酒と涙とピーチババロア(1)
向坂さんと私はクラスメイトだけど、教室の中で話したことはほとんどなかった。いつも向坂さんの周りには男子達が大勢いて、ちょっと割り込めない雰囲気だった。私が用もなく声をかけたら皆は不審がるだろうし、どういう関係かと詮索もされるだろう。どういう関係も何もクラスメイトなんだけど、向坂さんは校内の有名人だから女の子が話しかけようものならそれだけで話題になってしまう。
だから私は向坂さんに教室で声をかけることはなかったし、それを察してか、あるいは向坂さんも周りの反応を気にしているのか、とにかく私に話しかけてくることはなかった。
今までは。
「茅野。ちょっといいか?」
帰りのホームルームが終わった直後、鞄を手に席を立った向坂さんが私を呼んだ。
向坂さんは何気なく私を呼んだだけなのに、その瞬間の衝撃と言ったらすさまじいものだった。今日は終業式、明日から夏休みが始まるからと浮かれ調子だった教室内はいきなりミュートをかけたみたいに静まり返り、クラスメイト一同の驚愕の視線が私と、こちらへ歩み寄ってくる向坂さんに注がれる。担任の先生さえ教室を出て行こうとして足を止め、振り返ったほどだ。皆が今ここで何が起きているのか、起ころうとしているのかを見定めようとしていた。
私だって向坂さんに呼び止められてどきっとしたのに、そのときめきすら皆の反応に持ってかれたみたいで悔しかった。教室で話しかけられたのも初めてで、嬉しかったのに。
向坂さんは一度ちらりと教室を見回すと、苦笑いを浮かべて私に言った。
「悪い、すぐ済むから廊下来てくれ」
そして静まり返る教室から、堂々とした足取りで廊下へと出ていく。何も悪いことをしていないんだから当たり前だけど、皆の視線にも物怖じせず、胸を張って歩いていくところが向坂さんらしかった。
私も大慌てで鞄を引っ掴み、後に続く。私だって堂々としていたかったけど、クラス中の視線に晒されていては背中だって丸くなる。脛に傷持つ者のように、こそこそと教室を出た。
よそのクラスも次々とホームルームを終えているらしく、廊下は帰り支度をした生徒達で溢れていた。
それでも向坂さんが出ていけば他のクラスの子だって注目する。皆がおしゃべりをやめて、私を従えている向坂さんの動向に全神経を集中し始める。いつだって向坂さんは皆の注目を集める人だ、こういう反応もいつものことだった。
もっとも、向坂さんは廊下の雰囲気を変えてしまったことを複雑に思っているらしい。
「ったく、やりづれえな……」
呟いた後、ついてきた私を見て大人びた笑い方をする。
「呼びつけて悪かったな。早速だけど、連絡先聞いていいか?」
そして制服のポケットから携帯電話を取り出したから、私はようやく向坂さんの用件を把握して、勢いよく頷いた。
「は、はい。もちろんっす」
内心では踊り出したいくらい浮かれていた。
だって連絡先を聞くってことは、連絡をくれる可能性があるってことだ。明日から長い夏休みだけど向坂さんと遊びに行く約束もしてるし、おまけにそれ以外にも連絡が貰えるんだったらすごくいい。楽しい夏休みになりそう。
当然、こちらからも向坂さんの連絡先を抜かりなく聞き出しておかなければならない。
「あの、向坂さんのも聞いていいっすか」
私が尋ねると、向坂さんはむしろ尋ねられたことが予想外だというように眉を顰めた。
「そりゃそうだろ。こういうのは交換するもんだ」
「で、ですよねー。じゃあ、お願いします!」
それで私と向坂さんは、廊下中の視線を浴びつつもつつがなく連絡先の交換を終えた。
私はこちらを気にする他の生徒達、あるいは教室から廊下を覗いてくるクラスメイト達の目が未だに気になっていた。だけどそれ以上に、向坂さんの携帯電話も気になっていた。
向坂さんの大きくて関節が目立つ手に握られて、メタリックブルーの携帯電話は随分と小さく見える。そしてそこからぷらぷらとぶら下がっているのは丸い桃のチャームがついたピンクのストラップだ。桃自体もポップなピンクに塗られていて緑の葉っぱがついていて、おまけに顔がついている。にこにこ顔の桃がごつい向坂さんの手に握られたメタリックブルーの携帯電話からぶら下がるさまは、控えめに言っても大変なギャップがあった。
こういうのが好きなのかな、向坂さん。すごく意外!
