉を聞きながら、私は声を上げる。
「ふんぬー!」
 呻き声だか唸り声だかわからない声を。
「ほら、全然上がってない。もうちょいお腹に力を入れて」
 氷見はいい気なものだ。私の声を聞いて笑いを堪えている。眼鏡の奥の瞳は完全に笑っている。
 そのくせ言うことは妙に厳しい。こういう時でも注文が多い。
「遅いよ。もっとペース上げて」
「うぐー!」
「お、いい調子いい調子。そのままあと三十六回!」
「ぬおー!」
「あと三十七回!」
「な、何で増えるの!?」
 思わず腹筋を途中で止めて、私は氷見に噛み付いた。氷見はげらげら笑いながら、ばれたかと呟く。ばればれもいいとこだ。
 本日のノルマは腹筋背筋各五十回。部室の床に制服のままで寝転んで、氷見に足を押さえてもらっている。なぜ私だけがこんな目に、とも思うけど、氷見はいつも家でやってるらしい。どうりで、部室では見たことないと思った。
「声を出すのに必要な筋肉だからな」
 とは、氷見の弁。
「演劇やるなら、最低このくらいは自主的にやっとかないと。いざって時に声が出なくなる」
「へえ、鍛えてるんだね。もしかしてお腹割れてたりする?」
 私が興味本位で尋ねたら、すかさずにやっとされた。
「見る?」
 何を言うのかこの後輩は。怒鳴りたくもなる。
「見ないっ! 見る訳ないでしょ!」
「怒るなよ。俺は別に、映子になら見せてもいいんだけどな」
 氷見は平然とそう言って、更に続けた。
「ついでだから映子も見せろよ。十回の腹筋くらいでぜいぜい言ってるお腹、見てみたいし」
「駄目。無理。絶対やだ」
 見せられる訳ないでしょうが。見せられるようなお腹なら腹筋五十回だって楽々クリアしてるっつうの。恥ずかしいとかいう以前の問題だ。氷見には見せない、幻滅されるのやだし。

 つまるところ私は、演劇部の文化部的な側面しか経験してこなかったという訳だ。演技らしい演技といえばモブとかそういう程度だったから、声を張れなくてもさして困らなかった。本番近くになってようやく発声練習に加わるとか、いつもそんな程度の練習ぶりだった。
 ところが、ある時期からスランプになって、めっきりホンが書けなくなった。そちらのリハビリも続行中だけど、相変わらず芳しくない。演劇部の専属作家としてはちょっと情けない状況。
 そこへ氷見が持ちかけてきたのが、筋力トレーニングをすること、だった。看板女優に相応しい声を出す為の筋肉作りをしようと言い出した。渋々ながらも氷見の手を借り、トレーニングを始めた私だったけど――今のところ、こっちも芳しくない。