「すっごい可愛いストラップつけてるんですね」
好きな人の趣味嗜好は把握するべきものだ。私は早速指摘した。
途端に向坂さんははっとして、恥ずかしいのか困ったような顔をする。
「俺の趣味じゃねえぞ。妹だ」
「向坂さん、妹さんがいるんですか?」
それは初耳だった。『向坂さん馬鹿』志望の私としては聞き逃せない情報である。
「まあな。小学生だからケータイ、やたら羨ましがるんだよ」
向坂さんは嘆き、桃のストラップをぷらぷら揺らしてみせる。
「で、変なストラップ見つけてきてはこれつけろってうるせえんだ。しょうがなくつけてやってる」
なるほど。向坂さんの妹さんは小学生で、向坂さんは妹さんにも非常に優しいお兄さんであるらしい。
家ではどんな会話してるのかな。向坂さんも自分のこと『お兄ちゃんはな』みたいに言ったりするのかな。見てみたい!
それと妹さんもどんな子なのか気になる。向坂さんに似てるのかな。私は向坂さんの顔によく似た小学生の女の子をイメージしてみようとしたけど、坊主頭に三白眼、厳つくも凛々しい顔の向坂さんを小学生女子に変換するのはとても難しくて、できなかった。
弟ならまだ想像できるんだけどなあ。妹さん、いつか、見てみたいな。
「いいっすね、きょうだい。私、一人っ子なんで羨ましいっす」
微笑ましさに私がにやにやすると、向坂さんは私を見下ろし、不思議そうに瞬きをした。
「茅野、一人っ子なのか」
「はい。あれ、意外でした?」
何か驚かれてるみたいだから聞き返すと、なぜか薄く笑われた。
「いや、知らなかったからな。覚えとく」
それから向坂さんは辺りを見回し、慌てて目を逸らす他の生徒達を一瞥した後で私に向き直る。
こちらを見る目が気のせいか、心配そうだった。
「俺、これから部活あんだよ。そろそろ行くけど、いいか?」
「大丈夫っす。どうぞ私に構わず行ってください」
終業式の日まで練習があるなんて大変だろうけど、インハイを控えているんだから仕方ない。私は向坂さんを促し、向坂さんはそんな私の上に屈み込んで、耳元に顔を近づけてきた。
「悪いな。誰かに聞かれたら適当に答えとけ。何なら俺を悪く言ってもいい」
私の視界の左斜め上に向坂さんの真剣な目があり、耳の近くには多分、唇があるんだろう。低い声で囁かれた時、息がかかってくすぐったかった。
私はそれを見上げることさえできない。ものすごく近いところにある向坂さんの顔を直視できない。首も動かせないので頷くことすら不可能だった。
って言うか本当に近い近い近い! 顔が近い!
「じゃ、行くわ。連絡先ありがとな」
向坂さんは硬直する私の頭に手を置くと、一回だけざっと撫ででから踵を返した。
そして、人でいっぱいなのに静まり返る廊下を歩いていく。
彼が進んでいく方向では人波がぱっくりと二つに割れ、自然と道ができる。向坂さんが廊下の先で曲がって見えなくなるまで、誰も一言も発さなかった。
ただし向坂さんが見えなくなった途端、
「嘘だろ! あの向坂さんが見初めた相手がよりによって茅野かよ!」
「茅野さん、向坂さんと付き合ってるの? 大丈夫? 身体持つ?」
「ってか今の単に、茅野が何かやらかして連絡先押さえられただけじゃね?」
「嘘っ! じゃあ茅野さん、向坂さんをマジギレさせちゃったってこと!?」
教室の中から様子を見守っていたらしいクラスメイト達がどっと廊下へなだれ込んできて、ぼけっと突っ立っていた私はたちまち取り囲まれ、皆から口々に質問攻めにあった。あっという間に揉みくちゃにされた私に、こと向坂さんに惚れ込むクラスの男子達の風当たりの強さと言ったらなかった。
「茅野! お前は向坂さんの彼女じゃないよな!? そうだと言ってくれ!」
信じられない、信じたくないと言わんばかりに問い詰めてくる男子の一人に、私は当たり前ながら困惑した。
「いや、彼女ではないけど……」
「連絡先聞かれてたのも、お前が何か空気読めないこと言ったからだよな!?」
「それはその……」
確かに私は向坂さんの彼女ではない。
でも私は向坂さんが好きだし、多分、向坂さんはそのことに気づいてる。その上で私を構ってくれたり、優しくしてくれたり、どこか行こうと誘ってくれたりしてるわけだ。それを、クラスの子達にどう伝えればいいのかわからない。
ああ、そっか。だから向坂さんも言ったのか。『何なら俺を悪く言ってもいい』って。
そんなの、悪くなんて言えるわけないじゃん! 好きな人のことだよ!
「普通に、その、クラスメイトだからだよ。私と向坂さんが連絡先交換してたら駄目?」
開き直って逆に聞き返すと、男子達は何だか微妙な顔を見合わせあっている。
「駄目っつうか……なあ?」
「見た目的にちょっと別ジャンルすぎるよな、向坂さんと茅野」
「向坂さんにはもっとこう、出るとこ出てる大人の女の方が似合うよな」
出るとこ出てなくて悪かったな。
そりゃあ、向坂さんと私が完璧ばっちり釣り合ってるとは申しませんよ。甘い物好きでも日々鍛錬を怠らず磨き抜かれた肉体を持つ凛々しい向坂さんと、甘い物好きと一目でわかるたるんだボディと腑抜けた顔を持つ私では、心意気からして違う。それは自分でも重々理解している。
でも、そんな私でも好きになっちゃったんだからしょうがないじゃん。もし向坂さんが『お前も同じように鍛えてみせたら付き合ってやる』とか言ったら、そりゃ私だって鍛えるよ多分。いや、絶対。
「ちょっと男子、さっきから聞いてりゃ茅野さんにあんまりな言い方じゃないの!」
女子の一人が義憤に駆られてか男子に食ってかかる。
すると男子もヒートアップして叫んだ。
「考えてみろよ。全身アルマーニでばっちり決めたヒットマンが家でウーパールーパー飼ってたら、イメージ大崩落するだろ!」
確かに年齢離れした顔立ちでスタイルもいい向坂さんなら、アルマーニも似合うかもしれない。坊主頭なのが難点だけど。しかしヒットマンっていうのがおかしい、男子達が向坂さんに抱くイメージがよくわかる。
あれ? じゃあ何だ、ウーパールーパーって私のこと?
「似てないし!」
他の子が反論するより早く、私は口を開いた。
さっきの男子に向かってもう一言、
「って言うか、向坂さんがウーパールーパー飼ってたらむしろ可愛いし! ギャップ萌えだし! だからいいの!」
いや一言では済まなかったけど、とにかくまくし立ててから私は憤然と歩き出す。
クラスの子達は呆気に取られたのか静かになり、さっき向坂さんが立ち去った時と同じように、私が立ち去るまで誰も何も言わなかった。
そして勢いもそのままにのしのしと廊下を曲がって階段を一階まで一気に下りきった後で、私はようやく我に返る。途端、めちゃくちゃへこんで思わず溜息をついてしまった。
どうしよう。
勢い任せとは言え、向坂さんのこと可愛いとか萌えとか言っちゃった。
もちろん嘘じゃなかった。もし向坂さんがウーパールーパー飼ってたら、ピンクの桃のストラップ下げてるのと同じくらい可愛いと思う。名前とかつけてて、餌あげる度に呼びかけてたりしたら倍増しで可愛い。普段とのギャップで非常に萌える。そんな向坂さんも見られるものなら見てみたい。
だけどこれ、向坂さんの耳に入ったら怒られるかなあ。怒られるよね。そういう誉め言葉を喜びそうなタイプじゃないもんね。少なくとも『アルマーニで決めたヒットマン』より遥かにまずいのは聞かなくてもわかる。
クラスの皆が黙っててくれるといいんだけど。いっそ先に本人に謝っとこうかな……。
あと私、そんなにウーパールーパーに似てるかな。
いろいろとへこみつつも、私が足を向けた先は家庭科室だ。
今日は部活こそなかったけど、部長と約束をしていた。私が『ちょっとお願いしたいことが』と申し出たら、部長は二つ返事で了承し、部活のない終業式の日に家庭科室を押さえてくれた。いい人、いい先輩である。
「失礼しまーす」
家庭科室の鍵は開いていた。ノックをしてからドアを開けると、部長は先に来ていて、家庭科室の丸椅子に座っていた。
「茅野さん、結構遅かったね、ホームルーム長引いた?」