「大体、こんな微妙な看板女優はどうなの?」
 私は部室の床に寝転んで、顔を顰める。硬い床はひんやり冷たくて、汗の滲む身体に心地よかった。
「別に微妙じゃないって」
 氷見は、私を見下ろし笑う。
「舞台女優に必要なのは演技力。テレビと違って間近までカメラが寄るなんてこともないし、顔とかスタイルは演技でいくらでもカバー出来るよ」
 どうやらフォローのつもりらしいけど、何とまあ腹立たしいフォローの仕方だろう。そりゃあ私だって顔もスタイルもいい方だとは思ってませんよ。思ってないけど、あけすけな口ぶりをされると傷つく。まして相手は、私好みの声を持つ、一応は彼氏という奴なのだから。
 文句の一つも返したくなる。
「その声でそんな嫌味なこと言わないでよ」
「何だそれ、変な反論」
「氷見の声は甘い言葉を口にする為にあるんでしょうが。あ、もちろんお芝居の上でだけね」
 そう、魅惑のセクシーボイスは甘くて気障な蜂蜜漬けの台詞を口にする為にあるのであって、まがりなりにも部活の先輩、ましてできたての彼女に対して嫌味を言う為にあるはずがない。
 なのに氷見と来たら、生意気で生意気でしょうがない。きっぱりこんなことを言う。
「今のは嫌味じゃない。純然たる事実だろ」
「すごいむかつく……」
 私はぎゅっと目を閉じて、視界から氷見を追い出してやる。瞼の裏は夕暮れの光で眩しい。日が長くなってきたなと実感する。
 もう四月。うちの高校にも新入生がやってきて、ほうぼうでぴかぴかの制服姿が目につくようになった。私たちにとっては勝負時。この時期、部活動見学にやってくる子たちの為、実のある活動をしないといけない。ここで新一年生たちのハートをがっちり掴んで、劇団四季もかくやというほどの新入部員を獲得するつもりでいた。その成功は氷見の双肩にかかっている。
 ――と、私は思っていたのに。
「そう言うけど、私は演技だっていまいちだよ」
 私は目を開けて、閉じる前と同じ位置にある、氷見の笑顔を見上げる。眼鏡をかけたおりこうさんの顔が応じる。
「知ってるよ」
「じゃあどうして、私が表に出なきゃならないの? 氷見一人の方が受けもいいと思うんだけどな」
「映子と一緒にしたいから」
 氷見はストレートな物言いで告げ、私をちょっと動揺させた。こういうことはさらりと言うから、むかつく。こっちは素直に受け取れるほど余裕もないのに。
「だ、だけど……上手い人だけでやる方が、見映えがいいと思わない?」
「新入部員ったって経験者ばかり来るとは限らないだろ? 未経験者でも入り易いって思ってくれるよ、映子の演技見たら」
 誉め言葉じゃないんだろうな、きっと。
 自覚はしてるけど、余裕のない心はそれだけでへこんだ。
 再び、私は目を閉じる。嫌味を言う氷見なんて嫌いだ。視界に入らないようにぎゅっと目をつぶって、しばらく床の冷たさを楽しむ。
「それに映子はスランプ中だろ?」
 私の内心も知らず、氷見は甘い声で、手厳しく現実を告げてくる。
「何にも書けないってこと気にしてたみたいだし、部でも他にやることがあれば、少しは気が紛れるんじゃないかと思ったんだ。演技の勉強も、後々脚本書くのにも参考になるだろうし」
 そうなんだけど。わかってるんだけど、スランプ中の私は、部では他に出来ることがない。演技の勉強をするしかないんだってことわかってる。でも、ちょっと、悔しい。
 目を閉じて聞く氷見の声は、心の中に溶けていくみたいだった。溶けてなくなる訳じゃなく、私の心の濃度を上げていく。氷見でいっぱいになってしまう心は、だからこそ今の余裕のなさを歯痒く思う。
 この声の為に、世界最高の台詞を書きたい。私はそう思うのに。どうして、どうして出来ないんだろう。
 演技だってそれほど出来る訳じゃないし、そもそも腹筋だって十回でへばってるくらいなんだもの。今の私は本当にいいところなしだ。氷見はこんな私のどこが好きで、付き合ってるんだろう。――前に聞いた時はずけずけと、きつい口調で言われたから、二度と聞く気にならないけど。氷見の好みは変わっているどころじゃない。異常だ。

 でも、気が紛れるのは確かだ。氷見とこうして筋トレしつつ過ごす部活動も、割と楽しいものだと思う。嫌味を言われるのはむかつくけど、付き合ってるくらいだから氷見のことは嫌いじゃないんだ。二人でのんびりやる部活も悪くない。トレーニングを続けていけば、そのうち上手くはならなくても、まあ見られる演技は出来るようになるかもしれない――。

 ふとその時、瞼の裏が陰った。
 もう日が落ちたんだろうか。四月と言ってもこんなものかな、なんて思いながら目を開ける私は。
「……え?」
 開けた途端に声が出た。
 すぐ目の前に氷見がいた。その、さっきのような見上げる位置じゃなくて、ごく至近距離に。もう少しで眼鏡のレンズがくっついてきそうなくらい、傍に。
 氷見は、床に寝転んだ私の上に覆い被さっていた。お蔭で視界は遮られて、肩越しに部室の天井を見ている。
 そこまで確認した時、更に声が出た。
「なななな、何なのっ」
 こんな時に噛み噛みの私は、やっぱり演技の才能はない。それはともかくこれは一体どうしたことだろう。ええと、腹筋のトレーニング中……だよね? 私があんまりにも芳しくないから、別のやり方を試そうとこういう位置関係になったのかな? どうなの、氷見。
「何って、そりゃあ」
 氷見は笑っている。大したステージ度胸だ。
「目の前でこんなに無防備にされて、放っとけるはずないだろ」
「ちょ、ちょっと、氷見!」
 無防備って何だ無防備って。部活動で始終警戒してる方がおかしいってなものでしょうが。まして相手は後輩で、年下の彼氏の氷見なんだし。付き合いだしてからまだたったの一ヶ月しか経ってないんだし。
 だけど、年下の氷見は余裕の笑みを浮かべていた。下になった私よりもずっと落ち着いていて、私を掻き乱すような言葉を、例の甘い声で告げてくる。
「映子は俺の前で油断し過ぎなんだよ。襲われても仕方ないくらいだ」
「それは、犯罪者の理屈で――」
 私の抗議の声は唇で阻まれた。
 氷見の唇は柔らかかった。なのに、胸の奥にがつんと来た。この体勢でキスされたのも衝撃的だったけど、それ以上にショックだったのはキスの瞬間、目を閉じてしまったことだ。唇が塞がれている間、ずっと閉じていた。そういう風になってしまう自分自身が一番衝撃的だった。慣れたというほどたくさんキスしてきた訳じゃないのに、まるで身体が初めから、そうすることを知っていたみたいだ。
 唇が離れて、私は息をつきながら目を開ける。そうして氷見の顔を見る。笑んでいる表情がわかって、悔しい気分になる。
 年下のくせに。後輩のくせに、氷見の方が余裕だ。嫌になる。
「ここ、部室なんだから。こういうことしちゃ駄目。見つかったら普通に怒られるから」
 どうにか先輩の面目を保とうと、私は見上げる顔へと諭す。
 返ってきたのは、制服のブラウスのボタンに掛かる、氷見の指。
「見てもいい?」
 愉快そうに尋ねられて、心臓が弾け跳んだ。
「な、だ、駄目に決まってるでしょ!」
 誰が見せるか、鍛えてないお腹なんて!

 ようやく察した。つまりこれは本当に危機的状況だ。
 乙女の非常事態警報発令中だ!
 頭がスクリーンのように真っ白になる――そこにこれまでに観た映画のラブシーンが次々と過ぎる。映画とかではこういうシーンをいくらでも見たことがあるけど、大抵は引き締まったいい身体の女優さんがやっていらっしゃるので絵になるものだった。田舎の平々凡々な女子高生は、さすがにハリウッド女優のようにはなれない。手間もお金もかけてない身体は、腹筋十回がせいぜいだ。つまり現在の状況は、これっぽっちも絵にならない、非常にみっともないものであることが推測される。
 氷見は、いつも通りだけど。相変わらずおりこうさんの顔とセクシーボイスで、私を翻弄してるけど。相手が私じゃ冴えないことこの上ない。
 そう思ったら、涙が出てきた。
 視界がたちまち曇って、氷見の顔まで滲んでしまった。
「映子?」
 氷見のいい声が引き攣ったように聞こえた。
「何で、泣くんだよ。泣くことないだろ」
「だって……!」
 言葉が詰まる。上手く、継げない。
 途端に氷見が慌てふためくのがわかる。
「悪かった、そんなに怖がらせるつもりなかったんだ。ほんの冗談のつもりで」
 なんだ、冗談か。内心ほっとする。でも、涙は車と一緒で急には止まれない。私は泣きながら答える。
「違う、違うの。怖かったんじゃなくって」
「じゃあ……何だよ」
「だって私、ハリウッド女優じゃないもの」
「はあ?」
 魅惑のセクシーボイスは、この時すっとんきょうに裏返った。