振り向いた部長がにっこり微笑む。
「いえ、クラスの子に捕まっちゃって……待たせてすみません」
「ううん。茅野さんのことだから、先生に怒られてるのかと心配しちゃった」
部長は私のことをちょっとばかり誤解している。いくら私でもそんなに毎回は怒られてない。
ともあれ私はいそいそと部長の隣に座り、足元に鞄を置いた。
普段、授業や部活で使う時は狭いくらいの家庭科室も、二人きりで並んで座っているとだだっ広く見えるものだ。部長が窓を開けておいてくれたようで、窓際では緑色の防炎カーテンが揺れ、少し温い風が室内に吹き込んでいた。
「それで、私にお願いって何?」
私が横に座ったところで、部長がくるりと私に向き直る。
それで私も部長に対し、深々と頭を下げた。
「私にもう一度、お菓子作りを教えて欲しいんです!」
「お菓子作り? クッキーだけじゃなくてってこと?」
「はいっ!」
バニラクッキーの作り方は部長に仕込んでもらって、一人でも作れるようになった。
でも私が作れるのは現時点でクッキーだけだ。他のお菓子はてんで駄目、溶かしてから冷やして固めるがせいぜいだった。家庭部員としてたくさんお菓子も作ってきたのに、何一つとして身についていないのが全く、不徳の致すところであります。
向坂さんのことがあって心を入れ替える気になったのも果てしなく現金だと思う。でもせっかく家庭部に入ったんだから、もっと作れるようになりたいって気持ちもある。
だから部長に、既に上がりようのない頭を更に下げた。
「……別に、駄目だってわけじゃないんだけどね」
部長は悩んでいるような口調で言った。
「茅野さんが家庭部員らしいことを言ってくれて、私も部長として嬉しいんだけど、ちょっと難しいの」
「え、な、何でですか?」
私がそろそろと視線だけを上げれば、腕組みをして私を見下ろすおさげの部長が優しく苦笑した。
「知ってると思うけど、私、三年生だから。つまり、受験生」
「あ……ああ、そういえばそうっすね」
全く思い至らなかった。うろたえる私に部長が畳みかけてくる。
「茅野さんだって来年は受験生でしょ? そんな他人事の態度でいいの?」
「あー……あはははは、忘れたいことなんで忘れてました」
そうだった、他人事じゃなかった。私も来年の今頃は受験生の気分できりりと勉学に励んでいるかもしれない。
「だから、茅野さんの恋に協力してあげたいのはやまやまなんだけど」
部長は私の胸中なんてお見通しらしく、意味ありげに微笑んで続けた。
「さすがにただ協力する、ってだけじゃ無理かなあ。見返りがないと」
見返り。
となると、なんだろう。
「これですか?」
手のひらを下にして、親指と人差し指で丸を作ってみせると、部長はぷっと吹き出す。
「そんなわけないでしょ。部員から部費以外は徴収しません」
「じゃあ……何をすれば?」
私は恐る恐る聞き返した。他に見返りになりそうなことなんて思いつかなかったし、あったとしても私にできることかどうか自信がなかったからだ。
でも部長は深呼吸を一つして、穏やかに言った。
「茅野さん。私の後を継いで、来年度の部長になってくれない?」
「え?」
あまりにも穏やかに告げられたから、何かの間違いかと思った。
部長? 今、来年度の部長って言った?
――私が? この、家庭部でも一番トップに立つ者の器じゃない私が?
「そしたら私は喜んで茅野さんに、部長としてふさわしい人材に育成する為のスパルタ教育をします」
混乱の渦に叩き落された私を見下ろし、現部長は胸を張って宣言した。