 冗談だった、と氷見は先程の台詞を繰り返した。
「本気でする訳ないだろ? ここ学校だし、床は硬いし」
「本気かと思っちゃったじゃない」
 ようやく泣き止んだ私が責めると、平謝りされた。
「悪かったよ、反省してる。映子をからかってやろうとしたのに、泣かれるとは思わなくて」
 性質の悪い冗談だ。少なくとも年上にしていい冗談じゃない――と思うけど、年齢差のアドバンテージを活かせた例のない私はそうも言えない。氷見は年上でも遠慮なくからかってくるような神経の持ち主だし。
「もうしない?」
 私は確認の為に尋ねて、氷見から、割と真面目な答えを貰う。
「冗談では、しない」
「そうだよね。ほっとした」
 私はハリウッド女優じゃないし、到底見られる代物じゃない。せめて腹筋五十回が楽々出来る身体にならないと駄目。出来たとしても、どうかな。その時私は、年上らしくふるまえるだろうか。
 多分無理。
 だから、
「冗談でもおかしいよ。こんな、腹筋十回でぜいぜい言うお腹を見たいなんて、普通に正気疑われるもの」
 こっちも真面目になって釘を刺してみる。
 氷見は、苦い笑みを浮かべていたけど。
「馬鹿だな、それがいいんだよ」
 変な趣味。もっときれいな人や、スタイルのいい人はたくさんいるのにね。どこがいいのか、私にはちっともわからない。
「マニアなの? 氷見、ぷよ腹マニアとか?」
「少なくとも、デリカシーのない奴に惚れてることは確かだな」
 素朴な疑問にはきつい口調が返ってきた。
 ばちっと音のするくらい、視線が真正面からぶつかる。
 一瞬間を置いて唇を噛んだ私に対し、氷見もしかめっつらでいる。やっぱり生意気な奴。
「何にもされたくないなら、俺の前でも油断するなよ」
「冗談でああいうことする人に言われたくない」
「目の前で泣かれて、冗談だった以外に何が言えるっていうんだ」
 ――ん? っていうと、実は冗談じゃなかったってこと? 本気でする訳ないとか言っといて? 私をからかおうとしたんじゃなかったの?
 拗ねたような氷見の言葉に、私は一気に疑問符の渦へと叩き落される。そこへ更に、ぼそりと呟く声が聞こえてきた。
「発声練習にはちょうどいいと思ったんだけどな」
 その声で、そんな変態じみた台詞言って欲しくなかった。


 それからしばらくの間、私は家で毎日腹筋を続けた。二ヶ月くらい続けたら、五十回もそれほど苦にならなくなった。だけど氷見に見せる気は、まだまだちっとも起こらない。
 部室で腹筋するのは止めた。私も危険かもなと思っていたけど、氷見の方から止めようと言ってきた。
「はっきり言って目の毒だから」
 氷見はにべもない調子で告げた。私はそれほどのものかなと思う。でもまあ、油断するなと言われた以上は金輪際油断してやるものかと心に決めた。
 何せ新入部員が来ないのだから。――今年度も現在のところ、二人きりの演劇部のままになりそうだから、用心するに越したことはない。見学にやってきた新入生にそういうシーンを目撃されてはおおごとだ。ラブシーンの練習でした、なんて弁明で済ませられるはずもないだろうし。
「だったら、学校の外で会おう」
 そんな誘いを氷見が持ちかけてきたので、どうしようかなと迷っている。
「こないだみたいなこと、しない?」
 聞いてみた。そしたら真顔で答えられてしまった。
「今のところはしない」
「今のところって……」
「ずっとは無理。俺がどれだけ映子を好きか、映子はちっともわかってないよな」
 わかってないかなあ。
 好きなら、冗談でああいうことはしないと思うんだけどな。あ、本気ならどうかわからないけど――本気なら、氷見の趣味はやっぱり変わっている。
 氷見よりずっと趣味のいい私は、とりあえずデートくらいはいいかな、と思っている。
 でも、あの日のキスも結構悪くなかったっていう本音は、氷見には言わない。見せられるお腹になるまでは秘密だ。だってそれって、氷見に対して無防備過ぎる行動だもの。そのくらいは私にもわかる。
「ロマンチックなデートにしたいね」
 と言ったら、氷見はちらと、大人びた表情を覗かせた。
「いいよな映子は、ロマンで腹が膨れる年頃で、安上がりだ」
「何その言い方。氷見は膨れないの?」
「これっぽっちも満たされないな。俺は映子だけいればいい」
 そっちの方がよほど安上がりじゃない。
 こんな、スランプ中で演技も下手で、腹筋は五十回出来るようになったけど顔もスタイルも平々凡々な、デリカシーのない奴でよろしければ、氷見にあげるよ。最初のうちは、キスまでだけど。
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